豊臣秀吉の光と陰

「朝鮮征伐」の真相 中世に入ってからさびれていた大阪を再興し、今日のような大都市となる基盤を築いたのは、豊臣秀吉であった。その人気は低い身分から、のしあがったドラマ性によるものといってよい。しかし人間には誰しも光と陰とがある。秀吉はその生い立ちのゆえに、武士社会の中では新参者であり、根深い孤立感に悩まされていた。この孤立感が強烈な自信ともあいまって、晩年の秀吉には誇大妄想的な傾向が生まれてきた。このような秀吉の陰の部分が生んだ悲劇が、日本で文禄の役、慶長の役という、二度にわたる朝鮮侵略であった。

 秀吉の朝鮮侵略を日本では、朝鮮がなにか悪いことをしたかのような語感をともなう「朝鮮征伐」という名で呼んだ時期がある。しかし、当時の朝鮮は武官より文官の力が強い、平和な国だった。その朝鮮にやにわに「中国(明)を攻めたいから朝鮮はその道案内をせよ」という要求を突きつけて、ことわられると一方的に乱入したというのが、いわゆる「朝鮮征伐」の真相である。

秀吉のあせりと野望 栄光の絶頂にあった秀吉にも、老いの陰は着実にしのびよっていた。その一方で秀吉はなかなか子宝にめぐまれなかった。秀吉はあせった。そのあせりの中で、古い家臣たちに恩賞を与え豊臣氏の支配を確固たるものにしたいという野望が頭をもたげてきた。日本がいかに小さい島国であるかをも秀吉は知っていた。自分はこんな小さな国の支配者にとどまる人間ではない、という考えが秀吉を支配した。そして、朝鮮をはじめからなめてかかっていた。朝鮮の使節を秀吉はようやく生まれた幼い息子(その後まもなく死んだ鶴松)をひざに抱いて迎え、儒教的な礼式を重んじる朝鮮の使節を驚かせた。そして使節が持ち帰った「自分を身ごもったとき母は日輪が胎内に入る夢を見た。自分は日輪の光の及ぶすべての土地の支配者たるべく生まれてきたのだ」という書簡は、朝鮮の宮廷の人々の理解を超えるものであった。

開戦から野望の挫折まで 朝鮮に攻めこんだ日本軍は、はじめのうち破竹の進撃を続けた。戦国の世を生き抜いてきた日本軍に対し、朝鮮軍はあまりに平和になれきっていたのである。しかし、秀吉の予期しなかったことは、正規軍が敗走したあと、農民を主力とする義兵が各地でつぎつぎと蜂起したことだった。女性や、子供、僧侶までが戦いに加わった。田畑は荒れ果て、日本軍にも飢えの恐怖がしのびよった。そして、その恐怖を決定的に現実のものとしたのが、海における敗北であった。

 韓国の首都ソウルの中心部に日本の大阪を向いて立つ武人の銅像がある。李舜臣(イ・スンシン)というその名を知る日本人はあまりにも少ない。しかし、朝鮮半島では南北を問わず、その名を知らない者はいないほどの英雄である。李舜臣は、秀吉の水軍を壊滅状態に追い込んだ朝鮮水軍の提督であった。水軍の壊滅により、日本からの補給はひどく不自由なものとなった。そもそも中国征服を目的とした秀吉がまず朝鮮に攻め込んだのは、大軍を運ぶほどの船舶がなかったからであった。日本に近い朝鮮を上陸地とする計画が根本からくずれ、日本軍にとって戦局の悪化は避けられない情勢となった。待ち望んだ明軍は碧蹄館(ピョクチェグァン)で加藤清正に大敗するなど、必ずしもたよりにならなかったが、義兵たちの戦いは朝鮮軍を大いに立ち直らせた。こうして兵員の三分の一を失った日本軍は引きあげ、文禄の役はおわった。そして再度の出兵となった慶長の役は、日本軍にとってはじめから敗色の濃い戦いであった。文禄の役のとき朝鮮半島の北端にまで達した日本軍は、今回はソウルに達することもできなかった。

晋州にある義岩。論介は晋州きっての売れっ子妓生(強いていえば日本の芸者)であったが、接待した侍頭の毛谷村六助を誘惑するふりをして誘い出し、六助に抱きついたままこの岩から身を投げて道連れにした。

耳塚の語る歴史と英雄像 日本軍は、朝鮮全土で、民間人に対する殺人、放火、略奪、強姦をくりかえした。京都の方広寺付近にある耳塚は、朝鮮で無差別に切り取ってきた朝鮮人の耳や鼻を埋めたものである。この戦争は、日本にとっては、さらってきた朝鮮人の力によって、製陶、印刷、儒学などが発展する機会ともなったが、朝鮮にとっては、破壊以外の何物をももたらさなかった。朝鮮半島では、文禄の役は「壬辰倭乱(イムジンウェラン)、慶長の役は「丁酉再乱(チョンユチェラン)」と呼ばれ(両方を総称して「壬辰倭乱」と呼ぶこともある)、それを引き起こした豊臣秀吉(プンシンスギル)の名は、のちに朝鮮の植民地化に決定的な役割を演じた伊藤博文(イドゥンパンムン)とともに、にくむべき日本人の代表とされている。

 豊臣秀吉は、日本人にとっては英雄であり、とくに大阪人にとっては、徳川の江戸に対抗するよすがともなる人物である。しかし、民族がちがえば同じ歴史に対する評価も違ってくる。朝鮮人にとっての英雄とは、李舜臣をはじめ日本軍と戦った人々であり、中には、日本の武将を誘い出し、抱きついたまま道連れにして川に投身自殺した激戦地晋州(チンジュ)の女性、論介(ノンゲ)のような庶民の英雄も含まれる。

     


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