思うこと・考えること
                 ・そして大切にしたいこと

(南大阪民族交流会)

 

   大阪市立依羅(よさみ)小学校
辰野 仁美

はじめに

 

 子どもたちが、口々に「タシ!マンナヂャ」(また会おうね)と声を掛け合っている姿はとても美しい。美しいと思うから、また見たい聞きたいと思うのである。

 

(1)最初に出会ったチファのこと

 

「わがままな子ども」

 南大阪民族交流会と聞いて思い出すのはチファのことである。

 今から14年前、私は西成区の北津守小学校で産休講師として4年生の担任をすることになった。その学級の中にチファがいたのである。

 チファたちが3年生の後半から週3時間の体育講師を勤め、そのまま担任となった。

 体育講師をしていた頃、私はチファが苦手だった。いつもいつも授業には遅れてくるし私の話しは全く聞かない。その上、事あるごとに私につっかかってくる。とにかく、やりにくい子どもだった。担任になってもチファは同じ態度だった。

 その頃のチファは、民族学級に行ったり行かなかったりの状態で、自分のことを

「俺、朝鮮人や」と言う日もあれば「俺は日本人やから」とつっぱねる日もあった。

 今だから、チファの揺れやチファが私を試していたこと・私に受け止めてほしかったことなどチファのおもいを感じることができるが、当時は、私の思い通りにならないチファが「わがままで自分勝ってな子ども」として私の中に写っていた。だから、チファが朝鮮人でも日本人でもかまわないと思っていたし、民族学級もチファが行きたくないのなら行く必要もないとさえ思っていたのである。

 

大事件と坂本晃さんの激怒

 そんなある日、大事件が起こった。チファが起こしたのだ。私はチファの担任であるのに、チファを守ることなく彼を責め続けた。チファが悪いと全てをチファの責任にして、大事件から背をむけようと逃げはじめていた。

 そんな私を見て、大先輩の坂本晃さんが大激怒した。私に向かって

「こんなことになるのは、全部担任が悪い!担任がチファを朝鮮人として見てないからや チファの気持ちを受け止められない担任の力のなさや!」

 それを全体会議の中で聞いた私は、ショックでぶったおれそうだったが、さらに

「チファがきちんと朝鮮人として民族学級に位置づかない限り、問題は解決しない。民族 学級の大切さをチファに伝えるのが担任の仕事や!チファを今までほったらかしにして いた責任は民族学級に結集させることで償うしかない!」と迫った。

 大勢の中で叱咤され、頭の中は真っ白であったが、悔しさや意地や負けん気などが私の中で一つになり「そこまで言われるんやったら、やったるわ」とけったくそ悪い思いの中で決意に変わった。次の日からチファVS私の「民族」に対する真剣勝負の日々が始まった。

 

「うるさいババア」

 私は毎日チファに「民族学級行こう」と言うが、決まってチファは「うるさい」の一言。それでも、毎日言い続けた。チファも「うるさいババア」を言い返し続けていた。

 ある週の民族学級の日、私の靴がなくなった。チファが隠したのだ。私の靴がなくなれば自分が民族学級に連れていかれないと考えたのだ。かわいいと言えばかわいいのだが… 私はチファのランドセルを肩に担いで、靴下のまま民族学級に向かった。しばらくすると、拗ねた顔でチファがきて「辰野がうるさいから、民族学級きたった」とポツリ。

 子ども相手に大人げないと思うが、「ヤッター!チファの気持ちに勝った」と感じたことを今でも覚えている。

 それからも毎日、「民族学級一緒に行こう」と言い、チファもお決まりのように「うるさい」の連続。でも、確実に変化していったのが私の「民族」に対するおもいや考えであった。チファを民族学級に結集させることは、私が朝鮮人であるチファと向き合うことであるし、私自身が「民族」を知り・学び・私の中に潜在していた朝鮮人差別に向き合うこうでもあった。

 それに気づかせてくれた坂本さんには今もこれからも感謝し続けるであろう。

 相変わらず、チファとの日課である「民族」に関する会話は続いていた。チファも私との会話を嫌がらなくなった。時にはチファが家族で行ったチェジュドの話しや、名前のこともチファから話してくれるようになった。チファも確実に変わっていったようだ。

 7月になり南大阪民族交流会の前身である西成民族交流会にチファと一緒に参加することになった。

 

チファと手をつないで踊る

 今でもはっきり覚えているのは、鶴見橋中学校の体育館で参加者全員で踊った事である 何をどんなふうに踊ったのかは、覚えていないが、とにかく何かに吸い込まれるような感じで、チファとしっかり手を繋いで楽しく踊った記憶が残っている。あれだけ私を嫌がり、私の手をパチッを払いのけていたチファの手が私の手と重なり一つになったのだ。

 私の隣でチファが笑っていた。あのチファが大きな声で歌っていたチファが嬉しそうに楽しんでいた。私も楽しかったしすごく嬉しかった。「またチファと一緒に来たい」と素直に思った。私はチファがいとおしかった。好きで好きでたまらなくなっていた。もっとチファのことを知りたい・チファと「民族」を考えたいと心から思い始めていた。

 西成民族交流会の「マダン」の意味を後から知ることになったが、14年前のあの日、チファと私は確実に繋がった。交流会でチファと本当に繋がることができたと信じている。 交流会後もチファと「民族」に向き合い続けた。私の中には「迷い」や「意地」など負の気持ちはかけらもなかった。チファと一緒に「民族」を感じ、一緒に魂を傾けていった。 チファも「民族学級行かへん!うるさいババア」とは言っていたが、自分の意思で結集していたし、私が「チファ」と呼ぶことに嫌がることもなくなった。チファも私を受け入れ「朝鮮人」として自分を見つめ始めていたように思えた。

 

別れの日とその後

 産休講師だった私にチファとの別れの日がやってきた。私もチファも泣いた。チファのオモニも泣いていた。オモニとも「民族」について語り合ったからだと思う。悲しかった別れの日から何年かたったある日、鶴見橋中学校の朝問研のメンバーとしてチャンゴを叩きながらサムルノリをしているチファを見つけた。鳥肌がたった。チファと民族に向き合った日が蘇った。嬉しかった。私のしてきたことに間違いはなかったと確信できた。

 私の民族教育に対する思いや考え・熱意の原点はチファである。そのチファと向き合うことの必要性・重要性を教えてくれたのが坂本さんであり、北津守小学校の解放教育であった。私の在日朝鮮人教育のスタートは、罵倒されけったくそ悪い思いの中から始まったが、私は今もここにいて、南大阪民族交流会にこだわり続けている。チファと繋がった民族交流会を、今日では陰で支える実行委員会の一人となって、毎年多くの仲間といろいろな角度から論議している。

 

 

(2)依羅小学校民族学級と民族交流会

 

民族交流会の願い

 私は、民族交流会が子どもたちのつながりの場であってほしいと願っている。参加した子どもたちが、次につながる「何か」を見つけてほしいと思っている。それが、民族学級であってもいい。本名であってもいい。朝鮮人としての生きかたであってもいい。

 私とチファが感じた「何か」を見つけて自分のルーツをみつめるきっかけとしてほしいと願いながら民族交流会の実行委員をしている。

 今は住吉区の依羅小学校で12年間「民族学級」を始め、民族教育・在日朝鮮人教育の実践・取り組みに全身全力でぶつかっている。依羅小学校でも朝鮮人の子ども一人ひとりに真剣に向き合っている。(この話しはまたの機会に語ることにする。)

 偶然だが依羅小学校で、坂本さんの子どもの担任となった。坂本さんに感謝の気持ちを伝えるのは、実践しかないと思い素直な気持ちで力を抜き前向きに取り組んだ。ヒロシマのこと・浅香のおこりのこと・勿論民族学級や「朝鮮」のことも…坂本さんに教えてもらった解放教育の素晴らしさを私なりに子どもたちと向き合い、伝えていった。

 保護者の立場の坂本さんが、私に「辰野先生!いつもありがとうございます。」と言ってくれたことも忘れられない。

 南大阪民族交流会で子どもたちが、口々に「タシ!マンナヂャ」(また会おうね)と声を掛け合ってる姿がとても美しく見えるのは、チファのこと、チファのアボヂ・オモニのこと、北津守小学校の民族学級のことなどの思い出が重なり合うからだ。その豊かな思い出がキラキラ光り輝いて、チファと一緒にいたあの日に戻れるからだと思う。

 「タシ!マンナヂャ」はチファが私に向かって言ってくれているような錯覚に陥ってしまう。「タシ!マンナヂャ」が美しい響きを持つ言葉として感じるのは、きっと私の生き方が人生が民族学級・民族教育・在日朝鮮人教育・朝鮮人との日々の繋がりに、どっぷりつかってぬけだそうとしていないからだと一人で納得している。

 

太田利信さんからの依頼

 「辰野さん、またお願いしたい事があるのですが…」

 全朝教大阪の前代表、太田さんからこう話しかけられたのは、小雨降る、9月20日。 ちょうど、民族教育文化センターの新事務所開きのレセプション会場だった。

 「御無沙汰致しております。さて、お願いと申しますと?」と少々不安を感じながら尋ね返すと、

 「むくげの原稿をお願いしたいと思いまして…」と私の予感的中!

 「南大阪民族交流会のことを辰野さんの視点で書いて頂けたらと思いまして…」

 太田さんのソフトな口調のお願いを聞きながら、私は「うーん」と黙り考え込んだ。 民族交流会については私以上に思いや考えを持っておられる方々や創ってこられた先輩方がたくさんいるはずである。その方々をさしおいて私のような未熟者が民族交流会を語っていいのだろうか?また、私のおもいや私自身が交流会に関わってからの民族交流会の変容をうまく的確に伝えられるか?真剣に思い悩んだ。

 私の視点で民族交流会の事を綴るのは、やはりチファとの出会いや、なぜ今の私があるのかからスタートするしかないと思った。

 私はチファのことしか綴れないが、民族交流会が今以上に広がりを持ち、多くの朝鮮人の子ども・保護者・教員が南大阪民族交流会の意義と取り組みを知り、それぞれが「民族」に向き合うきっかけにでもして頂けたらいいなという思いでペンを執ることにした。

 南大阪民族交流会…私自身がそうあったように数え切れない程の多くの人々の願い・おもい夢・希望・愛を包括した取り組みを思う存分紹介させて頂きましょう。

 

 

(3)南大阪民族交流会

 

19回目の交流会

 南大阪民族交流会は、今から19年前、西成区の長橋小学校・鶴見橋中学校・梅南中学校の3校が、それぞれの民族学級での活動を披露しあい、交流したのがそもそもの始まりである。上記の3校は「7.4南北共同声明」を受け、喜びの中で民族学級が開設された歴史がある。

 ここで私が語るより、当時長橋小学校の在日朝鮮人教育領域部長(現、在日外国人教育部長)の太田さんの方がはるかに詳しい。当時を生きていた人である。生証人に語ってもらうことを今後の約束としたい。(詳細は「ウリマルをかえせ」に記載されている)

 今年で19回目を迎える南大阪民族交流会。今年度も西成区・住吉区・住之江区の38校の小中学校から多くの朝鮮人の子ども、朝鮮につながる子どもが参加し「民族」に出会い有意義な一日を過ごすことができた。

 

交流会の受け付け

 さて、そろそろ一日のようすを綴ることにしよう。

 6月14日(土)はあいにくの曇り空だった。誰もが「雨が降りませんように」と願ったにちがいない。

 各学校毎に会場の住之江小学校に集まって来る。子どもたちの表情は様々だ。何度も交流会に参加している子どももいれば、今回が初めてという子どももいる。だが、ここにいるのは誰もが「民族」につながる子どもたちである。子どもたちは、それを知っているので、心配かつ不安な顔をしている子どもは一人もいなかった。

 まずは、受け付けでイルムを大きな幕に、はっきりしっかりと書く。これが今日一日の活動のスタートである。今や恒例になったイルム書きであるが、イルム(名前)をシッカリを覚えてもらいたい。本名を知ってもらいたい。という願いから始まった。民族交流会で本名に出会い、ハングルを覚え、本名を初めて書く子どもたちもいる。そんな子どもたちのイルムも、自分の本名を当たり前に書ける子どもたちのイルムも、畳8畳程の大きな幕に所狭しと色取り取りのマジックペンで力強く刻まれている。

 第15回交流会から始まったイルム書き今年で大幕が5枚になった。これは、私たち南大阪地域の貴重な記録と財産である。もちろん、大幕にイルムをかいた子どもたちにとっても、そうであってほしい。

 イルム書きが終わったら、運動場で全体会が行われた。初めて参加した学校の紹介や民族講師・リーダーの紹介がある。一番の見どころは卒業生の会「フィマンファ」のタルチュムである。息がピッタリ合った踊りは素晴らしかったとしか言い表せない。

 「フィマンファ」(希望の花)は西成地域の鶴見橋中・梅南中の卒業生の会である。

 今でも毎週火曜日に集まって活動している。

 その他に、住吉・住之江地域の卒業生の会「ミレピョル」(未来の星)や我孫子地域の卒業生の会「ケンチャナ」(なんとかなるよ)がそれぞれの場所でそれぞれの活動を展開している。

 この卒業生の会が十分に活動できるのも、南大阪地域の大地にしっかりと根づいている民族教育の結果だと私は考える。

 実際に中学生のアンケート結果で「卒業生の会」に憧れ自分も活動に参加したいと考えている生徒が多いと出ているし、小学校の子どもたちにいたっては、何よりもかっこいい誰よりもかっこいい存在である。

 私の教え子も「フィマンファ」「ケンチャナ」で頑張っている。その姿は頼もしいし、かっこいいし、輝いている。本当に私の自慢である。

(チファも「フィマンファ」に何回かは参加したと聞いているが…)

 

午前の部「ウンドンフェ(運動会)」

 全体会が終わると、午前の部のメインであるウンドンフェの開始である。昨年度の18回民族交流会から行われるようになった。これには「住之江・住吉オリニウンドンフェ」を南大阪民族交流会に統合するという意図も含んでいる。

 ウンドンフェの種目を何にするか?ということで私たち民族交流会実行委員会のメンバーは会議を重ねた。民族交流会だから、同胞と一緒に活動できる競技。「民族」に繋がる競技。ああでもない!こうでもない!と話し合いながら、5つの競技を決めた。

 @チュンビチェヂィ(準備体操)

 Aパンウルケギ(くす玉わり)

 Bウリマルペウヂャ(ウリマルを学ぼう)

 Cチュルタリギ(綱引き)

 Dウリナラリレー(ウリナラ一周リレー)

 どの競技をとっても、「民族」に十分触れられる。参加した子どもたちが、「民族」を肌で感覚で感じ取れるように考えた。ああでもない!こうでもない!と時間をかけて話し合ったことが生かされたと今でも自信をもっている。

 ウンドンフェは12グループで行われる。民族学級のある学校、ない学級の子どもが一緒になるように同じ地域の小中学校の子どもが一緒になるように考えた。

 できるだけ違う学校の友だちと交流できるように意識的に分けた。

 少数在籍校の子どもたちは、仲間と別れてしまうことに、多少不安はあったようだが、短い時間の中でこそ、お互いを知るために必要な会話を充実させてほしいと願う気持ちも私たちの意図にあり、敢えて意識的の分けたのである。

 民族交流会のパッフレットにも、チングコジャ(友だちになろう)と称して、交流会で仲よくなった友だちの名前・学校・学年・住所・電話番号が書けるページを設けている。 このページいっぱいに友だちの事を書きつくした子どももたくさんいたことに、喜びを感じている。

 12グループには動物の名前が付いていて、それぞれに中学生リーダーがいる。

 学校5日制の絡みや時期的な問題等もあって昨年度から再び小・中合同で行うことになったので、午前のウンドンフェで小学生と中学生が交流できるように計画した。

 中学生リーダー曰く「言うことを聞いてくれない」「生意気や」等意見もあるが、大多数は「一緒に活動できて良かった」と感想を残している。

 学校や年齢、育った環境、「民族」に対する考えなど異なる一人ひとりが、ウンドンフェを楽しみ、競技に勝ちたいを同じ気持ちで臨むことができたようだ。

 ただ一つ残念でたまらないのは、最後の競技、ウリナラリレーが突然の雨で最後までできなかったことである。

 

仲間と共に

 ウンドンフェでもう一つ伝えたい事なのだが、私の所属する依羅小学校はBのウリナラペウヂャの競技を担当することになった。モリやオッケなど身体の部位を60枚厚紙に書き、それにテープを貼り、ゴムをつける作業があった。

 私は一連のその作業を放課後、もくもくとこなしていると、学年の同僚が私に

「辰野さんこうするともっと能率がいいよ」

「テープはこんなふうに貼るほうが安全よ」といろいろアドバイスをくれたのである。

 私は何の目的で何を作っているかを話し始め、民族交流会のことも熱く語った。その結果、アドバイスをくれた同僚の姿を民族交流会で見ることができた。

 私の反省すべき最大の箇所は「10人の1歩」を待てないところにある。自分でもわかっているが、待てないので「1人の10歩」になってしまう。

 が、今回の事で一緒にやっていくことの大切さを再考した。「民族学級」のこと、民族教育・在日朝鮮人教育の事をもっと大切にしたい。大事にしたい。だから仲間と共闘したい。今はそんな気持ちが私の中で膨らんでいる。

 

午後の部「学年別活動」

 午後の部は小学生・中学生と別の活動である。申し訳ないが、中学生の活動には参加できていないので、今回は省かせて頂きたい。小学生は体育館に集まって、大サムルノリをするために学年毎に別れて、楽器の練習に励んだ。

 けんけん けんけけん けんけけん けんけけん

 どんどん どんたくんた どんたくんた どんたくんた

 ごーん        ごーん

 どんどん どんどどん どんどどん どんどどん

 全員がチョゴリを着て、1・2年生はソゴ、3年生はプク、4年生から6年生はチャンゴに分かれた。チャンゴだけでも100人をこす大サムルノリだった。

 全ての子どもの視線の先には楽器を教えている民族講師がいた。

 民族講師の目は、真剣な表情で一生懸命にチャンダンを覚えようとしている子どもたちを優しく包みこんでいた。私にはそんなふうに写った。

 朝鮮人として生まれた子どもたちも、朝鮮にルーツを持つ子どもたちも、魂の叫びとでも言うような、うねりの中、無我夢中で楽器に向かっている。

 無我夢中で「民族」を表現しているようだ。

 

最後の大サムルノリ

 あの感動をどう文章にしたらいいのか?どう伝えたらいいのか?

 とにかく、身体中の血が逆流し始めたのか、毛穴という毛穴が全開したのか、私の全身に鳥肌がたち、感動のあまり立っていれないめまいに似た感覚におそわれた。

 やはり、あの感動は言葉では言い表せない。あの日、あの時、あの場所にいた者にしかわからない感動だ。

 申し訳ないが…どんな賛美や飾り言葉を並べても、あの大サムルノリの感動は綴れない 大サムルノリが終わると、全体会である。今日一日の感想を述べあった。

 朝からの行事で疲れた子どももいたと思うが、思う存分「民族」に触れ、「民族」を満喫したであろう。子どもたちの顔は輝いていた。いきいきしていた。

 これこそ、私たちが大事にしたい民族交流会である。今、思い出しても気持ちいい。

 子どもたちは、きっとチファと私が見つけた「何か」を見つけてくれたに違いない。

 

 

おわりに

 

 来年は南大阪民族交流会20回目の記念の年である。

 チファと一緒に参加した時から、もう14年が過ぎた。14年間ずっと民族交流会は存在してくれていた。そして、これからも存在し続けるだろう。

 なぜなら、私はチファと繋がった民族交流会をチファとの出会いと共に語り続けるからだ。

 南大阪民族交流会…数え切れない程の多くの人々の願い・おもい・夢・希望・愛を包括した素晴らしい取り組み。来年は西成区の長橋小学校で開催される予定である。

 2004年6月に民族交流会でお会いできることを楽しみにしている。(2003秋)

 (項目標題は、編集委員会がつけました。)


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