『少年キム 4.24の時』(金里博著) との出会い
     

川口祥子(池田市立池田中学校嘱託)
 

《はじめに》

  去る6月10日、金里博著『少年キム 4・24の時』が宇多出版企画から刊行された。6月11、12の両日、府外教研究集会で初めて販売され、売れ行きはなかなか好調の様子であった。本を手に取った読者に好感を持って受け入れていただいたのは、表紙に、過去と未来をしっかり見据えているかのような意思的な少年の横顔がアップされた姿と、帯布に「《ボクたちの国で起きたこと》 《「学校を閉鎖しろ!」突然言われたら・・・キミならどうする?》 《1948年・阪神教育闘争に立ち上がった少年を描いた渾身の児童文学》」という簡潔な言葉が記されていたからかもしれないが、スムーズに世に迎えていただいたことは幸せといえる。刊行にいささか携わった私には嬉しいの一言につきる。本書が刊行するにいたったことを、以下、若干記しておきたいと思う。
 
 《池田の石橋にも朝鮮人学校があった》

 著者の金里博さんにはじめてお会いしたのは、1999年5月10日、池田市役所で行なわれた教育委員会主催の教職員研修会に講師として来られた時であった。在日朝鮮人教育の諸問題について話すために来られたのであったが、私はその最初の一声に思わず息を飲んだ。「今私の立っている池田市のこの場所はなつかしいというか、なんとも複雑な思いのする場所です。なぜならば50年余り前、学校閉鎖に反対する抗議行動に参加して、高圧の水道ポンプの水を浴びせられて吹き飛ばされた記憶がある場所だからです」という言葉であった。
 戦後、各地に500以上も作られた朝鮮人学校のひとつが、現在、池田市石橋の朝鮮総連豊能支部のあるところに存在し、それが阪神教育闘争の後になくなってしまったということは漠然と知ってはいたが、実際そこで学んだ人に出会ったのはこの時がはじめてであった。その日の講演内容も印象深いものであったが、石橋にあった朝鮮人学校についてもっと詳しく知りたいと思い、2000年2月9日に再び池田に来ていただき、市外教(池田市在日外国人教育研究協議会)の学習会で話をしていただいた。会場は、当時の学校に一番近い市立石橋南小学校に設定した。金里博さんは記憶しておられる限りのことをレジュメにまとめてきてくださりそれも貴重な資料となっている。
 その後、在日韓国文人協会の季刊誌『    (大地)』23号(1998年)から29号(2002年)にかけて長編少年少女小説「四・二四の時」(最初はこの題名であった)が連載されていることを知り読む機会を得た。豊能朝鮮小学校が閉鎖された後、転入することになった蛍池小学校での教師と日本人の友だちとの出会いと軋轢を軸に、日本と朝鮮との関係を登場人物にわかりやすく語らせている。物語としても読み応えがあると同時に、私が長年勤務してきた池田市の石橋に朝鮮人学校が存在したという事実の重みが強く迫ってきた。これまでの三十余年の間に接してきた何人かの在日朝鮮人の生徒たちの存在とどこかでかかわりがあると思えるからである。なぜならその学校がなくなった後、やむを得ず多くの子どもが日本の公立学校に転入することになり(そのまま不就学になった人も多いという)そしてその次の世代も多くは日本の学校で学ばざるを得ず、今は孫の世代の多くがやはり日本の小・中学校で学んでいるからだ。 
 なぜ日本の学校に在日朝鮮人の子どもたちが在籍するのかを考えるとき、たどり着くところが1948年の「阪神教育闘争」である。「阪神教育闘争」は戦後の在日朝鮮人教育の原点であり、そこから出発して考えることによって、現在、日本の学校で学ぶ在日外国人の子どもに対して何をしなければならないか、また日本の子どもに対してどのような教育をおこなわなければならないかが明らかになってくる。
 また本書に登場する田崎千鶴という女性教員の存在が強い印象を与える。病気の担任の後任として主人公・金東明と接することになり、日本の学校に対する彼の強い不信感を少しずつ溶かしていく人物である。この教員は実在する方で、99年の研修会の席でも「田崎先生との出会いは自分の人生を左右するできごとであった」と金里博さんは語っておられた。最も配慮を必要とする子どもにしっかり目を注ぎ、その原因を理解しようとすることは教職員にとって必須の条件であるが、生活することさえ困難な戦後まもなくの時期に田崎先生のような方がおられたということは、後の私たちにとってもほっと胸をなでおろす思いである。しかしながら生活も安定し、戦後の民主教育・人権教育が定着したはずの中で育ち、教職員となった私たちにとって「田崎先生は教職員として当然の姿」と言いたいところであるが残念ながらそう言い切れる現状ではない。教員のなかまと「田崎先生という教師像」について語り合ってみたいという思いもつのってきた。

《「ケグリの会」「母国語教室」「ハングル教室」の取り組みの中で》

 地域に埋もれかけていた「豊能朝鮮小学校」の存在を明らかにしなければならないという思いが一層強まったのは、その存在が単に過去の歴史のひとこまではなく、現在私たちが行おうとしている教育活動と密接につながっていることがわかってきたからであった。
 これまで民族学級のなかった池田市で、はじめて在日朝鮮人の子どもが同胞のなかまと出会い、自分たちの民族の文化にふれることのできる場がうまれたのは、1989年1月に池教組主催で行われた「第一回在日朝鮮人親子と教職員のつどい」であった。その後毎年二回開かれ、1993年市外教が発足した翌年からは市外教の主催で「池田オリニモイム」としてひきつがれた。しかし年二回では少なすぎると考える保護者や教員が月一回「ケグリの会」を発足させた。そこに池教組の援助も加わって1997年9月からソンセンニム(姜孝裕〔カンヒョユ〕さん・守口二中民族講師)が来てくださるようになり、市外教の活動のひとつと位置づいていった。(池田での取り組みについては本誌170号に「私と在日朝鮮人教育」という題で書かせてもらっている)。毎月一回土曜日または日曜日に市内の神田小学校の部屋をお借りして、市内数校から小中学生が集まり、楽器やことばを中心として朝鮮半島の文化を学んできた。後にはこのような取り組みを経験して成長された池田中学校卒業生の柳敬修〔ユキョンス〕さんもソンセンニムとなってきてくださっている。
 しかし、一番の願いは在日朝鮮人の子どもたちが通っている「自分の学校」で、休日ではなく学校の授業が行われる「普通の日」に、自分たちの文化を学ぶ時間を持つことである。それとともに、すべての児童・生徒が国際理解の授業等を通して、異なる文化をもつなかまについての理解を深めていってほしいという願いもある。
 このような状況の中で、呉服小学校では2001年度に起こった差別事象を契機に翌2002年度から民族講師を招き、朝鮮半島にルーツをもつ子どもたちが集う場「母国語教室」を発足させた。また放課後に「母国語教室」の開かれる木曜日の第5限は全学年が生活・総合の時間とし、各学年が年2〜3回は民族講師とともに国際理解教育を行なっている。初年度は隔週であった「母国語教室」は、2003年度からは週1回となり、3学期には「アジアンマンスリー」としてフィリピンにルーツをもつ友だちと集う場ももたれた。この取り組みは、2004年1月に日教組第53次教育研究全国集会でも報告され、高い評価を得た。3年目となる2004年度もさらに充実した計画のもと、朝鮮半島にルーツをもつ子どもたち9名が「母国語教室」に集い、活動を始めている。(呉服小の取り組みについては本誌175号に詳しく紹介されている。)
 さらに、呉服小学校の子どもたちが進学する池田中学校では、小学校での学びを引き継ぐために、2003年度7月から朝鮮文化研究会(特別クラブ)の中に「ハングル教室」を発足させ全校生徒に参加を呼びかけた。二つの目標をかかげており、その一つは、月2回、ハングルや朝鮮半島の文化を学ぶことによって朝鮮半島にルーツをもつ子どもの民族的自覚を養うこと、もう一つは隣国の文化に関心を持つことによって、ルーツをもつ友だちを理解できるなかまが育つことである。昨年度は15名の参加者であったが今年度はその倍をこえる数の参加希望者があった。
 両校の活動は、「ケグリの会」を指導されている民族講師の姜孝裕さんと柳敬修さんに引き続きお力を貸していただくことによってなりたっている。池田市教育委員会もこの活動の意義を評価し、さまざまな支援がなされているが、講師の身分保障や他校への普及活動などさらなる支援をお願いしたいと思う。すなわち、異なる文化をもつ子どもがひとりでも在籍するならば、どの学校においても「母国語教室」のような、自らのルーツにつながる文化を学ぶ場所を設ける必要があるのである。そのような状況に至れば「ケグリの会」は発展的解消をすることができるのだが・・・。
 
 《おわりに》

 著者は「あとがき」のなかで次のように述べている。「この作品の主題は朝鮮・韓国と日本、朝鮮人・韓国人と日本人との相互理解と真実の友愛の積み重ねと、強い絆の実現のためにはどうすべきかとの問いと初歩的な、しかし今もなお求め続けられている答えでありましょう」と。このことは物語の舞台である阪神教育闘争の頃の金東明、山口守、新勝、田崎先生たちの出会いの中から読み取ることができる。しかしそれだけではなく、時代は半世紀も下るが、現在すすめられている「ケグリの会」「母国語教室」「ハングル教室」などの取り組みの中にもその答のいくつかを汲み取ることができる。このような取り組みを深め、広げることによって、歴史的に深い関係のある朝鮮半島の人々はもちろん、新たに渡日した他の国の人々にとっても、共に生きることのできる、暮らしやすい場所を作っていかねばならないと考える。
 本を作るにあたって川瀬俊治さんに出会えたことはこの上ない幸せであった。本作りの専門家であるとともに朝鮮に関する著書・翻訳書も多く、金里博さんが畏友と呼んでおられる川瀬さんのお力添えがあったからこそこの書が生まれることができたといえよう。
 この本を多くの人々に読んでいただきたいと願うとともに、さらに「相互理解と真実の友愛の積み重ね、強い絆の実現」のためのさまざまな動きが起こり広がることを切に願ってやまない。また私自身もそのような動きの中に身をおき、又ささやかであっても動きをおこすひとりでありたいと思っている。
              

(2004.06.20)
                                                        

     
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