2011年9月24日

全朝教大阪(考える会)40周年に寄せて

全朝教大阪(考える会)の実践内容と方法

                 稲富 進(運営委員)

1.本名を呼び名のる

 

@なぜ「本名を呼び名のる」運動・実践か

 名まえは人格の表象、民族固有の文化である。世界諸地域のどの民族にも、長い歴史と風土の中で育まれてきた言語や文化がある。民族が長い歴史の中で受け継いできた民族固有の文化である。親は一人ひとりの子どもの名まえに愛をこめ、ねがいや、期待を込める。子どもの育ちのなかで自らのルーツを知り、確認し、親の、そして民族の心を引き継いで固有の人格と尊厳を持って生きる。名まえは人格の表象、アイデンティティ形成の核でもある。

 「全朝教大阪(考える会)」が発足した1970年代までは在日外国人登録者数の圧倒的多数、約90%が韓国/朝鮮人であった。現在に比べて就職、進学等市民的生活権利や民族教育等民族的諸権利の上で、はるかにきびしい排外・差別、抑圧の法・制度・システムが社会に根づいていた。日本の学校に学ぶ朝鮮人の子どもの多くが日本名(通称名)を名のり民族を隠して生活している。自らのルーツを隠し、埋もれた存在として自己の尊厳を抑圧されている。地域や学校、職場で日本人のなかで自己の存在を発揮できず、自尊心を抑圧されている情況がある。そして、そんな情況を多くの日本人が<日本社会・日本人の意識>のいびつさとは気づいていない。<この情況こそが差別・抑圧の象徴であり、その克服が私たちの課題である>との認識から「全朝教大阪(考える会)」のとりくみが始まった。それから40年、試行錯誤の実践のなかで私たちが導き出した「本名を呼び名のる」実践の意味はつぎのようなことであった。

 「本名を呼び名のる」取り組みはおそらく諸外国のマイノリティ教育にも例を見ない、まさに日本社会の在日朝鮮人に対する差別・抑圧の特異性から生じた教育実践の形態だといえる。朝鮮植民地支配時代、創氏改名等の苛酷な日本の同化政策を背景として生まれた「通称名」使用は、朝鮮人を抑圧する日本社会を象徴している。その克服を目指した実践である。

 この教育実践は、在日朝鮮人の子どもたちが、日本名(通称名)でなく、本名(民族名)を名のるという行為をあらわすにとどまらず、日本人の子どもがその民族名を呼ぶことを求めるものである。朝鮮人の子どもが民族名に「変える」行為を表すにとどまらず、朝鮮人の子どもが本名をとりもどす―抑圧されている自尊心を取り戻す、ということを意味する。朝鮮人のこどもは、日本人の中に埋もれ、自尊心の高揚を阻まれている情況から、自らのルーツを確認し自立へ向けて歩みはじめる。日本人の子どもにとっては、ともに肩を並べて学ぶ朝鮮人のなかまの本名(民族名)を呼ぶことで、対等な関係性を築きあげるという意味合いがこめられている。日本人・在日朝鮮人のそれぞれの民族としての「自立」の課題である。

 「本名を呼び名のる」実践は「考える会(全朝教大阪)」が立ち上がった1971年当初から実践・運動の中心に掲げた在日朝鮮人教育の核である。本名を呼び名のることのできる学級・学校・地域の教育環境(集団づくり―なかまづくり)を創りだすことを実践過程全体の中心軸に位置づけながら、マイノリティの立場で生きる朝鮮人の子どもの主体的な生き方を育む教育環境を創造することを目指したのである。

 この「本名を呼び名のる」実践は日本人の子どもの歪められた朝鮮・朝鮮人認識をただす取りくみや、朝鮮人の子どもの民族的素養を高めていく民族学級(民族クラブ)等の実践、進路保障、学級集団づくりといった在日朝鮮人教育の諸活動が関連しあって実を結ぶのである。単に知識のレベルで歪められた朝鮮(朝鮮人)観を正そうとするだけのものではない。日常生活、人間関係のレベルから変え、そこを実践の出発点としたものである。出発点でもあり目標でもある。その意味で「本名を呼び名のる」教育実践は在日朝鮮人教育の中心軸に据えられる本質的な課題である。

 

A 試行錯誤のとりくみ〜「本名を呼び名のる」実践をどうすすめてきか――実践と批判

 「本名を呼び名のる」とりくみの意義が共有化されるまでには、頭を抱え込むような失敗があり、きびしい批判にさらされてきた。

 「全国在日朝鮮人教育研究協議会(全朝教)」結成の第一回全国集会(1979年)での日立就職差別裁判闘争にかかわってきた東京・神奈川のなかまからの、大阪の本名実践に対する激しい批判があった。

 

 <大阪の「本名を呼び名のる」実践は決まったレールを走っているようだ。在日朝鮮人は日本社会の差別・抑圧のきびしさの中で、また、祖国の統一も展望が見えず、生活の基盤も日本社会に定着しつつある。おかれたさまざまな情況の異なりに今、生き方の先行きに揺れ、岐路に立っている。敷かれたレールを走るわけにはいかない。大阪市・神戸市、大阪高槻市の教師たちの実践は行きづまっている>と。

 

 大阪の本名実践が在日朝鮮人がおかれている情況や実態を無視した教条的な実践であるとの痛烈な批判であった。事実、1970年代の大阪のとりくみの中には、とにもかくにも朝鮮人の子どもの本名が大事とばかり、本名が名のれる環境を整えるとりくみのプロセスを無視し、保護者の理解がとうてい得られないような本名実践もあった。通称名を名のっている朝鮮人の子どもが<本名をとりもどす>とは単に本名を名のることにとどまるのではなく、朝鮮民族につながる自らを確認し、朝鮮人としての自覚と誇りをもって生きる生き方につながることである。本名実践は単に本名を名のればいいという問題ではない。

 私たちは朝鮮植民地支配36年の生き証人アボヂ・オモニ・ハルモニたち在日朝鮮人から、日朝関係史、渡日後の生活史など確かな歴史と現実を学んだ。それが在日朝鮮人教育運動のバネとなったことは疑いもない。全国各地の実践の交流会や全朝教の全国研究集会でも本名実践は連綿と交流されてきた。

 学級で肩を並べる朝鮮人の子どもの生い立ち、被差別体験を受けとめ、差別を許さず、差別・抑圧に抗い「本名宣言」する朝鮮人の友人を支えるなかまづくりの実践が数多く報告された。

 また、自らの学校に「民族学級」が存在することの意味、朝鮮人の友人が民族学級で学ぶことの意味を受けとめ、支えようとする、学級集団づくりの実践とともに「本名を呼び名のる実践」をめざす「民族学級(民族クラブ)」のとりくみ、「歪んだ歴史認識をただし、確かな歴史認識を培う」実践などがより合わさって「本名を呼び名のる」とりくみが成果をもたらすことが明確にされた。

 

B リボ―トにみる日本社会・日本人の意識情況

 40年に及ぶ「全朝教大阪」の運動の中で「本名を呼び名のる」教育実践は全国集会、地域の研究集会等さまざまに実践交流され、取り組みの理念や実践方法(内容)の共有化がすすめられた。数多くのリポートに成果や、課題が明らかにされた。

 それらのリポートに共通していたのは、「本名を呼び名のる」教育実践の前に立ちはだかる日本社会・日本人の意識情況が映し出されていたことである。典型的なリポートを見よう。

 1991年12月、大阪市内東淀川地域を中心とした研究集会の実践報告に紹介された当時20 歳の朝鮮人女性の報告に注目したい。

 

 <悔しいけれど疲れてしまった>とその悔しさをにじませた思いを語る。日本人の友人は「日本名を名のればいいのに…、みんなそうしているのになぜ? 仕事でも、友だちと付き合うときでもその方がいいのに…>という。私が朝鮮人であり、朝鮮人としての自覚と誇りをもって「本名」で生きることがごく自然だし、当たり前のことだと理解を求める。ていねいに自分の考えを説明していたが、<日本人の友人の多くが同じことを言う、「私は差別なんかしない」〜そんな、したり顔で、そして真顔で言う…そんな関係がしんどくなった…転職したが、そこでも同じだった>と。

 

 彼女をとりまく日本社会・日本人の意識情況がみごとに映し出されている。

 彼女は中学校時代、朝鮮文化研究会(朝文研)に参加し、自ら活動の中心になるにとどまらず、同胞の友人たちに朝文研への参加を促すなど積極的に活動に努めた。J Rの売店―キヨスクなどに商品を納入する会社に本名で勤めることになった。会社側に「本名」で勤めたいと自分の考えを述べ、本名で通勤することになった。仕事にも慣れ、日本人の友人も多くできた。朝鮮人としての「自覚と誇り」をもって本名で生活を始めた彼女だったが、やがて「通名」に戻ってしまったという。

 「本名を呼び名のる」実践の意味を考えさせる報告であった。<私は差別なんかしない…>と言いつつ、朝鮮人の友人に<日本名を名のればいいのに…>と同化(日本人化)を勧めようとする日本人の友人は自らのいびつな意識に無自覚でいる。このように、共に地域社会、学校、職場に生活する外国人を外国人として見ることが出来ない自らの意識のいびつさに気づいていない。

 シンポジゥムで交わされた日本社会・日本人の意識情況もまた同様のものであった。

 

・親や子どもが通称名がいいと希望しているのだから…それでいいのとちがう?

・現在の日本社会の法や制度・システムが変革されていない現状では、通称名を名のることを受け入れるのもやむを得ない。

・「日本で生まれてこれまでずっとこの日本名で生活してきた。この日本名が私の本名だ」との考えはその通りで、本名、本名と言う必要はない。

このような「本名を呼び名のる」実践をめぐる日本社会・日本人の意識情況は変化しただろうか。

 

 「考える会大阪」の通信「むくげ198号」(2011年)に本会運営委員辰野仁美(市立長橋小教員)の「子どもによりそうということ・・・〜本名を呼び名のる教育実践について〜」と題する論稿が掲載されている。この論稿は自らが勤める西成区長橋小の近隣7校の学校教育現場の卒業証書の「本名記載」「本名呼称」をめぐる実践の実態を踏まえつつ、今後の「本名を呼び名のる運動・実践」の方向性を示唆している。卒業証書の「本名記載」「本名呼称」にいたる学級担任、在日朝鮮人教育主坦、民族講師の連携による家庭訪問等具体的な長橋小の取り組みを紹介しながら、子どもの思いに寄り添う教師のあるべき姿勢に論及している。同和教育運動から学んだ「親や子どもの思いに寄りそう教師の姿勢」が、誤った理解と認識によって「本名実践」の原則が歪められているのではないか?―との趣旨の指摘に注目したい。

 卒業証書等公簿には「本名使用」を原則とし、教育委員会がその推進を方針としていても、日本社会に根深い差別抑圧の現状、日本人の意識情況の中では「通称名(日本名)記載」「通称名(日本名)もやむを得ない。親や、子どもの思いやねがいが「通称名記載」「通称名呼称」であるなら、その思いやねがいに寄りそうことが大切だ―とする多くの教育現場にみられる意識情況を、筆者は批判している。そして<…確かに「本名を呼ばれる側」の実態に差異があるのは否めないが、大切なのは私たち本名を呼ぶ側の「立ち位置」である。朝鮮人の子どもを朝鮮人として見るからこそ、いつでも本名を呼び続ける、という強い気持ちがなければ卒業証書の本名記載・本名呼称には辿りつかない>さらに、<だからこそ入学前〜の家庭訪問に始まり、入学後の家庭訪問などありとあらゆる機会をとらえて「本名」について話しこみが必要なのである…>(「むくげ」198号)と本名を呼ぶ教師の立ち位置と、「本名記載」「本名呼称」に至る実践のプロセスに論及している。

 大阪市東淀川地域のフォーラムでの女性の訴え、シンポジゥムで交わされた日本人の意識情況も、辰野仁美論稿が批判している多くの現場に見られる意識情況も、そのいずれもが、在日朝鮮人を朝鮮民族につながる一人として認識していない。認識していない上、自らの意識のいびつさに気づいていない。気づいていても座視している。創氏改名等他民族に日本民族への同化を強いた朝鮮植民地政策が今なお日本民族の意識を蝕んでいると言えよう。

 「本名を呼び名のる」運動が成果をあげるには日本社会・日本人の多くに巣くった在日朝鮮人を初めとする民族的マイノリティに対する<同化と排外>の法や制度・システム、それを支えている日本人の意識情況の変革をどのようにすすめるか―そのことに課題の中心がある。「在日朝鮮人(教育)問題」は「日本人(教育)問題」だと提起し続けてきたし、これからも「日本人問題」としての運動の本質は変わらない。

 

C 「本名使用率」の推移

 本名(民族名)、日本名(通称))の問題は古くて新しい課題である。運動・実践の中心軸に掲げてとりくんだ「本名を呼び名のる」運動・実践はこの40年の取り組みでどのように推移し、どのような成果をあげたのか。ここに二つの調査がある。

 

「大阪市外国籍住民施策検討に係る生活意識等調査報告書―概要版」(大阪市在住の在日朝鮮人約1000名を対象にした調査―2002年)によれば

問い〜 民族名(本名)と日本名(通称)のうちどちらを名乗っているか。

回答〜 「いつも民族名」・・・・・・・約8%

       「いつも日本名  」・・・・・・約82%

常に日本名を名乗っている人に

問い〜 なぜ日本名をなのっているか

回答〜 生まれたときからずっと使っている・・・・・・・約79%

      民族名だと差別される(された)・・・・・・約16.5%  

 

 この調査を概観すると現在でも恒常的に民族名を名のっている人が約8%で、いつも日本名を名のっている人が80%を超える。日本名を名のる理由では「生まれたときからずっと日本名を名のっている」が約79%で、「民族名だと差別される(された)と答えた人が約17%である。日本名を名のる理由として民族差別からの回避とした人は70歳代では40%を超え、60歳代でも23%で若い世代ほど「生まれたときからずっと日本名を名のっている」の割合が高くなっている。親の最初の世代である70〜60代の中で、「生まれてからずっと日本名を名のっている」のは植民地支配当時の「創氏改名」政策の結果であろう。

 いま一つは大阪市の公立学校に学ぶ児童・生徒に関する調査である。

 大阪市外国人教育研究協議会(大阪市外教)の調査によれば大阪市内小・中・高等学校に学ぶ朝鮮人児童・生徒の民族名(本名)使用の割合は次のようであった。

 

(資料1) 大阪市立学校園民族名使用率   2006年5月 

          在籍数       民族名使用人数  民族名使用率

小学校    2502人    451人        18%

中学校    1460人    263人        18%

養護学校   34人        6人      17.6%

市立高校  382人       59人      15.4%

幼稚園     24人       20人      83.3%

 

 1970〜1990年代の本名(民族名)使用率 は平均およそ11%〜12%であった(大阪市外教各年度調査)。国際社会のグローバル化につれて現在、アジア・南米その他からいわゆる新渡日(ニューカマー)の子どもが増えている。この調査からも在日韓国/朝鮮人の本名使用率が顕著に高くなったとは言い切れない。けれども、経済界やスポーツ界、教育界、芸能界などで活躍している在日朝鮮人がごく自然に民族名を名のって活躍する姿が実感される。さらに、2001年の「在日外国人教育基本方針」策定後、大阪市外教の調査によると、在日朝鮮人の本名使用率の傾向が顕著とは言えないが高くなっている。

 反面、日本人との国際結婚が増大し、日本の学校にはダブルの子どもが増え、「本名を呼び名のる」教育実践の推進に不透明な情況が生まれている。40年に及ぶ「本名を呼び名のる」教育実践のこれまでを検証し、グローバル化、国際結婚等による在日朝鮮人の多様化による子どもの今日的情況にどのように対応するか考えてみたい。立ち上げから40年を経て「全朝教大阪」をとりまく諸情況は大きく変わった。「本名実践」を中心軸に据えた在日朝鮮人教育をどのように継承・発展させるのか、いま、私たちに問われている。

       (註)本名使用状況の最新情報は基調報告・別掲論文を見てください。

 

D「本名を呼び名のる」実践を継承し、きり拓くために〜展望

・日本人教員の立ち位置を明確にしよう!

 「考える会大阪」はこれまで40年にわたって「本名を呼び名のる」教育実践を提起し、おしすすめてきた。この間、教育現場の実践を踏まえながら大阪府・市行政や教委に行政の主体的責任としての施策の樹立を求め続けてきた。粘り強く継続してこの問題を提起し続けた結果、ようやく行政の「本名使用」の原則が打ち立てられた。大阪市教委は「本名を呼び名のる」教育を教育方針の大きな柱としている。けれども、先に見た辰野論稿から伺えるように、<親や子どもが「通称名記載」「通称名呼称」を望んでいる> 〜親や子どもの思いやねがいを受けとめることが<親や子どもに寄り添うことだ…通称名記載・呼称もやむを得ない>と、本名原則をなしくずしにする教育現場の意識情況が大きな壁になっている。

 「通称名記載」「通称名呼称」が親や子どもの真のねがいか? 真に民族の心か?「本名記載・本名呼称」にいたるまでの「家庭訪問」や民族講師との連携、朝鮮にルーツをもつ子どもを支えるための目的意識的な原学級の集団づくり(仲間づくり)などの実践のプロセスを検証することが今求められている課題だ。朝鮮人の親や子どもの側に「通称名記載」「通称名呼称」の理由があるとし、正当化することは許されない。日本籍朝鮮人(日本国籍取得者、いわゆる「帰化」)や、国際結婚によるダブルの子どもの増大によって、いっそう学校教育現場における「本名を呼び名のる」運動・実践の展望を確認することが求められている。

・日本籍朝鮮人の増大と「本名を呼び名のる」実践

 近年の本名をめぐる教育現場のリポートには「日本籍朝鮮人の「本名」をどのように考えるか」のとまどいが映し出されている。1984年の国籍法の改正によって、現在、両親のどちらかが韓国籍か朝鮮籍であれば生まれた子どもは22歳になった時、自分が国籍を選択できる。それまでは、二重国籍、日本籍朝鮮人あるいは朝鮮籍日本人として生活する。しかし、両親の考えや生き方、思いによって学校への申し出がある場合以外は、制度的にまた、システムとして日本の学校がそうした子どもの在籍把握することが困難になった。民族講師や教員の民族教育(在日朝鮮人教育)への姿勢や努力によって在籍把握をすすめているのが実情である。

 教育現場のこのような情況のなかで、日本の学校に学ぶ日本籍朝鮮人の子どもが自らのルーツにつながる父や母のルーツを大切に考え自尊心を育んでいく環境から切り離されている。もし、この子どもが日本名を名のり、日本名を呼ばれ続け、民族学級での同胞や、民族講師との出会いをもたず、日本人として生活するなら、この子どもが22歳になって<日本国籍か韓国籍もしくは朝鮮籍のいずれかを選択しなさい>と言われても日本国籍以外は考えることができず、韓国/朝鮮籍、そして民族名の選択肢はほとんど考えられない。父につながるルーツも、母につながるルーツも、どちらもこの子どもにとって大切であり、それを受けとめながら生きることが自尊感情を培う上でも、自らのアイデンティティの形成にとっても欠くことが出来ない。民族学級・民族講師に出会うこと、民族名を名のり民族名で呼ばれる、そして朝鮮の歴史や言語・文化に触れ、学ぶ―朝鮮人としての自覚と誇りを培う―ことが日本籍朝鮮人の育ちにとってとりわけ重要である。このような育ちの環境のなかで初めて自立に向けた主体的な国籍選択が可能になる。このようにして日本籍朝鮮人の人権保障が実を結ぶ。

 こうした実践の道すじをすすめるために家庭訪問、親たちとの話し込みがとりわけ重要になる。入学前の家庭訪問、入学後の家庭訪問など、さまざまな機会と場を捉えて親との話し込みが求められる。日本籍朝鮮人の子どもをどのように育てるのか、育ってほしいのか、親と民族講師や教師が話し込むことが親の本音を引き出すことにつながる。大阪市教委の「在日外国人教育基本方針」やそれに基づいて学校がすすめている在日朝鮮人教育の考え、民族学級の取り組み、子どもたちの様子、その成果などを説明し、親と学校、そして民族講師・教師との信頼関係の醸成に努めることが民族的マイノリティの人権保障につながる。

 これまで積み上げてきた「本名を呼び名のる」実践の理念や具体的な実践方法の継承と多様化した親や子どもの情況に対応する展望をきり拓く方途をめざしたい。そのために、自らの教育現場で「本名実践」を検証し、取り組みの方向性、具体的な実践課題を明らかにすることが重要である。

 

<検証の視点>

・公簿の本名記載(就学者名簿、指導用要録、出席簿、卒業生台帳等)の原則が徹底されているか。徹底されていないとすればなぜか。

・生年月日の西暦記載は徹底されているか。

・家庭訪問から民族学級にいたるまで、在日朝鮮人教育に関わる学校の方針について、目的意識的な話し込み。その内容について教職員間で話し合われているか。

・「朝鮮人児童・生徒(朝鮮半島にルーツをもつすべて)」の在籍把握ができているか。

・大阪市教委の「在日外国人教育基本方針」「公簿の本名原則」についての学習会・研修が実施され、学校の目標、実践内容(方法)の共通理解がすすめられているか。

・「民族学級」開設、存在の意義の共通理解、民族講師との連携が具体的にすすめられているか。・日本籍朝鮮人〜日本国籍取得者(帰化)や、国際結婚による「ダブルの子ども」にどのように向き合うか、共通理解ができているか

 

 

2 民族的自覚や誇りを培う

  〜民族学級(民族クラブ)・朝文研・ハギハッキョ等

 

@ 大阪の民族学級(民族クラブ)等のいま

 大阪では現在、大阪市内の学校に107校、府内全体では170校を超える公立小・中学校に民族学級や民族クラブなどのとりくみがある。学校になくても地域の学校が連携し、朝鮮半島にルーツをもつ子どもたちを民族同胞につなぎ、同胞としての絆を深めるハギキョや、高校生の民族交流会などの実践がとりくまれている。長年、在日朝鮮人教育に取り組んできた大阪の教育運動の一定の成果と言えよう。大阪市では1990年代から2000年代初めにかけて、大阪市教委が「在日外国人教育基本方針」や、「民族クラブ技術指導者招聘事業」「国際理解事業」等の施策を講じ、「民族学級」の運営、指導にあたる民族講師が雇用された。「大阪市民族講師会」が結成され、民族学級の運営、カリキュラムや教材の研究がすすんだ。また、「民族講師会」「大阪市教組」「大阪府教組」、「大阪府・市外教」、「全朝教大阪(考える会)」の連携でとりくみが飛躍的に広がった。

 

A 民族学級(民族クラブ)の歴史的背景〜大阪市立長橋小の民族学級の誕生

 地域、学校で、朝鮮人の子どもの多くは圧倒的多数の日本人集団のなかで少数者でありその上、通称名を名のって民族を隠して学校生活を送っている。1960年代、日本の学校に学んでいる朝鮮人の子どもは、日本社会・日本人の偏見・蔑視、差別・排外の意識情況に囲まれて、日本人の子どもに埋没することを余儀なくされていた。自己の存在を発揮できず、自尊心を抑圧される実態があった。

 「全朝教大阪(考える会)」がめざしたことは、人間が生き、能力を発揮するライフチャンスを人生のスタート地点から朝鮮人が排除されているさまざまな制度や仕組みと、それを支えている意識の不条理に抗うとりくみをすすめることであった。「同和対策事業特別措置法」(1969年)が制定され、部落差別を克服し、部落解放をすすめることが国民的課題と位置づけられた1960年代後半、同和教育運動が高揚し、戦後民主教育の点検と見直しが迫られていた。兵庫や、大阪を中心に戦後民主教育をみつめなおし、より確かな民主教育を創造しようと同和教育運動の機運が高まった。部落差別とはなにか、差別の現実に学び、差別が、どれほど子どもの人間性を歪めているかを学んだ。

 大阪では私立高校の入試差別事件(1968年)、大阪市立中学校長会民族差別事件が明らかになったが、その告発はいずれも、それまでの取り組みを「人権」の視点から見つめなおした、「人権問題学習」の過程でおきたのだった。「全朝教大阪」はこのような背景のもとに組織され出立することになった。

 世界のどの地域、いずれの国、いずれの民族の子どもも、自らの言葉や伝統・文化の中で育つ。それは自然の営みだ。1970年代に入って日本の学校に学ぶ在日朝鮮人の子どもが、自らにつながる民族の歴史や言葉・民族文化を引き継ぐ民族教育の機会と場から切り離された環境におかれている不条理に気づいていった。なぜこのような不条理が生まれたのか。こんな不条理に気づかなかったのか。

 大阪市立長橋小の教師たちは部落解放教育の実践で、部落の子どもたちの学力を保障するための補充学級の取り組みをすすめていた。補充学級は被差別部落の子どもの低学力を克服し、部落解放を担う子どもの資質を育てることをめざした。その実践の過程で被差別部落の子どもたちと同じように被差別のなかに生きている朝鮮人の子どもの教育課題に気づいていった。

 「僕たちも勉強がわかりたい、補充学級に入れて!」との朝鮮人の子どもの声に長橋小の教師たちは頭を抱え込んだ。これをきっかけに学習が始まり、とりくみの方向を探った。朝鮮植民地支配の歴史、在日朝鮮人をめぐる戦後の歴史をひもといた。被差別部落の子どもの課題が「補充学級」なら朝鮮人の子どもにとっての課題は「民族学級」の取り組みだ―模索のなかから辿り着いた実践であった。

 1970年代初頭、在日朝鮮人教育運動・実践を提起した私たち「考える会」の問題意識は、<朝鮮民族につながる在日朝鮮人の子どもに、日本人同様の教育をすすめることは不条理である>との認識であった。1948年〜1949年にかけて、強権で日本の学校への就学をすすめた「民族学校閉鎖令」という暴挙、また、1965年、日韓条約締結後、公立小学校・中・高等学校に通達し、同化教育を指示した(文初財464号通達)政策に対する疑問と批判であった。当時、日教組の全国教研集会では<日本人教師の任務は朝鮮人の子どもを民族学校の門まで連れて行く>ことをとりくみの原則としていた。自らの学校の朝鮮人の子どもの教育に目を向けてこなかった。1960年代後半に胎動した部落解放教育の運動に触発されて日本の学校に学ぶ在日朝鮮人の子どもの教育課題と実践が模索されることになった。

 日本敗戦後の在日朝鮮人が<金のある者は金で、学力のある者は学力で、知恵のある者は知恵でわれわれの学校を建てよう!>の合言葉としてすすめた、「民族学校」創建の運動、東西冷戦のもとでの民族学校へのGHQ、日本政府の弾圧、それへの在日朝鮮人の抵抗闘争などを学ぶにつけ課題が見えてきた。「考える会」のシンポジゥム等の取りくみがあわさって、「ウリマル(われわれの言葉)を返せ」の朝鮮人の親や、子どもの声に応える実践として長橋小の民族学級開設を求める運動が展開された。日本の学校に学ぶ朝鮮人の子どもは「日本人同様の教育」を受けている。そのことに何の疑問も持たず、すすめてきた同化(日本人化)教育の見直しがはじまった。民族的・文化的アイデンティティを育む教育環境をどのように整えるか。長橋小の「民族学級」の実践は教師たちの模索の中から生まれた。

 しかし、長橋小の実践はその歩みだしのときに、民族学級を担当する民族講師を措置することをめぐって大きな壁にぶつかった。大阪市教委との間で激しい追及とせめぎ合いが全府内を巻き込んで展開された。この長橋小民族学級の保障を目指した運動が「考える会」をはじめ大阪の在日朝鮮人教育の活性化につながった。大阪市教委を追及する「考える会」の呼びかけに集まった大阪府内各地から参加した市民・教員がこの取り組みを支えた。長橋小の民族学級の実践とその運営にあたる民族講師の雇用と身分保障を求める大阪市との闘いは困難を極めたが、この取り組みに参加した教員が長橋小に学び各地に在日朝鮮人教育実践の種をまいた。20年の歳月を経て、1990年前後から、大阪府・市に行政施策として一定の教育条件を措置させる成果をあげることができた。大阪府教委は「在日韓国・朝鮮人問題に関する指導の指針(1987年)」、大阪市教委は「在日外国人教育基本方針(2001年)を策定し、同化教育の姿勢を明確に否定した。行政の主体的な施策が大阪府・市の民族学級(民族クラブ)の拡大につながった。大阪市や東大阪市では「民族講師会」が結成され、民族学級の運営、カリキュラムや教材の研究がすすんだ。

 全国で最も在日朝鮮人多住地域だとはいえ、行政が「民族教育権の保障」に目を向けた初めての画期的な、特筆すべき成果といえよう。これは在日朝鮮人の子どもにとって民族学級(民族クラブ)の存在が彼らの人間形成にとって不可欠のものとの認識が拡大・深化したものと考えられる。

 

 B 民族学級(民族クラブ)がどうして必要か?〜実践のなかから見えたもの

 民族学級(民族クラブ)の実践によって明らかになった成果の第一は、「民族学級(民族クラブ)」等の場は朝鮮人の子どもにとって民族同胞との出会いの場になるということである。

 日本の学校の現状、日常の学校生活では、朝鮮人の子どもはその多くが通称名を名のり民族を隠しているため、同胞としての関係が断たれている。民族学級や、朝文(問)研、朝鮮人子ども会などに集えば、自分の他にも同胞のいることを知り、その場では朝鮮人が当たり前のこととしてお互いに了解され、親近感を抱く。ともに活動を続ける中で絆を深めていく。ある高校生はその時の気持ちを<今まで朝鮮人ということを引け目に感じて生きていた自分が、そこに朝鮮人が集まっているだけでとても楽しく朝鮮人になりきれるのだ>と表現している。また、別の生徒は<自分と同じく同じ学校の中で日本人とちがって心の通い合う同胞の友だちができるということだ>と語っている。自分と同じく日本社会に生きる同胞の年長者が<本名を名のり、抑圧と排外のしくみに抗い、たくましく明るく生きる>、その生き方に学び触発される。自らの生き方を内省させる重要な存在として向き合うのである。

 第二は、言葉や歴史、文化などの学習を通して民族文化に触れ、祖国や、民族への帰属について強い自覚をえることである。<チャンゴをたたき、農楽を踊っている時、私の体の中を熱い血がかけめぐり、胸が高鳴っているのを覚えました>と言い、別の子どもは<なぜこれまで、韓国人を隠していたんだろう、ぼくは韓国人なんだ。今、大きな声で叫べるような気持ちだ>という。在日朝鮮人の子どもにとって民族学級の場は「在日をどう生きるか」を学ぶ場でもある。アボヂやオモニ、ハルモニが、「差別と抑圧」の日本社会のなかで民族の心を守り、市民としての、民族としての権利を獲得するためにどのように抗い、道をきり拓いて生きてきたのか―その歴史と現実を学ぶことが、自らの生き方に展望をみいだすことにつながる。

 第三に、民族学級などの場に参加することそのものが「朝鮮人宣言」である。民族学級なり、朝文(問)研活動なり、民族子ども会に参加し、また、また民族文化祭の舞台に立つ、そのこと一つひとつが自己に民族の確認を迫る行為である。こうして民族につながり、朝鮮人としての自立へと出立していくのである。

 第四は、日本人の子どもたちの朝鮮(人)認識をかえさせることにつながるということである。同じ学級で学んでいても日本人としてとして見えていてその関係でつきあっていた友人が、「本名を名のり」「チャンゴを叩き」「農楽を踊る」―その姿を目の当たりにして日本人の子どもは衝撃を覚える。異なる民族の友人としての新たな関係に発展するきっかけとなる。また、マダン劇や、ムヨン(舞踊)、ノレ(歌)などを民族衣装とともに披露することは朝鮮民族独自の文化を強く印象づけ異文化への興味と関心を呼び起こし、異文化理解へつながっていく。

 多くの実践がこれらの成果をあきらかにしているが、同時に今後の実践課題も明らかにしている。民族学級、朝文(問)研等、同胞の集まり―その活動の中では本名を名のっているけれど、日常の学級では通名を名のっている子どもが見られるのが現状である。それは、在日朝鮮人教育実践が学校全体の教育活動、とりわけ、学級集団づくりに有機的につながったとりくみに深まっていないため生じている現象であろう。民族講師と、日本人教師の連携のありよう、とりわけ、日本人教師の目的意識的な学級集団づくりが求められている。

 

3.歪められた歴史認識をただし、確かな歴史認識を培う

 

(1)民族差別・抑圧の根っこに見る歪んだ朝鮮観

 「考える会」結成のきっかけになった大阪市立中学校長会民族差別文書事件(1971年)や、大阪市外教の学習会での大阪市立深江小学校長民族差別発言事件、1974年の奨学金受給申請をめぐる朝鮮人排除の事件、民族教育など民族的な諸権利が抑圧されている情況の根底に共通して見えたのは「歪められた歴史認識」であり、それに基づく「偏見」や「現実認識」であった。私たちは様々な差別事件の追及や民族的諸権利の抑圧情況に向き合いその深刻さに覚醒し、克服の運動・実践に努めた。

 

(2) 日本社会・日本人に朝鮮・中国をはじめアジアへの蔑視・偏見、差別意識をもたらした要因

 教育運動を立ち上げた1970年代は、まだ日本社会・日本人の朝鮮や、中国を初めアジアに対する蔑視・偏見、差別意識は根強く、露骨にしばしば民族差別(発言)事件として表面化していた。1979年の国際人権規約など、人権にかかわる国際条約の発効、国内での部落解放運動、在日朝鮮人教育運動など様々な反差別、人権保障の運動の潮流が合わさって露骨な差別事件は表面化することが少なくなった。しかし、多民族・多文化共生を標榜する日本社会・日本人の朝鮮、中国をはじめアジア諸国(諸地域)に対する蔑視・偏見、差別・排外の意識情況は、まだまだ根深いものがある。様々な法・制度・システムに残されている。このような蔑視・偏見、差別・排外の意識がどのようにして醸成されたのか。

 

@ 日本民族優越意識の鼓吹と同化政策

 朝鮮植民地支配から100年。在日朝鮮人に対するいわれなき偏見・差別、抑圧のしくみとそれを支える意識情況を日本社会に醸成した大きな要因は朝鮮植民地支配当時の「皇国臣民化」「創氏改名」等、日本民族優越を鼓吹する同化政策であった。これによって朝鮮民族の歴史や、言語、文化、生活を奪うなどの残虐・非道を加えた。朝鮮植民地政策は、朝鮮民族への加害にとどまらず日本民族に偏見・蔑視等のいびつなアジア観・朝鮮観を醸成した。

 

A 渡日朝鮮人を貧窮に追いやった民族差別政策

 1910年の朝鮮併合の後、生活の糧を求めて企業の募集に応じて渡日した人、知人縁者を頼って渡日した人、自分の意志に寄らず、強制連行等の日本の国策で渡日を強いられた人など渡日の背景は様々だが、渡日後の生活は職種、労働賃金等、差別・抑圧の政策によってその生活は貧困・貧窮に追い込まれる実態があった。民族差別政策は在日朝鮮人の生活を貧窮に追いやったばかりかそれを目の当たりにした日本人に「さげすみ」「偏見」など朝鮮・朝鮮人に対するいびつな意識を増幅させることになった。

 

B 「追い付き」型の近代化教育と朝鮮・中国をはじめアジアへの蔑視・偏見

 臨時教育審議会(臨教審―1985〜1987年)答申では明治期以後の日本の教育の歩みを「追い付き型近代化教育」と位置付けた。日本の近代化は当時の帝国主義欧米列強に肩を並べ、追い付くことをめざした。「富国強兵」「殖産興業」の二大国策を掲げ、教育もこれを支えることを目的として、国家統制のもとにすすめられた。教育は、統帥権のもとにある陸海軍とならんで、万世一系の天皇が直接大権を行使する領域であって、いわゆる「皇国史観」のもとにすすめられた。天孫民族による神聖国家観をかざし、日本民族優越を鼓吹して国家主義的な政策をおしすすめた。まさに帝国主義政策であり、それを支えた「追い付き型近代化教育」は、確かに日本の経済や教育を欧米に肩を並べる水準に高めた。敗戦という苦難を乗り越え今日の繁栄の基礎を築いた。けれども一面、日本社会・日本人に、他民族に対する排外、なかでもアジア諸民族に対する蔑視・偏見、排外の意識情況を内包させることになった。朝鮮植民地政策や、アジアへの侵略政策がいちだんと強められると、その意識はますます増幅され日本社会のすみずみまで根づいていった。

 

(3) 確かな歴史認識を求めた試行錯誤の取り組み

 「考える会」発足当初、1970年代の実践は、朝鮮植民地支配がもたらした、他民族への残虐非道の加害の史実を子どもたちに受けとめさせたいとの思いがあった。

 当時、「考える会」のシンポジゥムは、在日朝鮮人教育の実践課題として「授業で何をどのように教えるか」がテーマとして採りあげられることが多かった。在日朝鮮人が「在日」していることの意味を、歴史的・社会的背景を踏まえて、これらの人びとの市民的・民族的諸権利が侵害されていること、民族差別の問題が、日本社会・日本人の歴史認識に深くかかわっていることを受けとめる。歪められた朝鮮観をそのままにして、朝鮮・朝鮮人に耐えがたいほどの抑圧・惨禍をもたらしたその加害の歴史を受けとめることを避けていては、朝鮮、中国をはじめアジアの人びととの真の友好・連帯の途を切り拓くことはできないとの認識からであった。

 しかし、加害の歴史を授業に登場させる実践で、わたしたちには苦い体験があった。朝鮮植民地支配36年の歴史に、目を覆い、耳をふさぎたいほどの衝撃を受けたわたしたちは、教師としてこの加害の史実にどのように向き合うかが問われていた。子どもたちに史実に向き合わせ、教訓として受けとめさせることを避けることは許されない。しかし、実際の授業に採りあげることにためらいを覚えるような悲惨な内容もあった。

 土地調査事業の中の土地収奪、皇国臣民化政策、創氏改名を初めとする同化政策…どれを採りあげても残虐非道の極みであった。日本人の子どもも朝鮮人の子どもも一様に静まりかえっている。うつむいている子ども、窓の外に目をそらせている子ども、教師に目を合わせる子どもがだれ一人いない。質問を投げかけてもだれ一人言葉を発する者がいない。教室は重苦しい雰囲気が漂っていた。教師の言葉だけが一人踊っている。これでいいのか? 

 「考える会」「大阪市外教」のシンポジゥムでも論争が起きた。確かな歴史認識をどのように育てるか。だれひとりそのことに異論をはさむ者はいない。しかし、どんな内容をどのような教材で「授業に朝鮮を登場させるか」。―意見が噴出した。試行錯誤の実践、実践交流のつみあげ、それが教科書点検や、教材の自主編成運動につながった。「大阪市外教」の「サラム」シリーズ、豊中市外教が作成した「サントッキ」、「考える会」がシリーズで発刊した在日朝鮮人児童・生徒の教育を考えるための資料―例えば「なぜ日本の学校に多くの朝鮮の子どもたちが学ぶことになったのか〜民族学校閉鎖と再建の歴史」などが自主編成された。 

 このような経緯を経て、朝鮮植民地支配の加害の歴史だけに目を向けた日朝関係史にとどまることなく、古代から今日にいたる友好な関係だった時代の日朝関係史(朝鮮通信使など)を踏まえた全体像を捉えさせる確かな歴史認識を培う実践が提起され交流されるようになった。

 

(4) 歪んだアジア認識の醸成と歴史教科書

 ・ 歴史教科書とアジア認識 

 敗戦後、民主主義の導入によって、歴史教育の復活が認められた。戦前の国定教科書に対する反省に立って新しい教科書の記述がすすめられた。けれども、1952 年のGHQの占領政策からの解放後、主権を回復した日本政府は、教科書検定制度によって記述の制約を次第に強めていった。どのような制約がかけられたか。

 1960年以降、検定の強化によって、歴史の教科書から植民地支配の実態について記述した箇所が希薄になるか、あるいは歪められて記述されることになった。記述すらされなくなくなってしまった事柄もある。例えば、苛酷な植民地支配政策に抗して、独立を求めて朝鮮全土で起きた民衆の抵抗運動(三一独立運動)を「暴動」だと記述したり、関東大震災時の朝鮮人虐殺の犠牲者数や、15年戦争期(1930年代〜45年=敗戦)に炭坑や鉱山、土木工事現場に強制連行された朝鮮人の人数についても、「不確実な数字を断定的に書くことは避けるよう」との教科書検定の指示で削除されたり、あいまいに「多数」といった表現で記述するようにとの指示が出された。数字の記述にとどまらず、史実そのものを削除し、歪めた。また「土地調査事業」という名の土地収奪政策をはじめ一連の皇民化政策も、「法的な手続きを踏んでいた」という理屈で削除されたり、書き替えを求められた。強制連行は「連行ではなく法令に基づく徴用であった」との理由で、「強制」を「奨励」に変更するように指示され、それを受け入れなければその記述箇所は削除された。従軍慰安婦問題も同様であった。歴史の事実を支配者の側からのみ伝える、あるいは史実そのものを隠してしまうということを教科書検定はおこなってきた。戦後の民主教育は教科書検定政策によって大きく歪められた。

・逆行する教科書検定

 2004年に中山文部科学大臣は歴史教育に関わって「自虐史観に基づく歴史教育を改めて…」と発言し、さらに、下村政務官が「近隣諸国条項ができてからマルクス・レーニン主義による自虐史観の教育がおこなわれていることを看過できず議員連盟を作った」と述べた。また講演の中でも、「『歴史教科書から従軍慰安婦や強制連行という言葉が減ってよかったと』との中山大臣の発言を支持する」とも述べた。1982年当時、「日本の教科書記述は史実を覆い隠したり、歪曲している」との非難と抗議が外交問題に発展した。その結果、「近隣諸国条項」を設けることになった、いきさつをみないで教科書検定を所管する文科大臣、政務官がそろって「近隣諸国条項」を否定するような発言を繰り返すところに現在の日本のいびつさがある。

 中国侵略や朝鮮統治の史実が教科書であいまいにされたことで中国や、韓国が強く反発した。教科書検定時のこのような背景や、経緯のあと、加えられることになった「近隣諸国条項」によって記述された教科書がなぜマルクス・レーニン主義と結びつくのか?戦後の民主教育はこのようにそのときどきの政権の教科書検定政策によって大きく歪められた。戦後の民主教育を受けて育った人びともまた、近・現代の日本とアジアの関係の確かな歴史認識を培ったとは決して言えない、そんな歴史教育を受けてきたのである。

 このような経緯の中で、教科書検定がおこなわれるたびに日本と近隣アジアの国々、とりわけ韓国、中国 との間で歴史教科書の記述をめぐって「史実の歪曲」として非難と抗議がなされ、外交問題に発展することが繰り返されている。確かな歴史認識を育むとりくみがいっそう求められている。「未来志向の日韓関係」をめざすため、日韓の民間レベルで歴史教育を検討する潮流が生まれている。このような潮流に力を合わせたい。

 

4.在日朝鮮人教育運動がもたらしたもの〜日本社会・学校は変わったか

 シンジャの告発から在日朝鮮人教育運動にこだわって、すでに40年の歳月が流れた。「考える会、現在の全朝教大阪」出立のころ、私たちの問題提起や実践は教育現場の教師にも教育委員会にも市民にもなかなか理解されなかった。けれども、―韓国・朝鮮を初めアジア諸地域の人々に対する偏見や蔑視、<同化と排外(排除)>の意識の克服・転換をめざした取り組みは日本が国際社会で信頼を得るためにくぐらなければならない重要な課題である――との考えは決して揺らぐことはなかった。

 65年もの歳月を経て、戦後という言葉すら遠い今、在日する民族的マイノリティにとって日本はどれほど住みよい社会になっただろうか、子どもにとってどれほど居心地のよい学校になっただろうか。

 高校入試や就職試験の応募要項に国籍条項を付したり、入社のときに帰化を強要したりなどの不条理や差別にに抗った1970年代に比べ、在日朝鮮人に対する露骨な差別事件は確かに表面化することが少なくなった。およそ40年に及ぶ在日朝鮮人教育を初めとする民族的マイノリティの人権保障の教育運動は日本の学校・社会にどのように変革をもたらしたか。1年や2年の短いスパンではその変化は見てとれないが、30〜40年という長い歳月の経過の中ではやはり見てとれる変化がある。

 大阪市民族講師会顧問の朴正恵さんはこう語っている。

 「『パンガプスムニダ〜イロッケマンナニ パンガプスムニダ〜』部屋にいると、外から聞こえてくる歌声に誘われて玄関を開けてみた。すると、四、五人の子どもたちが歩きながら楽しそうに歌っていた。西成の町から聞こえてくる朝鮮の歌に感動した。

 『おはようございます。アニョンハシムニカ? マガンダンウマガッポ(タガログ語)』

 毎朝、長橋小学校の子どもたちはごく自然にこの挨拶を交わす。西成の町から聞こえてくる歌、毎朝のあいさつを聞くたびに学校が、そして地域が『変わってきた』ことを実感する。三十年前、『アニョンハシムニカ?』とあいさつすることに、『英語ならわかるけれど、どうして長橋小ではこんな特別なことをするの?』と苦々しく吐き捨てるように言っていた保護者がいたことが思い起こされる。三十有余年のとりくみが教育現場をこのように変えたのだ。」

 

 わたしたちの実感はどうか。大阪府立長吉高校で長い実践をバネに朝鮮語教員を常勤教員として採用することを求めた運動があった。1988年度末に大阪府教委が<常勤教員として採用する>と公表した。公立小・中・高校の教員任用の問題は民族的マイノリティの進路保障をめざして私たちが一貫して力を傾けたとりくみだった。

 

 「へえ!先生、ほんとうに朝鮮人が日本の高等学校の先生になったん それほんとう?信じられへん!日本も変わってきたんやなあ。昔やったらそんなこと考えられへんことや」

 「そら、オモニたちの同胞の二世の人、三世の人たちもがんばっているよ。民族差別は絶対許さん、いうて全国のいろんなところで頑張っているんだよ。」

 

 はじめのうちはオモニたちは成果を告げる報告に一様に半信半疑で聞いていた。それほど根強い民族差別や排除のきびしいしくみが存在していたのである。公立小・中・高等学校の任用にあたって「日本国籍を有する者」という、いわゆる国籍条項の撤廃を求めてすすめてきた40年の運動によって大阪府内では今や100名以上の外国籍教員が常勤講師として任用されている。

 

 「民族的マイノリティの子どもの人権保障」をめざすとりくみとしてすすめられた民族学級は大阪府・市において全国的にも画期的な取り組みとして発展している。在日朝鮮人の最大の集住地という特異な実態が背景にあるが、現在、大阪市内では15名の民族講師が任用され指導にあたっている。長年、「考える会、現在の全朝教大阪」が求めていた他民族・多文化共生の視点を明確にした「在日外国人教育基本方針」が大阪市で2001年に策定された。2001年現在、大阪、奈良、兵庫、京都、三重、広島、神奈川、福岡、の府県教委を初めおよそ60を超える地教委が同様の基本方針(指針)策定している。このように見ると一定の成果を見てとることができる。しかし、全国的に見ると成果はまだまだ地域が限定的だし、運動の理念や取り組みの広まり深まりが実感できない。けれども、1970年代、茫漠とした砂漠に水を滴らせるような運動・実践から始まった在日朝鮮人教育運動が、一筋の水脈になった。その成果や課題は多民族・多文化共生教育として継承されるであろう。

 

 いまも識字・日本語教室「よみかき茶屋」で学ぶ鄭良純(チョンヤンスン)ハルモニの語った言葉が私たちの足跡を物語っている。

 

<かって日本人は私らが読み書きすらできないことに目をつけ、分銅をごまかし量目をだまして高い金を支払わせたり、月払いの借金の回数をごまかしたりさんざん私らを苦しめ、今もバカにしてる。煮えくり返るほど腹が立ったし日本人を憎んでいた……>

 

 このように語っていたハルモニが夜間中学での学び、「よみかき茶屋」での日本人市民・日本人のボランティア講師との日本語の学習や交流によって自らが変わったと語る。

 

<前みたいに日本のこと悪う思わんようになった。読み書きができ、人の話をよく聞くようになった。内容が理解でき感動することが多くなった…新聞を読むようになって読めたうれしさと紙一枚で自分が世界につながってひろくなったうれしさやね! 素晴らしい日本人にも出会うことができたし、いい先生方にも出会って考えも変わってきた…何物にも変えられん…文字ほどありがたいものはない。>

 

 近年の「冬のソナタ」「チャングムの誓い」などの韓国ドラマのブーム、韓流ブームは、マスコミが連日採りあげ、日韓民衆の相互理解と友好親善が深まったような印象を感じさせる。しかし一方、日本人拉致事件後の日本の世論は、国家の権力体制の犯罪への非難、抗議にとどまらないで、朝鮮民主主義人民共和国のすべてを悪とするかのような意識情況がまきちらされている。韓流ブームとの落差に首をかしげたくなる。このように、私たちの教育運動の成果を検証することはたいへんむつかしい。これからも、さまざまな差別・抑圧への闘いの事実を積み重ね日本社会の変革をすすめたい。

 40年たった今、日本の学校では、韓国籍・朝鮮籍の子どもなど朝鮮半島にルーツをもつ子どもの在籍率は相対的に低くなった。中国からの帰国者の子ども、働くことを目的に来日したブラジル人、ペルー人、また、日本人との国際結婚で永住することになった外国人など、国籍も民族も多様な外国人の子どもが学んでいる。日本の学校は多民族・多文化の学校になった。在日朝鮮人教育運動の軌跡に学び、グローバル化した日本社会の情況に対応する「民族的マイノリティの人権保障」の教育運動のさらなる発展に期待したい。

                                                             (稲富 進)

 
 
     
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