2005年7月1日  大阪市立中央青年センター
―2005年度全朝教大阪(考える会)第1回シンポジウム報告―

「民族学級の過去・現在・未来」を考える
(第1部)


〜シンポジウムで何が語り合われたか
稲富 進
 30有余年にわたって在日朝鮮人教育実践の大切な軸として位置づけられた「民族学級」の取り組みは大阪を中心に深化・拡大を続け、大阪市立小・中学校で101校の開設をみるまでに発展した。全朝教大阪(考える会)は、これまでの民族学級の実践を継承し未来につなぐためには、この実践が目指す日本の教育のなかでの在日朝鮮人教育の意味合いと使命を今日時点で総括的に共有する事が大切だと考え、このシンポジゥムを企画した。在日朝鮮人教育運動・実践を積み上げ拡大してきた仲間の多くが教育現場の実践の場から去る時代が現実のものになった。いわゆる団塊の世代が若い世代へと教育現場を引き継いでいく。今日時点でこのシンポジゥムを企画した意図はここにある。発題及び語り合われた内容の概要はつぎのようであった。

総合司会    正本順一(大阪市立十三中学校―本会運営委員)
コーディネータ  辰野仁美(大阪市立長橋小学校―本会運営委員) 
パネリスト    金相文(キム・サンムン―大阪市立東桃谷小学校) 
          邊一峯(ピョン・イルボン―大阪市立住吉小学校)
          呉洋子(オ・ヤンヂャ―大阪市民族講師会)

発題1
いやだと思いながら通った民族学級が、
朝鮮人としての大事な内心をつくった
    金相文(キム・サンムン)
    1974年大阪市立学校教員に任用され、現在生野区の東桃谷小に勤務
 わたしが通った小学校は生野区の北鶴橋小学校でした。朝鮮人の子どもが30%ほどいたと思います。そのころは民族学級に行くのがいやだったように思います。勉強がいやなタイプの子どもだったので一日の勉強がすんだのにまた勉強か…そんな気持ちで民族学級に行っていたように思います。ソンセンニムは一生懸命教えてくれているのに…。子どもごころに日本人の子どもは遊んでいるのになんで僕らだけ勉強?と思っていたんでしょうね。遊びたい一心でしたから…。それに民族学級でそれなりにがんばっているのに原学級で民族学級のことをただの一度も担任の先生が話題にしてくれたことがなかったんです。それが子どもなりに「民族学級は価値のないもの」と考えていくようになったように思います。一度でも担任の先生が本名で呼んでくれていたら、たぶん調子にのって民族学級での勉強をしっかりやっていただろうと、今考えます。民族学級を価値のないもの、ソンセンニムが怖いから民族学級の勉強をしている、そんな意識をもつようになっていったと思うんです。

 民族学級のソンセンニムが教えてくれたことで強く印象に残っていることが二つあります。ひとつは「君たちが悪いことをすると、わたしたち韓国人みんなが日本人に悪く思われる。日本人に後ろ指をさされないようにしなさい」と口をすっぱく言われたこと。それと、朝鮮半島の地図の38度線を指して「人間の体でいうと体をぎゅうっとベルトで締められているようで苦しそうだ。君たちは大きくなってベルトを緩める役割をしてほしい。」と。これは今でも身にしみ込んで離れない言葉として脳裏に焼きついています。

 中学校には民族学級がなく、小学校時代の民族学級の朝鮮人の友だちも多くは緊張感もなくただ漫然とすごし、中学3年になると進学の問題がありました。

 親なんかはじめから進学なんかしなくていいと言っていました。「学校なんか行ってもどうせ就職でけへん、朝鮮人はダメという国籍条項がないのは医者とヤクザやさんぐらいで、就職できない。お前は医者になるほど学力はないし、ヤクザになるほどの度胸もないし、芸能の道へ行くにそのも才能もない、家の仕事したらええ、ってそういうんです。ときどき家の仕事の手伝いしていましたが、勉強も嫌いだったが仕事はもっといやだったんです。それでせめて高校までは進学したいと考えていました。

 わたしはもともと赤緑色弱だったので工業高校はだめ。商業高校は当時、女生徒が受験するところというのがあって普通科と考えていた。そんな時期に担任がわたしを職員室に呼んで、希望している府立高校の受験をあきらめるように言うんです。理由を聞いてわたしは愕然としました。希望していた高校の校長がわざわざ学校に出向いてきて何年か前の高校生どうしの暴力事件に関わった朝鮮人を引き合いに出して「外国籍の生徒は採らない」と明言し、出願を控えるようとの話があった、との担任の言葉だった。いよいよ仕事するしかないか、と眠れぬ夜を過ごしたことを覚えています。悶々とした夜にいつとはなく心のなかで叫んでいました。

 <こんなことを平然と言いにくる府立勝山高校の校長が、たとえ不当な発言だったと謝りにきたとしても、こんな学校には絶対に行かない。朝鮮人をこんなふうに排除する学校は絶対許さないし、行かない>−こんな心の叫びでした。

 この叫びを発するわたしの内心を培ってくれたのは、紛れもなく民族学級だったと思います。きびしかったけれど民族の思いを伝えてくれたソンセンニム、朝鮮人の友達と共に過ごした活動。時間にしたら週に何時間に過ぎない短いものだったけれど、わたしの朝鮮人としての大事な内心はここで作られていったと思うのです。もし、民族学級との出会いがなかったらと、いま時折思います。中学校卒業のとき、窓ガラスを割ったり、学校の先生を殴ったりするような「非行」に走っていたと思います。ソンセンニムとの出会い、民族学級の中での朝鮮人同胞との出会いは、わたしのその後の生き方に大きな影響を与えていたのです。漢方薬が即効的にではなくじわじわと効き目を表すように民族学級でのソンセンニムの強調されていた言葉とそのきびしかった教えが、歳を追って受けとめられ教師としてのわたしの現在につながっているのです。

 そうこうしているうちに新設の高校ができて、そこを受験してみないか、高校に確めたらそこは外国籍でも受験を認めるということだ、と担任から伝えられたのは願書締め切り直前のことで、あわてたが出願できました。そのときひとりの女性教師に教えられたことが強く印象に残っています。願書を手渡すとき、周りにはほとんど聞こえないほどの声で「聞いているよ、頑張りよ!」と声をかけてくれた。そのときわたしは「ここならがんばれるかも、やってみよう」と、そんなふうに元気づけられたことを覚えています。言葉の大切さをこのとき教えられました。言葉はひとを傷つける凶器にもなるし、励まし,温かく包みこみ元気づけることにもなること、そんなことを教えられたことを忘れることができません。

 こんなことがあって高校に入学はしたものの、高校生活は結局遊びにいっているようなものでした。就職できるあてはなく、勉強の目的が見つからないのですから…。麻雀に明け暮れる生活でした。しかし、3年になると進路の問題がいやおうなく迫ってきます。先生たちはわたしたち朝鮮人の就職差別の問題はほとんど何の関心も寄せていなかった。それはそうでしょう。真っ黒いどぶ水に手を突っこむ人はいないですからね。

 友だちがそれぞれに進路を決めていってもわたしは就職できるあてはなく展望はまったくないんです。遊びのなかでたくさん友だちができました。でも親しくなればなるほどつらくなりました。進路を心配してあれこれと話しかけてきたり、家に心配して電話してくる親しい友だちもいました。それがうっとうしくなってくるんです。「ほっといてくれ、どうにもならないんだから…日本人の君らにわかるはずがない…」と。決して口には出しませんでしたが腹の中にどす黒い塊がたまってくるのです。親しくされればされるほど、「日本人のお前らはええはなあ。がんばればがんばるほど道が開けるんだから…」そんな気持ちで友だちを避けていました。親友といえる親しい友だちとも結局、疎遠になってしまいました。腹を割って自分の置かれている朝鮮人の立場、悩みを語ることができなかった。日本名を名のって日本人のふりをしている。そうして生きなければならない自分の苦しい姿を語り受けとめてもらおうとする勇気がなかったんです。どう説明したらわかってもらえるか…それも自信がなかったんです。

 こんな体験の中で生きてきた今、子どもたちには「どうにもならないほど悩むほどしんどいことがあれば、やっぱり友だちに言うことが大事だ。話せる友だちを大切にしなさい」と言っていますが…。

 こうして高校を卒業することになり、昼は家の仕事をしながら夜間の大学に通うことになりました。3回生のときにこの大学に朝文研のあることを知りました。懐かしいなあ、民族学級の匂いがする、どんな活動をしてるのか?そんな気持ちでここを覗いてみました。現在の活動につながるきっかけはここにありました。4人の後輩のうち二人は小・中学校は朝鮮学校で、そこから夜間の高校夜間の大学へと進んだ朝鮮人の学生だったんです。この後輩の姿を通して、私自身が大のつく学生でありながら自分のことを何も知らないということを気づかされました。饅頭で言うとあんこのない饅頭というようなもので味も素っ気もないものです。「これはあかんわ」と思って夜間の大学の勉強の傍ら朝文研の活動を続けました。

 そのころは韓国の民主化運動やさまざまな課題についての学習をしました。このころ初めて真剣に勉強らしい勉強をしました。朝鮮語を教えてもらったり…。大学を卒業してからも、もっときちんと自分のことを知りたい、勉強したいと強く思いました。韓国の学生がガソリンかぶって焼身自殺するなんてどういうことかと考えこみました。韓国ヘ行って勉強することにしました。一週間たち二週間経ってあることに気づいたんです。ある意味ではわたしにとっての大きな発見でした。タバコ屋のおっちゃんも、タクシーの運転手も、警察官もそしてキムチをつけているおばさんも、みんな本名を名のってるんです。当たり前のことですがわたしにとって大きな発見だったんです。もっと大きく見てもペルーの大統領のフジモリさんもアメリカのクリントンもみんな民族につながる名前を名のっているんだ。それが世界の常識なんだ!日本だけが本名では生きにくい国、社会なんだ。日本だけが非常識な社会なんだ。大学3年から本名、金相文(キム・サンムン)と本名を名のっていたけれど「自分は本名を名のってるんだ!」と気負っているところがあったが、本名で生きることは良くも悪くもそれが常識、自然なことなんだ、と気づくんです。韓国に行って教えられたんです。
発題2
自分のことを何も知らない自覚から朝文研に
邊一峯(ピョン・イルボン)
民族講師の経験を経た後、教員に任用される。現在市立住吉小勤務
 1974年に6人兄弟の末っ子として生野区に生まれました。下二人はアボヂが違う家庭で育ちました。家の事情で転々として小学校時代は平野区の小学校でした。小中学校時代は民族教育に関わるような出会いはなかったように思います。

 家庭には民族的な香りは結構ありました。食卓にいつもキムチが並ぶとか、ふだん交わす会話の中に韓国語が混じる、そんな日常でした。おじさんはサムチョンと呼んでいましたし、おばさんはイモニムと呼んでいました。それが叔父さんおばさんの名前だと思っていました。うっすらと覚えていることといえば、たぶん小学校二年のときだと思いますが、夏休みの宿題で絵日記をだしたことがあったんです。それを返してもらったときに、おばさんの家に行ったことをイモ二ムの家に行ったと書いてあった。イモ二ムのことばのところに担任の先生が赤線を引いてあったことを覚えています。だからといって、その後担任がそのことにふれて話した記憶もありません。

 民族につながることは、小学校時代はなかったといってよいと思います。名前も日本名を名のることを当然のことのようにしていましたし、家でも日本名でよばれていました。小学校4年のときこれははっきり覚えているのですが、将来の夢について書いたことがありました。今も続いているんですが通訳になるのが夢だったんです。小学校時代に変わった夢をと思われるでしょうが、これは卒業文集にも書いているんです。こんな夢を持つようになったにはこういうことがあったんです。

 ある日、チェジュド(済州島)の母の姉イモ二ムから電話があったんです。そばで聞いていたんですが、子どもに聞かせたくないような内容なのか、そんな話になると朝鮮語でしゃべるんです。オモニはいつもそうだったんです。何を話していたのかオモニに聞くと、あんたには関係はないと何も教えてくれないんです。すぐ上の姉も同じように思っていて、そのことで姉と妙な連帯感をもったものでした。通訳になるという夢はそういうことが影響していたんだと今思います。

 中学校は生野区の大池中学校に行きました。ここにはおよそ7割もの韓国・朝鮮人の生徒がいました。ですから教室内は朝鮮的な匂いはごく普通にありました。法事のあくる日はすぐそれとわかる弁当がみんなに知れるという状況などがあって、その意味では民族を隠すなどの意識はなかったように思います。だからといって授業やその他の行事のなかで民族に関わる指導や活動があった記憶はありません。

 はじめは高校へ進学することに同意してくれなかった母が、たってのわたしの進学の希望をやっと許してくれました。中学校に上がるころに母は離婚していたし、姉が私学に通っていたこともあって、経済的にたいへん苦しかったんだと思います。進学は認めるが学費や交通費を含めすべて自分で稼ぐことが条件でした。府立住吉高校に進学しました。合格が決まったその日から、アルバイトで学費を稼ぎました。そんな理由もあって「朝文研」の誘いもあったんですが、放課後はただアルバイトに精を出す毎日でした。結構いい収入が得られて、お金を蓄えることができました。夢は通訳で、国際教養科だったので英語の勉強に力をいれました。

 「自分に関わる勉強」の必要性を痛感させられたのは高校時代のアメリカでのホームスティの体験でした。税関の検査で名前をサインしました。日本での日常が通称の日本名を使っているので、そのときもなにげなく日本名を書きました。審査官がパスポートの名前と違うといろいろ調べられ、本人と確認されるまでたいへん困ったことがありました。もうひとつはホームスティをおねがいした相手の家族とのことでした。韓国人が日本からやってきてホームスティしている、と相手は考えているわけです。「在日韓国人」の存在など家族の人々はわからないわけですから、例えば韓国語や韓国の文化のこと韓国社会のことなどいろいろ聞かれるわけです。そのたびにわたしが「知らない」って答えるものですからだんだんとお互いの関係がおかしくなっていくのです。悪気があって答えないのではなく、ほんとうに知らないのですからそう答えるえる以外にしかたなかったんですが…。せっかくの目的だった英語で会話ができるチャンスだったのに、気まずいホームスティの体験でした。話しかけられて英語の会話ができるチャンスはいっぱいあるのに、答えられない悔しさでいっぱいでした。せっかく苦労して貯めたお金でできたホームスティだったのに、語学のなんの勉強もできず悔しい思いで帰ってきました。「自分のことを何も知らない自分」の情けなさをいやというほど思い知らされました。

 1年の2学期から朝文研に入って、自分のことを知るため、名前のことや自分のなかの民族のこと、韓国の歴史や韓国語の勉強を始めました。自分のルーツに向き合う活動を始めました。

 そのころオモニが、ミシンを踏んでいた近所の職場の慰安旅行で台湾へ行ったんです。そのおみやげに家の表札を買って帰ってきて、「買ってきた!将来、これ使いや」と表札をくれました。表札には、家ではずっと呼ばれたことのなかった本名が書かれていたんです。そのときに、これからは日本名ではなく本名で生きていこう、と決意しました。高校時代には「朝鮮奨学会」の高校生の活動にも参加して民族としての自分をとりもどしていったように思います。

 大学へ進んだころ「民促協」の青年たちの集まりをつくろうという活動にも参加するようになりました。朝鮮人同胞とつながりたかったのです。はじめから民族学級にかかわったわけではありません。むしろ子どもは嫌いなほうだったんです。就職先が決まらないでいたころ「民族学級に関わってくれないか」との誘いがあり、話を聞くだけということで「民促協」の事務所に行ってみると、もう担当する学校などが決まっていて、いやおうなく関わることになりました。「何をどのように教えたらいいのか」「子どもたちとどのように関わればいいのか」不安でなりません。自分が自分のことを知らないことで悔いをもっていたので、子どもたちにまず自分のルーツを知ることの大切さを伝えたいと生野図書館に行ったり、ベテランの民族講師のソンセンニムの家を訪ねて細かく打ち合わせをしておしえてもらい、指導案を作成したりしました。7校も受けもってそれはたいへんな仕事でした。

 病気をして入院したときに将来の自分の進路を考えました。民族学級での子どもとの出会いと活動のなかでだんだんと子どもが好きになり民族講師は続けたいけれど生活はできず悩みました。結局、教員の試験を受けることにし、現在、住吉小にいるわけです。
発題3
「ヤンジャが変わろうと努力してるのに、
わたしら少しも変わろうとせんと、ごめんね!」
と言った日本人の友だち
呉洋子(オ・ヤンヂャ)
大阪市民族講師会に所属し民族講師として活躍中
 アニョンハシムニカ?ご紹介いただきました呉洋子(オ・ヤンヂャ)です。わたしは民族教育や、解放教育が当時すすめようとしていた教育を、まさにすり抜けて学校時代を過ごしていたように思います。民族講師として長橋小にかかわったころのわたしを知っておられる太田先生や、在日朝鮮人教育運動を作ってこられた先輩、また共に民族講師を担っている方々を前に少なからず緊張しています。

 わたしは小学校低学年のころに自分の本名を知っていましたし、クラスのみんなに「法事」のこと、朝鮮人である自分のことを話していました。高学年になるにつれ、それを隠すようになっていったように思います。

 強く記憶に残っている二つのことがあります。東大阪市の小学校に通っていて、クラスに朝鮮人が2、3名いましたが、姓のところ、出席簿の名前の姓のところに括弧がついているんです。なぜかということは、自分ではわかっていました。他の朝鮮人の子もわかっていたと思います。クラスの日本人の子はそれを「何で括弧してあるの?」って、はやしたてて担任の先生に聞くんです。すると先生は、黙って出席簿を閉じてしまうんです。多分、そのときは、説明されてもわたしは困っただろうとは思うけど、なにか自分が捨てられてしまったような変な気持ちでした。

 オモニが家で縫製の仕事をしていて、ミシンを踏んでいました。「家には友だちを連れてくるな」とよくいっていました。五人兄弟の末っ子で貧乏でしたし、縫製の仕事でいつも家の中が片付いてないからだと思っていました。とにかくオモニはわたしたち子どもを日本人のように育てていたように思います。それでも家には朝鮮人形がありましたし、たぶんオモニが結婚のときに持ってきたものだと思いますが、シルクの刺繍のしてある布団がありましたし、それにはハングルが縫い付けてありました。友達がそれを見つけて、「何やこれ、変な字書いてあるわ!」と言われてしまいました。

 こんな二つの出来事があってから、だんだん自分のことを隠すようになっていったと思います。中学時代は周りとちがうことを避けることを強く意識していたと思います。この学校は、なにかまわりちがうことをする子をいじめの対象、仲間はずれにしていく風潮があって、たいへんな学校でした。だから周りの友だちと同じような格好、持ち物を持つことで安心感を得ていました。ところが自分は損やなあと思いました。直そうと思えば直せることはいっぱいあるのに、わたしには直そうとしてもな直せないものがある、それが朝鮮人でした。朝鮮人と言われたらどうしよう―そんな不安でいっぱいでした。

 中学卒業を前に、はじめてわたしを朝鮮人としてみてくれる先生に出会いました。卒業を前にして「お前、卒業証書は本名でいくのか?」と聞いてくれました。けれどわたしは「これまで使ったこともない本名を使う気はありません」と断り、卒業までずっと日本名でしたし、その先生との関係もそれまでと同じでした。でも、今考えてみると、その先生がはじめてわたしを朝鮮人としてみてくれた最初の日本人だったように思います。

 それから高校にあがるわけですが、朝鮮人を隠すあまり、何でもまわりにあわす生き方に、嫌気がさしていましたし、しんどさを感じていました。それでも、朝鮮人と明かせない自分、朝鮮人とを胸張って言えない自分がありました。それで名前を呉洋子(ご・ようこ)で学校に通うことにしました。自分から言わなくてもわかる人はわかるし、わからない子はそのまま友だちでいる、そんな気持ちがあったんだと思います。この子、日本人かも知れんなと思わせるごまかしがあったんだと思います。こんなわたしを変えたのは、同胞とのつながりでした。ずっと誘われていて参加することに抵抗していたんですが、その熱意、押しに動かされて高校生のサマーキャンプに参加しました。臆せず本名で自己紹介する先輩たちの姿に衝撃を受けました。「どうして日本名を名のってるの?朝鮮人としての自分をなにで明らかにするの?」 と迫られたときはショックでした。日朝の歴史に関わる厳しいビデオなどを見て、そんな学習は中学校まで一度もなかったはじめてのものでしたから、これも衝撃を受けました。それまでの自分のなかにある朝鮮人は、弱い、汚い朝鮮人のイメージだったのが、強く、たくましい朝鮮人のイメージへと変わっていったように思います。

 日本の学校に通っている高校生を対象としたキャンプでした。日本名を名のり、ウリマルを話すことができず、姿かたち、肌の色も変わらない、そして朝鮮人を隠して生きてきた高校生です。「あんたら、日本名、名のっていてそれで何をもって朝鮮人ということを明らかにできるの?」と詰問されたわたしは、答えることができなかった。これまでわたしは同じであることを必死で探し求め、日本名を名のって朝鮮人であることを隠して生きてきた。それが自分の最善の生き方だと疑うこともなかった。こういう状況のなかで詰問されたわけですから、答えようがなかったのです。さらに、「屈辱的な指紋押捺のもとで作られた「外国人登録証」で朝鮮人を証明しなくてはならないなんて、こんなな情けない悔しいことがあっていいの?」

 このような朝鮮人同胞の集まりのなかで、それまでの生き方を見つめなおし、変わっていったように思います。名前を自分の「隠したい」という不純な気持ちで「ご・ようこ」とごまかしたりした、そんな生き方を強いている民族抑圧の日本社会の現実、日本人に同化させる教育、そういう社会や意識をつくってきた日本政府の政策などを勉強し、わたしは変わっていったように思います。朝鮮人としての自信を持てるようになっていったように思います。

 同胞の集まりのなかでどんどん変わっていく自分を感じました。けれども学校へ戻ってほとんどが日本人の自分のクラスでこれまでとちがう「朝鮮人を隠さず生きる」ことを実践するのはそんなに簡単ではありませんでした。心が揺れ動き、どうすればこの気持ちをわかってもらえるか思い悩み、眠れない夜が続きました。周りの日本人の友だちの前で朝鮮人を明らかにできなければ意味がないわけです。意を決して、呉洋子(ご・ようこ)ではなく、本当はオ・ヤンジャが本名で、朝鮮人であることを友だちに明らかにしました。日本人の友だちはきちんと聞いてくれたのですが、その反応は意外なものでした。

 「わかった!友だちとしてはなにもかわらへん。「ご・ようこ」と呼んで良いんでしょう。同じでいいでしょ!」

 こんな反応でした。中学校の時には日本人のように受けとめられるとほっと安心していた自分がいたのに、このときは不思議なことに腹が立ってきました。悩みぬいてやっと朝鮮人「ヤンジャ」を名のって、これからはそう呼んでくれと言っているのに。この子らは何を考えているのか、と、だんだん腹がたってきました。3年になるまでこんな状況がつづいて悶々としていました。こんなんだったら「本名宣言」などしなかったらよかった、と後悔の気持ちさえありました。

 3年生になったとき、一人の先生がわたしを「オ・ヤンヂャ」とか、「ヤンヂャ」って本名を呼ぶんです。びっくりしました。しかも、ずっとそう呼ぶんです。そのころはもう「ご・ようこ」で通っていましたから、「オ・ヤンヂャ」と呼ばれると別の自分がいるようで、変な気持ちでした。でもその先生はわたしを「オ・ヤンヂャ」と呼び続けました。そのうちにまわりのみんなが、わたしに「オ・ヤンヂャ」と本名で呼んでくれるようになりました。親しい日本人の友だちが「一生懸命ヤンジャが変わろうと努力してるのに、わたしらが少しも変わろうとせんとごめんね!」と言ってくれたんです。わたしはこういうふうにして朝鮮人としての自分をとり戻していったように思います。

 あとになって振り返ってみると、やっぱりこの先生の存在が大きかったんだと思います。こういうふうにして高校3年生では「オ・ヤンヂャ」として、朝鮮人として存在し続けることができるようになりました。

 キャンプで出会った、通名で通っている子がもう一人いたんです。その子が通っていた中学校には「朝文研」があって、経験もある友だちと話していて、「文化祭でなにかやりたいねん、やろう!」ということになり、まわりの朝鮮人に呼びかける活動をはじめました。そのオルグのなかで反応がはっきり二つに分かれました。「いややそんなん、ようでんわ…今まで朝鮮人だと友だちに言うたことないし…」と言いながらも、「チャンゴっておもしろいよなあ」とか、「わたしチャンゴ叩けるで」とか「あの串に刺してる肉、おいしいよなあ」というような話ができる子らがいるんです。一方で、「あんた、絶対来んといて。あんたが来たら朝鮮人ってばればれやから、絶対来んといてや」とはっきりいうような子に、二つに分かれました。

 何でこんなふうに分かれるのかと考えたら、思い当たるのです。それは小さいころに民族のことに触れていたかどうかのちがいによるものだと気づきました。わたしがそうだったように、自分が民族のことに触れていなくて、いまのよう朝鮮人としての自覚や自信を持てるようになるまでにずいぶんしんどい思いをしましたし、大きなエネルギーが要りました。自分を変えて行くことの大きなしんどさを感じていましたし、民族のことに触れていた友だちが、そんなに親しくもないわたしに朝鮮のことを臆せずしゃべれる姿にびっくりしました。それほど、小さいころに民族のことに出会ってることは大きいんだと強く思いました。

 進路にも関わって、民族講師になりたいと思うようになりました。自分はすり抜けてきたのですが、民族学級やそこに関わっている民族講師のことは知っていました。同胞の友だちの姉さんに民族講師をしている方がいたり、わたしの従妹に民族学級がある学校にいて本名で行くと言ってみんなからほめそやされていた、そんな子がいたんです。そのころ、そんな情景を斜めに見ていたわたしがいたんですが…そういうなかで、おぼろげながら民族学級、民族講師のことは知っていたわけです。高校の同胞のキャンプやその活動のなかで民族講師になりたいとの思いが大きく膨らんでいきました。先生に相談をかけました。大学で勉強してきた先生たちのなかで民族講師など勤まるだろうか、そんな不安なども訴えながら相談しました。担任の先生は民族のことで活動するのに大学で勉強したかどうかはあまり関係ないのとちがうか、といろいろ相談にのってくれました。進学するにしても就職するにしても面接は大事だと面接の練習をすることになったんです。そのとき担任の先生は「きみはどうして本名を名のっているの?」とか「朝鮮が分断されていることをどう思っているか?」などを聞いてきたんです。そして面接の練習の最後に「こんなかたちで民族のことをあれこれ聞いて悪かった。けれどわたしは君をずっ見てきてそのことをきちんと話したかったんや」といってくれました。このようにして、民族講師になる決意を固めました。結局、家の仕事も手伝いましたが、あきらめきれず現在、民族講師としての歩みを続けています。
質問と感想

(コーディネータ)
 発題者三人のお話をいただきました。ありがとうございました。

 キム・サンムンさんは、大学卒業の後もっともっと自分のことを勉強したいと考え、韓国へ留学されたとのお話でしたが、そんな気持ちになったサンムンさんのこころを育てたのは小学校五年、六年の時の民族学級との出会い、きびしかったソンセンニムとの出会いがあったことを、語りの端々から受け取りました。きびしかった、だから勉強していたとの言葉もありましたが、そこににじむソンセンニムへの憧れ、好きだった気持ちがうかがわれました。一方、子どもなりに民族学級でがんばっているのに、原学級で民族学級について一言の言葉もなかったこと、そのことが十歳の子ども心に「民族学級は価値のないもの」と思わせた、というお話は、胸の痛むものでした。

 続いて二人目の発題として、民族学級で民族講師として同胞の子どもと向き合った体験を経て、そのあと日本の学校の教員として現在住吉小学校で勤めているピョン・イルボンさんに語っていただきました。イルボンさんのお話によれば、小・中学校のころは家庭に民族的な文化を感じるものはかなりあったが、それを意識することもなく、とりわけ中学は朝鮮人多数在籍校に通い、民族を隠すこともなく生活できるような環境にいたが、それでも朝鮮につながるような、自らを知る学習や活動があるわけではなく、日本名を名のって生きることになんの疑問ももたないで高校まできた。アメリカで語学の勉強を目的としてホームスティしたときの体験を通して、「自分を知る、同胞との出会い・つながりの大切さ」に気づいて活動を始めた、と、自分を見つめなおした軌跡を語られました。 

 三番目の発題者オ・ヤンヂャさんのお話のなかで、同胞の集まり、キャンプ、文化祭の活動などを通して朝鮮人「オ・ヤンヂャ」をとりもどしたあと、理解のない周りの日本人の友だちのなかで悶々とした高校生活をおくっていたころ、一人の先生が「オ・ヤンジャ」と本名を呼び続けたくれた、それが周りの友だちに影響を与え「ヤンジャが変わろうと努力しているのに日本人のわたしらが変わろうとしていなかった」と自分たちの非を認めてくれた。朝鮮人としてのわたしを認めさせる影響を与えた、というくだりがありました。とても示唆に富んだお話だったと思います。

 三人三様の語りの中に、在日朝鮮人教育/民族教育を追求するわたしたちにとって示唆するところがあり考えさせられるお話でした。

 第2部の討議に入る前に三人の発題者に対してここをもうすこしとか、疑問に思うこととかまた、ご自分の実践に関わって聞いてみたいことなどありましたらどなたでもどうぞ発言なさってください。

(住吉小)
 三人のお話を聞いて、あたりまえのことですが、改めて民族学級に通うことの大切さがわかりました。いまわたしが受け持っているクラスにも三人の韓国・朝鮮人の子どもが隔週で民族学級に行ってるんですがなかなか通うことが定着しないのです。サンムンさんも、イルボンさんも言っていたように「友だちと遊びたい」とか、「習いごとがあるから」とかいうかたちでなかなか定着しないんです。せっかく住吉小学校に民族学級があるんやから行って勉強しようよ、と説得するんですけど、私自身が日本人で、民族学級の体験はないわけですからなかなかうまく行かないのです。民族学級に行くことの意味、よさ、などを説明しても抽象的になってしまうんですよね。なかなか子どもをひきつけられないんです。パネリストのみなさんの経験でこういう例がある、というような具体例を教えてほしいのですが…

(稲富)
 金相文さんのお話のなかで「遊びたいのを我慢しいやいやながらも民族学級でがんばっているのに原学級でその話題が一言もない。担任の先生は一度だって本名で呼んでくれなかった」「民族学級での勉強は価値のないものと、子ども心に思っていた」というくだりがありました。この民族学級と原学級とのかかわりは、過去も現在も語られ続ける民族学級のとりくみの核となる課題といえる、と考えています。近年の在日朝鮮人教育のリポートを読んで気になります。自尊感情を培うとした実践は数多く見られるが、これまで取り組みの中心として大切にしてきた、自尊感情が育まれる対極にあるそれを阻むもの、ライフチャンスを排除する差別、抑圧の問題、民族教育権の抑圧の法、制度、システムの問題を実践の課題にすることが希薄になっているのではないか、との危惧を持っています。言葉を変えて言うと、原学級(マジョリティの日本人とマイノリティの外国人の子ども)と民族学級(マイノリティの在日朝鮮人をはじめとする外国人の子ども)とのつながりを大切にした実践は過去も現在も中核におかれなければならないと思うんです。教育現場では今この点についてどのように考えているのだろうか…。

(鯰江小・地域人推委)
 パネリスト三人のお話を聞きながら「民族を隠さざるを得ない存在」ということの現実、一方でまた自分が民族につながるものを強烈に感じるもの、例えばチェサ(法事)のこと、キムチなど食べ物のこととか、親の家での生活とかいろいろ話にありました。このような民族を感じる具体的なお話をもっともっと聞かせていただきたいと思います。一方こんな話を聞いている自分のことをいつも考えるんです。日本人として生まれ、親がつけてくれた名前を名のることがごく普通であって日本人として民族のことなど考えることのない生活をしているわけです。自分の好きな味とか、食べ物わたしの場合、たとえば水ナスだとか身近な生活のなかに日本人につながる、それもプラスのイメージでつながることがとても大切なことなんだ、みたいなことを考えるわけです。そんな、民族につながる身近なものを隠さなければならないという感覚、隠さなければばれてしまうという不安な感覚などは日本人のわたしにはほんとうにはわからないのですが、大変なことなんだと思います。このような話を聞くたびに自分に問い返すのですが…。パネリストのみなさんが自分にとって民族を感じさせるものとか、感じるときはどんなときかなど、もっと聞かせてほしいと思います。

(コーディネータ)
 いま出されました質問については2部の討論でパネリストをはじめ会場のみなさんをまじえてすすめていきたいとおもいます。発題者のお話の感想でも自分の学校の実践でも結構です。どなたかご自由に発言をおねがいします。

(長橋小)
 ことしから本名の金で長橋小の教員をしています。オ・ヤンヂャソンセンニムの話を聞いて頭の中がいっぱいになりました。まだまだわからないことが多いですが本名でこれからもがんばっていきたいと思います。
シンポジウムを終えて〜企画担当運営委員の感想
辰野仁美(市立長橋小)
 前任校での話である。

 私が在日外国人主担をしているとき、若い部会員の先生がわたしに「依羅(よさみ)の民族関係は全部辰野先生がしてくれるから安心ですわ」と何気ない会話のなかで言った。

 確かにそれまでのわたしは周りに広めることよりも、自分が何もかもこなしていた状態であった。わたしの気持ちの中に、厳しいことを言えばソッポを向かれ、何もしなければ取り組みは進まない、と勝手な思い込みがあり、私が何もかも背負いこんでいたのである。

 しかし、彼の言葉を聴いてとても悲しかった。正直、毎日夜遅くまで仕事をし、休日にも学校に来てがんばっていたのはなんだったのか!とても悲しかった。「何いうてんねん」と思う気持ちもなかったといえば嘘になるが、私自身、主担という仕事を考えたときわたしのあり方が間違っていたことに気づいた。わたしが前に出るのではなく職員一人ひとりが民族に出会えるように向き合えるようにいろんな角度からいろんな方法を考えるのがわたしのしなければならない仕事であったのだ。それに気づいてからは「ゆっくりとていねいに」と自分に言い聞かせ仕事をしている。

 「ゆっくりとていねいに」を意識するようになると今まで見えなかったことが見え始めた。民族講師の現状や、民族学級の歴史など知らない人が多くいることも。私たちが知っている「当たり前」がすべての人の「当たり前」ではないのである。だからすべての人「当たり前」になるまで私は「ゆっくりと丁寧に」を堅持しようと決意した。

 今回のシンポジウムは同じねがい・悩み・とまどいをもっているなかまたちと一緒に考え一緒に未来を展開していけたら、そしてこの思いをわたしたちより若い世代につなげ発信できたらと願い企画した。もちろん「ゆっくりとていねいに」である。

 私自身今回のシンポジウムのなかでいろいろ考えさせられた。民族学級の重要性・民族教育の必要性をどう伝えひろめていくのか?支える側の子どもたちの価値観をどうそだてていくのか?など、大きな課題が山積しているからだ。まだまだ民族教育権が十分に保障されていない日本の公立学校で、朝鮮人の子どもたちのアイデンティティを確立させることはたやすいことではないが、仲間と一緒に力をあわせ夢を語り熱意と正義を忘れず前進できればと強くねがっている。でも、何よりも力になったのは会場にいた多くの若い仲間の力強い笑顔であった。

 パネリストのサンムンさん、イルボンさん、ヤンヂャさんには、至らないコーディネイトであったにもかかわらず、すばらしいお話をしていただき心から感謝している。また、参加してくださった多くの方々にも感謝している。ありがとうございました。
第2部(参加者を交えての討議)に続く 
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