2002年12月14日「一日中教審」(中央教育審議会公聴会)  京都市にて

愛国心より、多民族共生教育を!

 太田 利信 (大阪市教組東部支部長)  

 ただ今紹介をいただきました太田利信と申します。よろしくお願いします。

 私は、今日の教育の深刻な状況に対して、三十六年間教育にたずさわってきた者として、自らの至らなさを反省しております。しかし、だからと言って、現在の教育の問題が、教育基本法に原因があったとは決して思いません。むしろ、教育基本法の理念をより具体化し生かし切れてこなかったことにこそ問題があったと考えております。社会や人々の変化等に対応する適切な教育改革を怠ってきた結果であると思います。

 そして、今まさに、学校五日制が実施され、”ゆとりの教育”、”生きる力を育てる教育”を進めようとし、総合的な学習の時間の設定等に見られるカリキュラムの再編成や、学校を地域の中に位置づける地域教育協議会の試み等、新たな教育改革の端緒についたばかりであります。

  教育基本法の第一条には、「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として……」とあります。また、第二条には、「教育の目的を達成するためには、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」とも記しています。さらに前文にもどれば、「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」との文言もあります。

 これらの内容は、はたして「中間報告」が指摘する”公共”の精神や道徳心の視点の欠落ということになるのでしょうか。

 「平和的な国家及び社会の形成者」「自他の敬愛と協力」「普遍的にして」と述べている教育基本法の理念には、個人の尊厳を基本に踏まえながら、充分に”公”の視点をも包含しているものと考えます。

 教育基本法を生かし切れていない教育実践や、実践を保障する教育の条件整備の不充分さにこそ問題があるのではないでしょうか。

 とは言え、わたしたちは、あの一九九五年阪神淡路大震災の折り、誰に指示されたのでもなく、多くの青年たちが、支援物資をリュックに背負い、あるいは、暖かい食べ物の炊き出しに協力しようと、続々と神戸の町を訪ねていった事実を知っています。

 公共や奉仕の精神を言葉で強調しなくとも、この教育基本法で育った青年たちが、自発的にボランティア活動を行ったとも言えるのです。

 個人の内心の自由に関わる事柄について、あえて、法律で規定しなくてもよいという証左であったのです。

 さて、中間報告では、「日本人のアイデンティティと国際性の育成」ということにもふれています。「国際社会で共存を図ること」「他国を正しく理解し、日本を正しく理解してもらうためには、まずわれわれ自身が生まれ育った郷土や日本について正しく理解し、郷土や日本を愛しよりよいものにしていこうとする姿勢を持つことが必要である」と述べています。

 わたしは、ニワトリが先か卵が先かという議論をしようとは思いませんが、文面にある「まずわれわれ自身が…」という部分に、何か、愛郷心や愛国心を強調するうさんくささを感じざるをえません。

 人間が自らのアイデンティティを自覚するのは、他社の存在価値を認め、その文化を学ぶことによって、自らの文化の尊重の意識を培うときではないでしょうか。それは、幕末の偉人たちが、鎖国から開国の過程で、他民族の文化を識ることで、国際性豊かな日本人とsて成長しようと努めたことにうかがわれます。ただし、彼らの場合、余りにも欧米志向であったために、後に、アジアの諸民族をさげすみ、侵略の道を歩むという過ちに陥ったのでしたが……。

 日本政府も批准している「子どもの権利に関する条約」第八条では、「アイデンティティ保全」について、また、第二九条では、「子どもの親、子ども自身の文化的アイデンティティ、言語および価値の尊重、子どもの居住している国および出身国の国民的価値の尊重、ならびに自己の文明と異なる文明の尊重を発展させること」を教育の目的として記しています。

 私の勤務する大阪市生野区の小学校には、在日韓国朝鮮人の子どもたちが多数在籍しており、課程外の民族学級において、ことば、歴史、音楽など、自民族の文化を、民族講師の指導で学んでいます。これは、五十年の歴史を持ち、他にも大阪市内では、一九九一年の日韓外相会談の覚書を契機に飛躍的に増大し、現在九十二の小中学校に民族学級、民族クラブが設置されています。

 日本人の子どもたちとともに学ぶ教育課程内の総合的な学習の時間には、地域の生活・文化を学ぶこともとりあげられ、校区近くにあるコリアンタウンの調べ学習なども行われれています。

 子どもたちは、まさに、自他の文化を相互尊重し合いながら、人格の完成をめざそうとしているのです。

 グローバル化を言うとき、「国際競争力の向上」のための「国家戦略としての教育」などと、おどろおどろしい言葉で教育を位置づけようとすると、えてして、偏狭な「愛国心」や「ナショナリズム」を強調することに陥ってしまい、日本社会においても、すでに多民族化が進行しようとしている現実に目をそむけることになってしまいます。多民族・多文化社会で互いの共生を担う子どもたちをこそ育てることの大切さを見失ってしまわないでしょうか。

 今ほど平和や人権、ジェンダーフリーを基調とした共生社会の視点が大切にされなければならないときはありません。

 教育基本法「見直し」ではなく、守り、生かすこと、そのことを強調して、意見発表を終わりたいと思います。

 ありがとうございました。

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