御崎地区民族学級20周年記念誌より
2005.11.5
☆☆☆在日朝鮮人教育担当から☆☆☆

「敷津浦小に『サントッキの会』ができたころ」

内山 毅
(元敷津浦小学校)

20周年、誠におめでとうございます。私は1978年度から1990年度まで、大阪市立敷津浦小学校に在籍させていただき、住之江区で最初の民族の結集の場となった「サントッキσの会」の誕生に立ち会った当時のメンバーの一人です。

「会」ができるまでの前段階として、まず敷津浦小では校内研修や関係教材の授業実践、保護者への家庭訪問、81年設置の住吉同推協在日朝鮮人教育部会(敷津浦小が設置後の長期間代表を担当)での学習等があります。こういう活動を通じて、在日関係児童の結集軸の必要性が次第に明らかになってきました。83年に日本人児童を含めての市外教主催「子ども民族音楽会」見学があり、85年には課程内クラブとしての「朝鮮文化研究クラブ」が作られ、ハングル学習や朝鮮民族の遊び等の活動を開始、また同年「子ども民族音楽会」に出演。確か目本人児童との合同で、そのときに歌った歌のひとつが「サントッキ」で、これが翌86年にできた会の名称になりました。

「少数在籍地域」の住之江区には具体的な取り組みが少なく、市外教の『サラム』シリーや西成区の取り組みから学ぶことが多かったです。86年の「西成小中民族交流会」の前ごろに在日子ども会のことを子どもたちと話し始め、会の帰り道に出た子どもたちとの会話「敷津浦でもあんな活動していきたいね」が、サントッキの会ができた直接的なきっかけでした。

「サントッキの会」を始めてみると、少数在籍の地域・学校ではさけられない様々な困難がありました。民族講師招聘事業が始まるだいぶ前のことでもありましたので、教材等のほとんどすべてが日本人教職員の手作りでした。これは、「朝鮮文化研究クラブ」の経験もあり、何とかなりました。でも、在日韓国・朝鮮の子どもたちが、当然のこととして、胸張って皆の前に民族の一員である自分を出せるかどうか、その正当性を教職員が自信をもって支えられるのかどうかの一点が、一番難しいことでした。「自分が韓国人と知られると友だちが離れる」と悩む女の子がいました。「何でぼくだけが韓国人なの。」は、学級担任が家庭訪問で親から聞いた悲痛な子どもの声でした。参加を韓国・朝鮮につながる子どもたちだけに限定するという方針も、「あの子と一緒じゃなきゃ行かない」という低学年の子の前に揺れました。

「サントッキの会」の草創期は、決してスムーズな出発とは言えませんでした。幸い、保護者組織の「サントッキ親の会」の強い支持があり、また学校全体で取り組むことで、少しずつ進んでいけたのではないかと思います。当時の校内での朝鮮語学習会や、有志によるソウルからチェジュドまでの研修旅行も問題の理解と実践の一助になったように思います。

民族講師を始め教職員の皆様のご努力の継続により、在日の子どもたち、日本の子どもたち双方が、自分を十分に出せたうえで付き合える状況が実現し続いていくことを切に願っております。


1回住之江ハギハッキョの発足にかかわって

我孫子中学校 栗田珠美
(元住之江中学校)

私は、1986年に梅南中学校から住之江中学校に転任ました。その頃のエピソードを交えながら住之江ハギハッキョ発足当時の思いを伝えたいと思います。

最初に出会ったキム君と廊下で話をしているときに、「あんた、朝鮮人やろ?」と声をかけると、「先生、こんなとこでそんな話せんといて」と言われました。そのとき初めて、多数在籍校と少数在籍校の違い《つまり、自分を隠さなければならないこと》に気付かされた私は、何とかしなければと思い、この子たちをソンセンニムに出会わせたいと考えました。その為に、朝鮮に繋がる子どもたちが校内で集える場所として、「朝鮮文化研究部」を作ることから取り組み始めました。

そのうち、住吉同推協在日朝鮮人教育部会で知り合った、当時敷津浦小の内山さんや住之江小の山田さんと共に、お互い少数在籍校なので、子どもたちが各校1人になっても合同で活動できるような場を作ろうということになりました。また、敷津浦小と住之江中の間では小中交流にもなるし、保護者どうしも繋がれるというねらいで発足したのが、住之江ハギハッキョでした。

その後、新入生歓迎の意味も込めてハギハッキョ交流遠足を実施したり、初めて住之江ハギハッキョチームとして、第14回子ども民族音楽会に合同出演したりしていきました。回を重ねるうちにただ出演するだけでなく、地域に密着した、保護者も出演できるものにしたいという思いで、地域版民族子ども音楽会を開催するようになりました。今でも、初めて舞台に立ったオモニたちとチャンゴの練習会をしたこと、また、初めてチマチョゴリを着たオモニのことやチャンゴをたたきながら、「私ら、学校で教えてもらわれへんかったもん、私らが民族学級やりたいわ。」と言ったオモニの言葉が思い出されます。その後参加校も増え、年々広がりみせるようになりました。、

あれから20年が経ち、住之江・住吉ハギハッキョが今回で最後となりましたが、一定の役割を終えたと思います。

発足当時の状況とは異なり各校に民族学級ができた(今年度市内101)今、行事に追われるのではなく、目の前にいる子どもたちに何が必要かを考え、新たな取り組みを創造していってください。

最後になりましたが、御崎地区20周年記念行事開催にあたりご尽力いただいた皆様方に感謝しお礼申し上げます。


加美東小学校 山田 桂子
(元住之江小学校)

御崎地区民族学級20周年おめでとうございます。

私が住之江小学校に在籍していたころを懐かしく思い出すと同時に、あのころ出会った子どもたちや、オモニ、アボヂの顔がふつふつとよみがえってきます。その出会いの中で、色々なことを教えてもらいました。

住之江小学校は在日朝鮮人児童の少数在籍校でしたが、それ故に、話をすればするほど、親の思いの「重たさ」や、子どもたちの抱える「つかみ所のない不安さ」を感じました。

「日本人の側に正しい朝鮮観を養い」、「朝鮮人の子どもたちには誇りを」ということから、できる限りたくさんの朝鮮の文化との出会いを考えました。「市外教子ども民族音楽会」への参加を全体に呼びかけ、日本人の子どもも含めて多くの子どもたちが朝鮮の美しさに触れました。「第2回西成小中民族交流会」へは3名の朝鮮人の子どもたちが参加しました。この交流会では最後にみんなでノンアクを奏でながら会場をねり歩きますが、会場いっぱいに同胞が集うその熱気から、参加した子どもたちは「こんな身近に、こんなたくさんの仲間がいる!」と、驚きと感動の声をあげていました。

「地元地域で朝鮮人の子どもたちのハギハッキョをやってみよう!」という話が出たのは当時(1987)の住吉同推協在日朝鮮人教育部会の場でした。部会で各校の子どもたちの様子を交流する中で、親どうし、子どもどうしがばらばらで、各々孤立感を抱えているということが浮き彫りになってきました。何とかして、子どもや親の結集軸を作ろうと摸索し、「地元地域で小さな交流会を持とう。とにかくその一歩を踏み出そう。」という構想が生まれたのでした。初めての交流会でしたが、確かな手応えがあり、「本当にやってよかった」という参加者の感動と感想をはっきり覚えています。

現在、私は民族学級がある学校に在籍し、その中で当たり前のように、生き生きと活動する子どもたちを前にして、住之江小学校当時のことを意義深く思い出しています。何もないころの、何とかしたいという当時の熱い思いを回想し、それを今は何につなげるのかということを改めて考え直しています。それは、民族学級があるからそれでいいのだということではなく、民族学級やハギハッキョ等に依拠しすぎてしまってはいないかということです。具体的に言えば、教室にもどれば通名で過ごすことの不自然さを、当たり前の現実にしてしまっている自分の意識の問題をはじめとして、朝鮮人のおかれている現実をきちんととらえ直し、「本名を呼び、名のる」ことの原点に立ち返らねばと思っています。

この度の、御崎地区民族学級20周年という節目をお祝いすると同時に、自分自身また一歩を踏み出したいと思います。


「出会いとつながりの場・ハギハッキョ」

加美北小学校 木村 美樹子
(元住之江小学校・清江小学校)

「先生、ボンソンファ(鳳仙花)がいいのとちがう?」民族の集まりのあるときには必ず顔を出してくれていたオモニの言葉だった。「住之江小民族交流会」と称して集まっていた会は、それから『ポンソナの会』と呼び「種がぱっとはじけて、またそれが芽を出してどんどん広がっていくように」との願いをこめて活動を広げていった。まだ民族クラブ技術指導者招聰事業が始まる前からソンセンエムが・ハギハッキョで出会ったことをきっかけに校内の活動にも顔を出してくれるようになった。それはどれほど、子どもやオモニたち、わたしたち教職員に勇気と希望を与えてくれたことだろうか。「うちの学校にも民族講師が

きてくれたらどんなにこの子らは心強いだろう。」子どもたちの姿や自分の過去の記憶からも強く感じていたことだった。

住之江小学校に赴任した1989年、クラスの子どもを民族交流会に誘うために家庭訪問をしたときのこと、「先生この前住之江の親が話してるの聞こえてん。『日本の学校やのになんで韓国の歌なんか教えるんやろね』って。この地域では韓国人やってことを出しては暮らしにくいわ」とオモニ。学校では取り組みを進めていたものの、少数在籍であり、子どもや親同士のつながりは、あまりつくれていなかった。その後の出会いの中でも、朝鮮人であるということを肯定的に受け止められる子は数少なかった。声をかけられることさえ拒んでいた子もいた。社会やまわりの人たちを自分を映す鏡とすれば、この地域で民族的アイデンティティと自尊感情が育まれることは並大抵のことではないと感じた。まわりの子どもたちにとっても、多様な文化を受け入れることが容易ではないのが現実であった。わたしが「韓国人」を意識した最も古い記憶は小学校3年生のときのこと。「誰にも言わんといてな、わたし韓国人やねん」と友人にこっそり打ち明けられた。自分を親友だと思ってくれているに違いないという喜びと同時に、韓国人だということは恥ずかしいことなのかなあという疑問を感じたのを覚えている。今思うと、疑問というより「韓国人だということは隠すべきこと」として自分に擦り込まれたのかもしれない。

子どもたちは、ハギハッキョで自分の名前と出会い、友だちと出会い、ソンセンニムと出会い、自分の民族と出会う。その出会いが民族学級開設へとつながっていった。

清江小学校が、開校と同時に民族学級を開設できたのは、もちろん住之江小学校で活動していた子が通うからであったが、地域として取り組んできた成果でもある。まっさらの校舎のふれあいスペースでの開級式、清江小の子どもはわずか45人であったが、教職員はほとんど全員が参加し、子どもたちと共に民族学級を育てていこうと見守った。緊張していた子どもたちの顔が、一瞬にして和らいだのは、住之江小ポンソナの会の子どもたちの姿が見えたときだった。お祝いに駆けつけ、プチェチュムをしてくれたのだった。

今改めて、ハギハッキョは「出会いとつながりの場」として地域に根ざした活動であり、さまざまな成果を実らせたと確信している。さまざまな人が大切に育て、実り、広がっていった種。いろいろなところで、色とりどりの花を咲かせているにちがいない。

     
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