ビルの谷間に朝鮮通信使ウォッチング
江戸時代の日本と朝鮮の
善隣友好の足跡をたどる

大阪歴史ウォ−ク
2001年(第1回)
                                 宮木謙吉
 
(淀川を溯る川御座船。亀甲紋のそろいの船装束。朝鮮楽隊と舟歌の唱和は、難波っ子の耳目をそばだてた。)
 
はじめに

 「ビルの谷間に朝鮮通信使ウォッチング」のネイミングは昨年、大阪市外教の研究部で考え、仕事仲間からは“ビル谷”という愛称もいただいた。今回も「九条駅」に集合、「竹林寺」を起点に晩秋の中之島界隈をウォ−クすることができた。

 江戸期の善隣友好時代、民衆の朝鮮通信使の歓迎フィバ−は、昨今のオリンピック誘致運動の比ではない。現在の住友倉庫にあった「船番所」あたりから「土佐堀川」を進む水上パレ−ドや「難波橋」そばの特設桟橋から上陸後、“メインストリ−ト”堺筋を宿館「津村別院」までの陸上パレ−ドが大阪市民の興奮の坩堝のなかでくりひろげられた。朝鮮楽隊の音色が響きわり、色とりどりの朝鮮服に身を包んだ400人を越える通信使の堂々とした行列。対馬藩を中心とした警護の武士団、行列に彩りをそえる「清道旗」「形名旗」をはじめとした旗や武具の数々、「国書」を頂点とした朝鮮国からきたさまざまな文物は、“行列の外交”の名にふさわしく、新しものの好きな難波っ子の耳目を刺激してやまなかった。

 大阪の文化人にとっても、通信使との交流は情報と知識の源であり、通信使は国際的な窓であった。その交流は、明け方まで及んだ。“もし”は歴史学習では禁句であるが、“もし”江戸期の大阪市民であったなら、わたし達は一生の快事として、朝鮮通信使の到来を待ちに待っていたに違いない。本屋に殺到して通信使関係の刷り物を求め、見聞きできた感激を誰彼と伝え、俄朝鮮文化“通”を気取ったことであろう。

 “人権と共生の21世紀”をむかえた大阪市民にとって、金漢重をめぐって織り成された“人権主義”に貫かれた竹林寺住職の“篤心”や町医者・町衆の“人情”は、良き手本である。今日の国際交流に欠かせない民衆交流のあり方を示唆して余りある。

 今年度は、市立高校の「外国人教育研修会」として、この“ビル谷”は取り組まれた。小中学校の実践と高校の実践との連携が深まってきた時代の所産であるように思う。ともあれ、さっさく“善隣友好”ウォ−クを始めていきたい。(以下、江戸時代の地名としては大坂と表記します。)

 まずは、ウォッチングマップを参照されたい。
 
 
 
コース
 @地下鉄九条駅――>A竹林寺――>B「朝鮮通信使碑」――>
 C住友倉庫【舟番所址】――>D《土佐堀川》――>E難波橋【上陸地】――>
 F高麗橋・里程元標跡(解散地)
 
 
(1)ビルの谷間に朝鮮通信使ウォッチング
 
出発前に

 大阪“猪飼野”のコリアンタウンに「2002年ワ−ルドカップ」韓日共同共催の横断幕が掲げられ、21世紀の“朝鮮通信使事業”の輝きを放っています。江戸時代の大坂は海道と陸(街)道の要衝であり、通信使を大歓迎した民衆の活気に満ちた経済文化都市でした。その歴史は今日にまで受け継がれれ、学校現場にあっては、民族学級の開設をはじめとした在日朝鮮人教育の実践がすすめられ、多民族・多文化共生教育として大きな広がりを持つようになってきました。2001年6月には「在日外国人教育基本方針」が策定され、国際人権都市大阪の教育の特色が示されています。その大阪で江戸時代の善隣友好の歴史をふりかえる事はとても大切だと思います。
 
朝鮮通信使と大阪
 
 朝鮮通信使は、各地で熱烈に歓迎されましたが、ここ大阪では“民際”交流が特に活発に行われました。行列の沿道は民衆であふれ、土佐堀川を上る川御座船の水上パレ−ドには各地から見物人が殺到するほどの人気の高さで、宿館では学者、画家、医者たちとの交流が盛んでした。通信使を見聞した感激と興奮はさまざまに伝えられ朝鮮通信使民俗として、交流の証が今に残されています。大阪での善隣友好の足跡を、往時の賑わいを思い浮かべながらたどるフィ−ルドワ−クコ−スです。
 
人情あつい大坂人気質
 
 朝鮮通信使との交流は、華やかな場面だけではありませんでした。病床に伏し、生死の境をさまよう「小童」金漢重を手厚く看病し、最期をみとった竹林寺の住職や関係者の心づかい。また、事情があって朝鮮にまで逃れたものの朝鮮通信使の随行員として再び大坂の地を踏み、以前働いていた店の主人のもとを訪れた元大坂商人の気質。また、宿館に収容しきれない通信使の一行に宿を提供した大坂の町衆の心意気。通信使行列を見た感激を、絵馬に託し、近くの神社に奉納した農民達。朝鮮通信使をめぐる感激ドラマは、限りなくつづいたように感じられます。
 
秀吉の朝鮮侵略と大坂
 
 大坂城は、朝鮮侵略の張本人秀吉の拠点でした。秀吉が大坂の都市建設に特に力を注いだことは知られています。その大坂への上陸は通信使一行にとって、はなはだ息苦しくその無念さたるや胸に迫るものがあったと思います。通信使の著名な記録官申維翰は、淀川に“晋州島”という中州島があって、その島影を探しながら秀吉軍の虜囚となった人々の安否を気づかい「毛髪の竦然とするを覚えさせる」という文章を残しています。しかし、徳川政権の誠実な戦後処理・侵略行為の謝罪、真摯な国交回復への努力が実って通信使実現の運びとなり大阪への上陸も熱烈歓迎ムードの中で、通信使一行も時代の変化を感じとったことと思います。釜山にあった倭館を通じて、朝鮮の図書類も大坂市中の書店に並ぶ光景を目撃した通信使たちは、さぞかし“朝鮮びいき”の風潮に驚いたことでしょう。
 
往時をしのんで、都会ウォ−ク
 
 いつもは車や電車で通りすぎる都会の真ん中ですが、たまに歩くのもいろんな発見があって面白いものです。明治以降の朝鮮差別政策や大阪空襲によって、朝鮮通信使の史跡・資料が少ないといわれる大阪市にあって、朝鮮通信使の歴史ロマンをたどるフィ−ルドワ−クには、わたし達の歴史を見る眼の確かさを育ててくれるものと思います。
 
さあ、出発!
 
 地下鉄九条駅から、商店街をぬけて朱塗りの門の竹林寺へ。通信使の墓に参拝。松島公園の朝鮮通信使碑を見学して、舟番所址へ。ここから通信使は水上パレ−ドをして、土佐堀川をのぼって、難波橋付近で上陸し、今度は陸上パレ−ドをして宿館へと向かいます。華やかな通信使行列を思い浮かべながら地図を片手に、わたし達も出発です。
 

(2)「朝鮮通信使ウオッチング」のポイント
 
・地下鉄九条駅(集合場所)
 
 九条島のなごりをとどめる駅名です。2階の改札口前が集合場所。大阪は川の町、橋の町、港町、水の都と言われ、この辺り一帯は、海に面した難波の玄関口にあたる“にぎわい”ゾ−ンでした。寛永年間に幕府役人香西哲雲が、この地の池山新兵衛と開発したのが始まり。知人の儒者林羅山に「九攘島」と命名してもらったとか。往時をしのんで集合です。
 
・竹林寺
 
 1764年。宝暦の通信使の「小童」金漢重の墓があります。大阪で病に倒れ、手厚い看護も空しく22才で亡くなりました。墓碑には彼の辞世の句が残されています。本堂には、明和の通信使の一員、崔天淙の位牌もあります。遺失物を巡るトラブルで、対馬藩の通詞鈴木伝蔵により宿館の北御堂で殺害されましが、すみやかな処置により、伝蔵は逮捕処刑されました。この事件があっても、日朝の友好関係は損なわれませんでした。なお、この事件は、歌舞伎の題材にもとりあげられました。お寺の本堂で、住職さんにお願いしてお話をうかがうこともできます。この寺の墓地には、九条新地の遊女たちや幸徳秋水の先祖の墓、名優森繁久弥さんの家の墓もありました。

 なお、金漢重、崔天淙の遺体は、塩漬けにされて日本の船で釜山まで送られました。

 また、金漢重の墓は「韓人塚」として江戸時代の名所図絵にも大きくとりあげられています。
 
・朝鮮通信使碑
 
 松島公園にある「九条島と朝鮮通信使」と刻まれた大阪で最初に建てられた通信使碑です(1992年12月) 。バス停「松島公園前」にあるので、すぐ発見できます。通信使と大阪の学者・文人との交歓の事実や竹林寺住職の追悼の歌を刻んでいます。ここから木津川にそって、住友倉庫をめざします。途中「川口居留地」跡の説明板や川口教会があります。明治の大阪の“文明開化”先進ゾ−ンのなごりの中を進みます。
 
 
・松島橋
 
 松島。かつて吉原(葦原)と並んで日本の遊廓を代表。今はその地名も消え「松島橋」を残すばかり。昔は「寺島」と呼ばれた中州島、木津川と立売堀(いたちぼり)川の合流点で尻無(しりなし)川の分岐点。その寺島の鼻(先端)には形のいい松があったことから、通称「松ケ鼻」。芸妓の新町と遊女の松島を松島橋はつないでいました。
 
 説明板あり。

 大阪開港と川口居留地の開設にあわせて、大阪の遊廓をここに集めて、「地域開発」の名のもとに「遊所」をつくる。「松ケ鼻」と「寺島」の「松」と「島」をとって「松島」と地名も決める。官民一体となって、移転資金まない業者のために貸し座敷用の家屋百件を安い家賃で提供。禁止されていた遊所の新規営業もここでは許可。しかも税金免除。たちまちにして、ここは一大歓楽街へと発展。

 当時、松島遊廓の推進役として活躍した大阪府の役人が遊所から取っていた「行灯税」を流用したのが発覚して免職になった事件も。
 
 
・安治川橋
 
 日本最初の旋回橋。安治川は、貞享元年(1684)河村瑞軒による淀川治水計画の一つとして九条島を開削してできあがった大川下流の長さ3キロ、幅90メ−トルのいわくつきの新川
。元禄11年(1698)「安く治める」という意味で安治川と命名されました。安治川の新設によって、伝法川より古川をへて大川に至った諸国の船は、安治川の新設によって、市内の諸川へ入ることとなり物資輸送がスム−ズとなりました。治水と経済効果の一石二鳥です。

 このため、朝鮮通信使は、前期は信長・秀吉の時代に栄えた伝法港、後期は川口港に入港することとなりました。今回のフィールドワークのコースは、川口入港ルートを採用しています。

 明治期、居留地開設にともない、マストの高い船でも通れるように中央部を半回転できるようにつくられたのが安治川橋。この真ん中で回るところが羅針盤の針をイメ−ジさせたことから「磁石橋」と呼ばれました。明治18年(1885)の大洪水で、安治川橋は持ちこたえたものの、流木や橋の形のまま流れてきた船津橋がかぶさって流れをせきとめ、このため両岸に水があふれ、このままでは市街地が危ないというので、ダイナマイトで爆破され橋は姿を消しました。
 
・住友倉庫【舟番所址】
 
 安治川開削後の通信使船の停泊地。このあたりで、通信使一行は、川御座船に乗り換えて、水上パレ−ドで大阪市中に入りました。舟番所は、当時の“海の関所”。ここは、土佐堀川と堂島川が合流して安治川に注ぐ要衝ポイントでした。なお、かつての外洋船の停泊地は、淀川の下流の現在の伝法大橋の近辺と思われます。

 この舟番所も特に歴史の舞台となった所。歴史小説にはよく出でくる場所です。
 
・土佐堀川(朝鮮通信使水上パレ−ドコ−ス)
 
 通信使一行は、旗をはためかせ、楽隊は楽曲をかなで、土佐堀川を逆行して川御座船で“豪華絢爛”なパレ−ドを行いました。随行船は100隻にものぼり、両岸には数十万人の見物人が見守りました。また歓迎用の亀甲紋の着物を身につけた日本の船頭たちも朝鮮の音楽に船頭歌を唱和させ、コリアと日本の音楽セッションがにぎにぎしく展開されました。中之島西公園には「蔵屋敷」の案内板があります。ここから遊歩道を通って、土佐堀川にそってわたし達も歩きます。

 土佐堀の河岸はかつて“堀浜”といわれた船着場があったところ。長宗我部、山内氏が開き、土佐商人が郷土産品を売買したから「土佐座」ともいわれたとか。船問屋の並ぶ要衝の地。
 
 
・淀屋橋
 
 豪商淀屋の二代目、个庵(こあん)が店の前で開く米相場の集まる人の便宜をはかった架けた橋。「淀屋の橋」と呼んでいたが、そのまま「淀屋橋」に。

 个庵は蔵元として諸藩の米をはじめとする物産を扱い財をなし、文化人としても高名で茶・連歌をよくしたという。米は船で大阪に運ばれ、取り引きされ、取り扱う商人は、大名に金を融資するようになり、藩財政を左右するほどの実力をもつまでになりました。

 淀屋は五代目の三郎右衛門(一説では辰五郎)の時代に最盛期をむかえることとなったが、宝永2年(1705)、突然、幕府の命により取りつぶしとなる。その理由は、豪奢な生活が町人にあるまじきこと等諸説あって不明。幕藩体制を揺るがしかねない豪商の経済力に対する幕府の側の事前防衛措置でもあったとか……。

 淀屋は所払いとなり無くなっても、淀屋橋は残りました。
 
・難波橋【上陸地】
 
 尻無川(安治川)から土佐堀川を通って、水上パレ−ドを終えた通信使一行は今度は難波橋から上陸して、堺筋を南下。「清道旗」を先頭に、王権のシンボルである竜の絵を描いた「形名旗」をはじめ、衣装あでやかな500人にのぼる通信使一行が、警護の武士団に守られ30人編成の楽隊の調べにのって陸上パレ−ド。迎賓館・宿館であった西本願寺(津村別院)へと向かいました。この津村別院の厨房で、羊の丸焼きや鶏の羽毛むしりなど朝鮮と日本の料理人のダイナミックな饗応料理作りの図が残っています。

   続く

 170号表紙へ


inserted by FC2 system