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私と在日朝鮮人教育(連載第3回)
むくげ開くとき(3)

”動かないと、動かない”
                    

法蔵美智子(大阪市教組副委員長)

 民族学級存続の闘いを通して、私は現場の実践を保障する「運動組織」の必要性を痛感した。

 民族講師が定年をむかえ、後任講師をどうするかという、差し迫った課題を抱える民族学級設置校の五校ですらつながらないもどかしさ。土曜日の放課後、ボランティアで民族学級に取り組むソンセンニムの身分保障、それを推進する体制のあり方―等々、課題や取り組みをつなぎ発展させる運動体が必要だ。

 当時八十年代の東部支部は、
「民族教育は、朝鮮人同胞の手によってなされるのが当然であり、日本人教員が朝鮮人の民族的自覚や誇りを高める民族教育を進めることはできない。だから、日本人教師の任務は、朝鮮人の子どもを民族学校の門まで連れて行くことだ」―のスタンスに立っているかに見えた。

 しかし、生野・東成区の学校には、多数の在日朝鮮人の子どもたちが在籍している。東成区では校長による差別事件が生じるなど在日朝鮮人の子どもたちをとりまく環境は深刻だ。

 もちろん、目の前の子どもたちをどうするかにこたえ、ソンセンニムとともにこつこつ取り組む教職員がいた。また、推進校で学んだことを東部の地でも、と、にんげん実践を進める教職員がいた。少数ではあるが、教育実践を保障する運動体の構築をめざし、”東部強める会”に集まる教職員がおり、私もその一員であった。

 しかしながらここの取り組みがつながっているわけではなかった。それどころか、ともすれば”教育実践派”と”労働条件派”といった構図の中で、年月を経るほどに、それが定着したものとなりつつあった。

 私は、この現状を打開するには、市外教・市同教と組合の連携をより密にし、それぞれに所属する教職員を一つにつなげ、先ず、課題を共有しあうことだと思った。

 労働者の課題と、目の前の子どもたちの教育実践を対立させるのではなく、のびのびと実践できる条件保障に取り組む運動体を作ること、これこそが東部支部が掲げる「団結と統一」への道ではないか―。
 いてもたってもおられぬ気持ちにかられていた時、市同教の専門委員で、東部支部担当の市川正昭さんに出逢った。市川さんは、西今里中学校に赴任された経験があり、東部の在日朝鮮人教育を確立することは大阪市の教育をも変えると確信、各校の実践をつなぐ”ニュース”を発行してはどうかと、アドバイスをして下さった。

 ニュースを出そう、その中で民族学級の実践や、全朝教・考える会の取り組みを紹介しよう、学校を訪問し、組合員からの発信を全組合員に届けることを”つなぐ”の第一歩にしよう。

 編集、取材、印字などは強める会メンバーが交代で担当し、印刷には、市川さんや稲富さんまでもが手伝って下さった。

 刷り上がったばかりのニュースを配り歩く時のトキメキが今でも鮮やかによみがえる。

 当時、支部役員でも、専門部役員でもない私が、分会を訪問し、ニュースを配ることは、結構勇気のいることでった。その学校に一人でも知り合いがいる場合は、教室をノックできた。しかし全く窓口がなく、圧倒的に現全教系が多い職場、特に中学校への訪問は、職員室の扉を開ける手がにぶる。まさに自分との闘いであった。

 ―こんなこともあった。
 「あんた、何してんの。ちょっとここにすわり!」

 分責(分会責任者)不在のため管理職に断り、職員室の机上にニュースをまく私の背に、鋭い声。振り返ると、東部支部の女性部役員である。

 「あんたとこの分会、”わりばし”も購入せんと、こんなもん、よう配ってるなあ!」

 (その頃、支部女性部は、女性部が支持する市長候補の名前にちなみ、”わりばし”を各分会に購入するように指示し、カンパ活動を行っていた。)

 彼女の指は、配布したばかりのニュースをつまみ上げ、ごみ箱にヒラリと捨てた。

 (破られないで良かった!)と、内心私は胸をなでおろし、ごみ箱から回収、職員室で黙々と(聞こえないふりをして)、仕事を続ける人たちに向かって、わざと明るい声で叫ぶ。

 「ありがとうございました。来月もよろしく!」

 自転車のペダルを踏みながら、待てよと思い返す。こんなリアクションを受けるということは、たった一枚のニュースといえども、案外、一石を投じているのかもしれない。”動かなければ、動かない”。『運動』はその字のごとく、情報を運び、連帯のメッセージを届け、仲間がいることを知らせることから始まるのだろう。

―元気を出そう!

 それからもさまざまなことがあった。が、”それでもつなぐ、だからこそつなぐ”を命題に、ペダルを踏み続けた。

 (この女性部役員は、数年前に定年退職された。私もまた今年度、卒業する。)

 ニュースを発行して一年が経過する頃には、「強める会」への主席案内が五十人をこえた。その人たちは、市外教、考える会、市同教と連携しながら実践している人たちであり、また、「五十人をこえる」ということは、四三分会の東部にとって、一分会に一人の窓口ができたことになる―嬉しかった。

 労働戦線統一問題が浮上していた八九年の初め、山本修子さん(当時、本部教文部長。現大阪市会議員)から、私は突然市教組本部の執行委員として立候補するよう要請される。

 目の前にいる子どもたちのを何とかしたい…との思いにかられ動き始めた私にとって、「本部」は大きな距離があった。東部でがんばる仲間と力を合わせ、”つなぐ”という命題に向かってようやく歩き始めたところである。私は断り続けた。しかし、(だから、なのかもしれない)修子さんの次の一言で、私は立候補を決意した。

 「東部支部の場合、本部にいる方が支部にかかわれるのではないか。」

 そして、

「本部では『在日朝鮮人教育』を担当してもらおうと思う。」   

(つづく)
     
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