まえがき 「アパッチ部落」の時代

昨年(2003年)11月に、勤めている高校の三年人権学習で映画「夜を賭けて」の上映会が行われました。生徒の感想文を見ると、「エロい」「こわい」「むつかしい」という最初の印象が、日が経つにつれて、「よかった」「終わった後で心に残る」「けっこう感動」「日本人と朝鮮人の関係がわかった」「リアルな描写が多く、見ていられないシーンもあったが、現実を見れた」など、高校三年の生徒たちが映画の内容を受けとめた様子がわかります。山本太郎などの演技もあって、上映中とにかく生徒は夢中で見ていました。この2月にはDVDも発売になり、校内でも卒業式前にもう一度上映会を計画しています。一般公開当時にいろんな方の感想も聞いていましたし、はじめて実際に見て、エンターテインメント映画としての不満や疑問はいろいろ残りましたが、それが描く内容は貴重なものでした。その後、この映画の仕掛人の一人である鄭甲寿さんから、現在続編の企画が進んでいることも教えていただきました。映画の最後は、小説と同様、「ワンコリアフェスティバル」で大団円を迎えるはずだということです。

同僚の先生方からも、桜ノ宮や森ノ宮周辺であんなところがありましたねえ、「アパッチ部落」というのはどこにあったのでしょう、とかいろいろ話が出ました。環状線にそって長い間放置されていた煙突や煉瓦の建物は、かつて寺田さんらの保存運動も行われましたが、結局1981年に取り壊され、あとかたもなくなっています(現在大阪城ホールのある一帯には、1981年に取り壊されるまで「大阪砲兵工廠旧本館」の煉瓦造りの建物が残っていた。現存する砲兵工廠の建築の唯一のものは化学分析場で、造兵廠で扱う鋼材の質、及び定性・定量分析等の調査・試験を実施していた。戦後自衛隊大阪地方連絡部(自衛隊大阪地方協力本部)が1994年1月まで使用し、現在は閉鎖されている)。若い先生たちには遠い昔の話です。

最近、京橋から、親戚の結婚式のホテルに向かうタクシーの運転手と、このあたりも昔とすっかり変わりました、と雑談する中で、「そうですわ、戦後京橋の土地は焼け跡を朝鮮さんが買い占めましてねえ」などという話も飛び出しました。焼け跡と闇市の時代の記憶は大阪の庶民の中にそんな形でも残っているのも事実です。そして偶々、BS放送のアメリカ20世紀番組で、38度線を越えて北へ進撃したアメリカ軍が朝鮮北部長津などの山岳地帯からなだれをうつように敗走する1950年末の極寒の映像を見ました。「狂犬のような北朝鮮軍」「満足な武器もないのに数の力で押してくる中国軍」というキャプション(朝鮮人民軍、中国義勇軍の兵士たち!)、凍てついた道路を米兵の死体や負傷兵を載せて後送する車列の映像に、伊丹飛行場にずらりと並んだ双胴の米軍輸送機と刀根山の米軍士官宿舎の瀟洒な建物群の、自分が幼い頃の記憶が甦って、涙の出てくるような気持ちになりました。

「アパッチ部落」の時代とは、実はまたその後の、高度経済成長が始まった頃のことです。125日には府立外教の研究部会で塚崎昌之さんによる「大阪城周辺における戦争遺跡と朝鮮人の足跡をたどる」フィールドワークも行われ、府立外教ニュースにその様子が掲載されています。ここには、昨年6月に行われた大阪市教組東部支部在日朝鮮人教育推進委員会の資料の一部を掲載します。宮木謙吉さん(北巽小学校)作成の資料です。時代が一回りして、再び来るものへの覚悟をもって、学習を深めたいと思います。(K)

 

 

軍都大阪の裏面史を歩く歴史ウォーク

 

猪飼野から「アパッチ部落」へ

“梁石日を歩く”

日韓・日朝関係史の底流をたどる

宮木謙吉    

 

1.アジア最大の軍事工場「大阪砲兵工廠」の終末 

        …………「アパッチ族」の活躍と挫折、その舞台は大阪城 

 

明治政権が手本とした朝鮮侵略の張本人秀吉の権力シン:ボル大阪城。"侵略"2文字を合言葉に、280年の時空を越えて、そこに造られた大阪砲兵工場。軍都大阪のシンボルであり、軍事機密の壁に囲まれた特別区であった。それは、明治初期から75年間、侵略戦争の動力を担いつづけ、日本帝国主義と命運を共にした。

1945814日。敗戦1日前の爆撃。大阪空襲では、B29145機が工廠上空に飛来。1トン爆弾、500キロ爆弾合わせて約850個を投下。爆弾は工廠を廃墟にし、隣接する京橋駅一帯にも降り注いだ。工廠では数百人の死者がでたが正確な数はわからない。戦後、その残骸は一部民間に払い下げられたが、その廃墟は放置され続けた。

風雨にさらされた廃墟は、日本帝国主義の挫折と敗北の象徴でもあった。それは、いつしか戦後復興に全身全霊を傾ける市民の記憶から薄れていった。それを再び市民の記憶の中に呼び起こしたのが、戦後13年たって登場した「アパッチ族」だった。

闇に紛れて、地下に埋もれた鉄屑を掘り出し、生活の糧をえる。日帝の残骸を生活利用するその大胆さと巧みさには脱帽する限り。日帝の植民地支配の犠牲となった生き証人たちが、地下に埋もれた日帝の残骸を掘り起こす作業は、過去の清算を顧みない日本社会への告発にも近かった。

45年後の今、大阪の歴史の中の「アパッチ部落」を探る………

 

2.パラムウォークコース 

 

JR森ノ宮駅集合 

城東区は昭和18/194341日大阪市の22区制実施に伴う7増区(都島・福島・大淀・生野・阿倍野・東住吉・城東)の1区として旭・東成区から分区発足。区名は大阪のシンボル、大阪城の東に位置することによる。この日、天王寺区の生国魂(いくたま、生玉)神社で新区発足の奉告祭が挙行される。時代状況もあるが、天皇制のもとに軍事・神事・行政が一体となっていたことがうかがえる。

・「猪飼野ウォーク」の起点が鶴橋駅なら、「大阪城・アパッチ部落ウォーク」の起点は、ここ森ノ宮駅。駅前には「鵲森之宮神社」「森之宮遺跡」があって、眼前には大阪城公園が広がる。歩きながら、大阪の歴史の水脈が学習できる貴重なフィールドとなつている。

1927/昭和2年 国鉄城東貨物線淀川〜放出間開通

1933/昭和8年 城東線電化。

     1965/昭和40年 都市計画道路・大和川線(内環状線)区内部分開通。

@鵲森ノ宮神社……朝鮮半島の鳥を冠した神社 

渡来系神社の由来をさぐる 

・聖徳太子の父用明天皇を祀る。亀井の井戸があったという。

・この地に最初の仏教寺院四天王寺を建立。伽藍の鎮守として用明天皇を祀ったのが神社の起源とされる。寺は移ったが、神社は残された。

・その後、推古天皇64月、難波吉士磐金が新羅より帰国の際、鵲(かささぎ)二つがいを天皇に献上し、難波の森で飼育したという。 

六年夏、難波吉士磐金、新羅より至りて、鵲二隻を献る。すなわち難波の杜に養わしむ。因りて枝に巣くいて産めり.(「日本書紀」)

A森の宮団地内「大阪砲兵工廠跡」石柱〜平野川へ 

 「森町歩道橋」の下を右に25mほどいった団地の中、公団森之宮住宅3号棟と4号棟の間、花壇のような一角にひっそり腱っている。この石柱、うっかりずると見過ごしてしまうかも知れない。1960年代から建設された高層住宅団地群のなかにポツンと取り残されているようだ。

・この石碑が建つべき場所かどうか、考えてしまう。もちろん、説明板もない。

     団地のすぐ東横を""疎開道路が走っている。今回は、団地の正面入り口の方から見学します。

B森之宮車両工場エリア 

・「城東線」をはさんで、砲兵工廠の、主として製造工場と倉庫群があったとされる東地域には、「森の宮団地」内のこの石碑を起点とすると、「大阪市交通局」「森之宮小学校」「大阪市立工業研究所」「大阪市交通局車両部森之宮車両管理事務所・森之宮検車場」「環境事業局森之宮工場」が順に建ち並んでいる。

・石碑の手前にあるのは「JR森之宮電車区」。1961(昭和36)年に開設。環状線、桜島線、大和路線の車両基地となっている。戦後、軍事施設の跡地一帯は、平和利用されているが、このような事例は大阪では多い。

・「森之宮小学校」の校歌の中には、「なにわの森」「大阪城」「縄文の歴史は古くかささぎ社の空澄む」と、古代・近代の日朝関係史の"キーワード"が盛り込まれている。玄関入口の横手に校歌が掲示してある。

 

 明治になり、落城した大阪城の跡地は明治政府が没収。わずかな守備兵が置かれた。明治3(1870)年になるとおびただしい建材が運びこまれたが市民には一切知らされなかった。それが明らかになったのは、翌年9月、新設された明治天皇の誕生日を記念した天長節の日であった。市民は大阪城が新政府の軍事施設に変化していることを、初めて目の当たりにしたのであった。同年、陸軍に鎮台制(明治初期の軍制機関)がしかれ、大阪城跡は大阪鎮台として整備され、軍需工場をはじめ、軍事施設が次々に建設された。明治21(1888)年、大阪鎮台は第四師団司令部となり、大阪城は、市民からまたかけ離れた存在となった。

 それでも、明治3(1870)625日から城内の時報であった大砲は親しまれたようだ。朝昼晩3度ずつ打ち鳴らされ、明治774日からは正午だけになり、大正11(13年説もある)には節約の名目で廃止されたが、「お城のドン」と呼ばれ大阪の名物の一つとなっていた。

C「疎開道路」 

・「猪飼野」から続く疎開道路、正確に言うと""疎開道路というところだろうが。中央通りを越えて、新たに平野川までのびている。正式な名称は「豊里矢田線」となっており、「疎開道路」.の公的名称として、その命脈を保っている。

・「軍事道路」としての役割を課せられていたのではという指摘も近年なされ、天王寺と砲兵工廠を結ぶラインだったという説も出ている。「砲兵工廠」まで延びて、そこと直結している事実を今にして見るとその説の持つ説得力に感心する。

・「疎開道路」は、今回のフィールドワークのテーマ"「猪飼野」から「アパッチ部落」へ"を結ぶラインの一つともなっている。

D大阪車両工場遠望 

・戦後、昭和22(1947)年と34(1959)年の2回にわたって、三棟の工廠の建物が払い下げられた。その三棟を一つの屋根につないで使用していた。機械の一部(ボール盤と旋盤)も、ここに払い下げられ、しばらく“現役”として”活躍”していたといわれる。この辺りには、大阪砲兵工廠の「鍛造工場」「板金工場」があって、大砲の部品の鍛造と板金を担っていた。

・この大阪車両工場では・電車、バスなどの車両の製造、改修を行っている。

・比叡山のケーブルカー・広島電鉄の輌、黒部峡谷鉄道の車両。立山・熱海・新穂高・金剛山……のロープウエイなどが造られた。

E下城見橋 

1969年に完成した「森之宮工場」の横のゆるやかな坂にかかる「下城見橋」を渡って、ゆるやかな坂をくだる左手方向、平野川にそって環状線ガードにいたる一画が、旧「アパッチ部落」といわれるエリア。橋の上から見る川沿いの住宅の様子からは、「アパッチ部落」の面影は、探りにくい。今年の26日の大阪市外教フィールドワークで入ったガードとは反対側の下城見橋から・旧「アパッチ部落」エリアに今回は入ることとする。

・橋の上からは・大阪城の天守閣・大阪城公園エリア、大阪ビジネスパークエリアの広大な大阪砲兵工廠の敷地が一望できる。

F旧「アパッチ部落」エリア 

・小説の舞台となった「アパッチ部落」

・「平野川」「船着き揚」「水道管」ただ一軒残るといわれる当時の「住宅」………。

1958年を駆け抜けた民衆のエネルギーが、いまここに、わたしたちの眼前に蘇る。

・当時の聞き取り調査をここでします。

G「水道管」址 

・「アパッチ部落」から、砲兵工廠へと進む”四つの道”のひとつといわれる「水道管」も、今はない…。わずかにその痕跡をうかがわせるポイントが残る。

H「城東線・大阪環状線」ガード下 

     モダンな高層建築が林立するビジネスパークと「アパッチ部落」をつなぐ“時空トンネル”のような役割をもっているようなガードである。現代と過去を結ぶ、貴重な“史跡”とすら言えるのでは…。

     テレビの映像や写真集などで、必ずといっていいほど紹介されるスポットとなっている。

I「断梁射架(射撃場)」址 

・城東線にそって細長くつくられたのが、射撃場だったといわれるエリアである。戦時中、「大きな音がしていた」といわれる。

J弁天橋(1992年竣工)

・小説の舞台となった「弁天橋」ではない。92年につくられた新橋である。

・昔の弁天橋は、砲兵工廠の正門前に通じ、「アパッチ族」活躍の場となった橋であるが、当時の橋は今はない。名前だけが、「大阪城新駅」の開設とともに復活したようである。

K大阪ビジネスパーク界隈 

・ここは、工場の跡地にいくどか盛り土ざれ、つくられた。言わば埋め立て造成地といわれる。線路一本へだてた一画は、いうま:でもなく"異界“アパッチ部落であるが、そのコントラストには驚愕の一語しかない。そこで、1958年の2月から10月にかけて、在日朝鮮人たちは、生きるための闘いを展開したわけだが、その歴史と隔絶した世界がここに開けているようだ。ここは、1990年代のバブル時代につくられた人工都市。

☆大阪城新橋(1983年)  

・この橋も83年につくられた新橋である。橋のすぐ側にたつ「ニューオオタニ」は「砲身工場」跡。鉄を焼いて、形にした。軟鉄、鋼鉄いろいろな材料を陣ってそれを大砲の形にする。

・「ニューオオタニ」の裏手「キャッスルタワー」のあたりは「火砲製造所第三工場第七旋工場」.があったところである。鋳造・鍛造された砲身や部品はここで最終的な旋盤と組み立でが行われる。細分化された製造工程の最終工程がここで行われた。

・「ツイン21」の橋のふもとの駐車場は「工廠の火砲製造所の事務所」があったといわれる。

L「旧弁天橋址」 

     もはやや""となった「弁天橋」であるが、明治1020311898〉年の一地図には「弁天橋」はない。その後、南地域と北地域をつなぎ、本部への通路としてつくられたようだ。砲兵主廠が拡大するなかでのことであろ

・「アパッチ族」が“正面突破”して渡った橋である。「四つの道」の一つであるが、メインの通路は、やはりこことなるのだろうか。

M大阪砲兵工廠石造ア一チ荷揚門

・大阪城ホールの裏、奇妙な石造りの水門がひっそりと口を開けている。今は門として何の用もたしていない。実は、この門が工廠の荷揚げ門である。明治の創設の図面に既にこの荷揚げ門は配されている。

・明治10年の地図に「水門」が見える。「重量物の運搬」と「大阪港に直結」という「利点」があった。

ミニ知識

・靖国神社の「遊就館」に工廠製の大砲が展示。第二鳥居も工廠製造(明治16)

1901年開業の八幡製鉄所にも工廠の技術が受け継がれた。

N鴫野橋案内板 

・平成元年・1988"新鴫野橋"としてリ=ニューアル

・この橋の案内板が唯一、大阪城エリアにあって、砲兵工廠の歴史を伝えているようだ。

・案内板は、「……略……明治になって、この辺.りは大阪砲兵工廠の敷地となり、橋も軍の施設となったが・太平洋戦争後に大阪市に引き継がれこの間に新鴫野橋として改称された。廃墟と化した大阪砲兵工廠も、大阪'城公園と大阪ビジネスパークという新しい街として変わった」というくだりで、砲兵工廠史にふれている。

☆新鴫野橋(1976年).

・鴫野橋のたもとに「本部事務所」があった。

・「本部」のうらに「図書館」もある。そこから平野川にそって東にしばらく進むと「掘割」が見え、弁天橋をすぎるとまた「掘割」がある。最初の「掘割」が「第一荷積場」となっている。この右手には「第二物置・第三物置」も並んで川沿いにある。.さらに「第二荷積場」がつくられ「弁天橋」へと続いている。地図上では、「弁天橋」のあったところが、現在の「大阪城新橋」のような気がする。.

O「砲兵工廠本部址」石碑 

・昭和34(1959)年大阪廠友会が「明治3(1870)年に三の丸跡に創設され、40万坪の敷地に、6万人が働いた」砲兵工廠の存在を伝える内容となっている。「……略……殉職者のみたまを慰める式典を行ったのを機会に当時をしのぶためその遺跡の一角にこのいしぶみを建てるもの」と石碑の後ろに刻まれている。

・この碑文には「軍事工場」「戦争」についての記述は見られない。

P大阪城青屋門 

・三の丸米蔵跡を造兵司の地と定め、明治3413日青屋口門内中仕切(なかじきり)元番所を仮庁として事務開始。この日が創立の起源とされる。75年にわたる大阪砲兵工廠の歴史の幕は切って落とされた。

・事業開始といっても大阪には何もない。機械・職工を集めることとなった。426日に長崎造船所(幕末に幕府が造船・兵器〔主として大砲〕製造の目的でオランダから機械と技術を入れていたところ、後の三菱長崎造船所)から工廠備付機械の基礎と初の募集職工として模工、鋳工、旋工、鑢(やすり)工、鍛工を召募している。5月には東京の関口製造所から機械を移設。

・この年の3月・平野川を引く工事(舟運の便を図るため)も行っている。「川に面して工廠の地が定められたのは、重量物を大量に運搬する手段としては舟運が陸上よりも格段にすぐれていた時代のためであり、大阪港に直結している利点からみても、好適な地であった」(「日本の技術」8 p.18)とされる。

Q砲兵工廠跡」石碑(大阪城ホール南側・1959年大阪廠友会建立) 

・“大阪城ホール”は「鋳物場」「仮役所」「A・B蔵」付近.

・“火薬関係の作業所と倉庫”は、危険性を考慮して、東部に集中している

     堀の向こう側、内堀の東側。梅の木立に囲まれた休息所のあたりに、工廠の鉄材製造所事務所があった。大砲部隊の行軍はたいへんだったという。一つの砲を6頭の兵馬が引く。砲兵部隊は郊外に置かれる。大砲の置場、夥しい馬糞、馬のえさの確保で都会には置かれなかった。

     なお青屋門の石垣の外に、いくつもの大きな濠が掘られた。長さは10メートルくらい。深さも幅も1メートルか2メートル。しして、ここは大阪空襲の犠牲者の遺体処理場だった。「空襲後、2、3日して遺体を捜し、穴をほって遺体を焼いた。夜、大阪城がきれいに照らされてね……見えました。」(徳山春信さんの証言。1941年から大阪砲兵工廠で働く)

・青屋門から内堀に沿って西の丸庭園に向かう。庭園から内堀をはさんだ城の石垣に太い鉄管が二本、橋状に堀を横断している。大阪市水道局の水道橋である。明治28/1895年から使用され、ずっと現役、一度も漏水なし。大阪市が発注した砲兵工廠製造の鉄柱菅。初の市水道は桜ノ宮の水源地から城内の貯水池に水を運んで、城の地下を鉄管でくぐらせて給水していた。今も、城内の貯水池は、大手前配水場として働き、一日あたり2万トン弱を配水。上町台地の北、中央・城東・東成・生野・天王寺区の高台あたりに給水している。

R「第一鋳造所」址(記念樹の森) 

・この一帯には、鉄材製造所の薬莢工場が並び、鋳造場、圧延場とつづく

「第二旋盤工場」址(噴水広場〜市民の森「ガス弾の空弾製造」工場) 

・噴水の辺りに「弾丸製造所の第二旋盤工場」があった。第二旋盤工場では「ガスを詰める空弾」も大量に製造されていた。「ガス弾はねずみ色」で、はけで女工さんが塗る。一般の弾は黒。火薬に耐えるため内部に漆を塗る。ガス弾は、火薬を入れた筒のまわりにガスを入れる。弾はサイズはだいたい同じで、経が違う。ガス弾は町工場でも削っていた。大阪金属が主体でした。ガス弾にも大阪工廠のマークが刻まれていた。検査合格の刻印でもあった。町工場は月5円、工廠では月40円。
 「毒ガス」と言えば大久野島の忠海製造所。秘密工場だったので、修理や外注はしない。工室の入口に「装面」と書いてあって、防毒面をつけなければならない。大阪・小倉で造られた空弾と大久野島で造られたガスは、小倉の曽根製造所
(東京第二陸軍造兵廠)で行われた。現自衛隊小倉駐屯地曽根訓練所の敷地内にある資材置場に使われている「窓ガラスのない廃墟のようなコンクリートの建物」が曽根製造所である。忠海から金属ボンベにつめられた液状のガスが運ばれ、ここで充填する。この工場、音がまったくしなかったという。ときどき資材を運搬する車の音がするくらいだったという。空弾の製造印をポンチでつぶしていた。ジュネーブ議定書で毒ガスは禁止されているので、ばれるとまずいので。1889年「曽根製造所毒ガス障害者互助会」が発足。92年に国から医療救済が認められた。

S「巽門」址・「貨物積卸場」址 

1583/天正11年秀吉築城開始。15年で完成。東は猫間川、北は天満川、西は東横堀、南は空堀通り付近まで、現在の約5倍。

1496/明応5年蓮如が布教の拠点として「摂州東成郡生玉の庄、大坂」に石山御坊を建てた。1533/天文2年証如がここを本山とし七城郭を構え、諸国の一向宗門徒勢力の中心とした。11世顕如の時信長と対立。1570/元亀元年から11年にわたる石山合戦を展開。

・木立の中を歩くと、広い花畑にでる。ここには「鉄材製造所の薬莢工場」があった。この「第六旋工場」は、森ノ宮駅から300メートル。面着場いわば改札口でカード押して、入る。ここで薬莢を削りつづけた。工員はほかの工場には行けない。敷地内もうろうろできない。風呂もそれぞれの工場にあった。できた製品は運搬担当が専門に運ぶ。完全な分業体制になっている。画一的な部品を大量生産するスタイルは、20世紀初頭米国の自動車産業で、徹底的に工程を管理された分業と流れ作業を特徴とするフォードシステムとして完成した。そのルーツは19世紀ライフルなど小火器の製造から本格化したとされる。この細分化された意識は、当事者意識の希薄さとなっている。

第二寝屋川・平野川ウォッチ 

・「部落をでたところに川があった。城東線の鉄橋がここをわたっていた。川は、よくわからないが、運河らしく、水はよどんだままうごかず、おそろしい腐臭があたりにたちこめて、生温かくするどく鼻におそいかかった」(「日本三文オペラ」p.24)

                               むくげ175号(2004.3.1)より

 

      (リンク) 侵略、空襲、そして「アパッチ」……
        大阪城周辺における戦争遺跡と朝鮮人の足跡をたどる
                     (平和に生きる権利の会  おかだ だい  さん)


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