追悼 辛基秀先生

  私たちの会が発足以来30年間余り、文字通りともに歩んできた辛基秀さんが10月5日に亡くなった。会の後輩がそれぞれいろいろな場面でお世話になった辛先生に、感謝と哀悼の気持ちを捧げたい。12月22日には朝鮮通信使ゆかりの北御堂(西本願寺津村別院)ホールで「辛基秀さんを偲ぶ会」が開催され、「酒飲み友だち」や「学生時代の学友たち」のほか「日本の中の朝鮮文化」「朝鮮通信使」に関わりを持つ多くの人々がそこに集まった。

 1970年代には、本会の忘年会が当時堺市で経営されていた料理店でもたれることもあった。青丘文化ホールは寺田町駅前の国鉄(現JR)の高架下にでき、その向かい、石村材木店のビル3階が本会の事務所だった。1979年に映画「江戸時代の朝鮮通信使」を制作の後、全斗煥大統領来日に際して(私たちはと言えば、扇町公園から夜の大阪の街を抗議のシュプレヒコールを叫びながらデモ行進していた…)政府高官が辛さんを訪れて教えを請うたという時以来、いわば「朝鮮通信使の辛基秀」さんとなられた。その中でも、対馬を始め各地に足をのばして「朝鮮通信使縁地連絡協議会」1995年の発足に向けて努力されたことは、たとえどんな時代になっても、日本と朝鮮(韓国)の友好の絶対に揺らぐことのない基盤を創ろうとする、辛さんの硬い意思を示すものだったろう。

 その後も、フィールドワークへの助言、府立外教の韓国研修旅行、市立高校の資料作成など私たちの足下の活動に気軽に協力していただいてきた。とりわけ、1994年の本会「改称」記念集会での講演と記録フィルムのラッシュ、壁に掲示された資料の衝撃は今でも生々しい。戦争中の日本名皇国少年としてのご自分について語られたお話。辛さんにして、そうだった(考えてみれば、それ以外にあり得ないのだが。このことの認識は、しかし、なんとむごたらしくやりきれない気分をともなうことだろう)。壁に貼りめぐらされた資料は、戦時中の警察が作成した大阪市内各区別の治安資料、「朝鮮部落」所在地が朱書された地図だった。大阪市内の生徒たちの家庭訪問で目にする街々の原型が、そこに真っ赤な印で記入されていた。そして、それらとは逆に、フイルムには解放直後の在日朝鮮人の、集会や学校でのはつらつとした姿が映し出されていた(これは、映像文化協会「解放の日まで」編集完成前のもの)。

 解放後長く、民族運動の中で、撮影機を持って走り回っておられたという若き辛さんの、その青年期は、長編記録映画「解放の日まで」に結晶している。それは今評判の金守珍監督「夜を賭けて」と表裏一体の在日朝鮮人の真実なのだろう。(K)

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