この文章については、『むくげ』178号所収の紹介文を御覧ください。本文章は、『むくげ』には、(2)までが178号、(3)以降が179号に分割掲載されました。

『ともに生きる 摂津市ハギハッキョ20周年記念誌』より

摂津市の在日朝鮮人教育の歩み
石川 正三(摂津市鳥飼小)
◆はじめに…

 市外教の事務局にハギハッキョ第一回目からの写真や資料が保管されている。今回の編集作業をするにあたり、一通り目を通した。「みんな若いなあ」というのが第一印象であり、続いて「こんなに多くの人達が関わり築いてきたんだ」という感慨が懐かしさと合わせ起こりました。

 ハギハッキョ草創期、私達教職員の多くはまだ30歳前後と若く、エネルギーをほとばしらせながら前へ進んでいこうとしていました。「在日朝鮮人問題と向き合い自らの課題としていこう。目の前の在日を生きる親と子どもに寄り添い学び、自分たちの目ざす教育を築いていこう。」。私達のそんな思いに応えるように、親が子どもを寄こしてくれ、ハギハツキヨが始まりました。

 巣立っていった子どもは、150人。アボヂ・オモニは、100人。教職員となると、300人を越えるでしょう。ソンセンニムも20人以上の方に来ていただきました。一人一人の思いが交錯し合った暑い熱いハギハッキョの歩み…。

 ハギハッキヨ20回皆勤賞の私に「摂津の在日朝鮮人教育の歩み」を書けと指名があったので、これはもう独断で大胆に書いていくしかありません。お一人おひとりの思いを十分にすくっていけないでしょうが、ご容赦ください。

 

(1)ハギハッキョ前の草創期

 

 「私は日本人じゃありません。私は韓国人なのです。みんなの前で言いたいのです。そんなことをみんなに言うのは、つらいことだけど、ゆわれないままにしておくのは、もっともっとつらいことです。なみだが出るかもしれないけど、先生、私がみんなに言う時は、助けてください。」(1980年度小学校卒業を前にしたM子の叫び)

 

 この生活ノートを彼から見せられたのは、冬の夕方。ぼくらは毎日のように仕事帰りに喫茶店に寄って子どものことや解放教育、始めようとする在日朝鮮人教育のことを話し合っていた。

 2年後輩の彼は、新任から56年生とM子を担任し出身教師としての思いを重ねながら生活ノートで対話してきていました。急いでメモを取り、「大変なノートやなあ。これからどないしょう。まず親と話をしよう」と、父親と会いました。M子は、先生になりたいという希望を持っていて、そんなことも含めて話をしたんですが、「この腕切り落としてできるんやったら、とっくにやっとるわい」という、父親の怒りを突き付けられる会合でした。(M子はその後、第1回ハギハッキョでキャンプファイヤーのスタンツ係として参加してくれました。)

 

1981年摂津市同和教育研究会の中に在日朝鮮人教育専門部会発足》

1982年個別実践から、鳥飼小学校で全校一斉の家庭訪問へ》

 このころ鳥飼小学校だけでも二十数人の韓国・朝鮮籍の子がいました。取り組みはまだ点として始まったばかりで、学校全体の教育課題として、据えられていませんでした。 「国籍、民族、在日の経過、親の思いを聞き、こちらの考えを伝える全校一斉の家庭訪問をやろう」と提案した校内研究会で、長い沈黙の後、出身教師の彼が自らの生い立ちと抱いて来た解放への思いをM子の思いと重ねながら話しました。それを受け止めた若い教職員集団は、家の前を何度も往復しながら決心してとび込んでいきました。

 

1983年実践の広がり子どもの立ち上がり》

 このころの雰囲気や実践を伝えるために、「'84市同研活動方針」から、転載します。

 

1.在日朝鮮人教育を真の民主教育を立する基底におこう。

 在日朝鮮人教育は、「障害」児教育と並び、摂津の「同和」教育の柱です。在日朝鮮人教育は、教育のつけたし部分としてあるのではありません。教育の中心部分にあり、教育全体の質を常に問い続けるものとして、また教育の質を深めていくものとして位置づけられなければなりません。

 「差別の現実から学ぶ」という端的なことばで言い表されている「同和」教育の営みは、目の前の子ども、とりわけ、差別され疎外された状況のもとに重い生活つらい生活を背負わされている子どもにこだわり続け、寄り添い支えていこうとするところがら始まります。

 

2.在日朝鮮人教育とは、日本人教育です。

 差別される側に問題があるのではなく、差別する側に問題があるのです。その意味で、主要には日本人児童・生徒を対象にした「正しく朝鮮を教え、正しい朝鮮認識を育てる」取り組みが必要です。.

 そして、「朝鮮人問題」を日本人の問題として、また、日本の社会を変革していく課題として、一人ひとりの日本人児童・生徒がとらえていけるようにしなければなりません。

 

3.私たち教職員の側の問題として

 摂津市内の幼・小・中学校に、およそ270名の「韓国籍」f朝鮮籍」の子どもたちがいます。「帰化」した子どもたちを含めれば、優に300名は超えるでしょう。

 この子どもたちのほとんどは、いわゆる「通名」で生活しています。親がどういう思いで「通名」で登校させているのか、「通名」で学校に通い、あたかも日本人であるかのようにふるまっている朝鮮人の子どもの心にどんな思いや願いがかくされているのか、私たちにはなかなかわかりません。

 「別に問題がないからいいじゃないか」

 「親が通名を希望しているんだから、とりたてて問題にしなくてもいいだろう」

 「他の子と同じように…」と考え、日本人と同様に扱うことが私たちの中の、一般的な「差別をしない良心的な教師像」であるのではないでしょうか。

 次の文は、小学校卒業を前にしたM子の叫びです。

 

私は日本人じゃありません。私は韓国人なのです。みんなの前で言いたいのです。…(略)

 

 たとえ「問題行動」がなくても、基本的な生き方のところで重大な矛盾をかかえこんで苦悩する子どもの姿が見えていないのです。親は、通名を「希望」していません。朝鮮人として当たり前に本名を名のり、胸をはって生きたいと願っています。違いを違いとしてお互いに尊重し合い、そこから始めることが対等な人間関係をつくることなのです。

 M子の叫びは、全ての朝鮮人児童・生徒が共通に持つ思いです。私たちが、その思いをひき出し、痛みを共有しながら、朝鮮人、日本人として共に自立していくことが今、私たちに求められています。

 

4.実践報告

◆ 三年生を担任したH先生は、「集団の揺れを作り出すことが教師の仕事であるし、良心である」と言います。クラスの子どもたちの中から発せられた「韓国人アホや!」の事件を「当然起こるべくして起きた事件」としてとらえ、それをクラス集団、また、自分の出発点としていきます。

 H先生やクラス集団の支えの中で、Tさんはチマ・チョゴリを着て、一日中学校生活をおくります。「着がえたら」というH先生のことばに、「いやや。学校が終わるまで着とく」とことばを返します。クラスの中では朝鮮文化班が組織され、31人の子どもたちが生野でおこなわれた民族文化祭に合流していきます。

 

 わたしは見ていて「わあ、きれいやなあ」といっていました。またいつか大きくなったらあの人のようになりたいわあと、心の中で思いました。

 

 彼女は次に本名を射程に入れていきます。

 H先生は、「自分との闘いの中で、自分の存在を身を切りながら確認している彼女の姿から学ばなければ」と決意し、「彼女の闘いをクラス集団に返し、その質を共有させていかなければ」としめくくっています。

 

◆六年生を担任したO先生は、子どもに「生い立ちの記」を書かせます。その時、「Sさんの生い立ちと、朝鮮人であることは切っても切り離せないんだから、そのことも含めて書いてごらん」と付け加えます。

 親も「本人が書くというんだから、すきなようにさせたらよい」と承諾を与えてきます。

 

 ……昔、私の祖母は朝鮮で生まれ、6才の時日本に来て、朝鮮の男の人と結婚し、生まれてきたのが私の父です。父も結婚し、生まれてきたのが兄と私です。

 

 Sさんは、クラスの中で「生い立ちの記」を読みあげ、朝鮮人宣言をしていきます。そのことを契機に、それまでちょっとのことでメソメソしていた女の子から、「真正面から、教師や友だちを見つめる」ようになり、しっかりしてきます。O先生は、子どもの変わり目を「朝鮮人であるということで直接差別を受けてきたことはほとんどないSさんであるが、無意識のうちに負のイメージとして自分の中にあった国籍のことや家庭の事情を自分から明らかにすることを決意する中で、大きく成長してきたように思う」と、把えています。

 

(2)ハギハッキョ開催へ
       ……1984年度

 

 自分の立場を自覚し、立ち上がろうとしてきた子供達を支えきらねば。そして、これを機に摂津市内全域に在日朝鮮人教育の取り組みを広げていこう。そんな思いで第1回ハギハッキョが開催されていきました。

 

◇教職員へのハギハッキョ呼びかけ文

 この摂津の地で、韓国・朝鮮の民族文化に親しむ夏期学校に初めて取り組みます。成功を願い呼びかけ文をお届けします。

 

《第1回摂津市ハギハッキョ開催要項》

主催     市同研、在日朝鮮人教育研究部会

協力団体   市教組・市教育委員会

日時     84()1:0085()2:00まで  一泊二日間のキャンプ

場所     摂津市立鳥飼東小学校

対象の子ども 摂津市立の幼・小・中学校に在籍する韓国・朝鮮国籍をもつ子ども

目的     ・摂津市内に住む在日韓国・朝鮮人の子どもたちの交流

       ・民族の文化に親しみ、民族的自覚・誇りを高める

 

 70万、80万人ともいわれる在日朝鮮人の存在は、日本によるアジア侵略に端を発し、朝鮮解放後も「二つの朝鮮」への分断、戦後もひき続く民族差別の歴史、そういう歴史と状況のもとに、今私たちの目の前におよそ300名の在日朝鮮人の子どもたちが通学しています。

 朝鮮人として胸を張れず、誇りを奪われ本名を奪われ通名でかよわざるをえない子どもたちの姿の中に日本社会、学校の差別性が表れています。

 日本人の子どもたちにおいては、となりにすわっている子どもが朝鮮人であることも知らず、日朝友好の長い歴史も、.不幸な歴史も知らず、現在の日本社会の民族差別にも気がつかず、正しく朝鮮・朝鮮人をとらえられないという歪みをもっているのが実態です。

 1984年度指導権活動方針にあるように

@すべての子'どもに正しく朝鮮を教える

A在日朝鮮人児童・生徒の民族的自覚や誇りを高める

 ことを二つの大きな目標とした在日朝鮮人教育の深まりと広がりは、確かな歩みで前進してきました。

 まだ取り組みが開始されていない学校園。家庭訪問で朝鮮にふれずに終わっているあなた。このハギハッキョへの参加呼びかけを契機に再度家庭訪問していき、学校園でも取り組みをすすめていくための前向きな論議を是非ともお願いします。くわしい説明会を市全体の「担任者会議」というかたちで持ちますので、よろしく参加下さい。

 

◆親・子どもへの案内文

 在日韓国・朝鮮人のみなさん、こんにちは。

 摂津市内の幼・小・中学校には、およそ300名の在日韓国・朝鮮人の子どもたちが在籍しています。60名に1人の割合で在籍し府下でも高い比率です。

 その子どもたちのほとんどは、日本名で登校し日本人のようにふるまい学校生活を送っています。「自分は日本で生まれ育った韓国人、朝鮮人である」ことをきちんととらえず、生き方においてもゆらいでいる子どもたちの姿があります。

 学校現場では、

@すべての子どもに正しく韓国・朝鮮を教えよう

A韓国・朝鮮人児童生徒の民族的自覚を高めよう

この二つを大きな目標に取り組みをすすめてきました。

 チマ・チョゴリを見た子どもたちからは、素直に「きれいやなあ。着てみたいなあ」という声があがり、民話を聞いた子どもたちからは、「おもしろい話やな。そんなおもしろい話をどうやって考えたんですか」という感想があがっています。また、クラスの日本人の子どもたちに支えられて、「ぼくの名前は、……です」「私は韓国人です」「ぼくは朝鮮人です」と胸をはって生きていこうとする子どもたちの姿も生まれてきています。.

 韓国人、朝鮮人であることを一人胸に秘めてきた子どもと話してみて驚くことは、日本に住んでいる韓国人、朝鮮人は自分一人だけだと思っていることです。「摂津市内の小学校だけでも200人ほどいるんだよ」と言うと、それだけでパッと顔が明るくなります。

子どもたちのこのような実態と学校での取り組みを受け、民族の文化に親しんでいく夏期学校を開催することは、民族的自覚を高める上で大きな意義があり、孤立している子どもたちにとって大きな励ましともなります。

 保護者のみなさまの理解と協力をいただき、是非とも成功させたく思います。

 

◆参加者(子ども40人、アボジ・オモニ30人・教職員40人・民族講師3)

 

◇参加した子どもの感想

 昨日、鳥飼東小学校に来た時、いやだなあと思った。なんでかというと中学生は私とお兄ちゃんだけ。だけど時間がたつとみんなと仲よく話をしたり、遊んだりしてとっても楽しかった。こんなにも仲間がいるから気持ちがほっとした。

 言葉の学習のとき思ったことは、「私も朝鮮語ペラペラやったらなあ」。なんでかというと、バスとか電車の中でも朝鮮語ペラペラの人と大きな声でしゃべりまくるんです。

四日の日、朝鮮のおどりを見ました。私も着てみたいと思いました。幼稚園の時、チョゴリを着てたけどあまり覚えていません。ハギハッキョはいいことだと思います。毎年毎年かかさずやっていってほしいと思います。

 べつに悪いことしてないのだから、堂々と生きていきたいです。(中学1)

 

◆オモニの感想

 今年の夏休みは、とっても心に残りました。先生から、84日〜5日にかけて一泊のハギハッキョを開校するとお聞きして、私はびっくりしました。

 何人ぐらい参加するのかな、学校で泊まるなんて楽しいな、他の子どもたちに悪いなとかいろんなことを考えましたが、すごく楽しいことだな嬉しいことだなと、早く夏休みがこないかなと楽しみにしていました。

日本の学校に通学させていて心のすみに何に対してなのか漠然とした不安感をだいていました。

 日本の学校に入学させる時、本名で通学させるか通名で通学させるか悩みました。何回も話し合い、朝鮮語読みがむずかしいこと、どうして韓国・朝鮮の子が日本の学校で学んでいるのかむずかしい点があるので通名で行かせました。通名だと他の子どもたちも本人も違和感がなくていいだろうと思いました。

 それでも家では、父をアボジ、母をオモニと呼ばせ、私達は子どたちを朝鮮名で呼びました。朝鮮人であることは、オ一プンにしています。

 ある時子どもが友だちに「オモニというのは、なに?」と聞かれ、どう答えていいのかわからず、思わず「あだ名」と言って教えたと聞いて、うまいこと言ったねと笑いましたが、複雑な気持ちでした。

 大きくなるにつれ子どもの中で少しずつ他の子どもたちとの違和感が芽ばえてきているのは事実です。

 6年生と5年生は、自分達が朝鮮人で他の友だちは日本人だとはっきりとわかっています。なぜなのかは、漠然としていると思います。

 2年生の子は、自分が朝鮮人であるのはわかっていますが、友だちがどうして日本人なのかわかっていないようです。人を見れば「朝鮮の人?日本の人?」と聞いてきます。

 84日、5日のハギハッキョを体験して子どもは、変わりました。自分達と同じ朝鮮・韓国の子どもたちがたくさんいることを知り、何かを感じ自分なりに思うことがあったと思います。

 新学期から子どもの意志で本名通学をしています。多少は不安があったようですが、明るくなったような気がします。でも6年生の上の子は、まだ通名で行っています。この子が納得して自分から本名で行くと言うまでは、この子の気持ちを大事にして待つつもりです。

 夜の親の会に参加し全然知らない人達のお話を聞いてみてびっくりしました。本当に私の悩みや思っていることと同じことを話されるのですごく親近感がわきました。これからもたくさんの人達と話し合い、子どもたちの将来、私たちの将来に向けて進歩的な交流を重ねていければと願っています。今回のハギハッキョのおかげで名前と顔は知っていても同じ朝鮮・韓国人だと知らず、初めてわかって親しくつきあえるようになって嬉しく思っています。

 私は今まで日本のお友だちに自分から朝鮮人であることを言ってきました。通名で顔つきから見ればあまり日本の人達と変わらないのでわかりませんから。でも、本名で最初からつき合えば説明なんかいりません。今回のハギハッキョは、私にとってとても有意義でした。先生方には心からお礼を申し上げます。これからもよろしくお願いいたします。

私は、子どもたちを日本の学校に入学させて日本のお友だちができたのです。そのお友だちを大事にしていきたいとおもっております。

 

◇ハギハッキョの成果と今後の課題

 「民族の文化にふれよう。民族同胞の子どもたちと友だちになろう」……この二つのテーマで開催された第1回ハギハッキョは、当初のもくろみ以上の大きな成果を子どもたちに親たちに私たち教職員にもたらしました。成果は同時に、今後の課題、方向をよりはつきりと私たちに指し示すものでもありました。

 在日をどう生きるかという重い課題を背おった目の前の子どもにより添い続けようとする私たちの実践は、昨年度、鳥飼三校において「韓国人・朝鮮人宣言、本名宣言」として開花しました。

 宣言し、ひとたび立とうとした子どもが、クラス変え担任変更の中でもなおかつ立ち続けることのむずかしさ、きびしさ。そして、何としてでも支えきらねばという思いが、ハギハッキョ開催へと私たちを向かわせていきました。

 二日間にわたるハギハッキョで得たもの……。

 ハングル文字で書かれた大きな名札を胸にご子どもたちの表情・からだは、どんなにのびやかで生き生きしていたか。参加した一人一人の子どもは、はっきりと自分がどこにつながる存在であるのかを、ゆがんだあいまいな形ではなく、ひじょうにすっきりと感性が解き放たれていく感覚のもとに全身でとらえた。

 子どもたちの姿は、私たちの眼にそんなふうに映りました。

 親の参加も30名をこえ、教職員を含めた60名による夜のつどいでは、在日を生きてきた思い、わが子をハギハッキョに参加させた思いを中心に本音の部分を語ってもらいました。予定の2時間をこえ、4時間以上にわたって話し合いがおこなわれるという熱気につつまれたものでした。

 この熱気は、地域の中で孤立することを強いられてきた韓国人・朝鮮人家族が日本人教師との連帯を含めた孤立から共同性へとむかうものでした。

 まとめとして、次のことが確認されました。

・摂津市全体の親の会を定期的に開催すること。

・来年度、第2回ハギハッキョを開催することはもちろんのこと、冬期学校、春期学校も開いていこう。

・校区ごとに親の会、子ども会をつくっていこう。

 

 このような成果のもと、私たちに問われていることは、二学期以降の現場実践です。ハギハッキョの成果を学校現場の実践の中にどうひきついでいくか。ハギハッキョの中で見せてくれたあののびやかな姿。あたりまえに韓国・朝鮮人として胸をはる姿を各学校・地域の中でどうつくり出していくのかがハギハッキョの成果から問われている私たちの課題です。

 ハギハッキョを契機に自信を持って朝鮮人として胸をはり生きていこうとする子どもたちの姿があらわれてきています。

 私たちもまた、胸をはらねばなりません。日本人として、教育労働者として、人間として。「在日朝鮮人問題」を日本人問題として見すえきり、その<日本人問題性>に向かって撃ち続け、差別と抑圧の社会を変えていく闘いをもになうことが、在日を生きる人々に対する私たちの連帯の道であります。 


(3)ハギハッキョ、トンギハッキョ、民族子ども会のあゆみ

 

 第1回ハギハッキョは、ビッグバンのようなエネルギーをもち、「親と教職員の夜のつどい」で話し合われたように、その後次々と民族子ども会と親の会が誕生していく。

 ハギハッキョは、2年間サイクルで各学校を開催校とし、そのたびに民族子ども会が新たに設立されていった。

 また、トンギハッキョもはじめは学校を会場とした一日の集まりから、バスを借り切っての朝鮮ゆかりの地を訪ねる催しへと変わっていった。訪れた所は、奈良の東大寺、興福寺。京都の広隆寺、蛇塚。高槻市のタチソトンネル跡など。

 別府小学校でおこなわれた第3回ハギハッキョでは、最高の60人の子どもが参加している。また中学校を卒業したOBOGたちが参加しだしたのは、第8回目のころからだったろうか。それ以降10人程の卒業生が参加し続けている。

 20回ずっと変わらなかったことは、タごはんと昼ごはんの手作り韓国・朝鮮料理。栄養士さんにもずっと協力をいただいている。

 それと、学校での宿泊。はじめのころは暑い体育館での宿泊で、蚊と暑さと背中の痛さとのたたかいだった。途中からクーラーのきいた多目的教室に変わったが、私たちも年をとってきたので、ちょっとつらくなってきたかなあ?

 そして、親と教職員の夜のつどい。参加者は年々減って来てさみしくなってきたが、たとえ二人でも三人でも残ってくれて話すとうれしい。昨年の20周年の夜には、久しぶりに多くのアボジ・オモニ、卒業生が集った。

 卒業生たちもすっかり青年になりました。ハギハッキョで目ざしたことは、青年たちの肩にかかっています。

 あと、キャンプファイヤー。芸達者な教職員による出し物。きもだめし。プール。途中から始まり今では楽しみの一つとしてすっかりおなじみになったオリエンテーりング。

 ソンセンニムは、はじめ長橋小学校民族講師団から来ていただき、その後大阪府民族講師団からずっと来ていただいています。ソンセンニムの献身的な努力なしにハギハッキョは、ありませんでした。

 

 

(4)韓国・朝鮮の文化にふれる集いへ

 

◆基本方針の策定

 19903月に「摂津市在日外国人教育基本方針〜主として在日する韓国・朝鮮人児童・生徒の教育〜」が策定される。当時の教育委員会同和教育室長、吉野さんが中心になりまとめられたものだが、「基本方針」で、まず初めに、在日外国人教育は、「民族的偏見や差別をなくす教育である」とうたい続けて「民族に対する自覚と誇りを高める教育である」とし、「日本社会における民族的偏見や差別に負けず、主体的に進路を選択し、将来に対し展望を持つ教育である」そして、「本名を呼び、名のることのできる関係をめざした教育実践に努める」とある。本質をおさえた格調の高い基本方針である。

 「具体的施策」で、「在日韓国・朝鮮人児童・生徒に対し、民族的自覚と誇りを高め、将来に展望を持つように努める」として、「課外活動」「夏期学校」「冬期学校」が明記され、これらの活動に市の予算がつく。

 

◇子ども会に民族講師として文ソンセンニムが派遣される……1990年度から

 民族子ども会に年3回の民族講師派遣費が予算化されご文ソンセンニムに来ていただく。 それまでの子ども会は、ハギハッキョで習ったことなどを担当の教師がくり返し教えたり、ユンノリやペンイなどの遊びをしたり、話しあったりと担当教師が悪戦苦闘していたのだが、これで内容の質量とも豊富になる。そして、文ソンセンニムの情熱と人柄が、子どもを引きつけ子ども会活動が軌道に乗っでいった。

 

◆韓国・朝鮮の文化にふれる集いの開催へ……1991年度.

 トンギハツキョを7回続けてきて、もうそろそろ、日本人の側に打って出ようという気運が高まってきた。民族を明らかにした上で、日本人との関係を作り、その関係の中で韓国・朝鮮人としての自分に自信を持つ取り組み。そして、共に生きる日本人の仲間をつくっていく取り組み。それが、集い開催の目的であり動機だった。

 ところが、多くの日本人の前で民族の立場を明らかにして舞台に立てそうなところは、鳥飼東小学校のピョンアリ子ども会の一つだけ。本名を名のっている子もいるし、バギハッキヨ以来毎年、全校朝会でみんなの前に立ってきていたから。他の6校の子ども会は、いわゆる「隠れ子ども会」。全校児童にオープンになっていない。

 次に、隠れ子ども会であった別府小学校セクトンホドリ子ども会が、集いに出演し校内発表までしていくようすを記します。

 

◇別府小学校セクトンホドリ子ども会の場合

 19915月、新一年生歓迎会では、子ども会始まって以来の18名の子が参加する。それ以降も毎回1213名の子が参加する。加えて、日本人の友だちで常連の子も参加してきた。そして、文ソンセンニムの人柄と民族教育といえる指導内容が、子ども会活動の中身を形づくってきた。

 そして、「第1回韓国・朝鮮の文化にふれる集い」への準備が始まる。全校的にオープンになっていない子ども会。自らを集団の中で明らかにできず、日本人との関係をとりえていない子どもたちが、はたして文化ホールでの発表を「うん」と言うだろうか?という不安をかかえ、集い発表の話をもちかける。

 低学年は無邪気に学芸会のようなイメージでとらえ、すぐOK。問題は高学年。対象者は、42人、53人、63人。多数の日本人の前で舞台に上がれるという基盤を持っている子は、だれもいない。

 さてさて、ひととおりの説明をし、「まあ、チャングの練習をしていこうやないか」とごまかしもしながら、何とか練習だけは、OKをとりつける。

 それからの文ソンセンニムの十数回に及ぶ無償での献身的努力。そして、思ってもいなかったチャングを通じての民族との出会い。これまで子ども会に後ろ向きであった高学年の子どもが目の色を変え、顔つきを変えてチヤング練習に取り組むではないか。そして、集い当日の朝、39度の熱を出し学校を休みながら、「昼からの文化ホールには絶対に行く」とまで変わっていく。

 はじめ、低学年6名、高学年7名、計13名だったメンバーに2年生の日本人児童5名が加わり、計18名になって「セクトンホドリ子ども会と仲間たち」ができあがる。

 親の了解はまず、「子どもをその気にさせて」という戦略で文化ホール発表の一週間前にようやく了解をとりつける。子どもたちが楽しそうに熱心に取り組んでいる姿を見て、何も言わず了解していただいた。

 そして、当日。13人の韓国・朝鮮人児童の親と5人の日本人児童の親が全員会場にかけつけ、熱い思いで見守る中をトップバッターとして出演。圧倒的な歓迎の拍手。民族の文化をチョゴリを着て、初めて多数の日本人の前で発表できた。その自分たちにこんなに大きな拍手がもらえた。どんなにうれしかったことでしょう。

 そして、より以上にうれしかったのが、13人の親たちではなかったでしょうか。その後、ぼくは会場をかけ回り、一人一人の親たちに「よかったね、おかあちゃん。『よかったね会』をしよう」と呼びかける。

 次の月曜日。ジュースで乾杯し「がんばったな。今度は、学校朝会で発表せえへんか」と持ちかける。低学年は、多少の恥ずかしさもあるが、すぐさまOK。高学年は、7名中、2名だけが賛成。あとの5名は、「しない」との返事。理由は、「きっとあの子とあの子が、あとで朝鮮人とか何とかいろいろ言うから」。子どもからの当然すぎるほど当然な反対意見。

 問われているのは、在日の子どもではなく、日本人教師がこれまでやってきた「すべての子どもに豊かな朝鮮認識を」の中身である。

 「先生らもがんばるから、明日また話をしよう」で火曜日。オモニから差し入れてもらった朝鮮餅を食べながら、今度の土曜日の「よかったね会」の話になる。親と教師だけでやろうと思っていた会に子どもも来ると言う。「えー。あんたらも来んのん」と言うと「あたりまえやん。親はひとつもがんばってない。がんばったのは、私らや」……という雰囲気の中で、7名中6名が校内発表の舞台に上がることを決意。

 子どもたちの決意を受け、人権委員会で「おとなりの国に親しもう集会」案を作成。セクトンホドリ子ども会をできるだけ浮かさないよう集中取り組み期間で学習した学年発表も盛り込む。そして、中学校へ取り組みを引き継ぐべく四中教師の見学参加を要請。職員会議での議論は、「時期がまだ早い」という意見もあったが、「今ようやくセクトンホドリ子ども会が全教職員の取り組み課題として、また、全校児童の中に位置づけられようとしている。今がそのチャンスだから、事後の偏見を持ったような反応に対しては、全教職員が一致して対処していこう」とのまとめで決定する。

 土曜日。「よかったね会」には、10世帯の親と出演した子どもたち、その兄弟姉妹合わせて35人で、金川家で宴会。それぞれの家庭が食べ物を持ちより、文化ホールでのビデオを見、それぞれの思いを話し、楽しい楽しいひと時を過ごす。親の会の誕生。

 さあいよいよ学校集会での発表。子どもたちは、チョゴリを着て舞台横で待機。

・モリオッケの全員合唱とおどり

1年から6年までの学年発表

 文ソンセンニムの姿が見える。そして、ハルモニやオモニたちの姿も。

・「セクトンホドリ子ども会と仲間たち」によるノンアの発表

 最高のでき。万雷の拍手。舞台に立った子どもたちのうれしそうな顔。文ソンセンニムが、「大人になってから、感動で涙を流したことはめつたにないことなんですが、このときは………」と。

 

◆「韓国・朝鮮の文化にふれる集い」にまつわる話

 第1回集いは、鳥飼東小学校の劇「トケビの金はこび」、鳥飼小学校のチャング演奏、別府小学校の農楽。この三校で発表。司会は、もうすっかり娘さんになっていたスニちゃんが、きれいなチマチョゴリを着て、やってくれる。

 心配していた500席の会場も立見がでるほどの盛況。

 

 土曜日、文化ホールに行っておどりやげきを見ました。一番はじめは、「セクトンホドリとなかまたち」がする「ノンア」でした。とってもじょうずでリズムよく、たくさんの人が出てにぎやかだったし、こうちゃんのサンモがじょうずでした。鳥飼小のチャングえんそうは、「ドコドンドン」となるたびに山びこみたいにおなかのそこへかえってきました。おなかがビリビリふるえました。

 つぎは、「トケビの金はこび」のげきです。とってもうまくって、はくりょくのあるげきをお手本として見せてもらいました。

 どれもとってもうまくってよかったです。もっともっと見ていたい、おわらないでほしいと思いました。(日本人児童)

 

 全朝教の稲富さんも見に来てくださる。稲富さんは、鳥飼小学校でのハギハッキョにも来ていただいたし、草創期よりずっと摂津のことを気にかけ、多くの示唆をいただいた。

その後、すべての子ども会設置校が発表するようになり、集いでの発表をきっかけに、校内発表もし、民族子ども会が市民権を得ていく。

 文化ホールスタッフの方々には、音響・照明・リハーサルなどいろいろとお世話になったが感想として、「文化ホールでいろいろな催しを行いますが、この集いには、舞台と観客が一体となった熱がありますね」と言っていただいた。また、日本人の親の感想として「すばらしい発表会でした。感動しました。国際化ということがよく言われますが、これが国際化なんだと思いました」

 忘れてはならないのが、オモニ発表。プチェチュムや歌など、発表していただいた。観客の盛り上がりも最高潮でした。

6回目から、味生小学校の「がんばる中国クラブ」の発表も始まる。続いて、ブラジルの子たちの発表も。

 2002年度の12回集いから、休日開催となり、「ともに生きるつどい〜多文化コミュニケーション〜」と名称変更し、今に続く。

 

(5)制度保障の取り組み

 

 1990年度から、文ソンセンニムに民族子ども会の指導にきていただく。予算は、年3回分。実態は、その報酬で、毎月1回の子ども会指導。集いが近づくと、昼休みも放課後も各校を駆け回る忙しさ。この状態が5年も6年も続く。

 「不安定なこの状態をいつまで続けるんですか。このままでは、摂津に来たくても来れないということになります。民族講師は、ボランティアですか。ビジョンを示してください」と突きつけられる。

 当然すぎる要求。「このままでは、摂津に来れなくなる」と通告されやっと、民族講師さんに甘え続けてきていた私達のお尻に火がつく。

教職員組合の大路委員長も入っての「撰津の在日韓国・朝鮮人教育を保障する会」を設立。目ざすは、民族教育の制度保障。

 1996年組合大会で「民族教育の制度保障を求める特別決議」を採択。行政闘争と平行して、カンパ活動を展開。年間6千円の賛助会員を募集。

 

 在日朝鮮人教育をさらに充実させ、民族講師の身分保障を求め、基金設立を呼びかける趣意書

 

 摂津で、在日朝鮮人教育の取り組みが始まり、15年以上が経ちます。私たちは、目の前の在日を生きる子どもの思いと現実から学びながら、実践を積み重ねてきました。

・民族との出会い、子どもどうしをつなげることを目ざしたハギハッキョは、13回目を迎え、今では、半数以上の子どもたちが参加しています。

・日本人と韓国・朝鮮人が共に生きることを目ざした集いは、6回目を迎え、600名を越える参加者があり、熱のこもった民族文化が抜露されています。

7つの小学校では、民族子ども会が設置され、民族文化を学び、差別に負けず、力強く生きるアイデンティティー獲得を目ざした活動が民族講師の指導のもとすすめられています。

・日常の教育実践では、すべての子どもに確かな朝鮮認識を育てる取り組みが、差別を許さない集団作りとともにすすめられてきました。

 このような現場の実践を受け、市の教育行政は、「在日外国人教育基本方針」を策定し、推進する組織として、市外教が発足しました。

 この間のこうした取り組みに民族講師が果たしてきた役割は、非常に大きく、今後も民族講師の存在ぬきに摂津の在日朝鮮人教育は、考えられません。

 在日韓国・朝鮮人児童・生徒にとって、本名で堂々と生きる民族講師さんは、民族の文化を教えてくれる先生としての存在だげでなく、「在日をどう生きるか」を模索する上での指標であり、丸ごとぶつかっていける先輩でもあります。存在自体が、子どもに安心感を与え、大きな支えとなっています。

 ところが、このように重要な課題を担い、摂津の教育に多大な貢献をしているにもかかわらず、身分保障は甚だしく遅れています。

 7校の子ども会指導にあたり、ハギハッキョや集いの指導にあたっても、年間70万円程にしかなりません。とうてい、生活を支える職業としては、成り立ちません。現場も民族講師を必要とし、「基本方針」の具体的施策として明記されている重要な課題を担う民族講師が、職業としては成り立たない現状なのです。

 子どもや親からは、「月1回といわず、ソンセンニムにもっと来てほしい」という声があがっています。教職員から嫁、「親との諾し合いにも参加してほしい。実践の相談にものってほしい」という要望があります。

 このように民族講師の必要性は益々高まっているけれど、その予算措置が不十分であり、身分保障が確立されていません。

 私たちは、市に対し、民族講師の必要性・重要性に見合う予算措置と身分保障を求めます。

 隣の高槻市では、市の正職員2名、非常勤職員2名、計4名が在日韓国・朝鮮人教育事業専従者として、採用されています。

 子ども会指導に民族講師さんに来ていただいて、6年間が経ちますが、この間、民族講師さんたちは、謝金が出ないにもかかわらず、回数を越えて指導にあたったり、一回あたりの謝金の減額にも耐えて活動してこられました。

身分保障が確立されるまで、こういつた状況は続きます。.

 民族講師さんたちの熱い想いと連帯し、教育における戦後補償としての在日朝鮮人教育の推進に私たちもまた、身銭を切って事にあたる「在日朝鮮人教育充実のための基金」カンパを広く呼びかけます。

1996.9.9

摂津の在日韓国・朝鮮人教育を保障する会

 

 年間6千円の賛助会員に管理職も含め2百人あまりの教職員がなる。摂津の教職員のほぼ半数。予想以上の驚きの人数でした。

 これを2年間続ける。このカンパ金で、月2回の民族子ども会活動ができるようになる。

 1998年度からは、金ソンセンニムの一人態勢となる。ソンセンニムには、午前中から事務局長校に勤務してもらい子ども会指導の他に、教育相談、授業要請にも応えてもらえるようになる。

 教職員によるボーナス時の千円カンパは、現在も続く。

 

◆摂津市「社会人講師活用事業」発足

 組合を中心とした制度保障を求める取り組み、カンパ活動、取り組みの実態、ソンセンニムの努力、教職員の熱意、子どもや親の願いを受け、新たに「社会人講師活用事業」が始まる。

 それまでの市外教の補助金に加え、「民族子ども会への講師派遣費」が予算化される。制度保障に向けた大きな前進。

 2001年度からは、「国際理解教育の授業」も事業内容になり、日常的に姿を目にする身近な「摂津の在日の民族講師」として金ソンセンニムが子どもたちに広く認知されてきた。

 

(6)今そしてこれから

 

 1992年度、一年間の準備会の後、市外教(摂津市在日外国人教育推進協議会)が、「摂津市在日外国人教育基本方針」を推進する機関として発足する。.

 市外教活動方針に「日本社会の差別の現実を教育の分野から変えていき、民族差別をなくしていこうとするのが、市外教の目的であり、役割です」とうたわれている。

 さて、ハギハッキョ20年を経て、その間に日本の社会は、在日を生きる人々にとって少しは生きやすい社会となったのでしょうか。

 小学一年生からハギハッキョにずっと参加し、集いにも出演し続け、子ども会にも喜んで参加し、韓国・朝鮮人としての自分に誇りを持ってきた彼が、高校卒業後わずか2年間の社会人生活で「自分が在日であるということを喜べるものではありません。それは、腹立たしくも悲しいことばかりです」と変えられていく。そして、「自分が在日であるという考えを捨てて、一人の人間として自分自身のアイデンティティーを保ち続けていくことが、社会の流れに乗る上手なやり方だと思っています」と今なお言わしめる日本社会の現実。

 同じく民族子ども会で活動し、ハギハッキョや集いを経験し、高校の文化祭で、友だちをさそってチャンゴ演奏をした彼女が、「北朝鮮問題が連日報道されている今の時代、今までのように韓国人ということを胸をはって口にする勇気はあまりありません」と感じさせる恐ろしいまでの日本社会の空気。

 今こそ青年のつながりと支え合い、活動が必要なんです。「自らのアイデンティティーを持ち、自己実現していく」ことを阻むものとは闘わなければならないし、そのためには仲間が必要です。

 ハギハッキョ・民族子ども会・集いは、社会の中で自己実現していくための入り口であり、予行演習です。是非とも青年のハギハッキョを創りあげてください。ハギハッキョ20年で目ざしたことは、青年の肩にかかっています。

 

 20年前、摂津市の小.・中学校に在籍する韓国・朝鮮籍の子どもは、300人近くいた。現在は30数人で、およそ10分の1に激減。ところが、ある小学校では、一人の韓国籍の子しか在籍していないのに、韓国・朝鮮につながる子がなんと11人もいる。1985年の国籍法の改定と日本人との国際結婚の増加(1999年度の統計では、87%)で、韓国・朝鮮と日本の両方の民族性を合わせ持つ子は、韓国・朝鮮籍の人数の約8倍。このことから、今も摂津市の小・中学校には、二百人を越える在日の子どもが通っていると考えられる。

したがって、二つの民族を受け継ぐこれらの子どもたちが、自らを誇りとし自己実現していく取り組みが、今後の大きな課題となる。

 

 民族子ども会やハギハッキョは、子どもが一人でも参加する限り、今後もやり続けます。これからは、ハギハッキョ卒業生の子どもたちが続々と入学してくるでしょう。待っています。

 「ともに生きるつどい」が、摂津市の一大イベントとなるよう続けていきます。青年やアボジ・オモニも出演していきましょう。

 ソンセンニムに安心して来てもらえ、民族教育を制度として保障する取り組みも多くの方と連帯してやっていきましょう。

 「在日朝鮮人問題を日本人問題と見すえきり」と始めに志したように、日本人の子どもたちが、違いを豊かさとして受け止め、差別や偏見のない社会に変えて行く担い手に育っていくようしっかり仕事をしていきたいと思っています。

 

 ハギハッキョ20年、出会いとつながりが財産となりました。第1回ハギハッキョのビッグバンは、今も続いています。これからも共に歩んでいきたいと思っています。

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