新しいものを創るために

               

大阪市立長橋小学校(在日外国人教育主担)
                         亀川育寛(かめかわ・やすひろ)

 

 7月1日に行われた全朝教大阪シンポジウム〜「ウリマルを返せ!」から32年〜に参加した。来年度の民族合宿宿泊施設抽選会があったので、30分ほど遅れて参加することになってしまった。

 会場に入ると、すでに太田先生のお話が始まっていた。太田先生のことは「民族学級を創ったお方」と聞いていたので、少し緊張していた。席についてレジメを見て驚いた。私が勝手に思い込んでいただけだったのかも知れないが、今回のシンポジウムは、大阪市の……というか、民族学級とは……みたいなお話だと思っていた。しかし、レジメには「長橋小学校がめざしたもの」と書いてあり、お話の中心が長橋小学校になっていたからだ。他の学校の職員の方々や府外教の方が来ておられるこのシンポジウムで、お話の中心になっている長橋小学校に所属していること、しかも在朝主担を務めていることに、改めてというか、更なるプレッシャーを感じた。

 私が会場に入ったときは、丁度、長橋小学校に民族学級を創ろうとなさっていたころのお話だった。私は、民族学級を創ろうとしているころは、子どもたちやアボヂ・オモニみんながみんな民族学級を望んでいたと思っていた。創る側の苦労としては、やはり、今までになかったものを創るわけだから、とてもエネルギーのいることだったんだろうなあ、くらいにしか思っていなかった。ところが、当時も、今と同じように、「民族についての学習はしたくないです」という家庭もあったというお話だった。当時も今と同じように、民族について関わろうとしない家庭にどのようにして民族教育について理解してもらうかというような悩みも抱えていたのである。当時の先輩方が、民族学級を創る悩み、理解してもらう悩み、両方抱えておられたことを初めて知った。

 当時、太田先生は青年部で、今の私とほとんど変わらない年で、民族学級を創るために、民族教育を確立するために、寝る間も惜しんで走り回っておられたそうだ。それを聞いて、すごい情熱だなと思った。今の自分は楽しているなとも感じた。なぜなら、私が教員になったときにはもうすでに、民族学級・民族教育の場が用意されていたからだ。自分なりにがんばっていたつもりだったが、それは先輩方が創り上げてきた土壌の中だけのことで、お話を聞いているうちに、新しいものを創り出そうなんて考えてもいない自分に気がついた。

 これからの課題として、大阪の民族学級の取り組みを全国へ向けて広げていかなければならないということが挙げられていた。その第一歩として、民族学級が開設された長橋小学校から発信していかなければならないと言われた。正直、今の自分には何をどうやって発信していけばいいのか分からない。今、頭に浮かぶのは、自分が何年か先に転勤する時期が来たときに、長橋で見たり感じたり学んだりしたことを、転勤先に広めよう!くらいのことだ。

 これからよく考えて、何をどうやって発信していくか考えないといけない。そして、いつまでも先輩方が創り上げた土壌の中だけで動くのではなく、そこを基盤に、新しいものを創り上げていきたい。

     
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