いま、なぜ、”フィールドワーク”か?
       "歴史・人権・共生のまち" 平野・阿倍野ウォークのはじめに


                           

宮木謙吉(北巽小学校)

人権教育とフィールドワーク

 1998年の地域人推委の発足を契機として、フィールドワーク学習が大阪市内の仲間によって広く取り組まれることとなった。「差別の現実から深く学び」、「人権と共生」をテーマとしたフィールドワークは、被差別部落を起点として、被差別の「痛み」の共有と「解放」への意欲を高める地域実践の中から生まれ、その実践の輪は「周辺」地域へと広がり、その実践の「思い」と手法は市内各地域の実践に共有されることとなった。「猪飼野」フィールドワークや「沖縄」フィールドワークは、その典型であった。大阪市内にあって、人権を疎外された人たちが多く居住する地域のフィールドワーク学習が、互いに結び合い歴史性や社会性を共有できたことは、解放教育実践の一つの成果であった。地域を基盤とした「人権と共生」の学びの体系化を志向し、地域・現場の人権教育を推進・支援することを目的とした人推委活動にとって、フィールドワーク学習の重視は当初からの懸案でもあった。また、解放教育の一環としてフィールドワークが、それまで各地域で「点的に」取り組まれてきた経過もあって、地域における人権教育ネットワークの結び目の役割を担う人推委活動にとって、それを「面的に」継承・発展させることは当然の実践課題でもあった。その営みは、所謂「部落を含まない」学校・地域において、「人権と共生」をテーマとして、地域に根ざした人権教育実践をどう組み立てるのかという課題意識と通底していた。
 今回のフィールドワークのフィールドは、平野区と阿倍野区である。端的に言えば、平野フィールドワークは、解放教育実践の中で生まれたフィールドワークであり、阿倍野フィールドワークは、人推委を中心とした人権教育のネットワークの中で生まれたフィールドワークである。特に、阿倍野フィールドワークについては、「人権と共生」をテーマとして、何度も現地をまわって、地域の人権課題を探り、また地域史の中の人権につながる事実や課題の掘り起こしも行った。
 70・80年代の学校・地域での地道な解放教育実践(人権教育といった言葉はまだ現場では一般的ではなかった)に参画した実践者のニーズとして、被差別に生きる子ども達の実態の学びを求めるなかから、「生きた学力」「生きた教材」「生きた教室」が必然的に生まれた。
 1990年代に入って、解放教育実践は、国際的な人権教育の潮流とリンクし、さらに多文化共生教育や開発教育の中で生まれた学習方法をはじめとした新たな実践手法をとりいれ、それらのエキスを学びとりながら豊かな彩りを放ち始めることとなった。「共に学びあう」という"双方向の教育"の発想や手法が、教育現場の切実なテーマとして実践者に受け入れられていく時期であった。
 この過程の中で、それまで各学校・地域で取り組まれていたフィールドワーク学習が、互いに結びあい、教育実践としての歴史性や社会性を得ることとなった。それは、人権文化あふれる町づくりや自らのアイデンティティの確立を求めて、保育・教育・労働・生活の確保に向けた人権運動を市内の各地域で推進してきた各団体や組織が、学校を学びの場としている教職員や子ども達、保護者にとって、地域社会を構成するかけがえのない構成員として、隣人として、"目に見える存在"となった時期と符号している。「地域に開かれた学校」が、社会的に求められることとなったのも、このような地域と学校との距離が縮まり、これまで幾度となく指摘されてきた地域の中での子育ての大切さが共有されたことが大きい。これは、地域・保護者・学校の一体となった教育の推進が、大阪市内の各地域・学校で"当然のこと"として受け入けれられることとなったという、解放教育の歴史が切り拓いてきた実践の生きた現実でもあった。教育の内側からの文字通りの"解放教育"の実践がもたらすことのできたその内実の社会的な顕在化でもあった。
 さらに、解放教育実践の流れは、「教育改革」という戦後教育の"地殻変動"の地下水脈となって、さらに改革土壌を潤す"命の水"として「生きる力」を育てる総合学習実践に新鮮でかつ活力に満ちた潤いをもたらすこととなった。
 地域を直接の学びの場としたフィールドワーク学習は、このような解放教育実践が創造してきた地域連携実践や教育内容創造実践のなかで、人権学習の一領域としての位置を担うことができるようになった。総合学習においても、積極的に取り入れられ、今日では、学校教育にのみならず社会教育の場においても積極的に取り組まれるようになっている。


大阪市南部の平野区・阿倍野区をフィールドとして

 平野エリアは、その源をたどれば、古代にあって、朝鮮半島からの百済系渡来人である坂上氏をリーダーとした開拓地であった。平野の地名も、初代の坂上広野麿の名前からきているといわれる。中世に至っては堺に並ぶ自治交易都市として周囲に環濠を二重に配置して栄え、江戸期には町衆による自治的な町政のもと、交通・経済の要衝として、特に河内木綿の集積地として発展した。しかし、その対極において、環濠の外側、平野川と遊水池に挟まれた河川敷中州地帯に居住を余儀なくされた平野部落を形成していた。環濠に守られた平野本郷を守るために、平野部落を文字通りの「沈め石」としての役割を担わせていたといっても過言ではない。
 近代に入っても、部落差別の実態は放置されたが、部落大衆による部落解放運動によって、奪われ続けてきた市民的な諸権利の回復が行われたのは1970年代に入ってからであった。爾来、平野部落は人権文化あふれた町づくりの発信地として、人権文化の発光原として人権と共生の光を平野区全域に放ってやまない。
 平野区は、平野はもとより加美、喜連、瓜破、長吉長原と、全域にわたって古代においては朝鮮半島からの渡来人や渡来文化と密接な関係をもった地域で、各地域とも独自の文化圏を形成していた。今回は、平野・加美エリアを中心にフィールドワークを行う。
 古墳時代から飛鳥・奈良時代にかけて、日本列島の政治・経済・文化の歴史は、大陸と朝鮮半島の影響を受けながら、奈良盆地と大阪平野を中心に展開した。難波はその一方の大阪平野の中心に位置し、海路・陸路交通の幹線の発着点であり分岐点であった。その幹線の要衝に平野・阿倍野エリアは位置していた。
 阿倍野エリアは、中世の陰陽師であった安倍晴明を生み出した古代の豪族阿倍(安倍)氏の名前を区名にもち、古代から上町台地の付け根部分に形成された歴史の町であった。近世から近代にかけては、静かな農村地帯として、大阪市域に野菜を供給していた。明治に入り、農村地帯に市街化の波が押し寄せ宅地化もすすむが、第5回内国勧業博覧会を契機として交通ターミナルの原型が造られる。「教育適地」とされたことから、数多くの教育施設が建設され「文教の町」として独自の色合いを発する。
 その「文教の町」阿倍野は、やがて多くの越境生を受けいれることとなった。交通の利便さもあって、阿倍野はさながら「越境生の町」としての一面をその歴史の中に刻み込むこととなった。この越境が部落差別に基づく差別であり、「文教の町」の対極に、教育を奪われた被差別部落の子どもたちや保護者を生み出すこととなった。この越境が部落差別であり、行政の怠慢による差別行政の結果によるものであることに、わたし達が気付くことができたのは、1960年代の後半、部落解放運動に参画した保護者や子どもたちによる鋭い提起の中からであった。わたし達自らが主体的に自覚したことからではなかったことは、大阪の教育の歴史が教えるところであり、「人権教育」と学校との距離がどれほど開いていたかを物語る厳然たる事実であった。部落差別に依拠し、あまつさえそれを助長していた「文教の町」阿倍野が、真にその"負の歴史"を克服して、21世紀の「人権と共生の町」として、文字通りの「文教の町」としての輝きを発信できるかどうかの岐路に立っていることも、今回のフィールドワークの熱い焦点の一つとしたい。

 人権と共生の21世紀を先取りした町づくりが、平野郷の歴史と文化ともリンクしながら、平野区全域の中ですすめられている平野エリア。そして、「文教の町」としての歩みを更に一歩進めて、"人権文化ゾーン"の形成に向けて"産みの苦しみ"の途上にある阿倍野エリア。午前と午後にわたって平野・阿倍野区の人権文化ウォークを、平野小学校を集合・出発点として実施したい。

     
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