2005年7月1日
「民族学級の過去・現在・未来」を考える
〜シンポジゥムで何が語り合われたか(続)


第2部 参加者を交えての討議
 この記事は、前号(181号)に収められた第1部(発題)の続きです。第1部にさかのぼって読むには、こちらをクリックして下さい。
(コーディネータ・辰野)

 では、会場のみなさんを交えて話し合っていきたいと思います。先ほど、住吉小から、担任している朝鮮人の子どもが民族学級に子どもが結集しつつあるが「遊びたい」とか「何でぼくらだけ民族学級に行かなあかんの」とか、そんな子どもの姿があってなかなか定着しない、どうしていったらいいのか。パネリストのみなさんはどうお考えか聞きたいとの質問がありました。また、稲富さんから原学級での取り組みの重要性は過去も言われてきたしそれは今もたいへん大切な課題だ、その視点からの質問がありました。また、鯰江小のほうからは、自分が「民族」を感じるのはどんなときか、もっと教えてほしいというような質問がありました。このあたりをパネリストのみなさんにお聞きしてみたい。また、これから日本の公立学校の現場に必要なこと、日本人教師に必要なことそれからまた、これから民族学級・在日朝鮮人教育を運動的にどのようにすすめていくかという視点でのお話を聞かせていただければと思います。

民族学級への結集にどう声をかけるか

(ピョン・イルボン)


 ご質問を総合的に考えてお話できることは、民族学級へ結集させるためにどう声をかけるかということだったと思います。こんなふうな実践をすればというようなコツはないかなと思っています。ただ一人ひとりの朝鮮人の子どもが本当に心の紐を緩められるというか、心を許せる環境をどのようにつくるかということが大事だと思うのです。

 これは住吉小学校での経験ですが、去年民族学級の掲示板を作ることを提案して認めてもらったんです。廊下に学級の活動を展示する掲示板はあるのに、民族学級のものもあっていいのではと考えたのです。どこのクラスの子どもも、年に一度ぐらいは掲示板になにか活動や、作品を展示してもらえる機会があるのにどうして民族学級にはそれがないのか、と思っていたものですから…。なかなかうまくは使えなかったんですが、去年民族学級が10週年だっものですから子どもたちで記念の幕を作ったんです。背景幕なんですが、それをその掲示板に張り出したんです。授業が終わって給食に向かう途中の廊下で、5年生の女の子が二人、その掲示板をじっと見ているんです。そこを通る子がどの子も立ち止まってみているんです。話もしたことのない二人の5年生の子がわたしに「先生、これなんて書いてあるの?」と聞くんです。「民族学級10周年おめでとう」って書いてあるんだよ」と答えると「ふうん…」といってそれでもじっと階段の踊り場のところで立ってそれを見ているんです。急いでいたんですが気になって担任に伝えておこうと思って「あんたら名前なんていうの?」と聞いてみると、ひとりが「わたしキム・ユヒです」って本名で答えたんです。わたしの記憶にはなかったんですが、それで両親ともに韓国人だということがわかったんです。

 こんなやりとりがあって、自分のクラスの朝鮮にルーツをもつ子を誘って、民族学級に来るようになったのです。これまで担任が声かけをして民族学級への結集に努力してもなかなか成果が見えなかったんですが心の紐を緩める環境を整えることが大事だと思う経験でした。

 去年は6年生を担任していたんですが、そのとき折り紙で折ったチョゴリを黒板の横にかけてあったんです。日本人の子どもでしたが「先生、これチョゴリというんでしょ」と話題にするんです。これが話をしていくきっかけになるんです。子どもは朝鮮人の子どもであれ、日本人の子どもであれ、みんなわかっているんです。話していけるちょっとした視覚に訴えるような環境を作ることで、つながっいいくきっかけができるのです。チュモニでもいい、チョゴリの人形でもいい、またハングル文字の印刷されたTシャツでもいい。給食時間のときとか放課後のちょっとしたときとかに、そこから話の糸口になる、朝鮮的なものを生かすそのような環境をつくることが大切だと思っています。いま、そういう環境がそれぞれの学校にあるだろうか、点検してみることが大事ではないかと思います。

 また、わたしが朝鮮人の教師としてここにいてよかったなと思うことは、わたしがいたからこんなことができたといえるようなことはないにしても、存在していることが子どもにとって意味があるんだと思います。学校の中でこんなことををやってみたらと声をかけたら、なんでもやってくれる職場なんですが、担任とはちがう学年でも朝鮮のことで「これわからん」とこどもがいうと、「今度、本で調べとくとか、来週、ソンセンニムが来るまで待っとき」というのではなく、いますぐ、「ソンセンニムに聞いておいで」と気軽に言ってくれる。それによって子どもがあたりまえにわたしを朝鮮人として見ていく関係ができているように思います。わたしも朝鮮人教師として子どもたちにつながっていけるようになりました。子どもたちが変わってきたように思います。それは朝鮮人の子どもにとっていいことだし、日本人の子どもにとってもいいことだと考えています。朝鮮人教師としてわたしがいることで何かができたというわけではないけれど、朝鮮人教師が一人いることで学校は確かに変わると自負しています。  

(コーディネータ)


 ありがとうございました。朝鮮人教師が一人いることで学校が変わる。その存在自体がすばらしいものであるというお話でした。心の紐を解放していく環境作りが大事だという話がありました。イルボンさんのレジュメの中にチョゴリの折り紙の作り方なども入っています。参考にさせてもらいながら目の前の子どもたちの心の紐を解放する環境作りのために努力していきたいと思います。

 次にオ・ヤンヂャソンセンニムから今後、日本の学校に期待することなどもあるのですが在日朝鮮人教育を発展させていくために運動面でなにを期待しておられるかも交えて話していただきたいと思います。

民族学級と原学級のとりくみが結び合う

(オ・ヤンヂャ)

 一部で話したなかにも触れましたが、中学時代あのとき担任の先生が出席簿を黙って閉じるのではなくて、なにかいってくれていたら、そのときはきっとキレていたとは思うのですが、それでも民族としての目覚めはもう少し早かったんではないかと思っています。現在西成区の学校に関わっているのですが、そこの子どもたちはすごく元気に「アンニョン」と言葉をかけてくれます。多数在籍校なんですが朝鮮人の子どもも、日本人の子どももすごく大きな声で元気に声をかけてくれます。そんなふうに学校の中で「アンニョン」って声をかけられる環境があるんだなとつくづく思います。そういう中でも、民族学級に来れてない子どももいる現状があります。それでも、総合学習の取り組みの中でチャンゴに触れ「懐かしいわあ」としばらく離れていた小学校時代の民族学級がよみがえって、チャンゴをたたいて日本人の子どもに教える光景をみることがあります。そんな時、先ほど稲富先生が言われたように民族学級のとりくみと原学級のとりくみがしっかりと結び合うことがとても大事なことなんだと思いました。

 次に自分と民族とのつながりのことなんですが、今このように朝鮮人としての自分を出せていることが、民族につながっているわたしを感じます。ずっと民族を隠して朝鮮人を明らかにできないで生きてきたものですから、朝鮮を自然に明らかにして生きてる今が朝鮮につながっていると感じています。それから運動面で今期待していることをということですが、やはり民族講師のもっている仕事は在日朝鮮人の子どもにとってはもちろんですし、日本の学校・日本人の子どもにとっても非常に重要な仕事であると考えてがんばっているわけです。けれどこれを職業としてみると、たいへん不安定で、このままだと使命が果たせないのではと、課題がいっぱいあるように思います。

 わたしが民族講師になったのは1992年で長橋闘争のあと、大阪市で講師招聘事業が立ち上げられたころでした。そのときわたしは高校を卒業して家の仕事を手伝いをしていました。民族講師の仕事に就きたい一心でそのときには給料のことなど頭にはありませんでした。民族講師の仕事に就けて喜びでいっぱいでした。でもアボヂは「家の仕事をやめやがって…」と怒っていたように思います。そのアボヂが民族学級の総括指導者の事業が制度として立ち上がったとの記事が新聞に報じられたときわたしのところにとんで来て「保険もあるねんなあ」と弾んだ声で言ったことがあったんです。「怒っていたアボヂがわたしの仕事のこと心配していてくれたんだ!」とうれしく思いました。民族講師の仕事をがんばろうという心の支えになっています。民族講師の制度が大阪市でここまで拡大できたのはやはり長橋闘争など長年の在日朝鮮人教育運動の成果であり、獲得した「在日外国人教育基本方針」の成果であって、わたしが今いるのもその運動の過程だと考えています。ですから、いろいろの課題が見えてきました。民族講師の仕事を職業として考えるとこのままではたいへん不安定であれこれ課題がいっぱいあるように思います。

 民族教育を使命として民族学級に関わった多くの民族講師たちが、生活のためこれを続けることができなくて、心ならずも去って行くことを余儀なくされたと聞いてきました。関わりたい一心でかかわってきたわたしは今、現状を見て非常に不安です。というのも現在、大阪市には101校の民族学級があります。そのうち7校に常勤の民族講師がいます。残りの97校を17名の民族講師が分担して担当しているわけです。どのように考えてもこれは無理な話です。わたしたちが保障されている勤務の時間は12時30分から午後5時15分までで、朝教材作りに出勤しても、時間外に家庭訪問しても、一切給与の保障はありません。わたしたち民族講師は民族学級だけを担当しているだけでなく、時として教育課程内のとりくみにも関わっています。大きく言えば日本の公立学校の在日朝鮮人の子どもの自尊感情を育み、元気が出るよう民族学級のとりくみに関わっているわけです。それは日本人の子どもにとっても多文化共生の教育でもあるわけです。もっと言えばこの大阪市の教育の成果を全国に発信していこうとがんばっているわけです。

 民族学級の教育条件の改善は確かに一歩一歩徐々に改善されてきました。けれども、今、民族講師がおかれた状況は、限界を超えてたいへん厳しいものです。制度・システムの抜本的な改革が必要だと思います。このような状況のなかでもがんばっているのは、わたしたちは民族教育、在日朝鮮人教育の実践・運動を日本人の先生方と共に切り拓いてきたんだとの自負があります。そして日本の教育のこれからにとって欠くことのできない運動・実践の先端を担っているとの思いもあるからです。これからも一緒にがんばっていきたいと考えています。

日本の学校の在日朝鮮人の子どもたちのために、また、日本人の子どもの多文化共生の教育のために、この大阪の教育の成果を全国に発信していこう

(コーディネータ)


 ありがとうございました。ヤンジャさんの言葉のなかに日本人の子どもにとっても、朝鮮人の子どもにとっても元気の出る、自尊感情を育む大事な実践が民族学級のとりくみだ、この実践を維持し発展していくためには制度・システムの抜本的改革に向けての運動が必要だとの指摘がありました。また日本人教師と連携してつくり上げた運動をこれからもともにすすめていきたいとの力強い決意をこめたお話で、わたしたちもともにがんばりたいと思いました。
 最後になりましたがキム・サンムンさん、いろんな質問を踏まえてまた今後の展望をも含めてお話いただきたいと思います。

(キム・サンムン)


 多くの質問に答えられるような話ではありませんが、わたしは民族学級は、本来なくていいものだと考えています。多民族・多文化共生の教育が教育課程内で位置づき、実践が真の意味で定着していくなら民族講師がもっともっと必要となるし、いまめざしている本名を呼び、名のる課題も、ちがいを認め合って民族・民族文化を相互に学びあう関係が自然にできると考えています。現在、民族学級の実践が取り組まれているのは、多民族・多文化共生の教育がきわめて不十分で、教育課程内に位置づいていない現状の中での救済措置のとりくみだと考えています。その救済措置としてのとりくみであれ、民族学級のとりくみは本来学校が目的をもってすすめている教育活動なのだから、学校が責任をもって運営するのが当たり前なのに、どうかするとその運営が民族講師、わたしも含めて朝鮮人教師に運営の責任がかぶせられているような情況があるのは問題だと思います。

 それからピョン・イルボンさんが先ほど、朝鮮人の子どもが心の紐を緩められるような視覚に訴えるような環境作りが必要ではないかという趣旨の話をされましたが、わたしは学校に朝鮮の風景がごく自然にあるそんな学校でありたいと思っています。普段は外国人教育に関わるなんのとりくみもないのに、ある日突然「外国人教育」と称してなにか「外国人教育らしき」活動をするなどの取り組みは、成果を期待できるものではない。その活動の前にもあとにもなにもない、そのときだけのとりくみは、ほとんど意味をもたないのではないか。目で見えるにとどまらず、学校全体に朝鮮の風景がある学校を期待したい。例えば、学校長の朝礼の挨拶でも訓話でも、週に一回ぐらいは朝鮮語を採りいれて話すとか、給食時の学校放送のなかで韓国をはじめアジアの国々の音楽を流すとか、民族学級の掲示板だけでなく学校の児童、親が目にする掲示板や、各教室に韓国・朝鮮の香りのする展示があるとか。そんな風景が自然にある学校づくりを、子どもと一緒に、笑いながら、考えながらそして楽しみながら、日本の社会を変えていく、そんなとりくみをしていきたいものだと思います。卒業式を前に本名の呼びかけや説得をするのでなく、また、民族学級に行かないかと呼びかける前に、親や、子どもに話しこんでつながるなかで学んでいく教師が求められている。

 わたしが教師になったころ、日本の音楽の教科書の70%が外国の曲なのに、その外国の曲の中に近隣のアジアの曲がほとんどなかった。それほど欧米に偏った教育だった。今日、韓流と呼ばれる社会現象が起きるほど変わってきている。「在日」を含めた韓流が沸き起これば日本社会は変わっていくと思います。このとりくみにかかわっている民族講師の待遇・処遇面で言うと、ALTに対する待遇と民族講師への待遇の差はどうしてこれほど大きいのか。地域の情況、学校の情況、親の実態の異なる5校も、ときには6校も、かけもって苦闘している民族講師の待遇を目の当たりにして、その矛盾の大きさに憤りを感じます。まだまだ欧米偏重の日本の姿は変わっていないのです。

 最後に、私自身、今年が管理職を受験できる最後の年になりました。それで意を決して応募書類を出しました。行政の対応はみごとに「不受理」の対応でした。国籍条項に関わるこの不条理撤廃の闘いを後の人に引き継ぎたくて、今、裁判闘争も視野において考えているということを報告して終わりたいと思います。

(コーディネータ)


「子どもと一緒に考えながら、学びながら、そして楽しみながら社会を変えていこう」「日本人の教師は国語や算数の勉強について子どもに「勉強しなくてもいい」とはいわないでしょう。どうして朝鮮人の子どもに「民族学級の活動はは大事だよ!」とどうして声かけしないんでしょう?さらに、民族学級の運営は本来、学校だ。それがそれでなくても厳しい仕事を強いられている民族講師に責任をかぶせるような実態は許されない―--等々の励ましや、きびしい指摘がありました。あまり時間もないのですがもうお一人民族講師の方から仕事のきびしい実情について語ってほしいと思いますが・・・。

(民族講師)


 東南地域を中心に民族学級を担当しているカン・サンミといいます。守口市で育ち、オ・ヤンジャさんのはなしにあったように小・中学校時代は日本名、高校から本名を名のっています。民族講師の仕事に就きたいと思ってなりましたから、最初は給料のことなど考えてはいませんでした。たしかに同年代の友だちなんかと比較すると、たいへんきびしいものです。それでも、ボランティア活動から始まった民族講師のこれまでの話を聞くと、親と一緒であれば何とか自分の生活ができているわたしの生活があるのは、長い運動の積み重ねがあったのだと幸せに思います。

 しかし一方で、現状は民族学級は増えるのに民族講師は増えない。地域の実情、学校の実態の違い取り組みの深浅などがある何校かの民族学級に関わることは言葉で言い表せないほどきびしく、しんどさがあります。民族学級の子どもだけをみているわけではありません。民族学級の子どもにつながる子どもたちにも目を向けていくことも大切な活動なんです。その子どもたちがどんな話をしているのか目を配ることが欠かせないのです。でも何校もかけもっているいまのわたしたちのおかれている条件では、無責任なかかわりにならざるを得なくなってきているのです。ここを理解してほしいと思います。

(コーディネータ)


 民族講師の置かれているきびしい情況が迫ってきて、身の引き締まる思いがしました。ありがとうございました。このシンポジゥムでは第1部では自分と民族との出会いつながりをかたっていただき、それをベースにして第2部では今後に何を期待しどんな取り組みで運動・実践を発展させるかを展望する話し合いを、会場のみなさんの意見を交えてすすめました。限られた時間のなかでのシンポジゥムで意を尽くせないところも多々あったとは思いますが明日からの学校・地域の取り組みに生かしていきたいと思います。ご協力ありがとうございました。

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