ある長距離ランナーのゴール
信太 一郎
ベルリン五輪の2年後、ドイツはオーストリアを併合。

 その理想とは裏腹に近代オリンピックは政治の支配を免れることはできかなった。冷戦下にあって、1980年のモスクワ大会はアメリカなどの、1984年のロスアンジェルス大会はソ連などのボイコットによって、いちじるしく興趣をそがれた大会となった。そして、東西のトップ・アスリートが久々に一堂に会したのは、意外なことに分断国家の一方の首都で開かれた1988年のソウル大会でであった。そのことは、冷戦が終わりに近づいたことを示しており、戦後のオリンピックでアメリカの王座を脅かしたソ連も東ドイツもこの大会を最後に姿を消した。

 ソウル大会の開会式で、聖火をかかげて競技場に入ってきたのは、なんと76歳の老人であった。子供のように跳ね回りながらトラックを半周し、若い男女に聖火を託した。老人の名は孫基禎(ソン・キジョン)、1936年のベルリン大会のマラソンの金メダリストであった。彼が事実上の最終ランナーに選ばれたのは、朝鮮民族として初の金メダリストだったからだけではない。若い男女へのリレーは、苦難の時代を生きぬいた世代から希望の時代を生きる世代への夢のリレーでもあったのである。1936年当時の朝鮮半島は日本の植民地支配下にあり、孫基禎も日の丸を胸につけ、日本選手としてオリンピックに出場し、優勝したのであった。一人の人生がこれほど歴史と関わっていたことも珍しい。

 当時のドイツはヒトラーがすでに政権の座にあり、ベルリン大会は、観客が一斉にナチス式の挙手の礼をするなど異様な雰囲気のもとで開かれたが、ときのIOC会長のラトゥール(ベルギー)は、代替地での開催をほのめかしてこれに抵抗し、町にあふれていた反ユダヤ主義の看板などをすべて撤去させた。結果的にも、一人で4つの金メダルを獲得したアメリカの黒人選手オーエンスの大活躍などで、アーリア民族の優秀さを示すというヒトラーのもくろみは思い通りには実現しなかった。「黄色い」肌の日本選手の活躍も、ヒトラーは内心にがにがしく思っていたにちがいない。

 孫基禎は、鴨緑江をはさんで中国と向き合う新義州で生まれ育った。走ることがひたすら好きな少年で、さまざまな機会に得た賞品、賞金で貧しい家計を助けた。戦後の日本の水泳における古橋広之進、橋爪四郎の例にしてもそうだが、傑出した選手が出るときは好敵手がいることが多いものであり、孫の最大のライバルは同じ朝鮮民族の南昇龍(ナム・スンヨン)であった。マラソンの出場枠は今と同じく一国三人であったが、このままではそのうち二人までが朝鮮人ということになってしまう。そのことを苦々しく思った陸連は、日本人選手二人を代表に加え、大会直前に現地で最終予選を行うという無茶なことをした。何ヶ月ものインターバルを設けている今のマラソン選手にはとても信じられないことであるが、孫、南の二人そろっての出場をはばむことはできなかった。そして本番では、孫が金、南が銅メダルという見事な結果を残した。


「東亜日報」に載った表彰台上の孫基禎。ポイントすると修正前の画像になる。

 メインポールを含めて2本の日の丸があがり、君が代が流れたが、二人の「日本選手」の表情はさえなかった。孫基禎はこの瞬間までこのような儀式の存在を知らなかったという。孫基禎優勝の知らせは、当然のことながら、日本国内以上に、植民地朝鮮において熱狂的に歓迎された。そのような中で、現在の韓国で最有力紙となっている「東亜日報」の報道が、ときの総督南次郎の逆鱗に触れた。表彰台にのぼった孫の写真から、胸にあるはずの日の丸が消されていたのである。「東亜日報」は発刊停止の処分を受け、水泳で優勝した前畑秀子らのように英雄として迎えられるはずの孫基禎は歓迎の人波から隔離され、犯罪者のようにベルリンでの行動を厳しく追及された。実際、孫は在独の朝鮮人の家に招かれて生まれて初めて太極旗(旧大韓帝国および現在の大韓民国の国旗)を見たり、求めに応じてハングルでサインをしたりしていた。孫基禎を歓迎する行事は禁止され、孫が日本の明治大学に入るときにも、マラソンをしないことが条件とされた。レースに出られないことを知りながら、走ることが生きがいである孫は人目をしのんでトレーニングに励まずにはいられなかった。卒業後は朝鮮に帰って銀行に就職したものの、新妻を病気で失うほど、その生活は苦しかった。戦争が始まると改めて金メダリストとしての価値に目をつけられ、戦意高揚の演説に駆り出され、心ならずもそれに従った。

 孫がマラソンを取り戻したのは、日本の敗戦によって祖国が独立を取り戻してからであった。コーチとして後進の指導にあたった孫の情熱は、名門レースであるボストン・マラソンで三人の教え子が表彰台を独占するという輝かしい結果として実を結んだ。しかし、まもなく血で血を洗う朝鮮戦争が始まった。孫自身も自分の郷里出身の北の兵士に銃口を突き付けられるなどの辛い体験をした。そのような中でも孫は、ボストン・マラソンで優勝した日本の田中茂樹に「アジア人の優勝を喜ぶ」むねの祝電を日本語で打ったりもしていた。祖国で開かれたオリンピックで、老いた孫基禎が子供のように跳ね回っていたのは、金メダルがもたらしたこのような苦難の日々があったからこそなのである。

孫基禎(左)と黄永祚(右)を描いた韓国の連刷切手

 ソウルのつぎの大会は、スペインのバルセロナで開かれた。奇しくもあのラツールがヒトラーが独断専行した場合にベルリンの代替地として予定していた所である。この大会の男子マラソンでは韓国の黄永祚(ファン・ヨンジョ)と日本の森下広一が終盤まで接戦を演じたが、最後のモンジュイック(ユダヤ人の丘)の上りで黄が仕掛けたスパートに森下はついて行けず、勝負は決まった。金銀を分けた二人はゴール後ともに医務室に運ばれ、表彰式は予定より遅れた。しかし、表彰式での黄の表情は、56年前の孫基禎とは違って晴れやかなものであった。このときはともに死力を尽くしての結果だから仕方がないのだが、日本はマラソンでの金メダル獲得の好機ををみすみす自ら逃がしたことがある。アメリカに追随して日本がボイコットしたモスクワ大会に、当時全盛期にあった瀬古利彦が出場していたなら、金メダルを獲得していた可能性はきわめて高い。この瀬古が名言を吐いたことがある。なぜマラソンを始めたのかと問われて瀬古は答えた。「100メートルが速かったら、誰が42キロも走りますか。」

 2002年11月、人生においても長距離ランナーだった孫基禎は、90歳でゴールを迎えた。1936年当時、表彰台上の24歳の孫の手の中にあった月桂樹の苗木は、今では堂々たる大木となっている。

     



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