全朝教大阪(考える会)結成40周年基調報告  2011年9月24日

多民族・多文化共生教育の実現をめざして

あらためて「在日朝鮮人」の意味を問い直し、教育のあり方を考える

                全朝教大阪(考える会)事務局長 栗田珠美

はじめに

 10年前、30周年記念集会はちょうど9・11の直前に当たっていました。「戦後民主主義の堤防が決壊した」(辺見庸)というのが当時の状況認識でした。今、私たちの前には、3・11以後、文字通りの廃墟と今後数世代の間も続くであろう核汚染、そして、先頭に立って子どもに誹謗中傷と迫害を加える知事、また、差別をまき散らすような教科書を選んで恥じない教育委員会、それを支える政治勢力があります。「北朝鮮」を口実にするだけではまだ足りないかのように、尖閣諸島や竹島の問題を突出させて近隣アジア諸国との対立をあおる政治家、役人も野放しです。なるほど教育への信頼は地に墜ち、保護者自身は格差社会と子ども虐待の縁に立たされ、教育現場で苦闘する教職員には、近い将来イギリスでの青少年の暴動が大阪でも起こるだろうという悪夢に苦しめられています。子どもたちの前で「差別、暴力はいけません」と言うのがもう恥ずかしいという気持ちまで湧いて来かねません(註)。

 確かに状況は変化しています。ベック(独)社会学を援用して、従来の「階級社会」の中の「平等という理想」に対して、現代では「リスク社会」における「安全性」こそが社会の基礎となる、という見方もあります(金明秀)。しかし「平等、差別反対」が有効ではなくなりつつあるという点はともかく、歴史を振り返れば―1920年1月のベルリン、1920年のシベリア・中国領間島そして1923年9月の東京と比較しつつ、2001年以降のアフガニスタンやイラク、ニューヨークやロンドン(それに日本、「対テロ戦争」の銃後)を思い浮かべても―「治安維持」今の言葉では「人間の安全保障」を強調することが単純に現代の「新しい」問題だと言うことには躊躇してしまいます。まして、教育現場での実感は、今や1980年代以前の状況へと子どもをとりまく様子が悪化し逆戻りしていることです。健康保険に入れない家庭、子どもの居場所がなく、フルーツ牛乳が食事代わり、深夜徘徊してホームレスの人々と共に堤防や公園で眠り、自転車窃盗で警察に捕まり…そして地域からも学校からも排除されていく…。テロ対策で増員された警察官が子どもたちを誰何する…。

 ここでは1971年9月24日誕生したこの会の、最近十年間を中心に振り返り、「多民族・多文化共生の日本社会」への展望と教育のあり方を検討します。目の前の朝鮮人の子どもたち、また多くの外国人の子どもたちと一緒にこの私たちの社会、学校をよりよい幸せなものにしていくために、希望がどこにあるのかを探りたいと思います。もっと多様な多くの問題を検討する必要もあるのに、様々な制約によりほんのいくつかの点に簡単に触れるだけになったことを、あらかじめお詫びします。

 

U この10年間

 

<「韓流」ブーム>

 2003年NHKの「冬のソナタ」放映から爆発した「韓流」ブームは今や若者高校生にまで及び、女子高校の職員室で韓国語が飛び交うのも当たり前になっています。「韓流の聖地に異変 「竹下通り」化する東京・新大久保…"イケメン通り"に10〜20代女性やファミリー層が急増」(2011/9/14 日本経済新聞)の記事には、「東京のコリアンタウンと呼ばれる新大久保。この街が最近、急速に変貌している。以前は韓国人や韓国通の日本人が訪れる場所だったが、最近は10〜20歳代の女性や、小さな子どもをつれたファミリーの姿が目立つ。韓流ドラマやポップ音楽で韓国を知った若い世代が新大久保を韓国ソウルの繁華街、明洞のように変身させようとしている」とあります。(だからこそ、危機感を持つ人がフジテレビを攻撃したりするのでしょう。)大阪の鶴橋界隈の状況も、行けばわかりますね。

 朝鮮に関する教材は今や巷にあふれています。教職員は、自分の好きなもの何からでも、それを切り口にして進んでいくことができる状況です。チャン・グンソクグッズを教室に持ち込めば、女子高校生は大喜びするに違いありません。そうしたものを切り口に、朝鮮を教える新しいスタイルを生み出す必要があります。レディー・ガガを導入にして現代社会のさまざまな問題を考えるきっかけにできるように。

 

<2002年日朝共同宣言以後の拉致問題>

 在日朝鮮人に関わる諸問題は、小泉首相訪朝以来、緊張緩和と朝鮮民主主義人民共和国との国交樹立の方向ではなく、拉致問題を口実とする「北朝鮮」制裁と攻撃の方向へと進んできました。共同宣言に明記された植民地支配への謝罪と清算はどこかへ雲散霧消し、法制度上の根拠―改正外為法、特定船舶入港禁止特別措置法に続いて2006年成立の北朝鮮人権法は「国の責務」として(1)改正外為法などに基づく経済制裁発動(2)「脱北者」の支援(3)脱北者支援NGOなどへの財政的配慮を規定している―をもって、子どもたちの意識も当然「北朝鮮」=悪で固められ、「北朝鮮」拉致問題での勇ましい言説が学校の人権教育のテーマに持ち込まれつつあります。かつて「尼港事件・琿春事件」や「通州事件」が「不逞鮮人」「暴戻支那人」を「懲らしめる」戦争のきっかけにされたのと同じことが進行しているとも言えます。しかし「在特会」の人々のあまりにひどい差別暴言、非人道的言動が、梅田歩道橋でそれを直接見聞きした人々に逆に疑問を抱き考え始めさせるきっかけになったという例もあります。これらは、反面教師として、教材作成のヒントと材料を提供してくれています。

  拉致問題を克服する教材はこれまでも試行していましたが(2004年3月4日シンポジウム、ほか本会HPに高校の例を掲載)、教育現場でこうした「排外主義」的情緒が、よくて放置され(悪ければ煽られ)る現状に対して、韓国、それに中国も、自分がすばらしいと思える点を果敢に持ち込んで、友好連帯の雰囲気作りを進める必要があります。その上で、韓国と朝鮮は同じ国の違う呼び方だということ、「北朝鮮」はかつて日本と独立戦争を戦った金日成(キムイルソン)が首相になって建国されたことを的確に学習することが必要です。教職員向けにば晩植、李承晩や朴憲永、金日成が登場しウラジオストクの抗日連軍基地も舞台になっていた「Seoul 1945」のような韓国の歴史ドラマも必見です。

 

<教科書問題>と教育内容

 自由主義史観の運動から始まった「新しい歴史教科書」は、朝鮮植民地支配とアジア・中国侵略戦争について「見て見ぬふりと言い訳だけの卑怯者の観点」を押しつけるものです。「新しい公民教科書」は近隣アジア諸国との友好連帯ではなく、「北朝鮮」への「単純きわまりない敵意」をあおり、韓国中国への攻撃を扇動する視点で書かれています(2001年6月29日シンポジウム採択のアピール)。歴史上の責任をきちんと認め、近隣諸国と堂々と仲よくつきあえる、自分に自信を持った立場ではなく、ごまかして相手につっかかり衝突ばかり繰り返す情けない自虐的立場を子どもに広めてどうするのですか。しかし新教育課程に伴う中学校の教科書採択では、十年前とはうってかわった制度改変の末に、各地で育鵬社などのそうした教科書を採用する動きが出ていて、首相の所信表明にさえ「日本人の誇り」がむやみに強調される現状です。

 そうした教科書を採用する政治的動きに対抗して、教職員の、地域住民と連帯した教科書批判教育運動、歴史学習運動を起こさなければなりません。また、朝鮮人強制連行、また日本軍性奴隷制(従軍慰安婦問題)のきちんとした教材化、授業の中でどう取り上げるかも課題です。かつて1980年代には、音楽の授業で「白頭山(ペクトサン)」の歌を教えた教員が週刊誌をはじめ保護者や豊中市教育委員会から総攻撃を受け、今年に入っては神奈川の教員が関東大震災の際の朝鮮人虐殺についての学習を生徒に指示したことで攻撃を受けています。朝鮮について無知なことによって朝鮮に関わることに反発し攻撃を加えてくるような人たちに対しては、私たちはきちんとした客観的知識に基づいて反論反撃し、保護者や周囲に支持を広げることが必要です。白頭山は朝鮮を教えるのに欠かせないし、関東大震災の際の朝鮮人虐殺は大杉栄・伊藤野枝虐殺と同様、歴史的事実なのです。

 それにしても、朝鮮人虐殺をなかったことにしたい人々も、やはり恥じる感覚があるからこそ目をつぶりたいと思ってしまうわけでしょう。朝鮮人を通名で呼ぶことに恥ずかしい感情を持つことは、なかなか日本社会では共有しにくくても、この歴史問題は広く共通の地盤があることになります(本会HPの中の教材「1923年の日本人による朝鮮人虐殺はなぜ起ったか」は早くからWIKIPEDIA「関東大震災」ページにもリンクが作られています。横浜の後藤周さんによる、発見された1923年当時の小学生たちの作文の中の朝鮮人虐殺の様子については、むくげ188号、2008年4月)。

 かつては日朝関係の「暗い歴史」を教えることが、子どもたちに朝鮮についてマイナスイメージを増幅させ逆効果を生むという点が指摘されていました。それゆえ、まず朝鮮の自主的発展、あるいは日朝の平和対等な外交関係がまずあって、その上で、それを破壊した侵略と植民地支配の意味を教えること、その順序の大切さが確認されてきました。この点でも「イサン(朝鮮国王正祖の名前)」など韓国の歴史ドラマは参考になりますし、江戸時代の朝鮮通信使とそれが西日本各地に残したもの(唐子踊りや民芸品)が絶好の教材になります。「ビルの谷間に朝鮮通信使ウォッチング―江戸時代の日本と朝鮮の善隣友好の足跡をたどる大阪歴史ウォ−ク」(2001年、むくげ170・171号)などフィールドワークで積み重ねられてきた研修活動を生かし、受け継がなければなりません。

 ただ、それでもなお、朝鮮通信使について日本側からのみ見た優位感をことさらに指摘する見解や、それに影響されて文化交流だけ取りあげてすます(交換された国書に見られる対等友好をあえて無視する)見方も絶えません。また、前回の中学校教科書採択に際して2004年11月に小泉内閣の中山成彬文部科学省大臣が「従軍慰安婦とか強制連行とかいった言葉が減って良かった」、検定の最終段階2005年3月に下村文部科学政務官が「(近隣諸国条項によって)「自虐史観」教育が行われている」と発言したことに見られるように、日本にとっての「暗い歴史」を教えるのは「自虐」史観だという、それこそ自国の歴史に自信が持てず、神話や天皇、信長秀吉の武力やアメリカ軍の軍事力にしか正統性の根源を見いだせないあわれな自虐史観が幅をきかせはじめています。私たちは、行き着くところ、日本史そのものの新しい研究、学習活動を始めなければならないのかもしれません。それは、在日朝鮮人問題が本当は日本人問題であることの帰結なのでしょう。

 さらに、学校の諸行事において「日の丸・君が代」が子どもに対して強制にならぬようにする保障、この学校教育上最低限の当然の義務―大阪府知事でさえ、教員の行動を規制しようと条例は準備しても、児童生徒の自由は否定していない―について、どのような論理と方法で、学校として子どもに配慮するのか(2000年7月7日シンポジウム)の問題は、必ず残ります。これについては「朝鮮人がいるから、外国人もいるから」という理由付けを私たちはしません。日本人自身の課題として問題提起を続ける必要があります。朝鮮民主主義人民共和国との国交樹立がなければ、かつての日本帝国の植民地支配の最終清算が終わっておらず、そこで問われるのは、現在の日本国はかつての日本帝国のうわべだけ変えた継続なのか、それとも植民地支配や侵略戦争を反省し再出発した新しい国なのかという根本問題の最終決算なのですから。

 

<外国人の子どもたちの強制送還問題>

 長期休暇の後、教室から子どもが消える、これが2001年初頭の教育現場でした。全国では2000年度649人2001年度985人の外国人の子どもが強制収容、強制送還されており、2001年には大阪府下の中学校に入管職員が子どもを捕まえに踏み込んでくるという事態も発生しました(2003年3月6日シンポジウム)。その後、各方面の努力によって高校生まで収容、収監はない状況がさらに大学生まで広がってきています。

 これは、目の前の子どもの教育権を、それが日本国籍であろうと外国籍であろうと、学校、現場の教職員がどう守るかの問題であり、2009年に大阪市で起こった小学校へのタイ国籍の子どもの編入に際してもそれが問われたと言えます。学校は何があっても子どもの安全、教育権を守る、外国人の子どもであればその民族性を守り育てる教育を必ず保障する、この教育のイロハも何度も確認する必要があります。犯罪者の子どもであろうと、子どもの教育権は守る、当たり前です。まして出入国管理及び難民認定法違反については、犯罪ではなく、交通違反と同様の行政措置であることを忘れてはなりません。

 日本における外国人の立場から見れば、2000年以来全廃されていた出入国管理に関わる指紋と顔写真が、2007年11月20日から復活しました。また2009年の入管法・入管特例法の改定で、従来から批判の的であった外国人の再入国許可について、「有効な旅券を所持する特別永住者」は例外として手続きの省略が行われましたが、朝鮮籍の人については一方的な再入国許可制度が維持され続けている状況です。2008年には海外修学旅行から帰国する高校生から指紋と顔写真をとろうとする当局に、学校は一時有効な手だてが取れませんでした。その後コリアNGOセンターなど各方面の努力で、現場での混乱は避けることができる方途が工夫されてきましたが、在日朝鮮人の中で朝鮮籍の人だけをねらいうちにして差別する法体系はそのままです。府知事からの攻撃によって行政の傘下に収まりつつあるかに見える学校が、そうした行政上の差別に対して、今後も子どもの権利、教育上の論理を断固として対置することができるでしょうか。

 

<民族学級>と行政の対応

 大阪府・市の公立学校ではおよそ117 人(2008年度、全国で215人)の外国人教員が「任用期間を付さない常勤講師」として(1991年日韓外相覚え書きによる)雇用され、年々増加しています。それ以前から、大阪で1974年以降教諭として採用された外国人教員は、1991年に管理職登用への道を閉ざされ待遇を切り下げられるという不合理をこうむりましたが、それは回復されぬまま退職の時期を迎えようとしています。

 また、大阪市においては106校(2011年度淀川区神津小学校が開講)、東大阪市では28校、府内全体では約170校で民族学級(民族クラブ)のとりくみが進展しています。1950年以来のいわゆる「覚書民族学級」(府内11校で常勤講師によって担当)の外に、各市で様々な仕組みが工夫され、大阪市では1992年以来「民族クラブ技術指導者招聘事業」(1992年から2008年まで)により、民族学級の運営を担当する民族講師が雇用されてきました。2001年の「在日外国人教育基本方針〜多文化共生の教育をめざして〜」をもとに、全市全校園で取り組まれた成果は、在日外国人の本名使用率の変化―本名の着実な増加に現れています(別掲の「在日朝鮮人の本名問題」末尾を参照)。大阪市外教の調査に基づくこの結果を、冷静に正確に分析する必要があります。

 大阪府教委でも「大阪府在日韓国・朝鮮人問題に関する指導の指針」(1988年)策定以後、様々な形で指導の拡充がはかられ、府立高校合格者登校時に本名を勧める文書を配布するようにしたり、教員採用試験で本名問題が題材になったり、新任研修でも毎年在日朝鮮人教員の講演が組み込まれるなど、努力が続けられています。

 他方、これに対する逆流が最初に現れたのは、府下で最も早くから在日朝鮮人の子どもに焦点を当てた教育運動が始まった高槻でした。2003年それまで高槻市で社会教育の一環として長らく取り組まれてきた「多文化共生・国際理解教育事業」の「地域子ども会」「学校子ども会」「日本語識字教室」「高校生の会」などの事業が廃止されました。これに対して2004年には大阪地裁で9カ国の国籍小中学生(日本国籍をふくむ)52人の原告団によって高槻マイノリティ教育権訴訟が開始されました。日本で初めて外国人の(外国人としての、民族としての)教育権を提起する裁判でした。本会は2003年3月10日付高槻市教育委員会教育長あて要請書をはじめ、高槻むくげの会と連帯して市役所を取り巻く人間の鎖にも参加しました。しかし、その後裁判は敗訴に終わり、高槻むくげの会は従来の事務所を撤退し、以後も果敢な運動を続けています。2002年地対財特法期限切れに伴う同和対策事業終結がどう関わったのかなど、高槻市の施策変更には不明な点もありますが、本会は十分な支援ができませんでした。

 大阪市においては、その後2009年から、実行委員会が補助金を受けて実施する前記「招聘事業」から、新しく市教委直属の「国際理解教育事業」が立ち上げられ、17人の国際理解教育コーディネーターが非常勤嘱託として雇用されました。しかし翌年、公務員バッシングが一層強まる中で大阪市教組の教育内容に関する行政交渉の手も封じられ、市議会の野党議員を中心に「外国人の子どものためにお金を使う」ことへの攻撃が展開されて、その予算人員が大幅に削減される危機に直面しました。大阪市教組、同胞保護者会を中心に、各学校の民族学級を支える人々が結集してなんとかその危機は回避され、現状は国際理解教育コーディネーター15人と時間勤講師枠4人分で民族学級107校の講師を担当しています。

 神戸市においては神戸在日コリアン保護者の会が中心になって1995年に保護者の自主的な取り組み「オリニソダン」が始まり、2004年蓮池オリニソダン、2010年だいちオリニソダンという二校での学校主催の民族学級に発展しています。こうした民族学級という存在が、普遍的な教育上の意味を持つことはかねがね指摘してきた通りです。非行に走りがちなブラジル人の子どもの教育を考えて到達するところ、北海道でアイヌの子どもたちの教育を考えて、到達するところ、それらは私たちの発案でなくても構想されていました。私たちは確信を持ってこうした教育の宝を維持発展させなければならないし、このアイデアを日本全国に広げたいと願います。

 朝鮮人としての、ブラジル人としての自分自身が受け入れられ尊重されていると感じることのできる場を学校の中に確保する。多数派の日本人の子どももそういう友だちを見て国際感覚を磨く、それによって学校全体の教育活動によい循環がもたらされる。こうした教育の成果を、もっと宣伝し、積極的に打って出ることが必要です。

 また他方、在日朝鮮人の子どもの減少、日本国籍の子どもの増加(「帰化」の場合、また親の一方が日本人で本当は二重国籍の場合)によって、実質開店休業状態や極少人数の学級も出てきています。従来の原則を維持しながら、現状に柔軟に対応していくことが求められます。

 最近のブラジル経済の発展は驚くべきものがありますが、そこでは、日本の自動車メーカーも、家電メーカーも、韓国企業の遙か後塵を拝しているとのことです(2011年9月15日朝日新聞記事「成長市場日本は出遅れ」ブラジルトヨタ社長は「北米などの能力増強に注力し、軸足がこちらに動かなかった」)。1990年の入管法改定以後来日して日本の自動車メーカーの労働力となった日系ブラジル人の子どもたちが、もしすべて完備された民族学校や民族学級で学んで成長し、母語のポルトガル語と日本語のバイリンガルで、日本とブラジルの架け橋となる活躍を今していたら、と夢想してしまいます。現実は、親は単純労働者として使い捨て同様、2009年には追い返す施策がとられ(2009.4.24NYT「Japan pays guest workers to go, and not return 日本は外国人労働者を帰国させ、戻ってこさせないために金を払う」)、子どもは外国人だからと放置(「外国人籍児童の不就学率が約10%」2006年むくげ183号日教組第55次教研報告)日本の学校に入っても言葉もわからず親身に対応してもらえず、日本語適応教育の枠内で「日本語・日本語!」と同化を強いられ、街を横行して非行に走り…という、かつての朝鮮人や中国残留日本人の場合と同じ道が繰り返されたのでした。民族学級は―民族学校も―「してあげている、させてあげている」ものでは決してなく、それこそが日本社会発展の原動力、教育の根本になることがわからないでしょうか。文部科学省は20年前、ブラジル人来日に対応し20年後の日伯関係を見すえた教育インフラ対応に頭が回らなかっただけでなく、そのまま今日に至っても現場まかせが続いているのではないでしょうか。「子どもの権利を守る」その教育が「20年後の日本社会の発展」につながる!

 

<本名を呼び名のる>  別掲の文章参照。

<民族教育ネットワーク><府外教・市外教>  省略。

<世代交代>

 本会第一世代に続いて、第二世代も退職を迎え、世代交代を否応なく迫られてきました。代表は2000年に太田利信から印藤和寛へ、2006年に栗田珠美へ、2009年に冨田稔へ交代し、事務局長は2008年まで宮木謙吉、2009年からは栗田が担当しています。会誌「むくげ」編集長は2009年に太田から辰野仁美に交代しました。シンポジウムは正本順一、会計は岡野克子が担当しています。運営委員の数も減少し、会運営と「むくげ」発行は困難を極めますが、多くの方々からの厚意あふれる寄付などで活動を維持しています。運営委員への参加のほか会運営への協力を呼びかけます。

 

<教組運動>

 2006年12月新しい教育基本法が施行されました。教員については「全体の奉仕者であつて」の文言が削られ、教育行政については「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべき」の後半が削除されて「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべき」が付加されました。この規定が「府条例」によって教育委員会を縛ろうという、大阪府知事の教育に対する政治介入の突破口になっています。

 また2002年「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」(地対財特法)の期限切れにより1969年以来の「同和対策事業」が終結しました。その後の逆風の中で部落解放同盟も困難な闘いを強いられていますが、私たちは真実の「部落差別との闘い」と連帯しつつ、「同和たたき」「公務員たたき」教育不信を突破する教育運動を構想しなければなりません。教組運動が今や行政との教育内容をめぐる交渉ができなくなった状況を踏まえて、新しい教育運動のあり方を考える必要があります。大阪教組、大阪高教組、大阪市教組の運動の一翼を担って、教育労働者の活動を発展させなくてはなりません。

 日本教職員組合の教育研究集会の第15分科会「国際連帯の教育」について、本会は全力で担い、支える役割を果たしてきました。共同研究者、司会者、大阪教組を代表しての報告、また一般参加者として、交流、内容の充実に努めてきました。更に多くのみなさんの教研活動への参加と協力を要請します。

 

<朝鮮学校との連帯>

 「「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対する連絡会」には、賛同団体に入って支援しました。しかし、大阪府の施策、知事の朝鮮学校に関わる攻撃、子どもへの権利侵害暴言に対する会としての反撃行動はなしえていません。

 朝鮮学校が日本社会の中でもつ意味については、一見「詰め込み式、きゅうくつな、学生を抑圧する」ような外見の内にある「古い建物だが学生たちの愛情のこもった手を隅々まで感じ取れる校舎、親密さの中で維持される先生の権威、友だちに対する愛情、学生たちの自発性、独創的な発想、学校と同胞社会に対する愛と誇り…」(2005年3月1日シンポジウム、韓国からの京大大学院留学中の宋基燦さん報告)は、映画「ウリハッキョ(私たちの学校)」(韓国、金明俊監督作品、2007年、民族教育フォーラム2007で上映)でも、朝高ラグビー部の学生たちと呉英吉監督の話(2011.4.24阪神教育闘争63周年記念集会)でも大きな衝撃でした。私たちは、朝鮮学校と交流連帯する中から、多くのものを学びたいと思います。また、驚くべきバイ(あるいはトリ)リンガル教育の成果を上げてきた学校の日本社会にとっての貴重さと利益を日本人こそが宣伝しなくてはなりません。

 

<全国在日外国人教育研究協議会(全外教)との関係>

 1995年に全朝教(当時。2002年より上記)運営委員会から大阪のメンバーが一方的に排除されて以来、長い年月がたちました。2006年本会代表は全外教代表、大阪での窓口代表と会って協力をお願いした上で「無条件での協力再開」を求めて京都での話し合いに臨みましたが、結局全外教側は一部運営委員による本会への屈服要求から一歩も出ることがありませんでした。そのままの状態が今も続き、私たちは、全外教側からの要請があれば協力する姿勢を維持しています。(2008年6月29日シンポジウム「内山一雄さんがめざした在日朝鮮人教育運動と実践」)こうしたことから、本会の名称についても再検討していますがまだ結論はでていません。

 

U 現在の課題

 

<教組運動と行政交渉>

 2008年まで、大阪市教組にとって民族学級など市立学校園の教育に関わる問題は、教育委員会事務局との交渉の際の重要な議題でした。ところが、それが行政の姿勢の変化によって打ち切られ、労働条件以外は議題になりえなくなった状況の中で、2009年に上記予算削減の問題が起こったのです。大阪市民族講師会はその雇用形態からして交渉の主体にはなりえず、教組が後景に回る中で、同胞保護者連絡会が前面に立って教育委員会と話し合い、なんとか大きな後退はくい止めることができました。

 しかし、民族学級を、民族団体だけが行政と交渉する問題にしてしまってはなりません。日本人が単に応援、支援するというおいしい立場に甘んじてはなりません。日本人教職員が日本の学校行政との関係の中で主体的に打ち立てた制度を維持発展させるため、民族団体とも連携しつつ、どのような形での交渉形態が可能なのか、市民運動のような組織形態がありうるのか、早急に検討する必要があります。

 

<多文化主義教育をめぐって>国際的動向

 ドイツのメルケル首相がイスラム系移民の増加によるドイツ人としてのアイデンティティー喪失を懸念して「多文化主義は完全な失敗だった」「ドイツ主導文化を重視する」と発言し(2010年9月)、フランスではサルコジ大統領も国家アイデンティティー省を設置、さらにキャメロン英首相は今年2月、やはり「国家による多文化主義は失敗だった」と演説しました。最も自由主義的とされてきたオランダでも多文化政策の転換が発表されています。「欧州的寛容から異文化社会の自由を認めすぎた結果、互いの社会が逆に疎遠、無関心になった」というのです(2011年8月12日東京新聞社説「「多文化主義」は失敗か 欧州の右傾化を懸念する」から抜粋)。

 例えばドイツでは人口8千万中外国からの移民(トルコ、イラン等)1千5百万、そのうち半数はドイツ国籍をもちあと半数は外国籍です。日本は人口1億3千万中外国人は2百万、うち特別永住者一般永住者をあわせても百万未満に過ぎません。桁が違います。ヨーロッパ諸国がそれなりの必死の努力をしてきた一方で、日本社会はまだ「多文化主義」の努力も成果もほとんど何もないとも言えます。2011年7月22日にノルウェーで発生し合わせて77人を殺害したテロ事件の容疑者が「日本こそが理想的な政治体制を持つ国」と自分のWeb文書に書いていたことも話題になりました。この8月6日警官が黒人男性射殺がきっかけになったロンドンなど英国各地での暴動は、移民の権利擁護とそれに反発する白人青少年の対立を内に含んでいると言われます。それでも「戦後欧州の歩みは排斥主義、民族主義の暴走が招いた前世紀の悲惨な失敗に対する反省からスタートしている。その原点を忘れまいとする意思がある限り、多文化共存の試みが失敗したと断ずるのは早計」(前掲社説)です。万一ヨーロッパが後退するなら、それこそ日本社会が、ヨーロッパの遭遇した幾多の困難挫折の反省を踏まえ、近隣諸国と手を携えて、「多文化主義」の理想へ努力を傾け、「日本こそが多民族・多文化共生の理想的な政治体制を持つ国」になる夢を、教育現場から高々と掲げたいものです。中国での「多文化主義」は北京各所や上海浦東国際空港の「回民食堂」(イスラム教徒向けに豚肉を使わない)を見れば実感できますし、韓国でどのような努力が進んでいるかは金東勲さんのお話からリアルに伝わってきました(2010.12.11「韓国における多文化教育〜その現状と課題〜」民族教育ネットワーク総会)。困難を克服する道を学校から切り開くため、私たちも負けていられません。

 

<新しいなかまへ>

 自由な教育研究活動が窮屈さを増し、教育活動以外の仕事ばかりが増加し、学校や授業内容への「不当な支配」の影がちらつく今日、それでも教室と授業は、「教育をつかさどる」教員の責任の中心であり続けます。「学習指導要領の効力」を念頭に置きつつ、「具体的な教育内容は教育を実践する者の広い裁量に委ねられている」(東京都立養護学校性教育訴訟東京高裁判決2011年9月16日)ことを自覚して、学校と地域保護者の理解の中で進まなければなりません。在日朝鮮人に関わる教育は、目の前の子どもたち、―朝鮮人の子どもたちもそこにいる―とともに、そこから第一歩を踏み出すことになります。

 そのために私たちは、一昨年からシンポジウムのテーマとして、

2009年度 「これが在日朝鮮人教育の授業だ!」〜実践しながら考える〜

 第1回 ベテラン教員の授業公開

 第2回 民族講師と日本人教員とのコラボレーションの授業公開

 第3回 教職をめざす大学生の授業公開

2010年度 「授業実践のスキルアップ 〜在日朝鮮人教育を中心に〜」

 第1回 同一単元を二人の支援者が授業したら…

 第2回 授業案作成を通じて授業構想力を高める

 第3回 「子どもの権利条約」をどう活かすか<実践活用講座>

2011年度 「授業力を高めるために! 〜あなたに伝えたい3つのツボ〜」

 第1回 "こんな教室つくりたかった"あったかハートの仲間づくり

 第2回 子どもたちの「劇的」ビフォー・アフター〜変わり目を逃さない実践とは〜

を実施して授業に焦点を当てた学習と議論を進めてきました。

 さらに続いて、2012年1月25日(水)6:30アネックスパル法円坂(予定)で

  第3回 かくれたベストセラーを読む! =名前から考える未来(あした)=

を計画しています。

 また、今年から『教科書で"朝鮮"をどう教えるか〜いますぐ使える授業マニュアル〜』の制作に取りかかっています。

 どうか多くのみなさまのご協力をお願いします。

 

おわりに

 

 この8月末のニュースに「在日女性、涙の旅立ち◇77年の営み、認めてくれなかった日本」(2011年8月31日、毎日新聞京都支局古屋敷尚子記者)がありました。「90歳を迎えた1人の在日コリアンの女性が今月上旬、77年間暮らした日本を後にし、朝鮮半島に帰った。国籍を理由に老齢年金を受給されないのは差別だとして国を訴え、敗訴した後のことだ。」

 結局、50年前「帰国事業」の時代と同じ所へ戻ったのではないか、という気もしてきます。2ちゃんねるなどインターネット上では「韓国、朝鮮帰れ帰れ」の言いたい放題が今も続いています。大阪府知事の朝鮮学校に関わる発言が「朝鮮学校閉鎖令」の1948年当時の日本当局者と同じだという指摘もなされています。「子どもたちを取り戻し、ちゃんと正常な学校で学ばせる」(2010.3.10朝日新聞による橋下大阪府知事の言葉)、つまり朝鮮人児童は日本の「正常な学校」で学ばせねばならないという1948年の論理、これは「朝鮮学校に通っている子どもたちの学習権を侵害するつもりはない。府立高校でも私立高校でもきちんと受け入れをする」(2010.3.10共同通信)と伝えられた言葉とも符合します。「排外と同化」―日本がいやなら「帰れ」、日本にいるなら日本人らしく、いやなら朝鮮学校へ行け、そんなところに公金はいれられない、それでもいやなら朝鮮帰れ、ここは日本の学校だ、外国人はのさばるな、それでも学習権を保障してやっているのだから、という古典的な日本国の国民意識。50年前子どもたちは「朝鮮帰れ!」そう言い合って喧嘩していました。「改革」や「維新」を言う者がこうした古くさい子どものような意識に依拠しているという、お粗末さです。その中で在日朝鮮人が朝鮮人であろうとするだけのごく当たり前のことが難しい。私たちの「日本の学校に在籍する朝鮮人児童生徒」を念頭に置いた教育運動、教育実践はいくつかの前進と成果を生みましたが、まだまだこの現状から再出発しなければなりません。(それでもいまの子どもたちの意識はもっと立派でしょう。上に立つ者が最低なのです。)何度でも覚悟をもって進みたいと思います。

 8月28日の民族教育フォーラム直後、パネラーの一人田中宏さんを通じて知らされた首相官邸の動き、停止されていた朝鮮学校の「高校無償化」手続きを再開するよう文部科学省への指示が出たとのニュースは、現在の政治の中でもさまざまな動きがまだ定まってはいないことをわからせてくれました。希望はないではないのです。(終)

 

(註)高校生に人権教育の一環として「いじめ」問題のHRを設定したとき、いくつかの話題の中で高校生が一番食いついてきたのは、「教師が先頭に立っていじめをする」具体例(有名な「葬式ごっこ」事例)でした―中学・高校生で人権教育の分野で生徒が一番関心を持つのはいじめの問題であり、常に事件は生起しているのが普通です。子どもは正確に認識します。他の人をいじめるのはやめよう、思いやりをもて、など言って誰が聴くでしょうか。いじめを受けたときどう自分を守るか、差別されたときどうやって自分を守るか、すべての子どもはそこに必ず切実な関心を持っています。私たち教員は教えなければなりません。何のために法があるか。私たち自身の力によって権力、行政の手を縛り自分の権利を守るためにある。権力者が、行政担当者が、教師自身が先頭に立って差別迫害、いじめに乗り出すとき、これまで「差別反対」や「人権擁護」を唱えていた者たちがどう行動するか、子どもたちの目から見て、私たち自身がそれを問われています。

 

(参考)全朝教大阪(考える会)のこれまで   HP http://kangaerukai.net/ より抜粋。

 全朝教大阪(考える会)は日本人教職員、教育関係者が中心となって自主的に作った民間団体です。教室でいっしょに机を並べる在日朝鮮人(韓国籍・朝鮮籍・日本籍)をはじめ、外国人の児童・生徒の教育、また、日本人の児童・生徒の教育について、教育実践と教育運動を通じて研究改善をはかります。また、「本名を呼び名のる」教育と「すべての学校に民族学級を」設置することが目の前の目標です。日本の学校の中での民族学級の制度化と民族講師の身分保障、民族学校の抜本的な待遇改善を通じて「民族教育権」の確立を求めます。そのことにより、多民族・多文化共生社会の未来を学校から実現することを目指します。

 本会は石西尚一郎(大阪市同教事務局)、市川正昭(大阪市立鶴見橋中)、吉田裕子(高槻市立第六中)三人の「呼びかけ」、たかつガーデンでの大阪府教組(当時)五島庸一教文部長の問題提起による討論集会を経て、1971年9月24日大阪市立東中学校で最初の研究集会が開催され、集まった約400名の教育関係者によって発足しました。

 会の名前は、当初「公立学校に在籍する朝鮮人子弟の教育を考える会」、のち「日本の学校に在籍する朝鮮人児童生徒の教育を考える会」さらに1994年「全朝教大阪(考える会)」となりました。全朝教、全国在日朝鮮人教育研究協議会は、1982年4月24日大阪市立中央青年センターで結成され、当初本会の稲富進、内山一雄が会長を務めていました。

 創立集会の議論をまとめた報告集『二つの名前で生きる子ら』をはじめ、以後、多くの資料集が出版され、また会誌『むくげ』が発行されて200号に達し、さらに、シンポジウムや歴史講座を開催して、実践交流や新しい知識、観点の共有をはかってきました。学校の中の問題だけでなく、就職差別、「国籍条項」をなくすための活動もおこなってきました。この他詳しくは 下記を参照下さい。

 『むくげ縮刷版 大阪の在日朝鮮人教育10年の歩み』亜紀書房 1981年

 22周年記念誌『いま、国際化時代の教育を問う』1993年(第1ピンク本)

 30周年記念誌『多民族・多文化共生の未来を学校から』2001年(第2ピンク本)

*連絡は上記本会HPから、メールでどうぞ。

 

 
 
     
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