全朝教大阪 シンポジウム(2005年度第2)
おおさかのちから
~多文化共生教育、未来への展望~
在日朝鮮人教育と、新渡日の子どもたちの教育を考える・・・

200623  大阪市中央青年センター

<はじめに>

 リポートの一つは大阪市内100校目の民族学級にかかわる大阪市民族講師会のリ・ビョンガンさんの報告である。もう一つは新渡日の子どもにかかわる貝塚市立南小の報告である。1970年代から在日朝鮮人教育の重要な取り組みの軸として位置づけ、大阪教組・市教組、考える会、大・市同教(現大・市人教)が長年にわたって積み上げてきた実践の内容・方法の質が新渡日の子どもたちにどのように継承されているのか、実践の何が異なり、何が共通しているのかを明らかにし、共有したいとの思いがある。日教組教研での大阪の在日朝鮮人教育の報告は民族学級の実践を軸に高い評価を受けているが、全国的に見ればその広がりは未だしの感がある。未来を展望するためにも、これまできづいてきたとりくみを総括しながら「おおさかのちから」を確認したい。(文責稲富進・全朝教大阪(考える会)運営委員)

<シンポジウム>

司会 辰野仁美(長橋小・全朝教大阪運営委員)
   正木順一
(十三中・全朝教大阪運営委員)

<報告1>

「子どもの顔が見える取り組み

       ~待ちに待った民族学級~

                大阪市立中道小学校 民族講師

                               リ・ビョンガン(李炳寛)さん(大阪市民族講師会)

 

(中道小に民族学級が誕生するまでのとりくみ―2005年度第55次日教組教研報告集「日本の教育」から。文責稲富進)

 大阪()からは「『先生、私が一番に入るから~子どもと保護者の願いと共に、大阪市内民族学級100校目~』」と題するリポートがあった。この報告は大阪市内で1970年代からとりくまれてきた朝鮮半島にルーツをもつ子どもたちの民族的自覚を育むことを目的として長年とりくまれてきた「民族学級」の100校目としての誕生と、そこにかかわる民族講師の歩みが語られた。

 大阪の生野区、東成区は日本での最多の朝鮮人集住地域である。近隣の学校ではすでに民族学級が開設され長年にわたって大阪市の民族教育(在日朝鮮人教育)の中心的役割を果たす実践がすすめられてきた。これまで諸般の事情で開設をみていなかったが2005年度に朝鮮人の子どもたちや保護者の,ねがいを受けとめ、「めざせ100校目!」とさまざまな出会いと活動によって「民族学級」の誕生をみた。

 まず、地域の朝鮮人の子どもが集う「オリニウンドンへ(子ども民族運動会)」に参加したBの言葉「先生! 中道小にも民族学級できるん?  作って!  できたら私が一番に入るから!」の声に押されて教職員、保護者が活動を始めた。外国籍の子どもだけではなく朝鮮半島にルーツをもつ子どもの把握に努め、子どもや親たちの思いやねがいを受止めることに努めた。他の学校で活動する民族講師や教育委員会の担当者を招き、「民族学級の歴史」「民族学級の活動や成果」「開設に向けた準備の過程」を研修しながら保護者の組織化をすすめ、子どもたちに民族学級を体験させるため、民族講師を招いて具体的な「プレ民族学級」の活動をすすめた。この一連の活動の結果23名の子どもが参加を表明し、多数の朝鮮人保護者が参観し、賛意を表明した。現在は18名が参加し、担当の民族講師が措置され、教員との連携によって週一回の活動が続けられ、子どもの民族的アイデンティティ、自尊感情を高めることに寄与している。

 

 (シンポジウムでの リ・ビョンガンさんの報告概要)

民族学級スタート−民族学級100校目に誇りを! 

 

1 新設100校目の民族講師として

    開講までの過程・新たな抱負、課題克服の契機に

 

 紹介いただきましたリビョンガンです。昨年6月から中道小学校の民族学級を担当しています。大阪市内の00校目の民族学級として新聞にも大きく取り上げなれ注目を集めましたが、開校7年目の新設校だからできたというのではなくて必要なものはどの学校でもつくるということでできた民族学級なんだ、そんな気持ちで担当しています。当初20名の子どもたちで出発したのですが2名の子どもが北中道小に転向し現在は18名で活動しています。1年〜6年間で合同で週1回課外の活動としてやっています。他の地域でも合同でやっているところがあるが、たいへんなんです。同じ一つの活動をするにしても、低学年から高学年の子どもたちを合同でするにはいろんな工夫を必要とします。上級生に低学年の子どもの面倒をみてもらったり、内容や、やりかたを工夫したりしながら進めています。大阪市では民族講師会で作ったカリキュラムに沿って低学年から高学年まで活動しているが学校によってさまざまな事情があり、それぞれにカリキュラムに沿いながらもそれぞれの学校の事情に対応しながらすすめています。

 開設の当初、わたしが心がけたことは、この学校にできた民族学級の最初、みんなの宝物を大切にし、守っていこうという気持ちを子どもたちが持てるよう、また、大阪市の民族学級100校目の節目の最初に活動していることを誇りに思える子どもたちになってほしいとのねがいで努力しています。

 

2 民族学級スタート

        45分の活動を大切に・新鮮な喜び、大きな拠り所

    自分たちの砦にふさわしい民族学級を!~アボヂ・オモニの協力で

 

 出発当初、殺風景で子どもたちの表情も緊張気味だった教室を子どもたちの拠りどころにふさわしい環境、暖かい環境につくりかえようと努めた。そこにはアボヂ・オモニの協力があった。保護者の思いもあって、チマ・チョゴリの見本を持ってきてくれたオモニや、朝鮮人形を飾ってくれたハルモ二、置物を持ってきてくれた保護者、遊びの道具を持ってきてくれたオモニとか、しだいにそれらしい、なごやかな雰囲気になってきました。子どもたちも緊張が解けてすすんで自分たちの教室を調えようと活気が出てきました。「うちにもっと大きな人形あるよ。」と持ってきたり、チマ・チョゴリを見て「これ、着たことあるよ」と弾んだ声で話しかけてきたり、ハングル文字の表を見て,「この字わたしのイルムにあるわ」などなど、「民族学級」にふさわしい雰囲気になった。教室の環境を整えることで絆が深まっていったように思います。

 学校の配慮もあって民族学級にたくさんのチャンゴなどの民族楽器、朝鮮の遊び道具などが備えられ、子どもたち一人一ひとりが見、触れ、使うことができるようになりました。このことが子どもたちにとって重要な意味を持ちます。中道小だけが特別ということではなく他の民族学級でもそういう環境を整えることに力を入れているところが多いのですがそれには意味があります。民族学級がありそこにチマ・チョゴリがあり、民族楽器に触れ、それを使うそんな活動の中で、これまで家にチマ・チョゴリがあってもなんの印象をもつでもなかったものが特別の印象を持ってその子どもに受けとめられるようになるのです。わたしと子どもたちもこんな環境の中で生活のレベルでも深いつながりができていったように思います。

 

3 六年生の子どもとの出会い

        「自分が一番に入る」、「チョン・ミョンと呼んで」、卒業までにできること

 

 次に、中道小の民族学級が子どもの声に押されて開設されたといういきさつについて。レジメには頭文字で書いていますが、民族学級でわたしたちはチョン・ミョン(仮名)と呼んでいる女の子の話をします。「私の本名はチョン・ミョンというんよ。チョン・ミョンと呼んで!」というものですから今みんなそう呼んでいます。この子が3年前に転校してきたんですが、転校する一年前にその学校に民族学校ができてそこで活動していたんですね。中道小に転校してきて、民族学級がないのでたいへん残念がっていたようです。地域の民族行事に参加するときなど、ことあるたびに「中道小に民族学校があったらいいのに…」といっていたようです。前の学校の民族講師に出会ったとき、中道小でも民族学級を作るというように準備しているようだと聞いてたいへん喜んでいた。「民族学級ができたらわたしが一番にはいるわ」そういってたいへん喜んでいたということをわたしは聞いていました。この話を聞いてわたしはいっそう身の引き締まる思いがしました。目を輝かせて「民族学級ができたら、わたし一番に入るわ」と目を輝かせた子どもの思いにどう応えることができるか、彼女が6年を卒業するまで民族的な自覚や素養をどう膨らませることができるか、それがわたしの使命なんだと改めて決意しました。

 しかし、彼女は二学期になって民族学級に顔を見せることが少なくなりました。それには進学問題が絡んでいました。校区の公立の玉津中学に進学するのでなく私立の学校に進学させたいとの保護者の考えが明らかになったのでした。その受験を前に勉強しなくてはいけないという事情がわかりました。あんなに民族学級の活動に意欲をみせていたのに、わたしとしては思い悩みました。このままではわたしの気持ちは伝わらないし、これまでのことが彼女にとってなんだったのかと、保護者とも、彼女とも突っ込んで話してみよう、思いも伝えたいと三学期になって彼女の気持ちを聞いてみました。

 アボヂもオモニも韓国から来日し、チョンは日本で生まれ育った。だから家庭は民族的で子どもの教育についても自然に民族的なものを受け入れていったようです。両親は子どもが民族的なものを受け継いで育つよう望んでいることがわかった。そこで、校区の玉津中には民族学級のあること、彼女がどんな進路を選ぼうともアボヂ・オモニの思いを大切に民族的な資質を大事にしてほしいとのわたしのねがいや、思いを語りながら卒業証書の本名記載のこと、本名での読み上げのことなど話し合いました。

 彼女は「卒業証書をチョン・ミョンで呼ばれて受けとりたい」との気持ちも伝えてくれた。ただ、卒業後もチョン・ミョンでいけるかは自信がないようだった。そこには、日本社会の、そして彼女の周りの厳しい状況の中で揺れ動く姿があった。チョンの民族学級がほしいとの思いから中道小学校の民族学級ができた。その民族的な思いは彼女の生きる道できっと「生きる力」「アイデンティティ」の形成につながっていく。中道小学校の教師たちと密接に連携しながら「民族学級」を守り発展させたいと改めて考えています。

 今、民族学級には1年生から5年生が活発に活動しています。チョン・ミョンが抱いた民族的な思いはこの子どもたちにとっても同じように彼らの「生きる力」「アイデンティティ」を作ることにつながるものと考えています。

 

4 中道小の教職員とともに創る

        部会、連携・子どもが中心に・「やれるときにやりましょう」

 

 民族講師が一人で週1回、その学校の民族学級を担当するのはたいへんです。やはりその学校の教職員や保護者と連携しともに創っていかないといけないと思います。まして招聘事業の民族講師として学校に根付くということは実際、たいへんきびしいものです。週1回の民族学級の活動で学校に根付くということが物理的にどういうことなのか、精神的にどういうことなのかということで、改めてその厳しさを感じています。やはり、一週間の活動と次の一週間をどうつないでいくかは先生方との連携ということに尽きると思います。その点、中道小は各学年一学級で、民族学級の運営を担任と固く連携しながらすすめることができ、月に一回かならず、ときには管理職を交えて民族学級の運営、活動のなかみ、子どもの様子など話し合う場に参加できることはたいへん大きいことだと思っています。

 民族学級がはじまってしばらくして、高学年の子どもが民族学級に参加することが少ししんどいような様子を感じたことがありました。見過ごしがちなそんな様子を会議で話し、何があるのかわたしは子どもたちにアンケート調査することを提案しました。そのときも先生方が積極的に協力していただき、中には子どもに聞き取りをしていただいた先生もいました。アンケート自体はごく簡単なもので、「民族学級がてよかったこと」「不満に思っていること」「これからやりたいこと」の3点でしたが一見、簡単なこのようなことが大事なんです。先生方が「民族学級は民族講師に任せる」というのでなく、「ともに創る」という意識で連携していただくことが重要だと考えています。そう連携が必ずしもうまくいかない学校もあります。「民族学級」の運営の主体は「学校」「教職員」「民族講師」の一体のものなんだという意識をつくっていきたいものです。

 今、中道小の「民族学級」にかかわっていて教職員との連携がわたしの活動の支えになっていることを実感しています。

 

5 民族学級を支える保護者会

      子どものためにできることは?

 

 このように「民族学級」をめぐるさまざまな課題を話し合う定期的な部会に参加して、課題を解決してきました。新たな取り組みを立ち上げるとき、取り組みのすすみ具合だとか周りの反応だとか様子を見ながら少しずつ課題に取り組んでいきますが中道小の場合、先生方のとの積極的な連携によって、とりくみの勢いがあるときに、「やれるときにやりましょう」と保護者会の立ち上げも民族学級開設後そんなに日を置かないですることができました。保護者会の中の中心となって取りまとめてくれる保護者もでてきて、環境作りや活動の中身についても提案がされるようになってきました。バザーのときに民族保護者会として物品の販売、食料品の販売や、チャンゴコーナーなど話し合いながら活動がすすめられています。

 

6 これから

 

 部会での先生方との提携がわたしの元気の源になっています。昨年6月に発足して約8カ月が経過しますが、この連携を大事にしていきたい。本名の問題にしても部会の中で本名の正しい表記、読み方を話し合い、「呼び、名のる」取り組みをすすめることも確認しています。発足8カ月ということで成果としてお話できることはまだないけれど、あえて言うなら、開設当初に私自身が持った緊張感をもちながらすすめられたことによって、考えに沿って軌道に乗りつつあることかなと考えています。今後も先生方と積み重ねた中身を発展させたいし、ルーツを持つ子どもを結集させる活動などわたしのやるべきことを緊張感を持続させてがんばりたい。最後に、中道小に「民族学級」ができたことによって朝鮮半島にルーツを持つ子どもたちや、親たちに変化が起き、元気が出てきたそのことが重要なことだと強調したい。

 

(司会) リ・ビョンガンさんありがとうございました。まずこの報告に関して質問を受けたいと思います。

 

(稲富) お話の中で民族学級が始まってしばらくしてから高学年の子どもがどうも民族学級にくるのがしんどいというようなようすに気づいて、というお話をされましたが、原因は何だったんでしょう? 原学級で何かあったんでしょうか? もう少し詳しく教えてください。

(李) 活動が手探りの状態のころ、活動が単純で飽きがきたり、逆に難しすぎたりというようなことがあったりしたのではないかと今考えています。

(稲富) わたしが聞きたかったのは原学級でなにか問題があったのではないか、そう思ったからこういう質問をしたのです。

(李) 活動の内容に問題があるのでは、と考えてアンケートをお願いしたんです。だから原学級のことは部会では出てこなかった。

司会 今のご質問について中道小のどなたか、原学級の様子などお話いただけるとありがたいのですが・・・

(中道小) ただいまの質問の視点から言うと、原学級の問題というよりは、やはりソンセンニムのいわれたとおり活動がその子どもにとって単純すぎて面白くなかったり、逆に難しすぎてというような問題であったように思います。学級の他の活動を見ていてもそう思えるので…

(司会) 「民族学級」が開設され8カ月ということですが、今時点で見えてきたこと、などお話いただきたいのですが。

(中道小) 学校全体として言えるわけではないのですが、私自身のことで言うと、ずっと高学年の担当が多く、自分なりに朝鮮人の子どもに寄り添って民族的なものを大切にと民族教育で言われてきたことを実践してきたとは思っているんです。しかし、ソンセンニムとミョンさんとの 関係で「本名で卒業証書を受け取りたい」と思いを伝えたとの報告がありましたが、これまでの私のとりくみでそのような関係をつくりだすことは一度もなかった。「ミョンの思い」をしっかり受け止めて民族学級を担当していきたいと決意を語られたその思いを、わたしなりに今後の部会の話し合い、自分自身の学級経営にうけとめていきたい。

 

(民族講師) わたしは中道小に民族学級ができると聞いたとき「そんなん嘘や、できるはずない」と、晴天の霹靂というような気持ちで「民族学級100校目」のニュースを聞きました。私自身が中道小の卒業生なんです。2年から6年まで同じ担任でしかもずつといやな思いとしてしか残らないような関係でしたから、そんな学校に民族学級なんかできっこないとずっとそう思ってましたし、全学校に民族学級をといい続けていても、最後の最後にしかできない、と、そう思っていました。それができるには地域への根回し、議会への説得、教職員の議論などさまざまな困難があっただろう、そのエネルギーはたいへんだっただろうと思う。そういう前提を置きながら質問したいと思います。

 民族学級の開設、講師の配置、運営の日本人教職員の提携など、当初のシステムがだんだん形骸化していくことがあるように感じている。実際そうなっている学校もいくつかあるように思います。そのあたりどのように考えておられるか聞かせてほしい。

(司会)たいへんいい質問で、あとの全体討論で中身を深めたいと思います。

 

<報告2>

「作って・食べて・しゃべろう会

   −南小学校の保護者をつなぐとりくみ」

                             貝塚市立南小学校 人権教育委員会

 

         寺田知代さん(てらだのりよ、貝塚市立南小学校)・山下郁代さん(保護者)

         キム・センジュンさん(金生遵、民族講師)

はじめに

 

 現在、南小学校には在日外国人の家庭がたくさんある。そのほとんどが国際結婚によるもので、ペルー、ニュージーランド、フイリピン、中国、韓国など国はさまざまである。どの家庭も学校のとりくみに協力的で、総合学習のゲストティーチャーとして、それぞれの国の遊びや料理などを子どもたちに教えてくださっていた。その元気な保護者たちが顔を合わせ、話ができる場を校内で作りたいと考え、「作って・食べて・しゃべろう会」をスタートさせた。

 「保護者同士のつながりを作ろう、学校こそがその中核の役割を果たそう!」それがわたしたちの考えだった。多文化共生の学校づくりは文化の異なる外国人の保護者同士、そしてわたしたちがつながること―そう考えるところからの出発だった。

 

2001年度のとりくみ

 

第1回「作って・食べて・しゃべろう会」

 人権教育委員会で保護者にはたらきかけ、料理を決めて1学期の終業式の日の午後に実施した。

 これまでのつながりで、Aさん(韓国)とBさん(フィリピン)の二人が料理の中心になってくれた。1年生の保護者であるCさん(ニュージーランド)、Dさん(ペルー)も積極的に参加してくれた。暑い中、ピビンパブ、ネンミョン(そーめん入り冷たいスープ)ハロハロ(フィリピン風かき氷)などの料理がてぎわよくできあがっていった。教師・保護者・子どもが話しをしながら試食した。Bさんは自分の友だちに声をかけたり、同じ幼稚園の外国人の保護者にも声をかけるなど、交流の輪を広げてくれた。この会に参加してくれたCさんDさんは、以後の市外教の行事にも積極的に参加してくれている。

 

第2回「出かけて食べてしゃべろう会」

 秋は各地で色々なイベントが催されるが、その中のひとつである「マイ・マイ・フェスティバル」(大阪市同和地区総合福祉センター・多文化のつどい)に参加した。Cさん親子、教師4名が参加した。気さくな Cさんは会場の雰囲気にすぐにとけ込み、ゲームに参加したり、買い物を楽しんだりしていた。この日、Cさんにさそっていただき、CさんやDさんが所属している「貝塚国際交流協会」関連の行事に後日参加していった。

 11月23日  ふれあい交流会 関西国際センター

 12月 7日  ワールドミュージックフェスティバル 関西国際センター

 1月 20日  あつまろかい 交流パーティー

 

第3回「遊んで笑ってしゃべろう会」

 市外教(泉南地区外教)の行事にCさん、Dさん、Eさん(中国)親子が参加した。ボウリングを楽しみ、3人の保護者たちはすぐにうち解けた。特にEさんは中央小の保護者(中国)とも交流し、後日家に招いたそうだ。このつながりがきっかけになって、Eさんは中央小のクラブやワンワールド(民族教室)に講師として招かれた。

 

 2001年度は3回の「しゃべろう会」を行った。料理を作って食べる。出かけて多文化を体験する。遊んで交流を深める。というように目先を変えて企画した。これら3回の「しゃべろう会」の合間に貝塚市外教・泉南地区外教の行事があったが、C(ニュージランド国籍の母)さん、D(ペルー国籍の父)さんを中心に多数の参加があった。参加のない保護者にも、行事のの様子を書いた通信やおさそいのチラシを届けることで、校内の活動や市内の取り組みの様子を知っておいてもらうようにした。

 そんな中でDさんは行事のあるごとに感想を寄せてくれた。色々な行事に参加していくことで、1年生のDさんが、お父さんの国(ペルー)により興味をもつようになり、市の公民館で行われているスペイン語の講座にもお母さんと一緒に出かけ、意欲的になっているということだった。1年生のDさんが自分の名前を意識しだした時、色々な文化をもつひとたちとの出会いが、彼女の中でささえのような役割をはたしてくれるのではないかと思う。

 Dさんは以前奈良で、得意のスペイン語を生かし通訳として外国人労働者の支援をされていた。「奈良保証人バンク」(外国人労働者の就労を保障する取り組み)の冊子を届けて下さった。今後の南校の保護者のつながりを考えていくうえで、ひとつの示唆をいただいたように思った。

 

2002年度のとりくみ

 

 2002年度もそれまで3回の「しゃべろう会」を継続し、このとりくみによって外国人の保護者のつながりの広がりと深まりを目指した。

 

第4回「出会って笑ってしゃべろう会」5月24日(金)

 家庭訪問後、各担任からそれぞれの家庭訪問で出た保護者からの要望などを聞いた。日本語に対する不安、在日外国人としての家庭の状況を子どもたちにどう伝えていくかなど、各担任が保護者から受け取ってきたおもいを南校としてしっかり受け止めなければならないと考えた。そこで、2002年度第1回多文化のつどいとして、「出会って笑ってしゃべろう会」を行った。

 Aさん(韓国)、Cさん(ニュージーランド)、Dさん(ペルー)、Eさん(中国)、Fさん(韓国)の5人のお母さんが、子どもたちと参加してくれた。Fさんは1年生の保護者で、はじめての参加であったが、事前にAさんがFさんに電話で連絡を取ってくださったので、お仕事の合間をぬって参加してくださった。

 南校としては次回7月19日に「作って食べてしゃべろう会」を予定していたが、その二日後の7月21日に泉南地区外教の「泉南地区集まれ子どもたち」があった。今年度の「泉南地区集まれ子どもたち」は、料理や遊びの紹介に保護者の協力をお願いしようと考えていたので、今回の「しゃべろう会」でそのむねをお願いした。料理の話になり、各保護者がそれぞれの自慢料理を紹介してくれた。5人の保護者どうしで話が盛りあがり、Fさんも他の保護者とうちとけることができたようだ。

 

 このすぐあとに市外教の顔合わせの行事「集まれ子どもたち」があった。南校からは6人の子どもたちと、CさんDさんの二人が参加してくれた。二人の保護者は、子どもたちと一緒にゲームなどに参加するとともに、他校の保護者とも交流を深めていた。

 Aさん、Cさん、Dさん、Eさんは、市内の小学校や熊取の小学校からの依頼を受けて、ゲストティーチャーとして出向いてくださったり、継続して校内の英語クラブで講師をしてくださったり、学校からのお願いを快く引き受けてくださっている。

 

第5回「作って食べてしゃべろう会 7月19日

 1学期の終業式の日、Aさん、Cさん、Dさんが講師になってくれて「作って食べてしゃべろう会」を行った。AさんはFさんに連絡を取り、二人で協力してテンジャン・チゲを作ってくださった。韓国では暑いときにこそ健康のために野菜をたっぷりとるそうで、サニーレタスにキクナにごはん、そこにチゲの具をのせていただくという食べ方も新鮮で大好評だった。CさんDさんは、いずれもたまご料理を作ってくださった。それぞれに独特な味がしてとてもおいしかった。また、Dさんはマサモーラという、ペルー特産の紫トウモロコシをつかったデザートを事前に用意して冷たくひやして持参してくださった。古代インカ帝国では、紫は不思議な力をもつ色だった・・・というお話を聞きながらいただいた。

 

 Cさん、Dさんは、7月21日の「泉南地区集まれ子どもたち」でも今回のたまご料理を作ってくださった。Dさんは、初めの自己紹介の場面にも協力してくださり、「カーサ・イ・オンブレ」という遊びを子どもたちに教えてくださった。

 

第6回「出かけて食べてしゃべろう会」

@ ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレンミュージカル公演 1019

  府外教の支援している公演が貝塚市内であったため参加を呼びかけてみたところ、Bさん(フィリピン)親子と、Cさん(ニュージランド)親子が参加してくれた。Bさんは前日に行われた劇団の子どもたちと、南校国際クラブの交流会にも参加してくれて、劇団のスタッフともうち解け、インタビューを受けていた。(フィリピン国内のテレビで放送予定)。公演の中でフィリピンの子どもたちが日本人の父親に会いたいと訴えるシーンでは、Bさんは涙ぐんでいた。お母さんに寄り添うようにして6年生のBさんも舞台に見いっていた。

A 生野民族文化祭 1027

 6年生のBさん、G(中国)さん二人だけの参加であった。普段、同じクラスでも余りしゃべらない二人だったが行きも帰りも楽しそうにすごしていた。

B マイ・マイ・フェスティバル 1110

 Cさん親子、Dさん親子、3年生のAさんと、6年生のGさん、Cさんの近所のKさん親子が参加してくれた。在日外国人労働者を支援するためのイベントで、いろいろな国の食べ物や、小物の店や舞台での民族芸能の発表があった。それぞれが自由に楽しみながら時間をすごした。

 

 「出かけて食べてしゃべろう会」は、3つのイベントを紹介して自由に参加してもらおうと考えた。終わってみると、それぞれにちがう意味をもった活動になり今後の「しゃべろう会」を考えていくうえでの課題がみえてきたように思う。

 保護者をつなぎたいという思いからスタートした「しゃべろう会」であるが、顔をあわせ、話をする機会が増えるごとに、それぞれの保護者の間で話のできる関係ができつつあるようだ。

 @の劇を見た後、BさんとDさんは劇の内容についてかなり話しこんでいた。また偶然にも堺から劇を見に来ていたフィリピン人のJさんがCさんの友人だった。Cさんの紹介でBさんとJさんは友だちになり、お互いに連絡先を聞き合っていた。1回目の「しゃべろう会」以来、なかなか参加が実現しなかったBさんであったが、この日はとても楽しそうであった。この参加がきっかけになってAの「民族文化祭」に6年生の児童が二人で参加することになったが、学校ではなかなか二人きりで話する機会がないようで、この日はそれそれの家の様子などをしゃべりあっている中で、数日前のけんかの仲直りをする場面もあった。友だちの手前お互いを素直に出せない状況があるようである。校内でも、この子どもたちがじっくりと話のできる時間や場所が必要であることを痛感した。

 Bの「マイマイフェスティバル」にはCさんの近所のKさんが参加してくれたが、Cさんは夏の「泉州地区集まれ子どもたち」にも近所のNさんをさそって一緒に参加してくれた。またDさんも、同じ保育所の保護者で最近韓国から来られたばかりの方を誘ってくださったこともあった。保護者自身が在日外国人日本人の区別なくつながりをひろげ

ていってくれている。

 めぐまれたことに、南校には中国、韓国、フィリピン、ペルー、ニュージーランドなどさまざまな国の文化をつ保護者がいる。その人たちを通じて、子どもたちは色々な国の異なる文化を学ぶことができる。それぞれのちがいを認め、尊重しあえる豊かな関係をつくっていけるように「しゃべろう会」の活動を今後も継続していきたいと思う。

 

 

 また、このつながりをとおして、Aさん、Cさん、Dさん、Eさんは貝塚市内の小学校や熊取の小学校からの依頼を受けてゲストティチャーとして出向いたり、継続して英語のクラブの講師をしてくれたり学校からの依頼に快く応じてくれている。

 

「民族学級」の開設を目指して 2005年度のとりくみ

 

 2001年度から継続してきた「しゃべろう会」は継続することが大切だ。保護者が参加し、それぞれか地域の外国人とつながる。保護者のつながりが子どもたちのつながりをつくる。

 わたしたちは継続することに努めた。他の学校の保護者ともつながり始めた。「しゃべろう会」のお母さんが「南っ子広場」の講師になって活動が全校に広がる。11月には「水餃子づくり」、1月には「キムチ漬け体験」を通して南校全校に、そして他の学校にもとりくみが広がっている。

 恵まれたことに、南校には中国、韓国、フィリピン、ペルー、ニュージーランドなどさまざまな国の文化を持った保護者がいる。その人たちを通じて子どもたちは多様な国の文化をまなぶことができる。それぞれのちがいを認め尊重し合えるえるゆたかな関係をつくっていけるよう「しゃべろう会」の活動は今後も継続していきたい。

 

その後の取り組み・まとめ

 

 土曜日の午前に貝塚の地域の大人や子どもが「みなみっこひろば」に集まる。そこでは山下さんから教えていただいたペルーの缶けりの遊びもする。

 

(山下郁代さん)

 1990年代から(註:19906月の「出入国管理及び難民認定法」の改正によって)大勢の日系人が南米から日本に来ることになった。日系3世のペルー人である夫にとって、「日本にいるのやったら日本語話せ」と電車の中で見ず知らずの人に言われたり、母語(スペイン語)の中で生活できないストレス、くやしさを日々感じる生活がある。塩と砂糖と味の素の区別もつかないというような不便さ、また、労働条件、賃金、補償、休みについても不利なことが多い。そうしたことによって、人間としての尊厳を傷つけられる、それがつらいことだ。

 子どもは二重国籍で、日本名とスペイン名がある。家ではスペイン語で話していても、学校の先生方は、外国人だから当然という反応で、いわば無視するような状態が多い。その中で、子どもはスペイン語をいやがり、お父さんは日本人、と言うようになる。それは反面、日本人も英語を話さない外国人との交流の機会をのがすということになるのではないか。そうした中で、父親のルーツに対する自尊心をどうしたら持たせることができるのかが、大切なことだった。

  「しゃべろう会」のつどいに参加して先生方を知り、5年の間に他の保護者ともつながりあうことができた。それは学校の継続的な取り組みがあったことのおかげだと思う。それによって、これまで日本という外国に来て涙を流したこと、それを明るく強く乗り越えようという気持ちや安心感が生まれてきた。

 夏に朝鮮初級学校の見学会があり、参加した娘は大きな影響を受けて帰ってきた。娘がそれ以後スペイン語を受け入れはじめた。学校の総合学習の時間にもペルーについて学ぶ中で、父からの聞き取りもするようになり、母親が学校に行って、クラスでゲストティーチャーとして話してみんなが興味深く聞くという機会もできた。くす玉の中のお菓子を取り合うピニャタという遊びもみんなでして喜ばれた。時間をかけ、回数をかけて、少しずつ理解が進んでいく。娘が3年の時には、日本人の友だちから「人前ではそんなこと(ペルーのこと)言わない方がいい」と言われていた。3年生の子どもがもう大人の社会のものの見方を感じ取り身につけている。

 

(寺田)

 子どもが「プラスの気づき」ができるような行事を考えたい。冬にはキムチ作りもしている。現在、在日朝鮮人の家庭は応じてくださっていないし、参加について説得もできていないが、南校はとにかく継続してやっていくという姿勢で続けている。3年目の今年は、保護者に集まってもらい、キムチをつけて、金先生にお話ししていただいた。広く保護者の中に理解のすそ野を広げることを目的にしている。

 今年度二中の民族学級の予算枠の分が南校につくことになり、中国語に積極的な子どもがいるので、中国語講座からはじめて南校に中国語クラブをつくりたいと考えている。

 

(金生遵ソンセンニム)

 摂津、守口、貝塚で民族学級に関わってきた。9年前に貝塚に来て、その時には小学校1、中学校1の民族学級があって、月一回、生野やウリハッキョへのフィールドワークもおこなっていた。その後、予算減で年間10回が5回に減ったが、それを校内予算で10回体制を維持していた。しかし、子どもの減少や、結集のむつかしさによって、今年度から2つの民族学級が休止状態になった。

 今日も貝塚東小で6年生の授業に入り、公民館での講座もおこなってきたが、しかし今年は中心になるものがないように感じる。在日朝鮮人の子どものことを考えれば、一日も早い再開をめざしたいと思うし、また、少数在籍の中で、一人の子どもを育てていくむつかしさ、きびしさを痛感している。

 

(寺田)

 南校の多文化共生の取り組みをさらに強めていきたい。具体的には学校内に「民族学級」的な場を作りたい。民族的マイノリティの子どもたちが同じ立場の者どうし、自分をだせる、そんな「場所」づくりである。予算など教育条件を整えることは困難だががんばっていきたい。

 

<シンポジウム全体をふりかえって>

 

1 シンポジウムで何が語り合われたか。

 

・リ・ビョンガンさんの報告、貝塚南小学校の報告から何を学ぶか。

・在日朝鮮人の子どもにとっても、新渡日の子供にとってもマイノリティの立場の子どもたちにとって「民族学級」の存在そのものがその子どもたちの生きる力、アイデンティティの形成に欠くことのできないものであること。

「民族学級」がマイノリティの子どもにとって欠くことのできない宝物だとの報告に会った。それは民族学級を開設している学校の財産である。  

「民族学級」の活動内容、運営、評価の検討全般について民族講師を含む教職員の一体となる連携が成否を決める。民族学級の活動について原学級での集団づくりに生かされているか、原学級でのマイノリティの子どもの様子が民族学級の活動に生かされているか、などなど連携すべき課題は多い。

在日朝鮮人の子どもの教育課題と、新渡日の子どもの教育課題と共通性と異質性については、在日朝鮮人の子どもであれ、新渡日の子どもであれ、アイデンティティの形成にとって民族的自覚、ルーツへの自覚や誇りをどのように培うかが共通した課題である。新渡日の子どもには日本の学校、社会に適応するための日本語や日本文化への適応などの課題もある。「民族学級」や「国際教室」「日本語教室」は欠くことのできない教育環境であり、条件である。リ・ビョンガン報告が強調していたし、貝塚南小学校報告もそれを示唆している。

保護者のつながり、活動、子どもたちへの支えが重要との指摘が双方の報告にあらわれていた。国際結婚、就労のために来日(滞日)している外国人、および、その子どもたちにとって異文化の中での社会、学校生活は想像を超えた厳しいものであろう。いずれの報告も「子どもに寄り添う」教師の姿勢がにじみ出ていて「人権」を軸にすえた学ぶべき内容であった。

 

2 民族学級大阪市内100校目の今日的意味

 

424阪神教育闘争後、厳しい抑圧と差別を乗り越え民族教育権を取り戻す人権獲得運動を、たゆまずを継続したこと、また、これに連帯する日教組に結集する教職員組合、人権教育運動の拡大・深化に努めた全朝教を始め日本人諸団体の成果である。

民族教育権を改めて自覚的にとらえよう!〜国際社会においては民族的少数者の「民族教育権」「在住する国において教育を受ける権利」を国際人権文書(国際人権規約(自由権規約27)、国連「マイノリティの権利宣言」(自由権規約27条を発展させた宣言)、「教育を受ける権利」「言語、民族文化、宗教等、民族教育を受ける権利」を保障している。国連の「権利委員会」は日本政府に対して日本の民族教育権を抑圧している現状に懸念の見解を表明している。わたしたちの運動・実践は多文化共生の未来をきり拓くものだ。

 

3 多文化共生社会の外国人に対する排外の深刻な実態

 

・在日(滞日)外国人の子どもの就学状況の面から深刻な実態を捉えてみよう。

 教育総研報告書2003(日教組国民教育文化総合研究所)によれば

  日本の学校に就学     約40%

   民族学校、外国人学校   約30%  

  帰国や転校のため把握不能 約20%

   不登校・不就学      約10% (調査結果から推定)

である。この数字−不登校・不就学 約10%の意味するもの、それは、この実態が国際人権諸条約に抵触していることである。

 

4 「おおさかのちから」をどのようにとらえるか。

 

・運動・実践のちから

 大阪には、戦後、民族教育に加えられた弾圧・抑圧に対する在日朝鮮人の抵抗の民族運動が脈々と引き継がれている。その運動に連帯する運動の軌跡が日教組の教育運動に継承されている。その中心におおさかが存在している。1950年代の西今里中(朝鮮人学校)1960年代の生野・東成地域の「朝問教」の活動、1970年初頭「長橋小民族学級」の開設にともに闘った「考える会(全朝教大阪)」の運動、1990年代、民族学級の拡大、民族講師の身分保障の闘いに結集した「大阪府・市教組」「民促協」「全朝教(考える会)」「大阪府・市外教、大・市同教」の総力をあわせた闘いの歴史がある。今日の在日(滞日)外国人の人権問題、その子どもたちの教育課題の実践を提起し続けてきた解放運動の軌跡である。こうした運動の歴史ひきついでを取り組みに生かしていくことが未来をきり開く「ちから」になる。

・成果を具体的に捉える~国籍条項撤廃の闘い(地方公務員、公立学校教員の採用、民族講師の配置、身分保障の一定の前進)

・教育内容・方法の闘い~在日外国人教育基本方針の策定と、それに基づく教育施策(民族学級・民族クラブ・集い・国際教室、朝鮮語科目の拡大)等々。

・全国の地方自治体への波及~基本方針の策定6都府県60余市町村が策定

・公立学校教員の任用は常勤講師という制約(制度的差別)の下ではあるが、次のように進んできた。

    2005年度現在 大阪府  42   大阪市  37

                  兵庫県   3  神戸市  15

         京都市   9

                  東京都 義務制 1人  高校 6

         千葉県 義務制 8(外国語教育のための配置)

 このようにみれば「おおさかのちから」は具体的にも発揮されてきたが、全国的にみればその「ちから」が発信できているとはいえない。 

 在日(滞日)外国人にとって住みやすい日本、共生のできる社会・学校を作ること。わたしたちの歩みはこれからだ。

 

5 日教組への要請 

 

 1月下旬 日教組三重全国教研「国際連帯の教育」分科会で日本の学校に学ぶ外国人の子どもの教育実践の交流が勧められた。締めくくりとして日教組に次のようなことを要請した。(司会者宮木謙吉「大阪市教組」の記録から)

@ ニューカマーの子どもに対する高校奨学金制度適用の途をひらくとりくみ

A 各都道府県の「在日外国人教育基本方針(指導指針)」策定状況調査

B 日教組としての各県教組への調査

・各県学校園の外国籍児童・生徒数(在籍確認)

・公簿の本名記載  ・外国人に対する母語保障

C 外国籍教員の処遇にかかわって

外国籍教員(常勤)の各都道府県別の雇用状況

「常勤講師」としての任用から「教諭」に任用すること

管理職登用の途をひらくこと

 

6 おわりに

 2007年問題が巷間さかんにいわれる。教育界も例外ではない。とりわけこれまで積み上げ継承してきた人権教育の理念・実践方法(内容)、システムの次代への継承はとりわけ緊要な課題だ。シンポジゥムで民族講師の一人がするどく指摘したが、実践の形骸化の問題である。「団塊の世代」といわれる教員の退職は現実のものである。教育現場、教職員組合、教育運動を積み上げてきた諸団体すべてが当面している課題だ。「大阪の力」を結集してのりきっていきたい。

 

     
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