「在日朝鮮人少数在籍地域で学校をつなぐ民族交流会」より続く

 「世代を越える民族学級」(討論のはじめに)

                         栗田珠美(我孫子中学校)

 

  大阪市南部のこの地域では、各学校に少数の在日朝鮮人のこどもが在籍していますが、オモニたちが仲良しで、小中学校の間でもつながりがあります。しかし、昨年の9月17日からは様子が変わりました。民族学校の建国(白頭学院)が地域にありますので、そこの先生からも心配だという声を聞きます。親にとっては自分の子どもがかわいいので、「先生は何かあったら責任とってくれるのか」という声も上がります。「どう守りきってくれるのか」というような突きつけられ方もいっぱい経験しました。

 あびなん(我孫子南中学校)でも、あびちゅう(我孫子中学校)でも、生徒たちの話し合いで決めていったのですが、我孫子中学校では、最近やっと学校が落ち着いているところだということと、また、生徒たちは「やる」、親は「やめとけ」、という状況の中で、結局舞台発表は延期になりました。それでも生徒たちは「やめるのちがう、延期するだけや」と元気で、やれるだけのことをやったと思います。

 苅田南小学校では、韓国から結婚で来られたオモニが子どもに民族舞踊を習わせていて、それを生かして総合の時間に発表をしたというように、民族学級のない学校でも総合の時間を活用して工夫がされています。そのことが8校の民族交流会でも経験交流されました。この交流会というのは、8校の教職員と保護者であるオモニ・アボヂが交流する研修会、学習会です。

 この地域の最初の民族学級は、依羅小学校にできました。なかなかできなかったのですが、親の思いがあってできている。その当時は宮木先生がおられたと思いますが。その後に、その子どもたちが進学していく我孫子中学校にも、親の思いの中で民族学級が作られていった。その頃はまだ我孫子南中学校はありません。大阪市内では、民族学級は教職員が中心になって作っていく場合も多かったのですが、この我孫子地区の場合は、そうした親たちの思いの中でできていったという経過があります。

 8年前に転勤してきた頃、我孫子中、我孫子南中、依羅小の3校で合宿が始まりました。当時はアボヂ・オモニが大勢おられました。昼間の活動が終わると夜にはみんなで飲んで食べてというふうな交流をしていました。

 その後はどんどん新しい世代に変わって行きまして、民族学級はあってもそれがどのようにしてできたのかということはうまく受け継がれたとは言えません。親の会の役員は3校の間で分担していて、活動も毎年中心になる学校をまわしています。非常に少数在籍なので、例えば我孫子中学校でも、12名のルーツを持つ子どものうちで6名が民族学級に来ているという状態です。今日も、本当はオモニにも来ていただいて、気持を話していただこうと思っていましたが、日程がうまく行きませんでした。

 

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 確かに親の世代も変化してきています。その一つの要素として、長年の「民族学級をつくろう」という教育運動の中で、それを生徒として経験してきた世代が親になり、オモニとなって現在の教育を支えてくれていることがあります。三年前もそうでしたし、今現在でもそうなのですが、子どもたちと一緒に勉強したい、楽しみたい、という声が多い。他府県から来られた親の場合は、大阪の民族学級というものに感激して、まだそれがない学校でなんとか作ってほしいという声を上げられたりする。また、アボヂが朝鮮人でオモニは日本人という場合も多いので、父母の間での葛藤があったり、夫婦一緒に行事に参加されたり、本当に多様な状況です。学期に一二度、三校が中心になって「親の会」も開いて、そうした中で、つながりが深まっています。

 今後、教員の若い世代にも、これまでの教育運動の中身をきちんと伝えていかなければならないと感じています。 

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