青丘笑話(第三回つづき)

「朝鮮の脅威」−その歴史的由来

印藤 和寛

 最近は朝鮮に関する多様な専門的な本が出版されるようになった。若い研究者たちによって普通の外国として隣国を研究することが、いよいよ加速されてきている。うれしいことだ。中でも木村幹さんの新著『朝鮮半島をどう見るか』(集英社新書)は評判がよく、我が家には家族がそれぞれ別々に買ってきた本が何冊もある。最近、すっかりご無沙汰の梅田の本屋で、たまたま幹さんの論文が載った別の本を見て、立ち読みして帰ってきたが(本の名も何も忘れてしまい、すみません)、そこには、1920年代の日本で「朝鮮人に対する警戒、脅威」の心理がどのようにして生じたかが議論されていた。1919年朝鮮3.1運動の全民衆的な立ち上がりがそうした感情を生み出した、というのが一応の答えであったように思う。確かにそうであるには違いない。しかし、朝鮮独立運動が、平和的民衆運動の側面を越えて、1920年代初めに具体的にどのような軍事的局面を迎えていたかについては、これまであまり認識されてこなかったように思う(カンさんも別の本で「武装独立闘争はすぐに挫折した」と述べている)。特に、ロシア革命との関係では、朝鮮独立運動と切り離して、共産主義の脅威一般が強調されてきた嫌いはなかっただろうか。(「治安維持法」が標的としたものについては、朝鮮独立運動がその最大のものとして認識されてはきているが。)

 1920年末の北間島(プッカンド)のことは、現在のイラク、ファルージャを考えてみればわかりやすいかもしれない。イラクに侵入したあの強大なアメリカ占領軍の横暴と残虐を非難することもできる。しかし、実は、最も重要な(しかし表面的なマスコミなどの情報では隠れている)事柄は、むしろ敗北しつつあるのは泥沼に引きずり込まれたアメリカ軍の方である、というもう一つの視点である。昨今の日本を含む「テロの脅威」という「お笑い」の真実の根源がこの事実であることは、普通に理解されるだろう(真に中立的な立場からすれば、アメリカの諸都市も、ロンドンも、そして東京も、ファルージャのようにされて、文句が言える筋合いではない、と言うこともできるのだから)。1923年の帝都東京はまさしくそうであった。

 192010月に朝鮮北部国境豆満江対岸の中国領安図県に集結し、以後シベリアに移動した大韓義勇軍(朝鮮独立軍)数千の軍事的脅威がその時期の大日本帝国の最大の問題であったことは、これまでほとんど理解されてこなかった。日本帝国軍は当時まで「極東の憲兵」として君臨し、蘆溝橋事件後の中国八路軍やノモンハンのソ連・モンゴル軍によって挫折を味わうまで、文字通り「無敵の皇軍」を誇ったが、実際にはその最初の敗北をシベリアや間島で蒙っていたのである。それは、正規の「国家」間の戦争ではない「討伐」行動であり、軍事行動の中での種々の野蛮さ(「法(戦時国際法)」によらずに敵と見なした人間を「処分」すること)はそこから説明できる。日本帝国は、それらとの対決を通じて、そうした対決を内包する新たな国家体制を構築する方向へと進んでいくことになる。

 今回は、19201923年の「朝鮮独立軍」と「日本帝国」の関係の本質に迫る「おたく」の歴史談義の続きを紹介する。私たち「日本人」からみればこの「おたく」はお笑いだろう。しかし歴史の女神の真実から見れば、もしかしたら、お笑いは私たち「日本人」のほうかもしれないのである。

(3)「第二次朝鮮独立戦争
        (1919〜1922)」の疑問点

疑問点の整理

 「朝鮮独立戦争」の192010月以降の局面(前回の話で、10月の青山里戦闘の後、統合された大韓民国臨時政府「大韓義勇軍」を正式名称とする朝鮮独立軍部隊は、年末に安図県から北へ移動し、翌19211月ごろ密山からロシア領イマンへ越境、4月頃に次々とスヴォボードヌイの兵営に到着している)について、いくつかの疑問は残る。問題点を整理してみよう。

 (1) 9月に北路軍政署(総裁徐一、司令官金佐鎮)が汪清県を出発して西に向かって行軍を開始したのは、何を目的としたものか。日本軍の「間島出兵」を予想した退避行動であったのか、それとも祖国進攻の独立戦争への出撃であったのか。具体的な出発日時は、中国側の討伐行動との関係、中国側の要請によって決ったように見えるけれども。

  (2) 同じ頃、李相龍の率いる西路軍政署軍が安図県の軍営に来着していたのは何を目的にしていたものか。独立戦争への出撃を企図したものであったのか。

  (3) もしそうだとすれば、10月の日本軍の出兵は、独立戦争開始の直前にかろうじて間に合ったぎりぎりのタイミングだったことになる。裏を返せば、日本帝国側の危機は、実はそこまで深かった。

 この点については、従来、研究者の中にも「間島出兵」について「琿春事件への報復」と見る説もあり、また、「日本帝国の侵略、膨張政策の本質の現れ」とする見方もあった。しかし、それらの説には、当時の日本帝国の危機、朝鮮独立戦争の潜在的な力についてのリアルな認識が不足しているような気もする。

 (4) 青山里戦闘のあと、安図県に集結した独立軍は、大韓民国臨時政府大韓義勇軍として統合されたが、その後なぜ、南への祖国進攻作戦を放棄したのか。(これを聞いていて、後の1944年、日本帝国栗田艦隊がフィリピンのレイテ湾突入を中止して回頭退却した時のことを思い出した。)そこには、最初から、ロシア領の朝鮮人部隊との合同を目指した戦略があったのだろうか。

  (5) 大韓義勇軍が北方へ移動し、密山に再結集したのは、どのような決定によるものか。また、そこからロシア領イマンへの越境は、どのような決定によるものか。

 客観的に見れば、白頭山麓の安図に集結してきた時点で、大韓義勇軍は、後背地を失ったまま(全滅を覚悟して)本国に突入するか、あるいは、いったん退いて新しい根拠地を求めるか、二つの選択肢があった。また、ロシア領への越境については、当時のコミンテルンと臨時政府を結ぶ中心的存在であった李東輝の立場を考えれば、その判断が働いたであろうことが推測される。

 さらにまた、192010月に上海で大杉栄らを招いて開かれた極東社会主義者会議の真の狙いも、同様に、推測できるのである(大杉らがこれをどこまで理解していたかはわからないが、「(李東輝の)部下李春熟(元仮政府軍務次長)を窃に入京せしめ…在京鮮人学生及労働者を中心として社会運動を起こさむとし」「大杉派社会主義者は上海李東輝派共産党員と連繋せしむるに至れり」(『在日朝鮮人関係資料集成』第一巻)と治安担当者は認識していたのであり、19239月に日本帝国はこのことで大杉を懲罰処分したことになる。東京での朝鮮人虐殺と甘粕事件は本当は根本的に関連している可能性がある)。

李相龍の詩に見る独立軍の状況

  ここでは手がかりとして、李相龍『石洲遺稿』のこの時期の漢詩をいくつか見てみよう。李は西路軍政署督辧であり義勇軍を率いて西間島柳河県三源浦から安図県に来ていた。

○青山一捷後、我軍散亡して殆ど盡く

  青山の捷報耳初めは醒む    一戦能く数百の兵を殲すも

  善からざる指揮は司令の責    終に健卒をして散ること星の如からしむ

(青山里戦闘で金佐鎮や洪範図の独立軍が日本帝国軍を撃破した後、その独立軍自体が四散してほとんど実体が消滅していた。戦闘に勝利した知らせは最初驚きと感動をもたらし、一戦でよく数百の日本軍を撃滅したのであったが、その後司令官金佐鎮の責任に帰すべき指揮の誤りによって、独立軍の兵士たちは散り散りになってしまったのである。)

○聞くならく、敵魁北京に交渉して十三県自由行軍を許さるるを得、中国自らも三万の兵を出して脇より我軍を攻むと

    仮道已に愚なるに復た兵を籍る 華人の酣夢幾時にか醒めん

    明らかに知る漲溢する韓僑の血 他日横流して北京に入らんことを

(得られた情報によると、日本帝国は中国北京政府と交渉して中国側国境地域十三県での軍事行動の自由を許され、また、中国自体も兵力三万を出動させて脇より我が独立軍を攻撃しようとしているとのことである。自国領に外国の日本帝国軍を入らせるだけでも愚かであるのに、また、自国の軍隊をこのような目的に出動させるとは、中国人の甘い目論見は何時破綻することだろう。確実なことは、流れあふれた韓国移住民の血潮が、やがて流れを転じて北京に押し寄せるだろうということである。)

○敵兵東西より挟進し、安図県知事屡(しばしば)我軍に退避を請う。已むを得ずして暫く東崗に移る

  県官敵兵の強きを憂い懼れ   固く軍を移して別処に蔵(かく)れんことを請う

  実力まだ完からず時未だ到らざれば 暫く退きて東崗に向かうを妨げず

(日本帝国軍は東西から挟み撃ちにするように進んできており、安図県の知事からわが独立軍に対して退避するようにと繰り返し要請があった。この状況でやむを得ず、独立軍は東崗に移動したのである。中国の県の長官は日本帝国軍の強さを心配して恐れ、独立軍に対してぜひ別の処に隠れるようにと要請がなされた。独立軍の実力もまだ完全とは言えず、また時機が到来したと言うこともできない点を考慮すれば、しばらく決戦をさけて退避して東崗に向かうこともやむを得ないだろう。)

 青山里戦闘の後、北路軍政署軍は分散して、すぐ次の作戦を遂行できる状況ではなかった。また、厳冬期も迫っていた。決戦を唱える洪範図に対して金佐鎮自身が「当分日本軍ノ攻勢ヲ回避スルコトニ決議」する中で動揺し、その部隊は次々と解散していた。金佐鎮は結局戦線を離脱して汪清県方面に戻って行った。

 中国側の討伐行動によって、独立軍は中国領内の根拠地を失った。それまでの独立軍の行動は、少なくとも中国側の同情と黙認の下になしえたものであったからである。そして西路軍政署軍もまた、安図県の根拠地から中国側の要請によって退避移動を開始した。朝鮮国内への進攻、ではなく、朝鮮国境とは反対の方向へ。―これらのことが、上の漢詩からわかる。

  みすず書房『現代史資料2728(「朝鮮34」)』からは、日本帝国側の公式記録、密偵による報告調査記録を通して、金佐鎮らの動揺、食糧が不足して絶食を重ねる独立軍、冬の大樹林の中で寒さと飢えの中で次々と行き倒れになった多くの朝鮮人兵士の様子をうかがい知ることができる。

  しかし、前にも記した日本の朝鮮軍司令官の陸軍大臣宛1025日電報は、次のように述べている。

 「我兵出動以来既ニ賊ノ安図方向ニ逃ルルモノ多ク今後討伐ノ進捗ニ伴ヒ之等敗残ノ賊モ亦逐次安図ニ逃避シ該地方ニ於テ勢力ノ恢復ヲ計リ茲ニ再ヒ禍根ヲ扶殖セントスル企図ハ諸種ノ報告ニ依リ明ニシテ将来間島ノミナラス鴨緑江沿岸地方ニモ脅威スルニ至ルヤ必セリ」

 朝鮮の茂山対岸中国領安図県に集結した朝鮮独立軍の脅威は、日本側にこのように認識されていた。安図県は、ワシントンの率いるアメリカ独立軍が困難な越冬を行ったアパラチア山中のようになったかもしれなかった。しかし、そこは、中国領であって朝鮮ではなかった。

(4)「自由市惨変」
   
  ―1921年シベリアの大韓義勇軍

北京の軍事統一籌備会、19214

 1921427日、中国北京の西直門外三牌子花園で、シベリア、満州、ハワイ、国内の十団体の代表が集まって「軍事統一籌備会」が開催された。各団体の軍事的結合によって、独立軍の国内進攻が目指されていた。主要議題は、1、大韓義勇軍の指揮権の問題 2、臨時政府大統領李承晩が国際連盟に委任統治を請願した問題 3、同国務総理李東輝が労農ソビエト政府より受け取った公金の不正使用問題、であった。

 同年24日の時点でまだ移動行軍中の間島部隊1400を含めて、シベリア各地や北間島で日本軍と戦ってきた5000余の朝鮮人武装部隊は、その頃にはスヴォボードヌイ(自由市、旧アレクセーエフ)の兵営に集結を完了していたであろう。

 しかし北京の「軍事統一籌備会」は、結局紛糾を重ねたあげく、臨時政府不信任と新たな国民代表会議の招集を決議して無期停会に入り、政治的統一に失敗した。

スヴォボードヌイ(自由市)19216

 622日、スヴォボードヌイの兵営にあった独立軍(大韓義勇軍)に対して、武装解除とロシア側の正規軍である極東共和国政府人民革命軍への編入が指示された。627日夜より28日にかけて、これを拒否した独立軍部隊と兵営を包囲したロシア側守備隊第29連隊との間で戦闘となり、その後、いったん武装解除された1500名は、投獄された幹部を除いて1480名がイルクーツクの赤軍に編入され、呉夏黙(呉河黙)の指揮下に入った。それより先、3月中旬にコミンテルンより派遣されたグルジア人のカランダラシヴィーリが「臨時高麗革命軍政議会議長兼合同民族連隊総司令官」となり、呉夏黙が副司令官に就任していたのである。

 独立軍は戦死272、溺死(自決とする本もある)31、行方不明250余、捕虜97(917とする本もある)の犠牲を出しつつ、脱出逃走した。李範?は泳いで脱出に成功し、李青天は捕虜となって、後に上海臨時政府からの抗議により釈放されたという。この事件を、韓国では、「自由市惨変」と呼ぶ。

 ロシア側ではこの事件を次のように描いている。

 「6月、極東地方の一部とイルクーツクの朝鮮人部隊はスヴァボードヌイに集結し、極東共和国人民革命軍の正規部隊に改編された。ここに集まった諸部隊は、朝鮮人幹部学校指揮人員の200人、中国中隊の200人、国際共産主義連隊の歩兵900人、トンゴジスキー騎兵連隊の騎兵240人、サハリンスキー朝鮮部落の歩兵1500人などである。エヌ・アー・カランドラシヴィリはこれら全部隊の指揮に当たるとともに、イルクーツク朝鮮部隊革命軍事会議の議長を兼ねた。」

 「朝鮮人幹部学校指揮人員の200人」には、北間島汪清県十里坪の武官学校生徒の内から、あるいは西間島の新興武官学校生徒の内からシベリアへと歩き続けた人々が入っている。金佐鎮のように元来シベリアへは移動せず、青山里戦闘の後、安図県から北間島に戻った人の他、西間島から安図県を経て移動した李青天や、北間島から移動してきた李範?ら自由市を脱出した人々の他に、そのままシベリアにとどまって赤軍の一員として祖国進攻の日を待った人々もいたわけである。

 後に、192211月、沿海州からの日本軍の撤兵、白軍の敗退によって、「赤軍朝鮮及び支那ノ国境ニ接近シ来リ而シテ赤軍ノ先頭ハ鮮人ノ部隊ニシテ既ニ慶興対岸数里ノ”ノウキエフスキー”ニハ約二千ノ赤色鮮人入リ込ミ之等共産軍ノ名ヲ以テ国事ヲナシツツアル」状況が生まれた(『朝鮮民族運動史研究3』P126-127 CA・ツィンキンの引用、P196朝鮮総督発陸軍大臣宛電報1922.11.4)。労農ロシア赤軍と一体化した「朝鮮独立軍」は朝鮮国境豆満江対岸に迫った。しかし、もちろん、彼らは国境を越えることはなかった。「ポーランド戦争」(赤軍のポーランド進撃19206月〜10月)は極東では起こらなかったのである。

その後

 分散して間島(中国領)に戻った独立軍兵士たちも、沿海州(ソ連領)にとどまった朝鮮人兵士たちも、やがてその多くが帰農したであろう。こうして、後退を重ねつつ国内進攻の独立戦争のために再起を期した独立軍部隊(正式には「大韓義勇隊(軍)」)はいったん消滅した。結局、「朝鮮独立軍」はこの地上のどこにも存在の場がなかった。「朝鮮人」はそもそもこの地上に存在しなかった。それでは、一体、「朝鮮人」も「朝鮮独立軍」も、それは単に「夢ミ居タル」ものに過ぎなかったのだろうか。

 李東輝は、自由市事変を知って、「如何ニ同胞トハ言ヒナカラ到底其ノ儘ニ放置スル能ハサルヲ以テ…全露共産党ノ罪ヲ糾弾シ担当責任者ヲ処分スルト共ニ全露派ハ之ヲ高麗共産党派ニ於テ統一シ…」とする一縷の希望を持ってロシア領での活動を続けたが、その立場からする苦衷は察するに余りある。

  その後間島の北端に近い額穆を本拠地として再結集した独立軍は、そこを中心に再建が図られた。もう高齢であった李相龍は元来シベリアへは移動せず、そこに残っていた。日本軍も、朝鮮独立軍に対して「殲滅的打撃ヲ与フル能ハス其中心的人物ト目スヘキモノノ大部ハ之ヲ逸シタルカ如シ」(間島出兵史)と正確に認識していた。192210月から11月にかけて、日本軍の最終的撤兵に伴って、ロシア領内沿海州の白軍と避難民約7800人が中国領に入り、厳寒の中、各地で惨憺たる様相を呈したが、その中で、間島の朝鮮人は早くも日本の間島出兵―「庚申惨変」から立ち直り始めた。

 しかし、19221015日から上海で開催され、19231月から3月にかけて論議が続けられた「大韓民国」国民代表会議は、その大同団結を目指す大目的にもかかわらず、臨時政府をめぐる「改造派」と「創造派」との対立によって遂に一致を見ることなく終始した。李承晩の後継者を決定して臨時政府を改造継続しようとする安昌浩ら「改造派」と、臨時政府の正統性を否認し新しく独立政権を創造しようとする「新大韓」主筆申采浩らの「創造派」とが対立した。日本側からも「明確ナル証拠物件ナキモ朝鮮独立宣伝機関誌トシテ独立新聞ナル名称ノ新聞及新大韓ノ二紙ヲ有ス」とされているが、この対立は「新大韓事件」と呼ばれる両派の衝突をひき起こすに至っている(この事件については「おたく」もこれ以上説明せず、未詳のままである)。

(5)第二次朝鮮独立戦争
(1919〜1922)の本質

背後にある問題

 1921年以後の上海臨時政府の混乱と、その根源となった独立軍をめぐる「自由市惨変」の背後にある問題について、ここでまとめておきたい。

 ウラジオストク郊外の新韓村を中心とするロシア沿海州こそは朝鮮独立運動の根拠地として「金城湯池」とされた土地であった。崔才亨と共に大韓国民議会を代表していた李東輝は、臨政軍務総長(後、国務総理)としてここを地盤にしていた。彼らは1918年にコミンテルンより派遣されたクレコルノーブを通じて労農ソビエト政権と結びつきを強め、大韓社会党(1918年ハバロフスク)ついで高麗共産党(1921年上海)を結成し、洪範図に率いられた大韓独立軍がこの李東輝直下の武装部隊として沿海州と間島を往来しつつ活動を強めており、ソビエト政権の援助の下に独立戦争を遂行しようとしていた。そのことは日本側も知っていた。

 1921年初めにロシア領(極東共和国)に入った独立軍は臨政の指導下にあり、その総司令官は空席であった。本来であれば、国務総理李東輝自身がその位置に就いてソビエト政権の援助の下に独立戦争が開始されることが予定されていたであろう。

 しかし、政治と軍事が統合され、統一した独立軍が成立しようとしたその瞬間、統一は再び瓦解し霧散した。そこには上海の臨時政府側と現地独立軍各々の問題がある。また、根本的には、その間が地理的に遠かったこともあろう。

シベリアの独立軍をめぐる「軍権闘争」
―祖国の独立かロシアの革命か

 まず、独立軍現地の問題を見てみよう。

 振り返ってみると、1910年代前半、ロシア当局の政策もあって沿海州在住朝鮮人の「ロシア化」(ロシア国籍取得)が進行していた。また、革命と干渉戦争の過程で、ロシア人と肩を並べる朝鮮人パルチザンとしては、「祖国の独立」と共に、あるいはむしろ、「朝鮮人も平等に参加する社会主義ロシアの建設」への志向が生まれていったのも当然であった。

 1919年当時、各地に分散したパルチザン部隊は乱戦の中で互いに十分な連絡もなく、他方、ウラジオストクやニコリスクを中心とする大韓国民議会はあくまで臨時政府を通して祖国を志向し、コミンテルン宣伝部長は当然後者と結びついていた。ところが、そのグレコルノーブが白軍によって捕らえられ、19198月にオムスクで処刑されてしまう。代わって極東に派遣されてきたコミンテルン代表のスミヤスキーは、今度は、ボルシェビキ党組織を通じて、朝鮮人パルチザン「自由大隊」を指揮する金哲黙、呉夏黙らと結びつきを強める。ちょうどその頃、臨政李東輝の韓人社会党―コミンテルンが19194月に結成されるとその加盟団体となっていた―からモスクワに派遣されていた朴鎮淳が宣伝費400万ルーブリを持ってイルクーツクに帰着した。その資金は臨政の独立戦争準備にとっても待望されていたものであったろう。ところが、スミヤスキーと金らは、その資金を朴から受け取って―李東輝や朴はこれを「奪い取られた」と言う。あるいは、少なくともその一部はコミンテルンへの抗議の結果李東輝に戻された?(『在日朝鮮人関係資料集成』第一巻)―それを資金にして10月にイルクーツクで全露韓人共産党を結成する。この全露韓人共産党は、李東輝を、単に民族運動にに共産主義を利用するものと見なしており、その中心はロシア国籍の朝鮮人が占めていた。(日本帝国からは、こうした国籍に関係なく、すべての朝鮮人は日本帝国臣民と見なされたのであったが。)

 李東輝はその間違い―最初は単なる「間違い」とも考えられたであろう―を正すべく、再度モスクワへ朴を派遣する。決戦の時は迫っていた。その朴が待望の「40万円」を持ってチタから、今度は用心してわざわざモンゴルを越え、やっと上海にたどり着いたのは、先にも述べたように、1920年末のことであった。だから、臨政国務総理李東輝は中露国境にあった独立軍に対して、当然労農ソビエト政府を信頼してよいと指示したであろうし、上海でも、翌年1月には高麗共産党(上海派)を組織して態勢を整えようとしたのである。

 けれども、李東輝は上海臨政内部での対立から結局124日に国務総理を辞任する。

 他方、ロシア領内の韓人社会党・大韓国民議会と、共産党(ボルシェビキ)遠東部韓人部との間での朝鮮人武装部隊をめぐる暗闘はさらに深まり、ロシア領に入った大韓義勇軍に関して、コミンテルンやモスクワとの窓口の正統性をめぐって李東輝派(上海派)と呉夏黙派(イルクーツク派)の間で「軍権闘争」が闘われたのである。19215月、上海派に対抗してロシア領内で第1回韓人共産主義者大会がもたれ、イルクーツク派の高麗共産党が成立した。529日には上海でも崔昌植が反李東輝派の高麗青年会を結成、そこに呂運亨も加わり、朝鮮から来た青年たち―朴憲永のような―を結集した。彼らとイルクーツク派との仲介役は元世勲が果たしていた。

 一方、周囲の環境は1920年以降激変していた。朝鮮独立運動の根絶に狙いを定めた日本帝国軍は、4月には前述のように新韓村を壊滅させ、崔才亨らを殺害した。その結果、李東輝派の地盤はロシア領内では失われ、代わって成立した極東共和国の中では、党組織に直結する呉夏黙派が主導権を持つことになる。3月にはニコラエフスクで、4月にはハバロフスクで、パルチザン部隊と日本軍の間の激戦が展開されていた。715日日本軍と極東共和国との間に停戦協定が締結され、ここで日本軍は朝鮮独立運動との対決に関して後顧の憂いを取り除いたことになる。反面、これ以降ロシア領内でも、朝鮮人の武装組織は、極東共和国の政府組織内でしか存続しえなくなっていたことは明らかである。

 朝鮮独立軍である「大韓義勇軍」が1921年初めにロシア領に入った後、日本では原敬内閣がシベリアからの撤兵方針を決定、ただし期限は明示されなかった。これは、シベリア駐兵の目的が何であったかを想起すれば、朝鮮独立軍の処置に関して極東共和国に加えた圧力であったことがわかる。既に北京で日本と極東共和国の間の漁業交渉も始まっていた。6月の自由市事変によって朝鮮独立軍は武装解除されたが、その後も日本側は、「撤兵後最モ脅威ヲ感スルハ朝鮮ニ対スル宣伝陰謀及之ニ伴フ朝鮮内外ノ騒擾トス」と見ていた(1921723日参謀本部「撤兵後ニ於ケル西伯利政情ノ予想及其帝国ニ及ホスヘキ影響ニ就テ」『シベリア出兵』P566)。

 9月、間島地域各団体の代表者名で次のような「声討文」が発せられている。

 「紀元四二五四年六月二十八日露領黒龍州自由市ニ於テ大韓義勇軍中露兵ト戦ヒタル結果死者二百七十二名、溺死者三十一、行衛不明二百五十余名捕虜九百十七名ヲ出スノ大惨劇ヲ演ジタ……同大韓義勇軍ニ参加セル団体ハ「サハラン軍隊、青龍軍隊、伊万軍隊(露領)、光復団、軍政署、義軍府、都督府、血誠団(中領)」等ニシテ同隊参謀部員ハ洪範図、安武、徐一、曹c、李青天、李縺A蔡英、崔振東、呉夏黙等十五名テアッタ 然ルニ露領ニ居住スル一部ノ韓人ノ自治機関タル韓族会ハ全大韓民議会ト改称シテソノ首脳者文昌範、金夏錫、元世勲ハ自己勢力発揮ノ為メ大韓義勇隊ノ存在ヲ邪魔トシ彼等ノ陰謀ニヨリ露兵ハ斯ノ如キ挙ニ出テ……」(『朝鮮民族運動年鑑』)

 ここに示されているのは、独立軍内部のロシア在住朝鮮人部隊や極東共和国政府に対する批判を極力避けて、一部の「陰謀」に原因を求めようとする心理である。また、北上した独立軍各部隊が、ロシア領内を転戦していた朝鮮人パルチザン部隊と合同していることもたしかに確認できる。

 自由市事変を知った李東輝は、朴鎮淳と共に沿海州からモスクワへ向かった。ソビエト政府に訴えて事態の打開を図ろうとしたのである。しかし、イルクーツク派はその先回りをしていた。上海大韓国民団団長呂運亨もまたコミンテルン資金不正使用問題を理由に李東輝と対立し、イルクーツク派に属するようになる。

 19221月、モスクワで極東勤労者大会が開催された。この大会は、コミンテルン第2回大会におけるレーニンの「植民地、半植民地に関するテーゼ」に基づいて設定され、その「基本的傾向は、極東の唯一の資本主義工業国日本の革命にたいする強い期待と、朝鮮・中国の民族解放運動のこれへの依存性、ないし連帯性の強調にあった」(岩村登志夫)とされる。これには、上海派、イルクーツク派双方から計52人の朝鮮人が出席し、片山潜らの日本人156人(これに出席し帰国した人々が1922年に東京で創設された日本共産党、コミンテルン日本支部創設の契機となったことはよく知られている。加藤哲郎によれば、その「総務幹事」は荒畑寒村であった)を人数で圧倒したが、議長には呂運亨が選出され、上海派の主導権は認められなかった。同年11月、コミンテルンの指示により、両派高麗共産党の連合大会が開催されたが、これも結局決裂して失敗に終わった。12月、コミンテルンは改めて両派共産党の解体を通告し、一国一党原則による唯一朝鮮共産党組織結成に向けて努力するよう指令した。李東輝の一縷の望みは絶ち切られた。

  こうして、ロシア領に入った朝鮮独立軍は極東共和国に生殺与奪の権を握られることになった。日本帝国軍が朝鮮独立運動の制圧を第一目的にして駐兵しており、極東共和国、ひいてはソビエト政権にこれと対決する意思がないとすれば、事態は明白であろう。19218月には極東共和国と日本帝国との国交回復交渉が大連で始まり、朝鮮独立軍にとっては、極東共和国の傘下に入るか、さもなければ、ロシア領を立ち去ることしか道は残されていなかったことになる。

 これが一つである。

上海臨時政府内部の対立
―武装闘争か外交交渉か

 もう一つ、上海臨時政府の問題がある。

 李東輝が臨政国務総理を辞任するに際しての1921124日の「宣布文」は、その辞任の理由をこう述べている。

 「自分ノ刷新議案ヲ政務会議ニ提出シタルニ一言ノ審議モナク揉滅シタル故ニ自分ノ実力ヲ以テハコノ難関ヲ切リ抜ケ難シ」

 李承晩らと対立したというこの辞任の真の理由、「刷新議案」の内容は未詳であるが、臨時政府総体が高麗共産党と一体化して、ロシア領からの祖国進攻の独立戦争を遂行する政治軍事的指導体制を確立しようとしたことが推測される。先の金佐鎮の動揺もこうした臨政の中の即時決戦を避けようとする「準備論」の影響によるものだろう。従って、結局こうした臨政総体による独立戦争遂行―「臨時政府のロシア領への移転」として言われることも多い―は成功せず、李東輝がまさに始まりつつあった独立戦争を直接指揮しようとして、資金を持ってロシア領(イマン)へ移ったのだ、と考えられる。前に述べたように、新聞「東亜日報」は317日付けで「三千人の排日団、太平溝で過激派と連絡」と報じ、「ハバロフスク方面に集結した排日朝鮮人3000名が露国過激派約4万名と連絡して、密山県大甸子地方に軍政署や他の諸団体を召集、一方イマン地方では仮政府の国務総理李東輝が武器の買い入れに奔走している」と述べていた。

 その一方で、西間島・北間島代表者は114日に、李光洙が主筆(社長)を務める「独立新聞」87号論説に対して、「独立運動をおとしめ、多数の生命を犠牲とした各団体を批評し、在米国民会にのみ依頼しようとする」ものとして、その責任を問うていた。その後、李光洙は4月に朝鮮へ帰国し、5月には総督府の斡旋を受けて「東亜日報」社に月給300円で入社した。「独立新聞」は続刊不能となった。

 517日、臨時大統領李承晩は教書を臨時議政院に送り、6月には「太平洋会議」に向けた働きかけのために上海を去って米国領ハワイへ行ってしまう。その教書には次のようにある。

 「臨時議政院ノ招電ニヨリ去年(1920年)ノ暮ニ上海ニ来着シ国務院ノ内部結束ヲ計リタル処意外ニモ閣員中辞職スル者多クソノ整理ニ時間ヲ消費ソタリ、内部及外交モ成績良好ナルヲ以テ一層諸氏ノ協同セラレンコトヲ乞フ」

 427日に北京の軍事統一籌備会からは上海臨時議政院にあてて、「三日以内に議政院を解消すべし」と要求する決議文が送られてきていた。また5月には、額穆に集結した呂準、金東三ら西間島地域の指導者たちから、「政府改造」「委任統治請願主唱者の退去」を勧告し、それが容れられぬ時は臨時政府から脱退することを内容とする決議が到来していた。

 シベリアの独立軍、軍事組織を指導すべき政治指導部は、ついに十分確立されなかったように見える。これが、もう一つの、上海臨時政府の問題である。

 結局、李東輝は、高麗共産党が上海臨時政府の中で少数派となって、独立戦争遂行のための臨時政府の政治指導体制を確立することができず、さらにロシア領で、コミンテルン・極東共和国の朝鮮人共産主義者の中でも主導権を持つことができないまま、独立戦争続行に挫折したことになる。その結果、朝鮮独立軍はソ連(ロシア)領と中国領に分断され、以後それが「共産主義」と「民族主義」の対立として固定化された。間島地域の共産主義者の運動は、やがてまた一から、民族主義者との苛烈な党派闘争を伴いつつ、さらにはソウル派(上海派)と火曜派(イルクーツク派)間の激烈な分派闘争の中で、日本帝国の弾圧下に進められる。「第三次朝鮮独立戦争」は、従って、一国一党原則による中国共産党組織の中でこうした党派闘争を克服した朝鮮人によってなされ、最後には再びほぼ同じ道を通って、ソ連領ハバロフスクへ移動するのであり、しかもその頃には、ソ連領に残った沿海州の朝鮮人は根こそぎ中央アジアへ強制移住させられていたのである。

「朝鮮独立戦争」はなぜ教科書にないのか

 こうして、先の問題点、疑問に対して答えるのに、今のところ確実な材料がない。この「第二次朝鮮独立戦争」を担った政治意思の中枢部分の「史料」は残らなかった。そこには大きな黒い穴があいている。(ソ連領にとどまって1928年にシベリアで死去し、1943年まで存命であった洪範図ともども、現在でもその独立運動指導者、共産主義者としての名誉を保持している―『朝鮮知識手冊』(遼寧民族出版社、1985年)にはそうした記述がある―李東輝は、回想録を残す余裕などなかったであろうか、「おたく」も知らないらしい。現在のロシアでそのようなものに興味を持つ人などいないのかもしれないが。)しかし、だからと言って、古代史の場合になされるように、語らず、従ってすべて無かったことにしてしまうのでは、そもそも何が問題であったのかの根本を隠蔽してしまうことになる。

 1920年から1922年にかけての日本帝国にとっての最重要の問題は国民に全く知らされず、逆に、権力の指嗾とジャーナリズムの迎合による「過激派」「不逞鮮人」の盲動と尼港、琿春での邦人虐殺のイメージだけが「大正デモクラシー」の民衆の中に受け入れられていった。その観念を受け継いだわが歴史家たちの中では、一方的な日本帝国軍の残虐横暴と異国に流浪する朝鮮人の被害の悲惨さ―ロシア人についてはなおさら語られることも少ないが―を強調するのがまだしも最良の部類であった。それも確かに一面ではある。植民地支配に伴う迷惑行為、とはそうしたものかもしれない。しかし、そこには、朝鮮(韓国)側がこう言っている、という内容だけがあって、日本人の立場からの「独立戦争」の真の理解は生まれる余地がない。

 数千人規模の独立軍による白頭山山麓からの祖国進攻作戦、同様に、シベリアの朝鮮パルチザン部隊を加えたより大規模な独立軍による沿海州からの祖国進攻作戦は、こうしていったん挫折した。それは、観念領域で日本帝国が彼ら朝鮮独立軍をすべて帝国臣民、日本人と見なし、また、中国、ロシアそれぞれからは各々自国に引きつけて見ていたにしても(スターリン時代に中央アジアへ強制追放されたソ連領内沿海州の朝鮮人は、「日本人」に通じる者と見なされた)、物質的、客観的に壮大な「独立戦争」の内実を持ったものであったが、結果として日本帝国軍との全面対決を実現することはできず、その限りで、朝鮮側も日本側も、各々の観念的建前を守ったのである。朝鮮(韓国)側の「青山里大捷(勝利)」伝承がそのことを示しており、日本側の「独立軍」無視がそのことを示している。

(註)「おたく」に見せられた『朝鮮民族運動年鑑』は汚れて粗末な表紙に「マル秘 西紀一九三二年四月三十日上海仏租界大韓僑民団事務所ニ於テ押収ノ大韓民国臨時政府及同僑民団保管文献ニ依ル 朝鮮民族運動年鑑 在上海日本総領事館警察部第二課」とあり、奥付には「西紀一九四六年四月七日発行、編集兼発行所 ソウル市中区本町四丁目七 東文社書店」とあった。

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