「民族学級・民族交流会の今」

〜拉致問題報道から見えてきたもの、だからこそ必要な事〜

 

辰野仁美(大阪市立依羅[よさみ]小学校)

*こどもの名前は仮名にしています(編集委員会)

 

@はじめに

あれよあれよという間に、ここの席に座っています。非常に緊張していますが、仲間の皆様とともに考えて行けたらなあと思っていますのでよろしくお願いします。

今年は1年生の「障害」児教育担当をしておりますので、直接今関わっている子どもたちには「民族学級」の話や「朝鮮」ということについて伝えることは十分できておりません。ただ、今関わっている子どもにも、豊かな出会いということを大事にしたいので、個別学習の時にきれいな色の朝鮮の絵本を読み聞かせしたり、アプロの歌を歌いながら手遊びをしております。また、学年や学校の取り組みではしっかり協力してがんばっています。

ですから、今からお話しするのは、昨年度3年生を担任していたときの取り組みですので、約一年前のことになります。

 

A3年の学級

担任した3年のクラスには民族学級に結集している子どもが4人いました。4月当初は2人でしたが、2学期から4人になったんです。その2人がなぜ結集するようになったかについては今日は省略させていただきます。

キムという子どもは在日朝鮮人の子どもです。1年生2年生の時は通名を名のっていましたが、4月になって、「なあなあチャンホ、もう3年生やし、やっぱり名前は一つなんやから、チャンホで学校生活送れへんか」と言ったら、「ああ、わかった」と、案外すっとチャンホと名のるようになりました。もう一人は、ソン・ミナです。お父さんが生まれも育ちも韓国の人で、日本に仕事の関係できた時にお母さんと知り合って結婚しました。パク・ミシルのお父さんは在日朝鮮人で、ミナもミシルも父親が朝鮮人で、朝鮮につながる子どもでした。

ショージという子どもがいまして、国籍もつながりも全くありません。日本人です。ただ、おじいさんが再婚してそのおつれあいが在日朝鮮人だったので、血縁もつながりもないのですが、「ぼくのおばあちゃん韓国人やねん。だからぼくも民族学級行っていい?」というような話で、結集するようになったのです。

4名ともそれぞれの状況がかなり違いました。それぞれ生い立ちも立場も違いますし、何よりも保護者や子どもたちの民族に対する考え、思いが違いました。ただね、一つやっぱり、この子どもたちに共通して言えることは、もしかして将来「民族」ということで差別を受けるかも知れないということでした。ですから、担任した時、4人をつなぐ作業は絶対いい加減なことはできない、手を抜けないなあと思いました。

いい加減なことを私がしてしまえば、4人が分裂してしまうことになるかも知れないと思ったので、民族学級に結集する4人についてはていねいにつなぐ作業に力を入れました。

それと同時に、やっぱり必要になってきたのは、4人だけじゃないんですね、学級は、36人いましたから、4人と一緒に活動している、4人を支える日本人側の集団の価値観をしっかり育てなあかんということです。「あたりまえのことはあたりまえ」、「違うことは違う」、という風に、正しい視点を持たせることが大切だと思いました。民族学級がなぜあるのか、とか、誰が行っているのか、何をしているのか、ということをきっちり知らせていく必要もありました。お互いに支え合うという学級集団の価値観を育てなければならないと、4月の最初に感じて、この一年間、何とかがんばってやってやろう、という思いで学級をスタートしました。

まず、一学期にやったこととは、先ほども言いましたが、なんで依羅小学校には民族学級があるねん、何であるのや、ということと、民族学級には誰が行ってるねん、AちゃんもBちゃんもCちゃんもみんな行けるのか、ということと、民族学級の活動はどんなことをしてるのや、民族講師のソンセンニム(先生)を中心に何をしているのか、ということを子どもたちにきっちり知らせていきました。1年生2年生で学級担任が違って、やっぱり温度差も取り組みの違いもあって、2年間過ごしてきた子どもが3年で一つのクラスになるのですから、また一からのスタートやなあという気持ちがありました。それで、31組と民族学級は隣同士の関係、クラスの中には常に民族学級のようすがわかり、ソンセンニムの姿があり、また反対に、民族学級の中では、1組の話が出る、今日こんなことソンホが言うたんやで、みんなはこんな風に言うたんやで、ということが民族学級でもでるようにせなあかんなと思いました。

一学期は、民族学級の活動をしっかり子どもたちに返していって、そのなかで、4人の子どもたちには、自分はどう思ったか、どう考えたのかということを問い返しました。その次に、4人を支える子どもたちにも、みんなは今の話を聞いてどう思ったの、何を感じたの、ということを中心にしてやっていきました。

 

B2002.9.17()

一学期の活動も無事に終わって二学期になりました。917日、この日は雨だったのです。なぜ雨だったということを覚えているかというと、たまたまうちの息子が調子が悪くなって、私は年休を取りまして、雨の中を自転車で病院に向かったので覚えているのです。病院の中でも家に帰っても、一日中、テレビは拉致報道一色でした。どこのチャンネルを回しても、拉致問題ばかりでした。

私はそれを見たとき、それはショックを受けました。被害者の人がかわいそうだと思いました。ああ、生きていてほしかった、とも思ったんです。拉致したことに対して腹立たしさもあり、怒りもあり、いろんな複雑な気持ちでテレビを見ていました。テレビをずっと見れば見るほど、今日の917日のことを明日4人の子どもにどう話しようかなあ、4人だけじゃない4人を含めた学級の子どもたちにどんな風に伝えたらいいんやろう、と、本当にものすごく悩んだんです。もしかしたら、チャンホと朝鮮民主主義人民共和国のことをいっしょにせえへんやろうかなあ、とか、チャンホ以外の民族学級に結集している3人が差別する側の日本人の側になってしまえへんかなあ、とか、ほかの日本人の子たちが民族学級に結集している4人の子どもたちをどう見るやろう、この報道を受けてどう考えるやろう、ということを、ず一っと考えていたんですよ。

テレビの報道が増えれば増えるほど、うなりましたねえ、頭を抱えて、う一んと。考えてしまいました。今まで自分がやってきた一学期の取り組みに、自信と言うほどのものはないけれども、絶対ということはないのだから、もしかしたらこれで関係が悪くなるのではないだろうかということを、ずっと考えていました。でも、これ、子どもに伝えなければ始まれへんやんか、ということで、私が思ったこと、感じたこと、考えたことを、ありのまま話すことにしました。ええかっこしても伝われへんし、なんぼきれいな言葉を並べても子どもらは見抜きやるからね、きれいごと言っても所詮きれいごとに終わるから、子どもたちには伝わらないと思ったのです。ですから、担任として、ではなく、一人の個人として、こんなこと思うたんや、こんなふうに考えたんやということを話しました。18日に、「きのうは子どもが熱を出して休んでごめんな、みんな賢こう待っていてくれた?」と話したら、「賢こうやってたで、だれだれけんかしたで」とか言っていたのです。それで、「先生、今ほんまに思っていることを話したいから、最後まで聞いてちょうだい」ということで、拉致のこと、拉致報道のこと、チャンホのこと、ミナのこと、ショージのことミシルのこと、思っていることを、ありのままええかっこせんと話しました。で、最後に、4人には今までと同じように4人全員民族学級に結集してほしい。そして4人を支えるまわりの友だちには、今までと同じように、「今日民族学級行くんやろう、しっかりがんばってこいよ」とか「なあなあこないだの金曜日どんなこと習ったん、教えて」という今までしていたような声をかけて、4人のことを応援してほしい、という話を最後にしました。

 

C我孫子地区民族親の会

私の感じる限りでは、まあ事実としては、子どもたちは知っていましたが、拉致問題と三年生の生徒とは直接生活で結びつくということはなかったのです。ただ、世間ではきびしかったですねえ。まだまだ拉致問題報道がずっと続いていました。

確かに学級の中では、4人を含む学級の関係は何ら変わらなかったし、むしろ、私の見る限りでは、関係は良くなったようにさえ思えました。ただね、そういうのは学級の中だけやったんです。拉致問題の報道があって一週間後、9月の24日に我孫子地区民族親の会が緊急で開かれました。内容は、我孫子地区同推協が毎年行っています「ヤユヘ(野遊会)」のことです。それぞれの学校からみんな集まって、民族を感じあおうという取り組みについて、一部の保護者から、拉致問題の報道が大きすぎて、この時期にはようせん、やめた方がいいと思う、だから緊急で先生らを呼んで会議しようや、とう声があがったんです。夜の遅い時間からでしたけれども、やはりそれぞれ今回の拉致問題を受けて自分の思っていることを話しました。

でね、私は、この時期やからね、やっぱりやった方がええんちゃうかなあと言いました。集うことで、集まることで、みんな力づけにもなるし、元気にもなれると、一人一人が持っている不安や心配はあるけれども、だからこそやった方がええんちゃうかなあと、毎年やっている「ヤユヘ」という形にならなくても、食事会、プルコギ(焼肉)の会になっても、やった方がええという自分の思いを、精一杯言いました。私以外の参加していた教員もほとんど私と同じ意見やったんです。でもね、状況はきびしかったですねえ。

親からは、名指しする形で、「辰野先生は日本人やんか。危険にあうのは私たち朝鮮人の子どもなんやで。依羅小学校の辰野先生が、なんで違う学校の子どもを守ってくれるんや。ほんまに危ないのは、危険にあうのは朝鮮人の子どもたちなんや、先生たちとちがうんやで。」と、突きつけられるのです。

結局、私たち日本人側の教師が、どれだけ、やりたい、やろうやと声をあげても、保護者の思いや考えにはかなわへんし、会自体、よしやろう、ということにはならなかったので、ヤユヘは、この時から今まで、いつ開催されるかわからない形で延期ということになりました。それから一年半経っていますが、まだ行われていません。

子どもたちの中では、毎年ヤユヘに参加していた子どももいますから、何でヤユヘがなくなったのかということを子どもにどう伝えるか、学校からは手紙が出ますが、こういう話しあいがあって延期することになったという具体的なことは書いていなかったので、4人の子どもと4人の保護者に、ヤユヘが中止になった理由を伝えなあかん、というので、これまた悩んだんですよ。これについては、やはり、ありのままに言っていいところと、オブラートに包まなあかんところとがあるから、どう言ったらいいかと、また悩んだのです。

「あんなあ、毎年やってるヤユヘがなあ、ちょっと、延期になってん。何時になるかわかれへんけど、先生らは、できる限りできるようにするから、あなたたちも、またヤユヘがあったら、いっしょに行こうなあ」という話しか、正直、できませんでした。でも、それを一人一人伝えると、4人とも、「うん、わかったわ、先生」と案外あっさりしていたのです。それで、家庭訪問や電話で保護者にも「ヤユヘがなくなりました、延期になりました」と言ったのです。すると保護者の方も、「あっ、そうですか、わかりました」という返事だったのです。でもね、私自身、やっぱりどうしても、納得できなかったんです。何で納得できないかと考えました。4人の答えがあっさりしすぎていたことか、保護者の返事がそうだったのか、自分がヤユヘしたかったのにできなかったからなのか、何かすっきりしなかった。何かもやもやしたものを引きずったまま一週問過ごしていたんです。

偶然、我孫子の商店街で親の会の代表と久しぶりにお会いしました。会わないときは1年も全然会わないのに、もやもやしたものを引きずっていた時に偶然会えたのです。代表のオモニのことを知っている人は分かると思いますが、オモニと私が会うと、もう、しゃべりまくります。お互い、わーと手を取り合うと、そのまますぐ喫茶店へ行って、延々と自分の言いたいことだけを二人とも話するんです。なんとか落ち着いて、今回のヤユヘの延期の経過をもう一回考え直したら、オモニはね、こう言うたんです。「やっぱり、せなあかん。するべきや」、私にそうはっきり言ったんです。偶々24日の我孫子地区民族親の会には欠席だった代表が、仕事の都合もあって欠席だったのですが、色々聞いていくと、親の会の中でも、やめたほうがいい、という意見と、絶対やらなあかんという意見とに分かれたそうなんです。ただ、やらなあかんと言ったオモニは2人だったそうです。それで、多数のやめたほうがいいという意見に押されて、できなかったということを、正直に話してくれました。

代表やもう一人の人が、私らと同じ、やったほうがいいという考えだったということを聞いた時に、すーっと、それまでもやもやしていたものが消えていったのが、自分の中でもわかりました。それと同時に、一つのことに気づいたのです。

何に気づいたかというと言うと、ヤユヘをしたらいいと言ったオモニ2人とも、依羅小学校を卒業して、我孫子南中学校あるいは我孫子中学校に進学している保護者なんです。どういう事かと言うと、民族学級がきちんと校内に位置付いて、子どもたちが入学してきたら当たり前のように民族学級が学校の中にある、それと同時に、民族講師がチマチョゴリ、パジチョゴリ着て校内を歩く、当たり前のことなのですが、そうした民族教育が校内で日常として感じられる環境で育った子どもたちの、保護者だったのです。

反対に、民族学級がなく、本名を名のることもなく、出会うこともないという学校で育った子どもたちのお家の人は、そうなるのかな、という、自分の中で一つの整理ができて、わかったように思いました。

何で、「野遊会」が延期になったか、私なりに考えると、民族学級が校内に位置づいて、民族講師と子どもたちがつながって、民族教育の必要性を感じられる環境にある人と何もない環境で育った人とでは、何か問題が起こった時の反応、対応が違ってくるってことが見えてきたのです。そんなふうに感じました。

 

D学級の中ですること

我孫子地区の親の会の話し合いで見えてきたことは、親の会だけの問題ではない、ということでした。民族学級が位置付いている学校のおかあちゃんたちは、ヤユヘ、この時期やからやるねん、それに対して、民族学級のない学校は、やっぱり守ってくれへん、困るねん、子どもらが危険に会うからいややねん、というように、我孫子地域の大人の問題だけではないんだなというふうにも見えてきました。

言い換えれば、私の目の前にいてる31組の学級の子どもたちにも、そのまま返ってくる問題で、依羅小学校700人近い子どもたち全体にも返ってくることやな、というふうに気づきました。

だから、豊かな出会いを、させればさせるほど、子どもたちは正しい視点でものごとを見ていく、今寝てるから起さんでもええねん、大きなったら分かっていくねん、ということで日本人教師が一歩引いてしまったら、子どもたちは「朝鮮」に「民族」に出会われへんし、マスコミという巨大な手の中に呑まれていくんと違うかな、と思います。

だから、次の日から、課題が見えてきて、これに向かってがんばっていこう、という新たな決心をしました。今まで以上に学級の子どもたちに「民族」と出会える機会を増やし、決して、押し付けにならないように「豊かな出会い」の場を設定し続けました。

民族学級に結集している4人には、自分たちのこと今以上にもっともっと民族のことをアピールしてほしいと思ったから、週に一回の民族学級の活動やけれども、民族学級のことを学級で話するのを、週に一回ではなく、日に一回ということにしました。学級遊びの中では、「いち、にい、さん」と言うのを「いる、いー、さむ」(日本語の「いち、に、さん」にあたる)とか「はな、とぅる、せ(日本語の「ひとつ、ふたつ、みっつ」にあたる)」とかの民族の言葉も入れました。「お楽しみ会したいねん、せんせ、何かええ劇がないかなあ」と言われたときには、「ちょっと待って、探してみるわ」と言って、民族の劇の台本を渡したり、ほんとにしつこいようやけど、やっぱり、豊かな出会いということを私自身が意識しながら、学級と民族学級をつなぐ話をし続けました。

子どもたちには、学級の中だけでやっていてもあかんのやで、自分たちが、隣のクラスにも横のつながりで発信しなさいよ、ということを言いました。私からは、学年の打ち合わせの時に、今日は誰々がこんなことを言った、こんな取り組みをしよう、ということで、日本人教師の間での発信をしました。

3月には民族学級発表会がありました。民族学級の4人の子どもたちが、がんばっているけど、どないする、というふうに、4人を支えるまわりの子どもたちに声をかけようと思いました。すると、子どもたちの方から、「先生、4人も行っているやんか、依羅小学校で4人も行っているのはうちのクラスだけやで、こら、なんとかせなあかん」という声があがったので、この機会を逃さずに、またいろいろ話し合いを始めました。

今日「つむぐ」という学級通信を持ってきていますので、またその内容をご覧になって下さい。

 

E1年間を終えて2

20034月、私自身は4年生に持ち上がりたいという気持ちはあったのですが、学校の事情もあって、担任にはなりませんでした。それでも、学級の子どもたちは、新しい担任の先生といっしょに、3年生の時以上に民族に出会って、心を傾けているということを感じます。

4年生になって、本名で行っていたキム・チャンホが「もう本名はしんどいねん、前の通名にもどすねん」と学級で言った時には、学級の子どもたちが、授業中もかまわずに、「せんせ、ちょっと聞いて! チャンホがなあ、鈴木まさひろに変えるて言うてるで!」ほんとにね、入れ替わり立ち替わり報告に来ました。その時に、私が子どもたちに、「それを聞いてどう思うの?」と聞くと、「あかんと思う。チャンホは朝鮮人やもん。」「朝鮮人は、チャンホで行った方がいいと思うねん」と言っていましたので、「そうやねえ、結果的に、チャンホがまさひろになっても、あなたたちが、チャンホと呼び続けることが大事なんやで。チャンホが、あっ、おれの名前はキム・チャンホやって思えるように、絶対にキム・チャンホって呼び続けることが大事なんやで」という風に話しました。それで1年間、チャンホは自分のプリントに鈴木まさひろと名前を書くけれども、学級の子どもたちも、担任も、ほかの学級の子どもも、みんなキム・チャンホと呼び続けているんです。

発表会は終わりましたけれども、その前になるとみんな民族学級のある金曜日には、必ず私にちょっかいを出しに来るんです。それは、アッカンベーしたり、子どものかわいいことなのですけれども、ああ、この子ら4人つながって私に「民族学級がんばっているで」と言いに来てくれてるんやなあという風に、自分自身では思っています。

先日もチャンホが、私のところに来て、「今日なあ、おれが民族学級行くまで待っといてほしいねん」とぶっきらぼうに一言言うんです。「わかった、わかった、待ってるよ」とインターネットで調べた韓国のことを、「おれこんなん調べてるねん」と、来て見せてくれるのです。そのまわりには、やっぱりミナがいてミシルもショージもおるんですよ。また、その子たちをとりまく日本人の子どもたちも、私が一年生の担当になった時に、「せんせ、去年みたいになあ、一年生の子どもにも、もっとわかるように民族学級のこと、ちゃんと伝えるんやで、民族のこと言うのんやめるなよ」と話しに来てくれます。

やっぱり、私は、現場の日本人の教師として、「民族学級がなんであるんや」「誰が結集してんねん」「どんなことをしてるねん」ということを言い続けること、また、出会いということを意識して私たちがこれでもかというくらい話していくことが大事やなあと思っています。

本来であれば、日本人と朝鮮人の真の意味での共生ということを実践で話したかったのですけれども、正直、共生という視点での実践は少なかったように自分でも反省していますが、まず、自分の隣、自分の目の前にいるキム・チャンホやソン・ミナなど、朝鮮人の友だち、朝鮮につながる友だちのことを知らせることが大事かなあ、と思いましたので、出会い、ということを意識した取り組みを一年間続けました。

今各地で行われている交流会や、各学校で展開している民族学級のことを、もっともっと伝えることで広がって行くし、広がることで仲間も増えていくんやろうなあと、私自身昨年一年間を見てきて思っています。

 来年度は、もう転勤の年ですので、新しい職場で、日本人と朝鮮人の共生という視点をふんだんに入れた取り組みを展開していきたいと思っています。またいっしょに考えて行けたらなあと思います。ありがとうございました。

『むくげ』176号2004.4.8より

     
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