2005年度第2回シンポジウム |
3月1日 大阪市立中央青年センター |
朝鮮学校の新たな可能性 |
宋基燦 (京都大学大学院) |
今回のシンポジウムで意図した民族学校のこれまでの貴重な成果の再評価と、それを日本の学校現場でどう使い生かすことができるのか、また、そのことが現在民族学級が直面している再構築の課題にどのようなヒントを与えるかなどについては、まだこれからの段階ですが、少なくともそうした議論の最初の一歩になったのではないかと思います。 事前の打ち合わせや後の交流会を通じて、宋さん自身についてもいろいろ伺うことができました。日本社会や在日朝鮮人の事情にも通じた上で、客観的にその状況を捉えることができる視点を持たれ、韓国の若者特有の、年上の者にたいする礼儀正しさや謙虚さだけでなく、批判や意見に対する率直な対応、また、多分韓国での学生時代を通じての筋金入りとも思える確固とした民衆主体への視点や学問的素養など、将来の研究成果を楽しみにしたいと思います。宋さん、参加のみなさんありがとうございました。また、当日配られたレジメがこちらにあります。(編集委員会) |
民族教育との出会い 朝鮮学校へ 私はこれまでの約3年間、朝鮮学校の教育現場で現場研究を行ないました。 おそらく韓国の研究者として朝鮮学校の現場で研究をするようになったのは、私が初めてだと思います。 そのせいか多くの方々が私に質問します。なぜ朝鮮学校に関心を持つようになったのかと。 そうすると私は、「在日同胞の民族教育を研究しているのだから当たり前ではないですか?」 と聞き返したり、またそれも重要な理由ではありますが、最大の理由は留学に来て朝鮮学校の卒業生たちと親しくなりながら感じた疑問からのものでした。 前でも申し上げたように、私が日本留学を決心するようになったのは在日同胞の民族教育を主題にして修士論文を書くようになってからでした。 現場研究とインタビューが主な研究方法だったので、その論文を書きながら私は多くの在日同胞たちに会いました。 しかし研究現場が民族学級だった理由から、私が出会った大部分の同胞たちは日本学校出身の方々でした。 日本の学校の中で自分が朝鮮人ということを隠しながら屈折した幼年時代を過ごさなければならなかったその方々の話を聞きながら、私の中ではいつしか 「暗い性格の人」という在日同胞に対する先入観が生じたようです。 私の中にそのような先入観が生じた事実を分かるようになったのは、留学に来て朝鮮学校を出た人々と出会ってからでした。 当時私の感想は 「ああ! こんなに明るい性格の在日同胞もいるんだ!”というものであり、このような感想は他の朝鮮学校卒業生に会う度に一層強まりました。 結局、このような違いをもたらす朝鮮学校では一体どのような教育がなされているのか知るべきだという思いから、朝鮮学校の門をたたくようになりました。 肯定的アイデンティティー 私がここで申し上げようとする内容は、私がこれまでの3年間朝鮮学校の教育現場で現場研究をしながら感じた事と、それを通して考えるようになった事などです。まだ学問的な分析が終わってはいないので、ただ「感じた事」という水準から申し上げますが、私がこの3年間朝鮮学校の学生たちに接しながら感じた事は、なぜこれほど清らかで純粋な子ども達がいるのだろうか? というものでした。 また、私が見た朝鮮学校の学生たちは情熱的で個性が強く、友達と周りの人に対する関心が高く、自分の未来に対する比較的明確な目標を持っていました。したがって、「このような子ども達を育てる教育とはいかなるものであり、それがいかなる意味を持つのか」という事が、私の関心事になったのは自然な事でした。先に結論から申し上げると、私は朝鮮学校の子ども達が見せる明るい姿と人生に対する肯定的な思考の背景に、自分の民族的出自に対する強く肯定的な自負心があるためであると考えます。 もちろん、このような肯定的アイデンティティーを育てたのは朝鮮学校の教育であり、 このようなアイデンティティーこそ在日朝鮮人が日本社会を生きぬいて行くにあって一番必要な「力」と同時に「資本」の役割を果たしているという視点から、朝鮮学校における民族教育の新しい可能性を申し上げようと思います。 一般的に、朝鮮学校を卒業した人々が日本学校を卒業した在日同胞たちよりも、活発で前向きに自分の未来を開拓して行く傾向を見せています。 日本学校に通ったり卒業した在日同胞たちが自分のアイデンティティーについて悩んでいる時、 朝鮮学校を卒業した同胞たちは自分のしたい仕事、 自分のいるべき場所を探して進んでいるのを目にしました。 常に彼らの出発点は「朝鮮人である自分」であるため、自らのアイデンティティーについて悩んだりしません。このような点で、強い民族的アイデンティティーは一種の「文化資本」として、在日同胞たちの社会的競争力に関係すると見ることができます。よく健康な体が財産であると言います。 そうなら健康な心もまた財産になり得るし、競争力にもなり得るでしょう。 もちろん、このような違いというのも私という個人の経験の偏向による可能性もあり得ますが、 一般的に朝鮮学校での教育を経験した同胞と経験しない同胞の間で見られる違いは存在し、それは朝鮮語の駆使能力と「朝鮮人」としての自己肯定を可能にする肯定的アイデンティティーの有無だと考えます。 したがって、これが在日同胞たちにどのような意味を持つのかを理解する事が、朝鮮学校の民族教育の役割を理解するにおいて必要です。 特に、日本人の平均の 2倍を越える自殺率と、5倍を越える離婚率のような在日同胞社会の社会病理的現状の背景に、在日同胞のアイデンティティークライシスが横たわっていると考えると、 肯定的で健全なアイデンティティーの発信地として在日同胞社会の中で朝鮮学校の機能を再考する事ができるでしょう。 |
オールタナティブ教育(alternative education)への可能性 ある人々は朝鮮学校を通じて育まれる民族的アイデンティティーが、過度の詰めこみ式教育を通じて行なわれるため排他的で、 したがって日本社会を生きぬいて行くにあたり、むしろ障害物にもなり得ると言います。 しかし、果してそうでしょうか? 朝鮮学校の教育が堅苦しく子ども達を抑圧する詰めこみ式教育に見える事は事実です。 私も初めて朝鮮学校へ行った時、似たような感想を受けたからです。 初めて朝鮮学校の運動会に行った時、 学生たちの行進を見ながらまるで軍隊のようだと思ったし、 やはり共和国の教育に従って行なう所なんだという感想を捨てることはできませんでした。 もし進歩的な教育観を持った人がこのような姿を見たら、すぐさま学生を抑圧する非民主的で酷い教育現場だと批判するでしょう。 しかし、学校現場に入りゆっくり観察すれば、表に見えることだけが全てではないということが分かるようになります。 古い建物だが学生たちの愛情のこもった手を隅々まで感じとれる校舎、親密さの中で維持される先生の権威、 友達に対する愛情、学生たちの自発性、 独創的な発想、 学校と同胞社会に対する愛と誇り、 このようなものに対する理解を通じて学生たちの行進を見れば、初めに感じた事とは全く異なる理解を得るようになります。 ご両親と親戚の前で胸を張って堂々と歩いて行く姿を通じて、子ども達は「誇らしい朝鮮人」としての自分を再発見するようになるのです。 朝鮮学校の行進と芸術公演は、抑圧される少数者たちに自己表現の機会を与える教育課程であると見る事ができます。 これを通じて学生たちは自分を思う存分表現し、 自分たちが受ける教育に対する肯定的認識を内面化します。 結局、このような過程を通じて「肯定的アイデンティティー」がつくられるのです。 民族学級の現場でも見ましたが、「朝鮮人としての矜持」というのは詰めこみ式教育によって得られるものではありません。これは、朝鮮学校でも同様です。学生自ら「朝鮮人という事がこれほど良いものなんだ」という思いが起こらなければ、朝鮮人としての「肯定的アイデンティティー」は育ちません。 したがって、ただ朝鮮人だけを集めておいて勉強させるとしても、学生たちの教育に対する真の信頼がなければ「肯定的アイデンティティー」を育むことはできないでしょう。 ところが、朝鮮学校の学生たちは本当に変わった学生たちです。 大部分の学生たちが学校を心から好きなのです。 私を含めて韓国や日本の学校を卒業した人々は、大部分学校を抑圧機関と認識します。 私たちの中に、学校を心から好きだった人がどれほどいるでしょうか? しかし、朝鮮学校の学生たちは自分たちの学校へ通うことが本当に好きです。ある子供は学校へ行って友達に会うと思えばわくわくすると言います。毎日会う友達にもかかわらずです。 また、 夕方になると先生たちは学校を出ようとしない子ども達を学校の外に送り出すために苦労しなければなりません。 何が学生たちをしてこれほど学校を愛するようにするのでしょうか? このような点で、朝鮮学校の教育現場は登校拒否、 いじめなどのように学校内の学生たちの間の人間関係による問題で悩んでいる日本と韓国の制度教育が参考にすべき点が多いと思います。 人を育てるという教育本来の姿を考える時、 現代の制度教育がそれとはあまりにかけ離れているという反省から、オールタナティブ教育という新たな教育運動が始まりました。 世界の様々な場所で実践されているオールタナティブ教育の特徴は、概して四つと考えられます。 第一に小さなクラスによる人間性回復、第二に児童、学生の授業計画への積極的な参加、第三に能力主義、競争主義原理の弱化、 第四に市民の広範な支援です。このような特徴をもう一度整理すれば、 小さな学校での集団主義が強調される教育と、 地域共同体と連係した教育と言えるでしょう。 まさしくこのような点で、朝鮮学校は代案学校的特徴を備えていると考えられます。大阪朝鮮高級学校や東大阪朝鮮中級学校のような例外もありますが、 全体的な朝鮮学校の規糢が小さいという事は周知の事実です。 また、朝鮮学校において競争よりは共同を強調する集団主義的教育が成されている事もよく知られています。 だといって朝鮮学校で競争が全く排除されるものでもありません。朝鮮学校の中級部過程までは 2人組学習という制度があります。 成績の優秀な学生が成績の低い学生に授業内容を教えてあげるのです。他の学生を踏みつけて上らざるをえない競争主義の中で育った人々としては、到底理解し難いに違いありません。 また、より驚くべきことは教えてあげる学生が勉強ができると威張らる事がなく、教えてもらう学生は全く卑屈にならないという事です。 勉強の得意な学生とそうでない学生が、 運動が得意な学生とそうでない学生が、互いに親しい友人としていることができる学校、 人間性を育む事を目的にする代案学校としての機能を朝鮮学校は充分果たしています。 また、学校を守るための地域同胞たちの努力と、献身的な先生たちの犠牲と、自分を学校に行かせるための両親の犠牲に対する理解を通じて、学生たちは学校を一つの共同体的環境として認識するようになります。 これもオールタナティブ教育の最大の特徴として朝鮮学校が持つ長所だと言えます。 このように共同体的関心の中で育つ子ども達なので、あれほど清らかで純粋に育つことができるのではないでしょうか? 課題と展望 もちろん、朝鮮学校がすべての教育の糢範というわけではありません。しかし、確かに現代の制度教育が持つことのできなかった長所がそこにはあり、 私たちはそこから学ばなければなりません。 ただ残念な事は、朝鮮学校のオールタナティブ教育的側面は朝鮮学校の正式教育過程が意図しない結果であるというアイロニーです。したがって、教育現場におられる方々が朝鮮学校が持っているオールタナティブ教育的側面とその長所について、充分認識されていない場合がたくさんあります。 徐々に同胞たちの要求が高まっている中、 朝鮮学校の教育をエリート教育として位置づけようという考えを持った方々が増えています。 しかし、そのような特性化と競争主義の強調は、朝鮮学校教育の長所を害する恐れがあります。 学歴のみを競争力と考えた時代は過ぎました。 人と交流し、対話する能力も競争力になり得るのです。 米国の心理学者ダニエル・ゴ−ルマン(D.Goleman)は EQ(emotional quotient)、すなわち感性指数を主張します。 彼によると EQは IQとは質の違う知能で、心の知能指数であるといいます。 内容としては、第一、自分の真の気持ちを自覚し、これを尊重して心より納得できる決断を下すことのできる能力、 第二、衝動を自制し不安や怒りのようなストレスの原因になる感情を制御することのできる能力、 第三、目標追求に失敗した場合にも挫折せずに自分自身を励ますことのできる能力、 第四、他人の感情に共感することのできる共感能力、 第五、集団内で調和を維持し他の人々と互いに協力することのできる社会的能力などを言います。 ゴ−ルマンの研究以降、全世界的に多くの企業が EQに註目しています。 私が出会った朝鮮学校卒業生の中には、有名なファッションデザイナーがいました。 在日同胞としては珍しく自分の名前(本名です)をブランドとして出しました。 彼女は非常に大きなアパレル会社が後押ししてくれていましたが、 彼女を担当しているその会社の幹部になぜ彼女と一緒に仕事をするようになったのかと質問して見ました。 するとこのような答えが返って来ました。「もちろん彼女の実力はすばらしい。しかし、彼女位の実力を持った人はとても多い。 にもかかわらず彼女を選んだ理由は、彼女が一緒に働く人々を楽しくさせるということだ。すべての人々が彼女と一緒に働くことを楽しんでいる。」 自分に対する肯定的アイデンティティーと、 共同体的で協同主義的な教育環境で育まれた人格は、このように朝鮮学校の学生たちの実質的な競争力へつながっています。 したがって、朝鮮学校では朝鮮学校が持っているこのようなオールタナティブ教育的側面を認識し、 これを詳しく研究する必要があります。 そうなれば、 学校の縮小という危機状況を克服していく朝鮮学校の競争力であり資源として活用することが可能となるでしょう。 |
<討論から> |
ダブル、本名と民族名、自覚と誇り、 強すぎる「日本人」という言説、そして 「揺れるアイデンティティ」 |
(以下、要旨。文責、編集委員会) |
(司会) 宋さんの話をお聞きして、民族名を呼ぶことによって起きてくる子どものこと、教師のいうことを良くきくいい子が民族学級ではふざけて、民族講師や担当者の悩みの種になっていることなど、そうした心理が少し分かる気がします。ご意見などをお願いします。 (民族講師) なるほどと思うところが沢山あったが、その他の指摘しておきたいところを言います。 資料の「民族学級の目的」のところで、「朝鮮人としての自覚と誇りを育てる」という文言があります。確かに、1972年当時、長橋小学校ではじめてボランティアの民族学級ができた時は、子どもたちにも「ウリマルを返せ」という内からしぼり出した言葉があった。しかし、今では、民族学級に結集している子どもたちは、生野区を除いては、すでに民族国籍を持った子どもたちは少数になり、ほかの国籍を持った子どもたちとの比率は逆転しています。いわゆるダブル、あるいは四分の一、六分の一というような子どもが圧倒的に多くなっている。そこで、果たして、私たち民族講師が民族学級で、そういう子どもたちを前にして、朝鮮人としての自覚と誇りをもて、ということは、それはもうないだろう。この点は民族講師自身もこれからもっと議論していって、より良いものにしていく必要がある。だから、目的がこのように活字として出てしまうと、それが決まりのようになるので、それについては表現をもう少し考えていただく方が良いのではないかと思います。 個人的には、「ルーツを持っているんだ」ということをしっかり踏まえて、そのことについての喜びや有利さの感情を育みたいと思っています。 ダブルなどで日本国籍を取得している実態が多くあります。しかし、必ずしも、「日本人になりたい」として国籍を取得しているわけではない。すべてとは言いませんが、保護者の人生の中で、いろいろな時に甘んじなければならなかった差別から逃れたい、子どもにまで同じ経験をさせたくないというような、社会の問題からそれは出てきているだろうと思います。民族学級の中の日本国籍の子どもたちに、僕自身が発する言葉によってもっと前向きに生きる力を持ってほしいと思います。それゆえに、姿や日本国籍がどうこうではなくて、ルーツがあるんだよ、それはとってもすばらしいことなんだ、ということを前面に出して行きたいと思っています。 もう一つ、本名ということについて。 日本国籍の子に「本名は何や」と言うわけには行きません.戸籍上は日本名が本名なのは当たり前です。だから、ぼくたちは「民族名」ということで言っています。もちろん、民族国籍の子どもについては「本名」ということでしっかり伝えていきます。そういう名前をアボヂ、オモニ、ハラボヂ、ハルモニがつけてくださったのはどういう気持ちでだったのか、その思いは何かを教えます。家で聞いておいで、などという形で進めます。しかし、日本国籍を取得している子どもたちには、ていねいな対応をして、親にも民族名について説明し、日本名があるにしても以前使っていた民族名は何だったのかを聞きます。そうした授業をするにしても、民族学級は一週間に一日くらいしかありませんから、たった45分間ですよね。その中で、その子の民族名を呼んであげることによって、その子が「あっ、自分のルーツはそこにあるんだな」ということを、理屈ではなく、感じ取ることができるようにしてあげれたらなあというのが、個人的な思いです。そういう気持ちで子どもたちと接しています。 小中学校の多感な時期に、私たち民族講師の思いがどれほど子どもに伝わっているかは、ちょっと疑問でもあるのです。だから、小学校や中学校の卒業の時に本名宣言をする子どもたちでさえ、高校に行けば、また逆転して日本名に戻ってしまうという例もあって、少し残念でもありますけれども、いくつかそういう場合と比較すると、朝鮮学校をこういう観点で見ることで、それを少し見習って、民族学級の実践の中で伝えるもの、反映していくものがあるのではないかと思いました。 (司会) 民族学級の現状をめぐって切実な意見が出ました。民族学校の目標としては書かれている通りの内容が今でもあると思いますが、民族学級ではそれに加えて今のご意見のような点が考えられなければなりません。 (宋基燦) 貴重なご指摘をしていただきました。ダブルの問題について、私が民族学級の教育現場に行った98年ごろには、すでに「本名」のかわりに「民族名」という言葉を使うことが始まっていました。現場や当事者の考えは確かに大切ですが、一方で、ルーツを持っているということが日本国籍、日本人との対等な関係になりうるかというと、そこには問題がある。やはり、相手が強力すぎるのです。そのことは、現場におられる方には分かっていることなのですが、目には見えないけれども実在するものであって、そういう力が働くために、「韓国・朝鮮にルーツをもっているんだよ」と言われた子どもも、日本人か朝鮮人かと問われたらやはり混乱することになって、むつかしいところもあるのではないかと思います。 その点、朝鮮学校のことを考えてみると、そこには日本国籍の子どももいる。85年の国籍法改正によって父母両系になったために、例えばお母さんが日本人だという子どももたくさんいるわけで、彼らは20歳で自分で選択するまでは、日本の国内法では日本人としての扱いをされる。でも、朝鮮学校に通っているわけで、彼らは朝鮮人として教育される。そうしたダブルの問題を考えると、すごく複雑になってくる。 やはり、私が申し上げたかったことは、子どもたちに対してははっきりとは言われなくても、子どもたちが自分のバックとして持っている日本の公教育によって与えられた日本人という言説が、強すぎるのです。それに対抗するため、それを改善するために「ル−ツを持っている」ということを強調するとしても、そのことの弱さを感じることもあるということなのです。 (小学校教員) 自殺率と離婚率について、もう少し説明をお願いします。日本人の二倍というのはすごい数字だと思います。日本は今、自殺社会で、年間3万5千人ほど死んでいる。韓国の状況も教えていただけるでしょうか。離婚については、やはり被差別部落の子が離婚率が高い部落外の人と結婚して、結局うまくいかず、子どもと一緒に戻ってきてしまうというようなケースをよく聞く。それと似たところもあるのかなと思います。 (宋) 自殺率の数字は、国籍で分けて人口千人あたりで数えたものです。李節子さんも、多いことは指摘しています。離婚については、日本国籍どうしと、一方または両方が朝鮮・韓国籍の場合とを比較しました。計算方法によって数字は変わるので、あくまでも参考値ですが、日本人でもかなり多いのに、それよりも五倍くらいは多いとう数値が出ました。韓国では、今ダイナミックに変わっていきつつあるところで、日本に近づいています。 (中学校教員) アイデンティティということであれば、生野の中学校の子どもたちの様子は、多種多様なのが現状です。「こうあるべきだ」というのではなく、多様な、そして「揺れるアイデンティティ」こそががそのままですばらしいのだ、ということを子どもたちに伝えたいと思います。 (宋) 自殺率や離婚率から見ても、いわば悲劇的な状況がある。自分が何者であるかについて悩みを持ち、大人になっても自分を肯定的にとらえることができにくいという、そうした社会病理的な現状を考えると、朝鮮学校で、最初から自分を朝鮮人としてはっきり認識して出発するということは、日本の社会で生きて行く時の在日にとっての一つの競争力、力として考えることができるのではないでしょうか。 |
その後の議論の中や、後の交流会の中でも、保護者からは、宋さんのお話は、在日韓国人の現実とは違う、余りに理想的、極端な話であって、本国から来た留学生特有の、在日の現実を知らない外側からの議論になっているのではないかというストレートな意見、批判も出て、なごやかな中にも緊迫した話しが続きました。記録係の不備で、討論後半が尻切れトンボになったことをお詫びします。(編集委員会) |