大阪市立梅南中学校朝鮮文化研究部30周年記念誌より
在日外国人教育担当から
大溝義久(東住吉中学校)

30周年にお招きいただきありがとうございました。懐かしい方に会えて大変うれしく思いました。

私は朝文研の創設期に関わらせていただきました。朴正恵ソンセンニムとの出会い。周りの生徒の目を気にしながらも勇気を持って初めて文化祭の舞台でカヤグムを演奏した女子。日頃はやんちゃしながらも朝文研では頑張った男子生徒たちとの出会いなど、このときの経験がその後の教師生活に大きな影響を与えてくれました。校長になった今でもその心は大事にしているつもりです。

また、オモニ達との出会いもいい思い出になっています。おいしい韓国料理もいろいろ食べさせていただきました。

校長として梅南中に戻ってからも忘れられない思い出がたくさんあります。とくに最後の卒業式です。オモニ達がチョゴリを着て参加してくれた時はほんとに感動しました。

これからも梅南中の朝文研が、ますます発展していくことを心からお祈りしています。


30周年をふりかえる一校内研修会より一》

栗田珠美(我孫子中学校)

私が新任教員の頃、部活動の中で在日朝鮮人生徒と出会い、まず、その立場の弱さを実感しました。また、当時、私立高校の入試要項の中に・「外国人はのぞく」とはっきりと書かれていたり、様々なところで、在日朝鮮人が外国人として排除されるのが、当然のような風潮に疑問を感じ、いろんな勉強会を通して、在日朝鮮人教育に関わるようになっていきました。

そして、1974年、創立2年目の梅南中学校に赴任することになったのです。

その当時はまだ、朝鮮人に対する社会的な排除も厳しい状況でした。それでも、「本名を名のる」ことを推し進めようとしていた梅南中学校でしたが、子どもの生活背景の厳しさや「本名」を名のったあと、日本人生徒への十分な働きかけや取り組みが少なかったこともあり、その取り組みは十分ではなかったと思います。そして、様々な理由の中で、荒れの状況の中にいる在日朝鮮人生徒もたくさんいました。

そんな、朝鮮人の生徒をなんとか、結集させていきたいと思い、何人かの教員有志が生徒に呼びかけて、夏休みに玉川峡に集まり合宿をしました。約20人の在日朝鮮人の生徒が集まりました。そのまま、集まった1年生を中心に、「朝鮮文化研究クラブ」として、活動を始めたのでした。1975年のことです。その時は、まだ、日本人教員だけで、関わっていたのですが、若い教員が多く、とにかく手探りで生徒と一緒に、言葉や料理を学んでいきました。

1978年 西成に住む朴正恵ソンセンニムが、民族講師として梅南中に教えに来ていただけることになりました。このことは子どもたちにはとても大きく、自分たちと同じ民族につながりを持つソンセンニムとの出会いによって、子どもたちはどんどん変わっていきました。そして、その年の文化祭、朝文研に集まる子どもたちは、ソンセンニムの指導で、初めてチョゴリを着てカヤグムを演奏したのです。この時の子どもたちの思いと、緊張はどんなものだったのだろうと思います。

そのころ私たちは、出会った子どもたちや親と、体当たりでぶっかっていきました。その中から、日本人教員として自分はいったい何ができるのか、毎日毎日悩みながら、懸命に取り組みました。

そして、朝文研に結集した子どもたちは、やがて、本名を名のり胸を張って卒業していきました。その子どもたちが、卒業しても集まれる場所を作ろうと、卒業生の会(希望花の会‥‥フィマンファの会)を発足させていったのです。

そして、卒業生だけではなく、学校を越えて韓国・朝鮮につながる子どもたちが集える場を作ろうという思いから、「西成民族交流会」(現在の『子ども民族交流会』)を立ち上げていきました。

1986年、私は次に住之江区の住之江中学校に赴任しましたが、梅南中学校とはまた違う状況がありました。少数在籍校で、子どもに声をかけるのも、梅南中学校のようにはいかず、とまどいながら、それでもねばり強く声をかけていきました。そんなことを続けていく中で、住之江中学校でも民族学級を立ち上げていきました。

やがて、次の我孫子中学校でも、民族学級との関わりを続けていったのですが、今度は梅南中学校の卒業生が親になって、民族学級の保護者会で出会うというできごともあり、改めて、継続していくことの意味、その大切さを実感することになりました。

特別なことをしてきたのではなく、『違い(ことなること)を豊かさに!』を大切にし、常に子ども一人ひとりを見つめてきたと思います。そのために、家庭訪問を何回もしたり、一人ではなく、同僚の教員達と一緒にやってきた。こんな、当たり前のとりくみですが、お話しすることでともに取り組め、子どもたちが立ち上がっていける取り組みが広がっていけぱいいと思っています。


《朝文研と私》
和田幸子(天満中学校夜間学級)

前任校教師としての振り出し校で荒れに荒れた在日の生徒の姿に触れた私にとって、チマ・チョゴリで廊下を闊歩するソンセンニムの存在は、一種のカルチャーショックでした。.こんなことが公教育でできるんやという驚きと、もう一つ、本名を掲げて前向いて歩んでいる朝鮮人を見たことも初めてだったのです。だから、朝文研の活動には、吸い寄せられるように参加させてもらいましh

当時2年生だった金南順さんの体操服に金とあるのを目に止めている私に、彼女が「キムてよむんです」と自ら教えてくれたことを覚えています。彼女を含む数名の女子が、三年生の秋に、朝文研の初舞台をカヤグムの演奏で踏んだのでした。今日の「希望花」が産声を上げた瞬間でした。

梅南中の朝文研は、私を「日本人教師」にしてくれた大切な場です。永遠に幸あれ。


30周年を祝う会》のコメントより
河野良子(鶴見橋中学校)

30周年おめでとうございます。

この言葉は、どこに向かって言えばいいのか、やっぱり生徒達に向ける言葉かな、と思います。

今日、うれしかったことが、いくつかあります。

まず一番目は、ここにチョゴリを着て集まっている現役の朝文研生徒達の数が、たくさんいるのを見てとてもうれしかったことです。私が梅中にいた最後の2年問は、外担として朝文研のまとめ役をしていたのですが、梅中には全部で11年いて、それ以前の9年間の様子を少し思い出しました。

30年前、子どもや保護者やいろんな先生や当時のオモニ達とで盛り上がっていた朝文研の勢いが、ちょっと衰えていたような時期がありました。そのころ、朝文研室に行くと、2人しか集まっていなくて、どうしようかと悩みながらキーホルダー作りなどしていた、そんな記憶があります。

けれど、そのあとまた盛り返してきたのは、1番の原因としては保護者がまた戻ってきた、つまり、集まってきて支えてくれたことが大きかったように思うのです。2番目にうれしかったことは、保護者のプチェチュムを見て、「ここまでやるか!!」いえ「ここまできたか!!」とその支えぶりがうれしかったことです。()

オモニ達が集い始めたときに、キムチデーを「手伝うよ」と言ってくださり、家まで行ってメニューの相談をしたり、外担になった私に知識のないことを察して「これ読み」と分厚い本を貸してくださったオモニ()

1、2週間すれば娘を通じて「読み終わった?」と催促されたり、そうやって教育していただいたありがたみを感じています。

後ろの方に座っているオモニが、おそらく梅中で初めて一人でチョゴリを着て卒業式に参列してくださったことなど、今鶴中で教員をやっているのですが、その経験は今でも生きていると思います。

当時一緒だったソンセンニムから「やってみないと楽しさも難しさもわからへんよ」といわれ、先ほどのプチェチュムも、去年鶴中の生徒の練習の代理で入ってやってみると、本当に難しくて、でもそろったときの楽しさも同時に感じることができました。

改めて、ここで保護者達から教えてもらったことを、次の学校でも伝えていきたいと思っています。


<朝文研の思い出>
20001026日 木曜日
木村威英(夕陽丘中学校)

活動記録の他に、個人の日記も残していました。その1ぺ一ジを転載します。2000年度文化祭の日の記事です。


 朝文研の発表はすごいスピードとまとまりで、芸術的に存在感をアピールできた。登場するところから、声援も大きく、Yの話も良かったと思う。

本番の演奏中も、ソンセンニムと生徒たちが、生徒たち同士が目を交わしあう。その表情がいい。この世的なものはすべて消えてしまうにしても、このまなざしの中で語られた無意識の、そしてくつろいだ対話は、確かに記憶に残るはずだ。

張り出し舞台、楽器、衣装……と、周辺サポートしかしていないが、サポート役がこれだけうれしいんだから、文句なし。

演奏が終わると、舞台に立ったメンバーが「朝文研バンザーイ」と叫んだ。こういうのは、自分の趣味ではないのだが、気分としては一緒に叫びたいところであった。舞台からおりてくると、オモニたちがいっぱい集まっていて、順番にソンセンニムの手を握る。自分自身目が潤んでいて、オモニたちの様子をよく見ることができなかったが、涙ぐんでおられる人もたくさん居たそうである。「べつに泣いてもいいぞ」なんて連絡板に書いていたIが、一番大泣きしていて、卒業写真になっても涙がとまらない。卒業写真の後、自分もソンセンニムと握手した。

Cが、合宿で作ったTシャツを着込んでいたのも意気込みが伝わってきて、正直に言えば、出番前、着替えの時から、自分は涙ぐみかけていたのである。後から聞くとSが「来年は全員集めたる」と言っていたそうだ。来年はどうなるんやろ……なんてところに意識が行きかけていたときこれを聞いて、彼の意欲を生かすだけの誠意は尽くしたいと思う。

教頭さんから「校長、泣きながら帰ってきて出張していったよ」と聞く。《注 大溝校長は「朝文研の舞台は見る」と言って、出張に遅刻して出かけられたように記憶します。》こういう気持ちの人が校長でまことにありがたいと思う。朴正恵ソンセンニムの「楽器を演奏しているというより、なんて言うかなぁ、チャンゴにはまってたって感じね」というコメントも記録しておこう。

(編集委員会注)HP掲載にあたり、当委員会の判断で文中の生徒名を仮名としました。

30周年に寄せて》

魚野麻美(梅南中学校)
 梅南中学校に来てから、今年度で計8年間、朝文研に関わるようになりました。最初は、つながりのある子どもがたくさんいることに驚き、また、いきいきと活発に活動が行われているのを見て、とても新鮮でした。

梅南中学校で大切にしている「違いを認める」ことの意義、「同じ」である部分と、「違う」部分をわかった上で、本当の意味でー人ひとりを理解することの難しさを、朝文研の活動から学ばせてもらったと思います。

同じ朝鮮につながりのある仲間が集まり、ソンセンニムとともに、3年間活動を続けてきた子どもたちは、自分に対する自信、親や周りに対する理解を深めていき、自然に「違いを認め」られる人になっていったように思います。

朝文研の活動が30年続いてきたこと、そこに関われたことに自分自身もうれしく感じています。

そしてこの朝文研活動が、今や梅南中学校になくてはならないもの、当然のもの、として、当たり前に存在してきていることは、本当に素晴らしいことだと思います。

こうなるまでには、30年前に立ち上げた当時の教職員の方々、ソンセンニムたち、そして子どもたち自身の努力なしでは語れません。

そういった意味でも、今回、30年前に関わった教員から直接話を聞けたことは、私自身にとって貴重な経験となりました。

これからも、梅南中学校の民族教育が脈々と続いていくことを願い、微力ながらそこに携わっていければ、と願っています。

     
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