歴史と在日朝鮮人教育
国際連帯の教育
震災作文に学ぶ
神奈川県 横浜市立下瀬谷中学校
後藤 周
(横浜市教組人権教育推進委員会)
1.はじめに

 2004年9月、横浜市立南吉田小学校から関東大震災直後の子どもたちの作文が発見された。「南吉田第二尋常小学校震災記念綴方帖」と題されたこの作文集には559名の児童の作文が綴じられていた。横浜の震災作文としては、市立図書館にある壽小学校のものが知られている。最も激しい被害を受けた横浜中心部の子どもたちの被災体験と避難地での朝鮮人虐殺がつづられている。壽小学校は今はなく、その学区は南吉田小学校の学区となっている。つまり、この二つの震災作文集は同じ地域の子どもたちの作文なのである。

 この震災作文を読みたい、そう思って学校へ向かった。最初に目にした作文、6年生の1ページ目の「不安な一夜」と題されたその作文は、全文にわたっていわゆる「朝鮮人さわぎ」が綴られていた。あれから1年。震災作文のことをまず皆さんに伝えたい。


2.「小さな証言者たち」からの聞き書き(南吉田第二小、壽小の震災作文)

 関東大震災における朝鮮人虐殺は、横浜の地で最も激しく行われたといわれる。しかし、その実相は明らかになっていない。今に生きる私たちの歴史の反省としてもしっかり確立したものになっていない。震災作文から一人ひとりに即してできるだけ具体的に知っていくこと、それはこの横浜で何が起こっていたのかに迫っていくことである。

(1)大震災の中、南吉田第二小50人、壽小13人の子どもがなくなりました

 南吉田第二小、壽小の学区は開港地の西に広がる釣鐘形の埋め立て地の南半分を占める市街地である。この地域の建物はほとんどが倒壊、すべては焼失した。

 子どもたちの多くは、中村川を渡って南部の丘陵地へ避難した。残された車橋、道場橋に人びとは殺到した。川舟で渡った子どももいる。川沿いの万治病院跡地や南吉田第三小学校の校庭に避難した子どももいた。この広場なら火をやり過ごすことができると思ったのだ。しかし、3時過ぎには対岸の県揮発油貯蔵庫が爆発し、逃げ場を失った人々は死んでいる。作文には丘の上から煙にまかれて人びとがばたばたと倒れるのが見えたとある。


(2)朝鮮人がおそってくる、というデマが流れ、不安な夜をすごす。自警団の組織化、そして朝鮮陣への膀胱、虐殺がはじまる。

 「ウワーウワーと叫び声。『朝鮮人だ』『朝鮮人が攻めて来た』といふ声が、とぎれとぎれに聞こえた。…何百何千という山の上に居る人々はただただ朝鮮人が来ない様に神に願より他に道はありませんでした。萬一の用意にと女子供までも短い棒を持った。そして今来るか来るかと私とお母さんは互いにだき合って他の人々とすみの方へ息を殺してつっふして居た。ズドン、ズドンと銃せいの音がする。男の方達は合言葉をきめたり、来たら一打にするぞとあの様に力んでいるが、もし負ける様な事になったら、もしそうなった時にはどうしよう。不安はいっそう高なった。昼間は夢の様な恐ろしい地震にあり、又火事にあい、九死に一生を経て此山に逃出し夜又此朝鮮人さわぎ、どこまで私等は不運なのでしょう…」

 山での野宿が始まった1日目の晩から、朝鮮人襲来の流言が流れ、刀、竹やりなどによる武装、合言葉、紅白の布の目印、交代での夜警など人々が組織だって行くようすがわかる。


(3)目撃された朝鮮人虐殺

 「(2日昼)中村橋の所へ行くと大勢居るから行って見ると朝鮮人がぶたれて居た。こんどは川の中へ投げ込んだ。すると泳いだ日本人がどんどん追いかけて来て両岸から一人ずつ飛込んでとび口でつっとしたら、とうとう死んでしまった。」(横浜植木会社付近)行って見ると、朝鮮人は電信にいわいつけられて、真青な顔をしていました。よその人は、『こいつにくらしいやつだ』といって、竹棒でぶったので、朝鮮人はぐったりと、下へ顔をさげてしまいました。わきにいた人は、ぶってばかりいてはいけない。ちゃんとわけをきいてからでなければいけないと言っていました。朝鮮人は顔を上げながら、かく物をくれと、手まねしていました」

 作文には次々と朝鮮人虐殺の場面が出て来る。その生々しい記述は息をのむばかりであり、時と場所が特定できるものもある。もとより子どもたちが自警団を組織したり、朝鮮人虐殺を引き起こしたわけではない。子どもたちは、震災の不安な夜をデマを信じて虐殺に向かう圧倒的な排外の嵐の中で過ごしたのである。


3.震災作文から学ぶこと:歴史の反省と私たちの課題

 関東大震災は「地震による大きな被害」と「朝鮮人、中国人虐殺」の二つを内容としている。作文もまたこの二つの事柄が書かれている。子どもたちの原稿用紙をそのままにとじた作文集である。先生の感想も添削もない。前書きもなく、作文集をつくった経緯も記されていない。誤字も脱字も訂正されていない。子どもたちが書いたそのままの作文である。作文を読み取ることから、この地域の関東大震災の実相を明らかにすることができた。

 同時に、作文は「朝鮮人が襲ってくる」というデマを信じた側から書かれたものである。したがって、自警団の行動も肯定的に書かれている。デマを信じ、朝鮮人の集団と実際にこの地域で戦っていると思い込んでいる。武器を持ち、大人たちの行動に参加した子どももいる。電信柱にしばられた朝鮮人を棒でぶった子もいた。朝鮮人が集団で日本人を襲った事実はない。「朝鮮人が襲ってくる」などの流言は、根拠のないデマであった。なぜ、多くの日本人が信じ、虐殺にむかってしまったのか、ここに「学ぶべき歴史の反省」がある。

 作文が書かれたのは震災後3ヶ月から半年たった時期であるが、真実が何も伝えられていないことがわかる。あれがデマによる民族的な迫害であり、責任を持ってつぐなうべき社会的な集団殺人であることは何ら教えられず放置されている。子どもたちが聞いたデマ、恐ろしい朝鮮人像は、ついに正されることなく、あの日聞いた喚声やピストルの音、竹やりや刀で武装した大人たちの姿とともにしっかり焼きついていったのである。そして、その後のアジアへの侵略戦争の歴史を思うとき、ここに「私たちがやらねばならない課題」がある。

 震災作文の学習会を続ける中で、作文集をはじめいくつかの資料集を作り伝えてきた。南吉田小学校をはじめ職員研修会が行われ、地域の小中学校で教材化と子どもたちへ取り組みが生まれている。9月に行われたヨコハマハギハッキョでは、中学生たちが震災作文を題材に劇をつくった。現在の中区、南くにまたがるこの作文の地域は、今横浜で最も外国人の多い地域である。この地を再びは以外の地にすることなく、多文化共生の地にすることこそ歴史の反省を踏まえた私たちの課題である。
 
     
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