「子どもの退去強制・収容問題
学校現場(くみあい)の課題」

 東大阪市教組(執行委員長)  林 二郎

はじめに

  今のイエ先生については、学校のようすで言いますと、最初に来ていただくときに本名で、「イエ」で、とお願いしました。校内放送では、わかろうとわかるまいと、とにかくどんどん中国語で十回二十回と放送が入ります。それで、わたしたちの学校では、生徒は中国を隠すことなく堂々としていられる。そのことを、最初はどうかなと思う日本人の子もいたでしょうが、今では生徒たちがそれを自慢しています。「うちの学校では中国語で放送するんやぞ」「中国人の先生、お前のところはおらへんやろう」とかね。そんな雰囲気の中で、がんばっていただいているということです。

 

1 98年秋、校区の中国のお母さんからの訴え。

  イエ先生が来られてすぐ、1998年の秋だったのですが、それ以前阪神大震災の頃から、地域に中国人の組織を作った方がいいのではないかということで、「中国帰国者協会」というのと日本人の入った「日中交流会」という二つの組織が作られれまして、その会長をされているリュウさんの中華料理のお店で、ソンさんという方がこういうことで悩んでいると打ち明けられました。リュウさんは、奥さんが残留婦人の娘さんに当たるのですけれども、文革の時には一緒に「日本人、日本人」と言っていじめられたと聞いていましたので、本当なんだろうと思っていましたが、その人が摘発されてしまいました。しかし本当のことはわからない。偽装して入国したと入管に疑われているけれども、それも真実かどうかはわからない。私たちはそれがどうかを知る立場にはない。そうだけれども、私もはじめて茨木市にある入管西日本センターに行きました。今日も来られていますかね、交野市にある女の子の少年院ですが、そこに行っても普通にこうやって話できるのですよ。ところが入管では、ぴしっと隔離されて、ガラス越しにしか話できない。子どもは二度目に会いに行ったときには、もうふさぎ込んでしまって、私には言葉はわかりませんでしたけれども、もう見ていることもできないような状態でした。

 すぐに学校に連絡をとりました。非組合員もいますので組合色を余り出さずに何でもいいからとにかくやろうと指示をして、管理職が文面を作って、しかし管理職は名前は出さずに、これは最初の時でしたが、教職員だけの名前で嘆願書を出しました。この時点では、教育委員会からも、校長や教頭はその中に入らないようにチェックがあったということです。この時は収容が五十何日の長期に及び、両親が子どもの様子を見るに忍びないというので、結局裁判で争うのを断念して帰国しました。これが最初のきっかけでした。98年から99年の正月にかけてのことです。

 

2 99年、相次ぐ学校から消える子ども。そして組合のとりくみ。

  99年、とりわけその後半が、学校から子どもが消えるというのが大きく進んだ時期だったと思います。産経新聞が三面トップで、関西で何千人という偽装、不法入国の中国人がいると報道したのを憶えていますし、後には大きな力を発揮してくれた毎日新聞でさえ、当時は特別取材班というのを作って同様の記事をことある毎に出していたのです。

 ところが。この毎日新聞は、社内でどのような議論があったのか知りませんが、村元記者が一緒にこの問題を追っかけて下さるということになりまして、99年にはこの問題についての学習会を大阪教組や東大阪市教組で開いた時に新聞にも取り上げていただきました。

 この年度に石川県金沢市で行われた日教組教研にも大勢の新聞記者が来られて、地元の新聞にも報道され、法務大臣の談話も載っているのを見て、とりわけ大阪では、少なくとも小さい子ども、義務教育の学校の子どもについては収容をひかえるということになった。そういう判断が、東京の法務省の幹部の間でなされたのではないかと想像しています。

それにちょっと遅れる形で日教組からの全国署名運動の指示がありました。資料の中に、退去強制の場合の手続きがありますが、その後に、私たちの組合で日教組のこの署名運動に取り組もうと呼びかけた機関紙が載っています。その時に、イエ先生から、こうしたものを中国語に翻訳して親たちに配りたいという問題提起があって、これを翻訳して配布しました。組合の機関紙を中国語に翻訳するようなことは、後にも先にもこの時だけでして、そんな発想は私にもとてもありませんでした。これが親たちにばーっと配られて、親たちは日本語の新聞読むわけではありませんから、また、法務大臣の談話を読んでいるわけではありませんから、これを読んで事実上はじめて、こういう取り組みが全国的に行われていることがわかって少しは安心できるようになったのではないかと思います。

 その結果、学校から子どもが突然消える、という状況から、また再び、子どもが学校に戻り始めるということになりました。

 

3 周さん家族の闘いとその支援

 ところが、その三月に、門真市の周さんが入管に摘発されます。父親が収容されまして、すぐその日の夕方、お母さんが東大阪市の鴻池新田に来られて、私が会いました。なぜ東大阪に来られたのかというと、イエ先生やワン先生という中国人の先生がおられたからだと思います。お父さんは、障害を持っている方なんですけれど、極めて冷酷な扱いを受け、「特別在留」の申請をしましたが、もう収容されているからということでしょう、すぐに四月には不許可の裁決がおりて、その結果を受けて、五月に提訴がなされました。中学二年だった周君はお母さんといっしょに住み、下の子は小さいのでそのままだと母親が働けないので、東大阪市の社会福祉施設に預けられ、家族が三カ所に別れ別れに生活することが去年の六月まで二年三カ月の間続きます。去年テレビなどでも大きく報道されましたが、周鵬君は親と別れて暮らすようになり、家族は結局父母と妹が強制送還されます。周君は一人暮らしを始めるということになるんですが、学業の途中だったということでそうなった。周君は、父親が収監されているということで大きなプレッシャーを感じていましたから、ある意味でほっとしたところもあったようです。

  遠くの親戚より近くの他人と言いますが、隣のおばさんが親代わりということで応援して下さり、今なお闘いは続いている。先月でしたか大阪高裁の判決で敗訴しまして、今、再度、最高裁に控訴しています。

 99年には、春のゴールデンウイークを利用して、裁判のための資料を集める目的もあって、訪中調査をしてもらうということで、後ろにお見えの梶さんやワン先生たちに中国黒竜江省方正県へ行っていただきました。これと前後して、「子どもの権利ネットワーク」を立ち上げました。LINKの草加さん、東大阪市教職員組合、それにとよなか(豊中)国際交流センター、それに神戸のグループの4者を中心にネットワークを構成しています。これ以後、ひと月か二た月に一度連絡会を持って、状況の把握やお互いの連携を図っているということです。

 

4 二人姉妹の三年間と二つの選択

  先ほどのイエ先生がおっしゃった例ですが、2000年の2月に両親と下の弟妹がビザの有効なうちにと帰国し、女の姉妹二人が日本に残りました。資料にもありますように、2000年の夏、8月31日、明日から新学期が始まるという時ですが、10時にリーナンさんどうしていますか、と元の中学校の担任の先生がメールすると、今時の子ですから、取り調べの最中に机の下でメールを打って返事が返ってきた。隠れて打ったメールで、「今電話だめ、今日中に帰らせてくれるそうやけど、こわい。ビザ取り消しになったらどうしよう。R(リーナン)高校中退して中国に帰らないとだめだと言われた。」それに対して先生の方は、見つかった場合のために当たり障りのないことを書いた上で、「落ち着いて下さい。今日中に出れるのだっら、その時にどうするか考えたらいい」「今、(イエ先生と林)が迎えに行ったよ、元気出して」と送る、こんなやりとりの場面もありました。

  摘発されたときはそんな様子でした。結局その後2年間「特別在留」を申請して、来週12日にに呼び出されていて、どうやら法務大臣の不許可の裁決が下されるようです。

 ただ、この子の場合は、関西大学に合格したんですけれども、入学手続きをとりませんでした。一昨日、天王寺商業高校の卒業式に行って来ました。ビデオを撮ってお母さんにも見てほしい、だれかビデオ撮ってほしい、先生来て。というので、行って来ました。資料にも書きましたように、3年間支え続けてきましたが、これで3年の時間を勝ち取ったという、そういう実感があります。この子は日本を去ることになるのですが、「最後に入管に仕返ししてやる、困らせてやる」と言います。そういう意味でも、大きく成長していると思います。

 

5 同じ立場の子どもをつないだ三回の「餃子パーティー」

 2000年の秋から、なかなか孤立した闘いになっていまして、一方では摘発を恐れている状態にあるわけですから、自分だけがこんなにしんどい思いをしていると感じている子どもたちをぜひつなぎたい、という思いで、最初は鴻池の小さな場所で始まって、今年のお正月で三回目をやりましたけれども、「餃子パーティー」を開きました。自分一人だけではないということで、私などはわかりませんがイエ先生などは結構どの子がどうだということはわかっているんですね、そういう中国人社会の中でわかることもありますから、子どもたちに呼びかけて続けています。

 

6 終業式の後、自宅に摘発に来た入管職員に対峙した小3女児。

 一昨年の一学期終業式の日でしたけれども、終業式が終わって子どもが家に帰ったところ、そこに入管の職員が摘発に来ています。三年生の子どもでしたが、その時点で、十分日本語ができるのはこの子しかいませんから、お父さんお母さん捕まえんといて、連れていかんといてときちんと言ったのだと思います。それで、学校へ先生を呼びに来ましたので、その後は校長が対応しました。この最初の、初動のところで、「お母さんは妊娠している。私は病気だ、だからお父さんを捕まえてしまうと、お母さん一人では家庭がまわらない」ということを子どもが自分の口で入管にきっちりと言ったということが大きかった。空野弁護士にも動いていただきまして、二週間ほどで仮放免された。長期収容されずにすんだという例もあります。この家族の場合には。勤め先の社長さん、工場長さんにも協力していただいて、資料にもサンプルが載せてありますが、嘆願書を出していただきました。

 資料の最後のところにありますように、身元保証人に誰がなるのかということが問題です。校長がなるのか、組合の役員がなるのか、どのような書類が必要なのかということです。入管の職員は、校長などに対しても、素人だと思って私に対するのとは違う言い方をするのですね。よほど強くきちんと言わないとだめです。「私に言うのとは違うやないか。ええ加減なこと言うな。あなたも公務員やろう、こっちも公務員や、同じ仕事しているのやないか」などと言わなければなりません。そうでないと「何を出せ、これを出せ、持ち家やないとあかん、預金通帳の写しを出せ」などとかさにかかって言ってくるのです。校長が「うちは借家やけどどうしたらええやろか」などと相談してきます。そういう細かいことも大事なことだと思います。

 

7 両親収容。小4生引き渡し拒否を貫いた校長。

  一昨年の秋のことですが、先にまず父親が収容されて、それに対して文句を言いに行った母親が、荒っぽい口調で言うものだから、あんたも収容や、と収容されてしまった。子どもが一人残されてしまった。この子を連れに、入管の職員が学校に来ました。二時間ほど校長室で、入管の職員三人を相手に校長がかなり「子どもは渡しません。学校として責任を持って、子どものめんどうを見ます」とがんばった。押し合いへし合いが続いて、何十分かおきに入管の職員は上司と連絡を取ります。その様子は脂汗を流して、電話の向こうから怒られているのがありありだった。だけども、この勝負は校長が勝って、ついに子どもを渡さなかった。校長室を出て帰っていく頃に、私と毎日新聞の記者が着き、それが一昨年11月13日毎日新聞記事として載りました。「中国男児引き渡せ 不法入国容疑で両親を収容後 唐突と校長拒否」

 こういうまあ言わば、やばい問題であっても、校長が子どもの教育ということでがんばれば、また、こういう新聞記事が伝われば、保守系の議員さんからも「東大阪には根性のある校長がおる」という声が出て、教育長が校長をほめたということです。こうした偽装入国のような問題に関わることであっても、私たちの学校の教職員の仕事という原則、それを貫いたら、市民的な共感は、思想信条の違いや保守系革新系に関係なしに、得られる、一般の人々から支持や賞賛が得られるということだと思います。

  こうして今では、問題が起こると、私などが大して話しなくても、各学校の校長先生はすぐに対応されるようになりました。校長さんが自ら入管へも行かれます。難しい場合には、組合の執行委員が表に出てする場合もあります。東大阪市内十五校くらいで問題が起こる中で、そうした雰囲気を組合が中心になって作ってきたということです。

 

8 再び「子ども」の収容を始めた入管

  子どもの収容については、こうして一旦はストップしました。しかし資料にありますように、大阪については2000年、2001年と子どもの収容を控えているというのがありましたけれども、全国的には99年に収容された子どもが298人、仮放免などによって収容はしなかったけれども退去強制になった子どもが268人、合計560人ほど。2000年度合計649人、2001年度985人、昨年度2002年度上半期だけで381人。だから、ここから言えることは、大阪では一定の取り組みをしているから見えてきている、顕在化しているということがあるのだと思いますが、全国的に見ると、大村収容所を含めて全国に三つあるそうですが、それらの収容所に収容される子どものことはほとんど見えていない。闇から闇へと毎年何百人もの子どもたちが消えて行っている。新聞にたたかれるから、というのもあって、大阪ではそんなに目立っていなかった。ただ、昨年からまた状況が変わってきて、この後どっと出てくるのではないかと思っているのですが、今現在三人の19歳20歳の大学生が収容されている。

 一昨日弁護士から連絡がありまして、妹が東大阪市の若江中学校に在学しているのですが、その大学に行っているお姉さんが呼び出されているよと連絡いただきました。しばらくして本人から「私も収容されるんですか」と聞かれて、まあいわば死刑宣告を受けたような気持ちなんだろうなと思いました。家族もどのような結論を出すのか、今週支援の人も含めた話し合いをもって14日の呼び出しに臨む予定です。次はあの子か、と、大学生については思っていて、また、今は高2の子も、後一年して卒業したら順番が来るのかと思います。今年来年とそういう状況がなおも続いているという状況です。

 

 (私の話は以上で、次は草加さんです。資料の年表にありますように、一昨年、2001年の6月にLINKからの提案で、私たちの組合員でもありましたワン(王)老師(ラオシー、先生)と草加さんとでジュネーブに行っていただきました。国際的な圧力をかけないとどうにもならないという提案で、子どもたちの手紙を届ける活動に行ってもらいました。)

        
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