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私と在日朝鮮人教育(連載第4回)
むくげひらく時(4)
 「長橋闘争」と民族講師の身分保障行政は変わる
法蔵美智子(前大阪市教組副委員長)
(1)市教委と対峙する日々

 分裂の嵐が吹く1989年、市教組の執行委員になった。

 私は山本修子さんから、在日朝鮮人教育を引き継いだ。―民族講師の身分保障に向けて、どのように取り組むべきか、市教委にどのように対峙すれば良いのか、手をこまねくばかりの自分に焦る。

 悩んだ結果、現場での取り組みの原則に従うことにした。―”実態に学べ”

 その当時の民族学級の講師謝礼は、市教組委員長岩井さんが交渉の結果、いや、一向ににらちのあかない交渉にしびれを切らし、指導部の机をドン!とたたいて捻出させた「年間100万円」というものであった。しかも、これを実践校数で割るのだから、日々の交通費にも満たない極めてわずかの謝金を、市教組の設定する日に講師の方々に取りに来てもらうのだ。

 私は考えた。その謝礼金を、直接実践校に持参し、校長、外担(外国人教育担当者)の立ち会う中で民族講師にお支払いしてはどうだろう。問題がつぶさに見えてくるはずだ。市教委からの謝礼金を市教組が直接校長に渡して、校長の手から民族講師にその場で支払ってもらおう。

 私は謝礼金を渡す前に、必ず校長に質問することにした。民族学級を実践する上で困っておられることは? 学校体制は? 教職員のかかわりは? 市教委に要望することは?などなど。つい、追求型の口調になる自分がわかる。校長の口はそろって重い。私が一番期待した「民族講師の身分保障について市教委に要望する」との声はついに出なかった。が、民族講師の方々からは、校長の前で思いが語れて(初めて!)良かったとの声が届く。厳しい現実がつきつけられた思いだった。

 続いての実態把握。

 市教委に対し、各校の在日朝鮮人の在籍数を提示するよう求めた。しかし、市教委は、「マル秘だから出せない」との回答。岩井委員長をまねて、机をたたいての折衝に、市教委はようやく提出してきた。そこから見えてくるものもまた、多くあった。在籍数の多い学校、すなわち加配措置校に民族学級はあるのか、取り組みはどうなっているのか、外国人加配はどのように活用されているのか、本名使用率はどうか、等々。
 これらのことを問いただすと、ある指導主事はつぶやいた。

 「他人のふんどしで相撲をとって・・・」―!?!―ことばが出なかった。

 十五年も前のことだが、文字に書き表してみると、そのときの気持ち―歯ぎしりするような―が、実に鮮やかに映し出されてくる。しかし、「時効」としよう。十五年も前にそんなやりとりがあったなんて考えられない程に、今、市教委は変わったのだから。
 しかし、なぜ変わったのか、変わることができたのだろうか・・・。
(2)市教委が”パートナー”に

 ”民族講師の身分保障を!”1992年、私はソンセンニムと腕を組みながら雨降る市庁舎を取り囲み、気勢をあげていた。

 ―長橋闘争―。

 その時のことを朴正恵ソンセンニムは、その後の取材で次のよううに語られている。

 「民族講師の身分保障を求め、市庁舎を取り囲みながら、私は私自身に問いかけた。『これまで、あなたは何をしてきたんや。民族講師をやめて行かざるを得なかった人の気持ちをどうかんがえてんねん。自分で声を上げないと制度保障につながらへんのよ』と心の内で何度も叫び、デモの中で私はやめて行った多くの仲間の無念をかみしめながら闇の中を行進しました。また、この闘いの中で、民族教育促進協議会、市教組、学校現場、保護者が一つになって運動を担う同志であることを実感しました。」

 1972年、市教委は「民族学級を評価し、運営に関わる全般の公費負担を検討する」と明示した「確認書」を長橋小と取り交わしていた。

 しかし、その後何ら施策を講じることなく放置しつづけた。市教委への憤りが噴き上がる。

 長橋講師会をはじめとする民族講師団、長橋小教職員、民促協、考える会、市教組は結束し、民族学級の制度保障に関する方策について連日検討を重ねていた。市費職員としての雇用の道はないか、1948年「覚書」により措置された民族学級と、1972年以降の民族学級は同質のものと市教委は評価している。それならば、後任講師と同等の身分保障を講じるのが当然ではないか―等々。

 広範な運動をめざして取り組んだ結果、民族講師をとりまく輪は確実に広がり、学職労、学給労、市職、そして市会議員へ。議員団による民族学級の参観が実現した。署名活動、ビラ配布、マスコミへの働きかけ等、考えられるあらゆる運動を展開し、運動している私たちにもその手応えが実感できるようになってきた頃、市教委にようやく動きが見え始める。

 予算確保向けて、財務にどう働きかけるか。縦割り行政の市教委だが、指導部と管理課がその役割分担を超えて連携を始める。理念を構築するのは指導部が、予算の裏づけは管理課が―管理課の窓口はKさんだった。通常、行政は新規事業を立ち上げる場合、既存事業の中で一番趣旨の近い制度を運用するという。市教委は、民族学級が「課外」として位置づけられているところから、高校の民族クラブの講師招聘事業を下敷きとし、待遇面については「生き生き活動」の指導員を準用した案を提示していた。

 先ず、「課外」にひっかかった。「課外」の位置づけで、私たちが求める「制度保障」に将来移行していけるのか―民族講師会や民促協と論議を重ねるが、なかなか判断がつかない。じりじりと日が経っていった。

 ―その夜遅く、私は別件の業務で印刷会社にいた。当時の書記長、谷川さんから、「Kさんから、会いたいとの報あり、すぐそちらに行く」と連絡が入る。財務への提出期限が迫り、大詰めを迎えている時期だ。市教組への最後打診なのか―私は極度に緊張した。

 kさんは、疲労が濃く漂い、表情が暗い。重い口がようやく開かれたが、それは予測した通り、「要望をもとに様々に検討したが、当初の提案を越える制度は困難」というものだった。これまでの折衝の感触から、kさんについて私は、できないことはできないとはっきり言う人だが、少しでも可能性があれば最後まで努力する実直な行政マンと見ていた。努力を重ねた結論と見ていいのだろうが、長橋闘争団として動いている今、市教組だけの打診で「了解」にはならないのは当然だ。が、情勢を読みつつ、然るべき時に決断を下すのも、運動の主体者としての責任である。時には泥をかぶる覚悟で決断することもある。

 提案を蹴れば、”民族学級実践校が増えれば増えるほど、講師一人分の謝礼金が減る”という、あの矛盾した「年間100万円」に逆戻りだ。思いを残しつつやめて行かざるを得なかったソンセンニムたちのことが頭をよぎる。何よりも恐いのは、回答ゼロで終わることによってこんなにも燃え上がった運動の炎が消されることだ。運動の炎を守り、これを足がかりに始めていこう。来年度も「三者協議」(民族講師・長橋小と市教組、市教委で構成)を継続し、制度保障実現の闘いを広範な人々と共に、粘り強く取り組むのだ。システムを立ち上げることが先決だ。

 自分に言い聞かせ、私は受け入れの方向で進めていくことを決意した。執行委員として、初めての重い決断だった。

 kさんが、最終提案を言い終えてぽつりとつぶやく。

 「私も若い頃、教員になりたかった。だから先生たちの要望を推し進めようと努力したのですが・・・。」語尾が揺れていた。

 個人は、組織を動かす歯車のたった一つの小さな歯にすぎないのかもしれない。しかし、そPの歯が結局は組織を動かす。行政に携わるKさんは未来を担う子どもたちと向き合う民族講師や、教職員の願いを受け止め、動いた。その結果、二十年もの間、閉ざされてきた市教委の扉がようやく開かれたのだ。組織といえども人の集まりだ。全ては「人」から始まる。あきらめてはいけない。

 その後、Kさんは転勤、次々に担当者は変わられたが、その精神は引き継がれ、そもそも論から始めなければならないということはなくなった。近年、市が財政難となり、予算確保は厳しさを増した。しかし、財務担当者から何度つき返されても、指導部と管理課はくい下がる。―予算確定の最終期が迫った或る日、市役所で、指導部の担当者とぱったり会った。「財務課からつき返された指導部の案を、管理課は徹夜で作成し直し、粘り強く財務課への取りつけを行い、拡充することができました。」やっぱり行政は凄い!

 2001年には「在日外国人教育基本方針」が策定された。

 民族学級の制度保障をめざし、市教組と市教委との共同作業は、今日も続けられている。

 ―長橋闘争はまだ終わっていない―。                            
(最終回につづく)
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