2006年6月30日 大阪市中央青年センター
全朝教大阪2006年度第一回シンポジウム
在日朝鮮人教育をよみとくキーワード
4.24阪神教育闘争が
わたしたちに問いかけるもの
開催趣旨説明  冨田 稔(運営委員)
映画   「朝鮮の子」(1954年制作)
証言  余日花(ヨ・イルファ)ソンセンニム
聞き手  正本 順一(運営委員)

はじめに  

開始前に余日花さんが持ってこられた貴重な写真が前のホワイトボードに貼られて、参加者は順に古い写真に眺め入っていました。今から60年前、戦後、朝鮮解放後すぐの時期大阪市生野区桃谷にあった鶴桃第10朝鮮小学校の教職員や第一回卒業生の写真などです。

最初、新しく全朝教大阪(考える会)代表に就任した栗田珠美さんからあいさつがありました。正本さんの司会で、次に運営委員の冨田さんから、阪神教育闘争について新しい世代の教職員が具体的にそこで起こったことを知り、それが現在の学校現場とどう結びつくのかを考えてほしいという問題提起とともに、1948426日大手前公園で、警察が最初から意図的に発砲し金少年虐殺に走った点についての注意喚起がなされました。

映画「朝鮮の子」

映像はDVD版で、何度か機会があって見た人も多いでしょうが、あらためてじっくり見ると色々な感想がわきます。当時の朝鮮人の貧しい生活の様子それは多くの日本人の生活とも共通するので、その年齢層の人が見れば、なつかしい患いもするでしょうとともに、子どもたちの笑顔、一方でその背景にある「日本人になりたい」という気持ちを生みだすような社会的、政治的重圧が見て取れます。1952年まで日本国籍をもっていた状況ではなおさらそうだったでしょう。在日朝鮮人の根本的な状況は、どうしてこれほどまでにワンパターンで、その頃から半世紀にわたって変化がないのでしょうか。

余日花さん

1930年城東区鴫野で工場に勤める父と19歳の母親の間に生まれ、すぐ父親は亡くなって、祖母と母の厳しい教育を受けた。日本の高等女学校に進学し、戦争中はねじを作る工場で働いたが、春山という日本名に変わったのは1941年、戦争が始まる頃で、それまでは余日花の名で日本の学校に通っていた。女学校2年で終戦となり、家族で帰国しようと築港に一週問いて帰国船の便をさがしたが、結局布施に戻って生活をはじめた。815日からしばらくは朝鮮人はお祭り騒ぎが続いていた。

当時朝鮮人で高等女学校へ行ったような人はほとんどなかったため、194616歳で桃谷にできた鶴桃第10朝鮮小学校の教員になった。女性の先生はただ一人だけだった。お寺にできた講習所などで朝鮮語の読み書きを学び、あちこち飛び回って知識を増やした。すべて白紙からの勉強で、民族への思いが強かった。

朝鮮小学校の生徒の年齢は色々で、初めはGHQからの放出物資も回ってきて、みな貧しかったけれども暗いところはなく、明るく元気にやっていけた。自分も給料4000円をもらっていた。

やがて、すべてがやりずらくなった。そして学校閉鎖令が来た。

1948年4月23日、24日ころは、朝連の各支部ごとに隊列を組んで大阪府庁へ抗議に行った。子どもたちを連れて行ったときは危ないので外側にいた。26日には3万人が府庁を取り巻き、4千人の警官隊やMPとの問で大手前公園堀端を中心に衝突が続いた。警察の強い放水を受けて人が舞い上がっていた。警官隊の発砲が続き、多くの人が負傷する中で、金太一少年が殺された。

この時、日本人には協力する人もいたが、表には出にくかった。朝鮮人6人と日本人12人が軍事裁判で重労働と国外追放になっている(後の共産党国会議員の村上弘など)

朝鮮戦争が起こったときには、自分たちの祖国が攻撃を受け、36年の亡国の苦しみは二度と味わいたくないという気持ちで民族団体の活動に多くの人々が参加した。城東貨物線でナパーム弾を運ぶので、戦争反対の伝単(ビラ)を貼って歩いた。吹田事件で逮捕され、軍事裁判の結果重労働の刑で、1952年4月30日に和歌山刑務所から出されて大阪に帰った。

36年問の朝鮮人の亡国の苦しみも、歴史がうらみを晴らしてくれる。強制連行についても、淡路島に住んでいてもう亡くなった叔父の鄭承博が書いている。今も民族学級で教えている若い民族講師の方々とぜひ交流したい。

会場からの質問に答えて

自分の朝鮮語は家庭環境から、祖母から言葉や歴史を学び、後家(ママ)の娘としてチョゴリ作りやうどん作りのようなこともみな仕込まれた。その読み書きについては解放後布施のお寺に作られた国語講習所で勉強し、祖母も歌を歌って色々教えてくれた。朝鮮師範学校が大阪にできて、大阪師範(現教育大)出身の先生がいて、そこへ3ヶ月通って卒業した。

解放後の民族運動の中では、初めは歌う歌もなかった。アリラン、トラジなどの民謡か、連絡船の歌のような流行歌だけだった。やがてエグッカ(愛国歌)などが出てきた。学校を作るのに必死で、歌を作る暇などなかった。

424の頃の日本人の反応は乏しく、日本の市民が表面に出てくるようなことはなかったし、日本の学校関係者とも連携は生まれなかった。

まとめ(稲富進)

阪神教育闘争を考えるとき、歴史認識がいかに大切かをいつも感じる。これは現在の日本における民族学校と民族学級、総じて民族教育権に関わる分水嶺だった。これを日本人としてどう運動化するかの課題がそれ以来存在し続けている。他方、朝鮮人自身が、自分たちのルーツ、在日の歴史をどう教えきれているかの問題もある。

     
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