この記事は、『むくげ』161、163、164号に連載されました。
末尾のから、次に続きます。


99夏/韓国歴史探訪ツアー

秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の史実を学ぶ

市外教平和友好ウオッチング委員会/宮木謙吉

1.はじめに99夏の韓国ツアー

初のガイド役を引き受けて

初めての場所へ、地図をたよりにしかも大型バスで行くのは心細いものである。今回、ガイドを担当して、実はツアーの前日まで緊張していた。大阪でのフィールドワークや職場の仲間との韓国ツアーでは、これまでの慣れや経験からガイドを引き受けたこともあったが、これほどの緊張感はなかった。でも、参加メンバーの心づかいと個々の学習意欲に支えられて、何とか大役を果してホッとしている。心残りは、いつものことながら事前の準備、これに尽きると反省している。

 日目の巨済島北部の山頂の永登浦城、松真浦城、長門浦城の3倭城の見学は、確かに近くまで行けたのだが石垣の見学すらできなかったのは、時間の制約があったとはいえ、それまでの倭城見学がスムーズにいったこともあって残念でならない。青丘人権文化の会の八木さんから準備してもらった現地の詳細な地図や資料をもとに下調べをし、韓国人通訳ガイドやドライバーにも見せていたのだが、今一歩実現の運びとはいかなかった。ただ、言い訳になるかもしれないが、大型バスで小回りが効かないことや通訳ガイドやドライバーも初めてのコースで、とにかく巨済島の倭城は「行ってみないとわからない」という現状だった。倭城へ至る現地の細かい道までは地図には書き込まれていないこともあったが、地図を見てコースをとるという習慣は、韓国の観光バスのドライバーにはないようだった。〔実は12月末に巨済島を再見学したのだが、7月のツアーで見学した倭城の位置はほぼあっていたことがわかってホッとした。巨済島の最北端にある島津義弘が築城したと言われる永登浦城ヘアクセスする道路がないことも知ることができた次第である〕ともあれ、南海国立公園に指定された美しい海岸線や島影を目にできたことはよかった。

 友鹿洞の訪問時には、友鹿里にある「友鹿書院」の隣に昨年の
月に新たに建てられた「忠節館」の前の道路には、驚くことに「日本國大阪市慕夏堂(沙也可)研究會員友鹿書院訪問」と大きく書かれた横断幕が掛けられていた。村をあげての歓迎が用意されていた。すこし大げさすぎるようでこれも韓国式かなと思いながら交流会に臨んだしだいであった。現在、友鹿洞では沙也可の業績を通じて、日韓友好の交流活動と友好の村づくりに向けて具体的な動きが大邱市をあげて開始されている。ツアーの合間のわずかな時間を見つけての市場見学や早朝の街あるきは、街角に歴史を見つける私たちの旅の楽しみの一つである。また、街の食堂にはいってハングルのメニューや壁の飾り物を見ながら食事をするのも楽しい一時であった。今回も町の味を満喫できてよかった。定番の石焼きピビンパやプルコギはもとより、食堂の韓定食や煮込みチリ鍋をはじめなかなかのものであった。焼酎も地域ごとに銘柄があって、京畿道の真露一元支配でないところも見逃せない。ビールも3社がシェアーを分しているというのも絶妙なバランス感覚である。慶尚南道一周の旅は、念願のコースであった。今回のツアーは、別名「韓街道、海の旅」でもあった。メンバーにも恵まれ大阪と韓国の友鹿洞と海岸線にそってつくられた倭城を結ぶ意義深い学習ツアーであった。継続して調べたいこともたくさん出てきた。南原では、ガイドをしていただいた池先生から南原からの連行者の後裔のなかに、赤穂四十七士のメンバーや乃木将軍が含まれていることや南原の小学校の校庭に「故郷忘じがたし」の記念碑ができたことを聞いて、日朝の関係史の学習にますます興味が沸いてきたところである。まずは、45日の旅の報告をしたい。

2.釜山から機張へ、機張城をめざす

機張城の城壁。韓国では竹城里倭城。入江に面した小山の上に築城。

真夏日の金海空港からバスに乗り込んで、空港近くの食堂に直行。ガイドと旅程の打合せを行う。昼食後、すぐに黒田長政が築城した機張城(韓国名、竹城里倭城)をめざす。洛東江をわたり海浜の工場群にそった工業団地をぬける。大阪と同じような中小の工場がひしめき合っている。そこを抜けると右の山すそに緑の壁の釜山刑務所が見える。左手の山手は高層のアパート群である。釜山の市内の煙突は、銭湯である。銭湯の愛好者が多いようである。平地の少ない釜山の山すその至る所に、高層団地が目につく。民家の屋根の上には、重油のタンクが置かれていた。オンドルも「油」の時代になったようだ。バスは14号線から、機張の街へと入る。機張城は現地では竹城里城と呼ばれており、地図にも載っている。

 バスは竹城里をめざして海岸線へと向かう。やがて、松林や段々畑が見えてきた。海が近くなったようだ。海が見えはじめると車窓から山の上の石垣を探し始めた。「あった。あった」との声が大きくなった。右手の山の上に石積みが見える。そこから松の木が幾本も斜めに延びている。その城山の真下が、小学校だった。学校から出てきた子ども達は、口々に「倭城、倭城」と言っていた。バスを校門前に置いて、さっそく登り始めた。小山の上には、城壁が残っていた。その下の案内板には「機張竹城里倭城」と表示され、ハングルで書かれたプレートの下段には、日本語で「この城は壬辰倭乱
(1592)時倭将軍クロタナカマサ築城して守った所で城壁の総長さは約1kmで釜山倭城と類似の石城である。この城は蔚山の西生浦城と鶴城それで釜山城を連結する重要要衝ともなる」(原文ママ)と表示している。石垣跡に上がると、海が一望でき、すぐ足元ままで入江が迫っているのがよくわかる。

機張城の真下の竹城初等学校の世宗大王の像。李舜臣と並んで韓国の校庭の銅像の定番。

 石垣の上は、夏草におおわれ松の木が数本はえて、礎石もはっきりしないほど草に覆われていた。5分ほどでほぼ一直線に登れる小山である。石垣はそりがあって、典型的な倭城であると一目でわかる。ふもとの小学校の門前で、数人の子どもが遊んでいた。「竹城初等学校」の運動場には、新しい世宗大王の像とブランコ、鉄棒、砂場があった。校舎は2階建で、まだ新しい。案内板では、黒田長政が「クロタナカマサ」とカタカナ表記であるのが面白い。しかも濁点なしである。いかにも韓国らしい。「城壁の総長さは約1km」とあったが、天守部分の高さメートル程の40メートル四方の石垣しか見当たらなかった。他の石垣は草におおわれていて判別もむつかしかった。小山全体にわたる縄張りの城であったのであろう。ただ、城下の入江から青い海がずっと広がっていた。日本兵たちも、ここから遠く海の向こうの故郷をしのんだのではないだろうか。なお、築城年は1593(文禄2)年である。日本軍は「くちゃん城」と呼んでいたようだ。「釜山城」は1592(文禄1)年、毛利輝元、小早川秀明らが築城し「ふさんかい」と呼んでいた。これから「西生浦城」と「鶴城」を見学する予定だったが、それぞれの倭城が連結してだというのはその通りのようである。蔚山城は、一名鶴城とも言われていた。最初の倭城見学は、車窓から探し当てたこともあって、最初の見学ポイントは無事に通過できた。まずは、旅の計画の一こまがすんでホッとした。小学校前からバスを降りて歩いて15分ほどの距離であったこともウォーミングアップとしてよかった。小学校の運動場には、真新しい世宗大王の像がつくられていた。

3.西生浦城の大きさに仰天

倭城の城壁。見事な石組み。築城の際の加藤清正配下の石工たちの"重労働"がうかがえる。

再び14号線を北上、31号線に入る。一路、海辺の道路を蔚山をめざす。途中、海水浴場をいくつか通りすぎた。海辺に、松の本が続いている。やがて、バスの左前方に城壁が見えた。松の木も生えている。石垣の横手の道路にバスを止め、石垣に向かう道を歩き始める。ゆるやかな坂道を登ると、城壁があって、その間を抜けると「南門」という表示板が立っていた。さらに道なりに右手に登ると、バスから見えた高さ10数メートル、40メートル四方の石積みの上に出た。機張城に比べるとひとまわり大きな城壁である。草丈は短く、松の木は多く、整地されていた。礎石も幾つか残っている。海からの距離はかなりありそうだ。左右後ろに田畑が広がり、後方には山がひかえている。松の木の下で、二人の古老が涼んでいた。その古老の話によると、何と本丸はあの後方の山の上だそうだ。日差しはきつく、その上にかなりの距離だ。意を決して、頂上をめざすことにした。歩き始めて、気がついたのだが、何とさきほどの城壁からずっと頂上まで石積みが続いているではないか。畑や家々の間には、城壁が見え隠れしている。城壁を家の塀がわりにしたり、納屋の一部にしている所もあった。その城壁の石積みは、ほぼ真っ直ぐに頂上へと続いている。幅メートルほどの急な坂道が、その城壁にそって延びている。もくもくと道を登ること30分。広々とした本丸のあった一画に着いた。草もきちんと刈られている。その広い敷地の中央に「西生浦倭城」と書いた案内板が立っていた。

倭城独特の"そり"のある石組み。山の頂上部から麓にかけて城壁を重ねて巡らしている。傾斜のある山肌によくぞ石垣をつくったものである。

「この城は宣祖26(1593)文禄の役の時倭将加藤清正が築いた日本式石城で階段式に築いた。山の頂上部から下へと城壁を巡らし、城壁はかなり斜めに作った特徴があって、16世紀末期の日本の城郭研究にも貴重な資料である。このような日本式城郭は文禄の役以後の朝鮮の城郭築城にも一時応用されたこともある。今は石築城壁のみ残っているが、比較的完全である。日本人が築城したが、後で朝鮮でも使った城である。この城は機張竹島城と釜山鎮城及び蔚山倭城と烽火で連結したことで、別名烽火城ともいう。城址には当時倭城と戦って殉職した忠君愛国の志士を祭った蒼表堂があったが、今は場所だけ残っている。」かなり詳しく書いてある。石を重ねた朝鮮の城の城壁に比べて、倭城の城壁は、かなり「斜め」に見えるのだろう。「山の頂上から下へ城壁を巡らし」と説明してあるが、それが正にぴったりで、石垣がこの頂上全体からふもとまで延びていて、ゆうに600メートルはあるであろうか、さきほどの出城まで続いているのである。しかも、頂上のこの一画が丸ごと石垣に押し上げられているような感じを受けるのである。石の数も万単位であろう。場所によっては20メートルを超えている。よくこれだけの石を積み上げたものだと驚きを禁じえない。戦国時代の日本の土木技術の水準について考えさせられる。この頂上は、さきほどの小学校の運動場くらいあるであろう。眼下には海が広がり田畑や川も視界におさまる。周囲の山々も一望できる位置にある。加藤清正が、城作りの名人と言われたわけも納得できる。相当の腕利きのスタッフを配置していたのであろう。最初に見学した城壁は、まさに出城であった。この出城でさえ、先程の機張城の天守の城壁よりは大きいのであるから、西生浦城の規模のすごさがわかる。出城から見ると海が遠くに見えたのだが、天守閣跡から見ると眼下に、間近に見えるのが不思議である。一山をすっぽりと縄張りにしていることが、歩いてよく理解できた。しかし、倭城の最大のものは、熊川倭城であるという。これ以上の規模になると、相当な縄張りであることが推察できる。秀吉の朝鮮侵略軍が、本格的な統治を考えていたことがうなづける。古老の話を聞かずに、あのまま帰っていたらと思うと恥ずかしい限りであった。頂上の本丸近くに「西門」「北門」の標識もたっていたのだ。現地の人の話は聞くべきだとつくづく思った。1995年の15日に植民地支配の象徴であった旧「朝鮮総督府」の建物が解体撤去されたことが記憶に新しいが、この倭城は、秀吉の朝鮮侵略の象徴でもある。と同時に今でもその異様さ=威容さを伝えているのである。バスの中は、西生浦倭城のスケールの大きさの話題でもちきりだった。バスは、蔚山へと北上している。

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