8月28日(日)民族教育フォーラム2005
「歴史の記憶と民族教育〜過去・現在・未来〜」に結集を!


戦後60年の憂鬱

 2005年は日本の敗戦60周年。あの敗戦を国民学校6年の時に迎えた。信じられない敗戦だった。校長の横にいて国旗掲揚のラッパを吹き、毎日手旗信号の練習に得々としていた軍国少年そのものだった。脳裏にあの時代がよみがえる。敗戦の後の反省はどこへやら、いつの間にか戦前の日本に逆戻りするのではないか、近頃のわたしの憂鬱だ。

 敗戦から60年の歳月が流れた。この歳になっていっそう昨今の日本の情況が気になる。去年はとりわけ、アメリカ大統領選挙の動向が気になった。「よその国の選挙だ」と気をそらせてみても、報道があるとついテレビのチャンネルに手が行く。アメリカ国民のあれほどまでの熱気がどこからくるのか知る由もない。だが、わたしの関心、というよりは、気がかりは別のところにある。

 「テロとの戦い」という主張がやたらと流れる。こういう主張がアフガニスタン、イラクの戦争を正当化している。こんな風潮がアメリカが率いる同盟国、日本、イギリスなどに広がる。国連など、この戦争に異を唱える動きは鈍い。イラクでは10万人もの市民の死傷者が出ているという現実があっても、「テロとの戦い」がこの現実も何の問題もないかのようにいっそう強められる。このような風潮の中で、この戦争が正当化されていく。

 このような情況を見るにつけ、「聖戦」の名の下に進められた戦前の様子が重なって思い出される。「日本の生命線を守る」と、朝鮮や中国東北部の支配を正当化した戦前の日本と、「テロの攻撃からアメリカを守る」とイラクを攻撃し、戦争を正当化するアメリカの主張が重なって見える。

 「国旗・国歌法」の制定から、イラク復興支援の名のもとの自衛隊派兵、憲法・教育基本法の見直しという日本政府の動きはなどはアメリカの動向と軌を一にしている。こうした動きは近隣アジアの国々に不安と疑念をかもしだすにちがいない。どうにもならないもどかしさが憂鬱のもとだ。

 「冬のソナタ」以降の日本で「韓流」という社会現象ともいえるブームが起きている。だが、手放しで喜べない情況が対極にある。共和国の日本人拉致事件謝罪後の、在日朝鮮人や民族学校の子どもたちへの攻撃やいやがらせ、また、異常なまでのマスコミの過剰報道などのバッシングである。わたしたちが長年にわたって取り組みの重要な柱に位置づけてきた、「確かな歴史認識」に裏打ちされた真に友好的な交流が盛んになるのはいつのことか。(稲富)

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