各地の在日朝鮮人教育実践(連載第3回)
「違いを豊かさに―多文化共生社会を
切り拓く子どもたちの未来を」 
6月14・15日大阪府外教研究集会
(中河内大会)に参加して
稲富 進 

 第十回大阪府外国人教育研究協議会研究集会が六月十四・十五の両日、東大阪・八尾市内で開かれた。集会基調によれば、府内各地の実践交流の場として今後の在日外国人教育の発展をめざし、いま進められている教育改革の視点をふまえ、総合的学習における国際理解教育・多文化共生教育などの研究を深めることにねらいがあった。

 初日の全体会は東大阪市立市民会館でおこなわれ、伏見事務局長の集会基調報告、東大阪市立太平寺夜間中学校に学ぶ生徒さんたちの文化公演、続いてノンフィクションライター野村進さんの「アジアから見た日本と日本人」と題した講演があった。二日目の分科会は、八尾市立安中小学校を会場に、次のようなテーマにより各分科会でリポートの報告、実践交流が繰り広げられた。


 1)「多文化共生社会を切り拓く子どもたち」
 2)「学校改革と国際人権教育の創造」
 3)「多文化共生のネットワークづくり」
 4)「人権文化の創造」
 この参加報告記では、全体会、なかでも太平寺夜間中学校の生徒さんたちの自らの思いをつづった公演と、分科会の中での特徴的なリポートを取り上げて報告する。
 
(1)第一日目全体集会
 
 舞台せましと、東大阪市立太平寺夜間中学校の生徒さん(多くが七十歳代)が歌い、踊り、語る。それによって、長栄夜間中学校分教室からの独立を、八年に及ぶ自らの運動で勝ちとったという思いや活動、そして、学校生活の現在を体現した。
 
 「皆さんこんにちは。太平寺夜間中学の福本といいます。通学して、はや二年の月日が過ぎようとしています。

 私が小学校三年生の時、あのいまわしい不幸な戦争が起こりました。わたしにも皆さんと同じような年頃があったのです。戦争の真っ最中で勉強したりすることができず、食べることさえまともにできませんでした。私の兄弟十人のうち二人の妹が防空壕で肺炎で亡くなり、一人は栄養失調で亡くなりました。また、二人の妹も生まれましたがすぐ亡くなりました。弟を背中におぶって防空壕を出たとき、目の前の男の人が焼夷弾の直撃を受けて死にました。その死体をまたいで無我夢中で逃げました。今思うと、よく生き残れたなあと思うだけです。

 戦争が終わった後、父親の事業の失敗や、私自身体が弱く、学校にも満足に行けませんでした。五十年の歳月が流れ、子どもも成長し孫にも恵まれ、月並みな人生ですが、今は夜間中学でがんばっています。

 夜間中学へ入ろうと思ったのは、自分の過去を振り返ったとき、長女として生まれ、早く母を亡くし、弟や妹の世話をしなければならなかった辛い思いを、なんとか学校に行くことで振り切りたいという思いもあって、入学を決心しました。

 近所の人の勧めもありましたが、やはり夜間中学の門をくぐるのには勇気がいりました。

 夜間中学に入ってとまどったのは、朝鮮人の生徒さんが多いことでした。父親が、朝鮮人と商売上のトラブルがあって、あまりいいことを言っていませんでした。自分も知らず知らずいいようには思いませんでした。

 夜間中学に入ってみると、生徒さんは何でも率直にものを話されるし、人情味をとても感じます。また、学習や校外活動を通して異文化に触れるチャンスにも恵まれました。チマチョゴリを着て踊ったりしてとてもうれしく思います。こういう時こそ、人と人との触れ合いが大切だと思います。自分から勇気をもって相手の心の中に飛び込む勇気が必要な気がします。平和を守ることが難しくなってきています。どんなときにも諦めずに平和を訴える勇気を持ってほしいと思います。ありがとうございました。」
と、数少ない日本人生徒の福本さん。
 
 「私が太平寺夜間中学に入学したのは七十歳を過ぎていました。友だちが学校へ行く気はないかと言ってくれたので考えました。小さいときに学校へ行くことができなかった私は、一度でも学校の机に座って勉強できたらと思いました。今まで自分だけだと思っていたのに、仲間がこんなにいるなんてびっくりしました。

 勉強しているうちにだんだんわかってきました。先生の話を聞いたりしていろいろ考えるようになりました。歴史を勉強するようになってよくわかってきました。

 私は親を恨んだことがありましたが今は違います。朝鮮人が生きてきた道がわかりました。あの当時の朝鮮人の生活は言うに言われないとてもきびしいものがありました。私たちが義務教育を受けられなかったことも、その当時のいろいろな事情があったからだと思います。

 私が入学する前から、太平寺は分教室のために、独立した学校で勉強するんだと、先輩たちは頑張っていました。それから八年もたって、やっと独立ができました。生徒会連合会をはじめ、多くの仲間からの応援があってこそ、念願の独立が実りました。

 私たち生徒は、以前とは違った明るさでがんばっています。私は夜間中学校で学んだことが、一生決して忘れることのない思い出になりました。しかし、私は修業年限が決まっているので卒業しなくてはなりません。子どものころ教育を受けられなかった私にとっては、もう少し勉強がしたいです。納得のいくまで勉強させて下さい。」
と、梁汝先さん。
 
 学習の中で覚えた歌と舞踊が披露され、その間に綴られる語りが続く。福本さんの語り、ハルモニたちの語りの中から、生きてきた苦渋に満ちた戦時、戦後の、(ハルモニにとっては植民地支配の下での)生きざまが映し出される。それは、福本さんにとっても、ハルモニたちにとっても、取り戻しのきかない人生だった。

 この太平寺夜間中学校の生徒さんの舞台公演では、ほとばしり出るエネルギーが会場を覆い、参加者を圧倒した。

 その場にいた私の頭によぎったことは、次のようなことだった……
 
・ 七十歳を超え、なお夜間中学の「学び」にエネルギーをぶつける多くのハルモニたちの思いは何か。わたし自身が、十五年に及ぶ天王寺夜間中学校でのオモニ・ハルモニたちとの学びを通してつかみとった「確かな歴史認識」「確かな現実認識」の重要さを、改めて痛感した。会場に参加している教員は、どのように受けとめたのだろうか。

 教育現場の在日外国人の実態はさまざまにに多様化し、変化している。けれども、どのように実態が変わろうとも、実践の基底に「確かな歴史認識」「確かな現実認識」を据えることの重要さは変わらない。三十年に及ぶ在日朝鮮人教育が大切にしてきた実践方法(内容)はこれからも大切にしなければならないのではないか。

・ 夜間中学では福本さんのように日本人は圧倒的に少数である。そういう状況の中で太平寺夜間中学校では、どのような多民族・多文化共生教育をすすめているのだろうか。

・ 夜間中学の教育がハルモニたちに対する戦後補償だとする実践の視点は、教育課程の中にどのように生かされているのだろうか。

・ 「すばらしい」「感動する」「たくましさにおどろく」、そのどれもがその通りだが、自らの学校の子どもたちの教育に何をどのように伝えていくかを、つかむことができただろうか。

 全体集会では、このような思いが頭をよぎった。
 
(2)第二日目分科会
 
 各分科会に二十本の実践が報告され、それを中心に各校の実践が交流された。
 
実践には近年の日本社会の国際化の進展に伴って、在籍する在日外国人が年々多様化する学校現場の「在日外国人教育」実践の、創意と努力がうかがわれた。
 
 特徴あるリポートを一・二紹介する。

 「在日韓国・朝鮮人教育を出発点にそれぞれのルーツを大事にした仲間づくりを―『地域子ども会』のとりくみから」

 報告は高槻市多文化共生・国際理解教育事業指導員の紀井早苗さん。
(高槻市では従来の「在日韓国・朝鮮人教育事業」が2001年度から名称変更された。)

 高槻の在日韓国・朝鮮人教育のとりくみは一九六二年の高槻第六中学校でおこなわれた、「在日韓国・朝鮮人子ども会」の、生活を綴り、「本名を名のる」実践にさかのぼる。社会教育の分野では一九七二年に地域の青年たちの手によって「地域子ども会」や「日本語識字教室」「高校生の会」の取り組みが始まり、当時、大阪府内各地域の在日朝鮮人教育に大きな影響をもたらした。
 
 近年、渡日(来日)する外国人の多様化がすすみ、その数も増え、その中で「学校子ども会」「地域子ども会」のありようを論議の中心に据えてきた。

 報告者の紀井さんは、このような民族の多様化がすすむなかで、子どもたちをどのように出会わせるかを模索したという。そして、「子ども会」の活動に安易に参加させるのでなく、「在日」の子どもたちがなぜ「子ども会」活動に参加したくないのか、そこから出発し、「在日韓国・朝鮮人子ども会」「渡日外国人の日本語教室」等、それぞれの活動が自立し確立した上で出会わせることが大切ではないか、と提起する。

 つづいて、在日韓国・朝鮮人の子ども、新渡日の子どもたち、また、日本人の子どもたちが出会える場として、六年前から「在日外国人子どものまつり」が開かれており、そのとりくみを通じて、「一人ひとりの文化や民族が尊重される空間だと子どもたちが感じとったとき、ここでは自分のことを出してもいい、しゃべってもいいのだ……それぞれ立場は違っても、共通する思いを子どもたちは見つける。こうして子どもたちは確実につながる……」このような手応えを感じるとりくみになっている、と報告する。

 報告者は、活動への日本人の参加について、自らの今に重ねてその思いをこう語る。
 「自分はどうして『子どもまつり』に参加しているのか、当事者の子どもたちとの出会いを自分自身にどう返すのか。また、日本人としての自分を見つめ直すという意味では、この活動に参加する日本人生徒が日本人だけのグループを作って活動する場面があってもいいのではないか。」

 最後に彼女は、母語保障に取り組むことによって「親とのコミュニケーションの言葉や学習言語を獲得してほしい」という教師たちの積極的な働きかけにも関わらず、そうした思いに背を向けていた中国人の子どもたちへの取り組みを話した。

 「母語を学ぼう、と彼らが思うようになるには、それを応援する人、支える日本人との仲間づくりや、中国人としての誇りや自信を持たせるさまざまな取り組みが必要だ。今こそ、今日まで培ってきた在日韓国・朝鮮人教育の実践方法を生かした、さらなる取り組みが必要ではないか。『渡日外国人の日本語教室』が、単に日本語指導・学力保障で終わってしまっては、彼らの民族的アイデンティティの保障のための母語保障にはつながらない。」

 この報告は、多様化する外国人の子どもたちへの対応を、長年の在日朝鮮人教育が積み上げた実践方法、実践内容に重ねつつ取り組みを進めているところに、その特徴を見ることができる。「韓国・朝鮮人子ども会」「渡日外国人の日本語教室」それぞれが自立した活動を確立した上で互いに出会わせることの重要性の提起や、民族的マイノリティーの子どもたちへのさまざまな支援のありようについて、これまでの在日朝鮮人教育の取り組みの財産を生かすことの重要性の提起は、大きな示唆を与えている。
 
 今年度のリポートを概観すると、大阪府内教育現場の在日外国人教育の実践傾向がうかがえる。集会基調に報告されているように、
 
・総合的な学習の時間を活用した多文化共生教育(国際理解教育)―異文化体験、民族学校との交流、外国人留学生との交流、異文化理解
・在日外国人の子どもの出会い、集い、交流―民族的アイデンティティを育てる(自立支援)とりくみ
・日本と朝鮮のつながりの歴史、朝鮮の文化の学習
 
など、国際化の進展に伴って多様化する在日外国人の子どもの実態が、リポートに映し出されている。かつて在日外国人の子どもといえば、韓国・朝鮮人の子どものことだった教育現場は様変わりしている。実践動向も、教育課程改革もあって、当然の事ながら大きく変化しつつある。

 そのことはうなづけるが、反面、リポートの中に、日本と朝鮮・中国をはじめ近隣アジア諸国との間の歴史、在日外国人の日本における被抑圧の現実、民族学校に対する制度的差別等、私たちが人権教育の中心軸として大切にしてきた「反差別」の視点からの実践はやや少なく、希薄な印象をぬぐえなかった。



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