2001年夏

   ビルの谷間に朝鮮通信使ウォッチング

江戸時代の日本と朝鮮の善隣友好の足跡をたどる大阪歴史ウォ−ク

    (第2回・前号の続き)

                                                                 宮木謙吉 

・高麗橋(高麗橋下遊歩道公園、解散地点)

 その名もズバリ高麗橋。火災の際の通信使のための避難用として、幕府の金でつくられた由緒ある公儀橋です。橋の東側には、古代の難波津の時代、外国使節の迎賓館であった高麗館(こまのむろつみ)があって、東横堀川と大川が分かれる景勝の地であったと伝えられています。

 「白梅や 墨芳ばしき 鴻臚館(こうろかん)」

 これは与謝蕪村が、大阪における古代の善隣友好の時代の交流と近世の朝鮮通信使との交流をジョイントさせて詠んだ知的香りのする句です。しかもこの句は、奈良の高級墨を贈られて感激した通信使が詩を進呈し、今度はその詩がその墨の面に刻まれ今日にまで作られているという事実とも重なって、朝鮮と日本との交流の歴史の襞を顕在化させてくれる名句と言えます。逆に、朝鮮通信使の史実を知らないと、この蕪村の佳句も理解できないことになってしまいます。“人権と共生”の時代にこそ、輝きを増すことのできる蕪村の知性と彼の詩句だと言えます。

 ここには、高札場があったことからも人通りが多かったと考えられます。

 大坂から諸国への里程の起点で、伝馬や駄馬賃などの運送費も全てここをもとにして決められていました。「大阪府里程之標跡」と碑が立っています。

 大坂城の外濠にあたる東横堀川にかかるこの橋は「公」と「民」をむすぷという意味からも重要な橋でした。

 大坂冬の陣・夏の陣では、高麗橋をめぐる攻防戦は熾烈をきわめ、元和元年に大坂城が落城した時、この高麗橋の擬宝珠を徳川方の安藤右京進重長が持ちかえり長く安藤家で所持していました。その後、大磯の吉田茂元首相邸に保管されていることが明らかになり、関係者と遺族の手によって、再び大阪にもどってきた(1969年)ということです。

 高麗橋筋には元禄時代に、三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替商などが営業を始めます。その他、呉服屋、糸屋、べっこう屋、ぬり道具屋、ひも屋が並び、ここへ来れば嫁入り道具の一切がそろうと言われました。

 

ここで、高麗橋をめぐるエピソ−ドを3つ。

かき船のはじまり” 

 宝永5年(1708)の年末の大火の時、橋の近くに船をつないでいた船頭の五郎左衛門。橋の西詰めにあった高札が焼けそうになるのを見て、これをはずし船に積み避難をした功により、町奉行から「大坂一円、いずこの橋下において商いをいたすも苦しからず」と、かき船の営業権を得ることとなる。大阪名物かき船の始まり………。このかき船も時代の波に乗ってか飲まれてか、店じまいするとかしないとか。

 

女敵討ち

 享保2年(1717)7月、出雲藩の茶役、正井宗味が大阪に駆け落ちしていた妻とよと相手の小姓池田文次を高麗橋で討ちはたした。大坂の大繁華街でおきたこの事件、たちまち町中の評判に。近松門左衛門、さっそく戯曲「好色橋弁慶」を発表するが“好色”の2文字がお上のおとがめを受け「槍の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)」と改題。人通りの多かった高麗橋ならではの事件。

 

始めての鉄橋

 明治元年(1868)11月。時の大阪府知事後藤象二郎、鉄橋の架橋工事をイギリスの商社と契約。明治3年、架設は完了するが、橋が河幅に満たず(設計ミスか)、橋台を河中に突き出してやっと完成。このため契約上のトラブルが発生、外交問題にまで発展。さらに工事費が契約高よりも大幅の増加したことで、追加支払いをイギリスは要求。大阪府は拒否するが、結局、外務省が追加払いを認め、立替え払い。大阪府に納入を請求。橋だけに、カケラレタとか………。

 

(3)朝鮮通信使あれこれ

・通信使の迎賓館・宿館

 西本願寺津村別院(北御堂)は9回にわたり、迎賓館として使用されました。南御堂も一回使われました。また、このほかに旅館をおぎなうために船場一帯の民家も使用されました。ここの厨房ては、朝鮮人の料理人によって豪快な羊の丸焼きをはじめ肉料理が通信使のために特別に作られました。また、末吉孫左衛門といった豪商たちが賄い方として近隣の農村から料理の材料を集めるなど、通信使接待の実務を担当することもありました。 なお、朝鮮通信使の食卓を飾る御馳走の材料運搬の専用門が、西門としてあって“開かずの門”として保存されていたが、現在はありません。

 

・通信使の中の元日本人のお話

 九太郎町(百済町)の香の店で働いていたが、集金がうまくいかず店に帰りにくくなったため、対馬をへて釜山に渡り朝鮮人の養子となったという元大阪商人がいました。通信使のメンバ−に選出されて来日し、その彼が、店のことが気になって、朝鮮人参と小皿をもって昔の店に訪ねてきたという大坂商人の義理固さを物語るエピソード。当時の日朝往来の実情をかいま見ることもできますね。また、初期の通信使一行には、一割の元日本人が含まれていたとも言われています。

 

・堺筋がメインストリ−ト

 今では御堂筋がメインストリ−トですが、当時は日本橋を通る堺筋がメイン道路でした。難波橋から上陸して(現在よりはやや西寄り)、列をなす見物人の中を、通信使一行は堺筋を南下し備後町を右折して迎賓館の北御堂へと到着しました。

 

・気をつかう大坂庶民

 当時のメインストリ−ト堺筋は、たき火は禁止、一切の煮たきは炭火を使うようにと奉行からの命令があって、火の用心に配慮することこれしきり。難波橋からの道筋は、ていねいに掃除され、家々には幕打廻し、毛氈を敷いたうえに、商家の店先には金箔の絵屏風も立てられたとか。見物用の観覧席も設けられ、席料を払えない庶民は立見席で見学。

 

・チャルメラ登場

 なかでも人気があったのは30人編成の楽隊。朝鮮のラッパは、チャルメラとしてもてはやされ、今日の中華そば屋台のチャルメラに引き継がれています。
 庶民の一番人気は楽隊、その次は馬の曲乗り(馬上才)であったとか。

 

・大忙しの通信使

 通信使の宿舎には、文字を求め絵を希望する人々が門前市のように列をなしました。通信使の記録には、夜も寝られず食事の時間もないほど忙しかったとあります。大阪人の探究心の強さを物語っていますね。町の文人からは、通信使に印章を送ったこともありました。池大雅が通信使の画員と交流し、富士山の描き方を聞いた話なども残っています。

 

・朝鮮は、あこがれの国

 朝鮮通信使は各地で熱烈に歓迎されました。当時の人々にとって、朝鮮はあこがれの国でした。となりの国の文化にふれることのできる絶好の機会でした。「鎖国」と言われた江戸時代にあって、朝鮮通信使がもたらした国際色豊かな“刺激”は、それだけに深く記憶のひだに刻まれたことでしょう。オランダ・中国(清)はあくまでも通商の国で、朝鮮だけが通信の国でした。「通信」とは「誼」(よしみ)「誠」(まこと)を「通わす」という意味です。正式の外交国は朝鮮だけで、商いの対象であったオランダ・中国とは一線を画していました。

 

・竹林寺、もう一つの人情話

 500人に及ぶ通信使のうち、100名近くの水夫たちは“大坂残留組”として本体の江戸からの帰還まで、水上での生活を余儀なくされます。一般市民との交流どころか、町歩きも厳禁でした。豪華な接待料理の饗応にあずかる上官とはちがい、食事も粗末なものてあったと言われます。一種の軟禁状態であったとも伝えられます。その残留組の無聊を慰めるための飲食の宴が開かれたのも竹林寺でした。さすが“人権寺”の感あり。その労をとった奉行所もなかなかのもの。

 

〔追記〕

 朝鮮通信使をめぐる研究は全国各地ですすめられ、大阪にあっても朝鮮通信使の事跡についての研究がさまざまな角度から行われています。最近では、四天王寺の「下馬碑」が正徳度(1711) の通信使の製述(記録)官である金明国の書になることが郷土史家によって確認されるなど、身近な界隈でその取り組みが見られます。また、末吉船、柏原船で有名な平野郷の末吉孫左衛門が初期通信使の一行の馳走奉行として活躍したことなども紹介されるなど、歴史の町大阪にふさわしい事実が明らかになっています。大阪ではこれからがますます面白い通信使ウォッチングであると痛感しています。

  今回の資料は、1996年時点での調査をもとに、辛基秀さんをはじめとして、多くの朝鮮通信使研究者から直接アドバイスを受けて、大阪の通信使行程の追体験資料として作成したものをベースにしています。しかし、最近の研究によると、水上パレードのための「川御座船」への乗り換え地点は、「舟番所」付近よりも更に河口に近いところだとされており、その場所である「木津川口」(延享度)、「難波島」(正徳度)は江戸期の地図で確認することができます

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