大阪地方裁判所御中

   大阪朝鮮高級学校にかかわる陳述書

 

 私は、東大阪市立の幼・小・中・高で働く教職員で構成される東大阪市教職員組合の執行委員長をしています。今回、東大阪市が大阪朝鮮高級学校運動場の一部明け渡しを求めて提訴に及んだ問題での私の立場からする意見を陳述いたします。

 私は、奈良県で育ち、大学は名古屋で学び、京都での3年間の教職の経験を経て、1976年から東大阪市の夜間中学で教職を再スタートしました。夜間中学での私の教職生活は、文字通り朝鮮との出会いとして始まりました。私の夜間中学での生徒は、小さい頃に就学する機会を奪われ、しかしたくましく人生を送ってきたハルモニたちでした。生徒たちは、自ら生きてきたあしあとを、祖国の歴史との関連で始めて夜間中学で学び、親を恨んだまま死ぬところだったと作文に書きます。そんな場所に、教員という立場で立ち会うという経験をとおして、私はわが社会を見つめなおす手がかりとしての朝鮮と向き合うことになりました。

 そんな私にとって、毎朝、自転車で白と黒のチマチョゴリの制服をなびかせて生駒方面へ走る朝鮮高級学校の生徒たちが繰り広げる通学風景は、何か私にとっての原風景ともいうべき心温まる大好きな光景でした。それは私にとってハルモニ(おばあちゃん)たちが毎晩夜間中学に通い、生まれて初めて持つ鉛筆で自分のなまえ(朝鮮名、本名)を書く姿と重なりました。異文化を奇異に見、何かあれば排除の対象とする日本人がまだ多いわが社会にあって、チマチョゴリの制服をなびかせて風を切って自転車で通学する<高校生>たちのなんとすがすがしいことか。私は、その光景に出会うたびに、心の中で、拍手を送っていました。夏の白から、冬の黒へと季節によって変わるチマチョゴリの制服での子どもたちの通学風景は、東大阪の街のひとつの風物詩であり、わたしたちの街が理屈抜きに自慢できる風景だとも思ったのです。

 かつて、自由民主党・日本社会党・朝鮮労働党の三党共同宣言が出された1990年当時、朝のラジオのパーソナリティー番組で元プロ野球の江夏選手と道上洋三というアナウンサーらが、東大阪市内の朝鮮高級学校で教職員とソフトボールを楽しみお昼に焼き肉で交流をと一般の人たちの参加をラジオから呼びかけていたことがありました。高校生の、しかもスポーツの大会から、朝鮮学校を締め出そうとした不合理への番組としての義憤だったのだと記憶しています。その後私たち大阪の教職員組合が世論形成をはかり、別の陳述書にも詳しいように、<朝鮮高級学校を、各競技の大会から排除する状況>は確実に変えることができました。このことを思い返すにつけ、今回、東大阪市が朝鮮高級学校の運動場の一部明け渡しを求める提訴がもつ、どうしようもない<政治性>に対して、暗然たる思いを禁じえません。提訴に至る経過からわかるのは、運動場用地の減歩にかかる未解決事案に対し、教育の観点にふれることなく、強引に政治が持ち込まれたことです。またそれを受けた地方公共団体である東大阪市役所が、本来の役割を放棄し、生徒の学習権の保障に対する一切の「考慮」を欠いて提訴を行い、司法の場にその解決をゆだねました。

 こうしたことが行われている一方で、今秋も、10月17日に<朝鮮文化に親しむ東大阪子どもの集い>が、約3000人の子どもたちを集めて盛大に開催されました。私たち教職員組合が、市の教育委員会や校長会などとともに実行委員会を構成し主催したもので、今年で25回を数え、四半世紀を越えて行われてきました。この集い冒頭で、昨年教員採用試験に合格し、東大阪の公立小学校で本名で教壇にたっている在日朝鮮人の先生が、「朝鮮人だから学校の先生になれない時代はもう終わった」と、在日朝鮮人数百人を含む参加者に宣言し、感動を呼びました。こうした先生は、すでに大阪で100人を越えて、公立学校の教壇に立っています。朝鮮学校の土地明け渡し訴訟は、その意図と効果において明らかに時代に逆行するものであり、東大阪市が求めていることは公益に反し、一般住民の常識にも反し、現に進行する社会の変化をも見落としているもので容認できません。裁判所におかれましては格段のご配慮をお願いします。

     2007年11月20日    東大阪市教職員組合執行委員長 林二郎

 

 
 
     
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