この文章は、1980年4月から1981年2月にかけ、
『むくげ』 67、68、70、71、72の各号に連載されました。
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在日朝鮮人教育にかかわる私の原点(1)
(『むくげ』67号1980.4.25より)

 稲富 進

 新たな出発のために

「公立学校に在籍する在日朝鮮人子弟の教育を考える会」が発足したのは1971731日だった。その後、「日本の学校に在籍する朝鮮人児童・生徒の教育を考える会」と改称し、この731日で10年を迎える。この10年の歩みの中で、教育現場の実践を軸にした運動は着実に前進し、在日朝鮮人教育は、日本の民主教育の重要な課題だとする意識ととりくみは年ごとに広まってきている。

けれども、同化政策を貫く教育行政の大きな壁と、日本社会、日本の民衆をむしばむ朝鮮人に対する排外、差別の意識や構造は、依然として、わたしたちのとりくみの前にたちはだかり続ける。このような状況からつき抜けて新たな展望をきりひらいていくために、いま一度、それぞれの原点に立ちもどること、そこから10年の歩みを総括していきたい。

 

 今もいきいきとよみがえるA子の告発

時折り、「稲富先生はどうして在日朝鮮人教育に深くかかわるよう'になったのか」と聞かれる。そんなときわたしは、はたと当惑する。自分でもうまく整理して考える機会もなかったからである。また、そんなに簡単に説明できないからである。とりあえず、わたしの歩んできた道をのべてみたい。

196810月、大阪市立城陽中学校第3学年の生徒集会が開かれていた。「きょうはみんなにどうしても聞いてもらいたいことがある。とくに主任の稲富先生にはどうしても答えてもらいたいことがあります。

この3年間、わたしたちは、クラスや学校の中での生活のいろいろな問題や、社会の中の差別の問題などを、みんなで話し合い勉強してきました。それは私にとって、私のこれからの生き方を考えていく上でたいへんよかったと思います。そういう場を作ってくださった先生方に感謝します。だけど、どうしても納得のいかないことがあるんです。早くから、言いたい、聞いてもらいたいと思っていたんですが、とうとうきょうになってしまいました。」

この当時、わたしは城陽中学校で学年主任として三ヵ年、教師集団の一員として、生徒集団づくりを核とした実践にとりくんでいた。その重要な学年経営の柱は、民主的な生徒集団をめざして、その過程で自治意識や自治能力を集団活動を通じて育てようとしていた。学級活動を軸にして、テーマ討論や、実践活動にとりくませた。

部落問題を学習するための集中授業や、観劇、その後の討論、クラスのなかまの中での差別問題、身近かな学校生活の中での差別問題から、日本社会の中にみられる障害者への差別など、学習は多岐にわたった。同一テーマでの各学級での討論をさらに学年生徒集会で総括していく場を定期的に継続して3ヵ年を経た。

進路選択にとって重要な時期を迎えた10月に、これまでの3ヵ年の一連の学習が、これからの自分たちの生き方にどうかかわるのかを考え、まとめようとの意見をもった生徒集会の中での出来事だった。この集会の中でA子はさらに次のように発言を続けた。「わたしは朝鮮人です。この城陽中学校には`わたしと同じ朝鮮人がたくさんいます。日本人のともだちとふだんは仲良く勉強も運動もいっしょにやっています。だけどけんかになると日本人はすぐに「チョーセン」とか「朝鮮人のくせに」とか、ばかにした言い方を投げつけます。そう言う問題がこの三年間の中で何度もありました。これは差別だと問題にしましたが、その時の話し合いはどういうわけかあまり活発ではなかった。日本人はだまってしまってわたしたち朝鮮人だけが発言していました。だから話し合いは中途半ぱでいつも終りました。わたしはそのことが不思議だったんです。ほかの問題はたいへん活発な討論ができたのに……みんな、なんでやったと思う? だれか答えてほしい。それから、主任の稲富先生に聞きたいことがあるんです。先生はいつもわたしたちに、『差別の問題を知ることは、ただ知識として頭の中で理解することではだめだ。差別の事件や事象があったら、それに立ちむかう行動ができなければ、知ったことにはならない』と口ぐせのように教えてきました。わたしは今、進学の問題でたいへん悩んでいます。進学のことで悩んでいるのはわたしだけでなく、みんな悩んでいると思います。でも朝鮮人であるわたしは、日本人と違う大きな悩みがあります。先生、わたし、進学のことで父や母と相談すると、『おまえは公立高校を受験するんや、私立高校は受けたらあかん』と言うんです。どうしてやと、なんどたずねても何も答えてくれません。兄ちゃん姉ちゃんに問いただしてやっとわかったんですが、私立高校は、朝鮮人だとわかると受けさせてくれへん学校があるそうですね。たとえ受けさせてくれても、合格の点数に差をつける学校があるそうです。また合格しても入学金を倍も三倍も出さんと入学させてくれない学校もあるそうです。先生、それほんとうですか。先生は長い間、中学校の先生してたんやから、3年生なんべんも受け持ったでしょう。これは差別の間題と違いますか。これはわたしたち朝鮮人にとって一番、身近にある差別の問題だと思います。そうでしょう。いろいろな差別の間題を勉強してきたのに、先生はどうして一番わたしたちにとって身近な、そして大きな差別の間題をみんなに教えてくれなかったんですか。どうしてですか?

大きくはないが、はっきりとした口調でわたしをなじるような発言が淡々と続いた。集会はそれまでの活発で積極的な空気が一転して、重苦しい雰囲気におおわれた。わたしはもちろん学年の教師集団のだれひとり彼女の追及に答えることはできなかった。

彼女のひと言ひと言を聞きながらわたしはただぽう然と立ちつくすだけだった。告発を受けているなかみはひとつひとつ事実であったし、そのことをどの教師も知っていたのだった。

進学指導をすすめるために、中学校三年の担当教師たちは、私立高校を訪れて自校からの受験希望者について、相談する。事前協議と称してこれは今でもおこなわれている。前年度の合格者の得点などを参考に話し合いながら受験者の調整をすすめるわけである。輪切りの進学体制に自ら手を貸さないわけにいかない状況がその悲劇を深刻なものにしている。

「この成績では受験してもらっても、まず無理ですな。」

「家庭の経済状況はどうですか。」

「いい成績の生徒もたくさん受験させますから、この生徒ひとりぐらいは何とか無理を、お'ねがいしますよ。」

「ところで、この中に外国籍の生徒はいませんね。うちは外国籍の生徒は原則として入学を許可しませんので………。」

「実は、この生徒は朝鮮人ですが……。家庭は教育熱心だし、非常に学校に協力的ですよ。性格もたいへんよい子だし、是非受験したいと言ってるんですが……。何とか受験を認めてやってくださいよ。おねがいします。」

「困りましたな。原則としてはお断りしてるんですがね……。」

「そこのところを何とかおねがいします。何か条件があったら言っていただければ、保護者に言っておきますが…。何とかおねがいしますよ。」

「そうですね。いい生徒ならね。そのかわりもうひとりぐらい成績の優秀な日本人を受験さ.せてください。そうすれぱ考慮しましよう。」

こんな、差別的なやりとりが、当時の大阪の教育界では常識的に高校と中学校間でおこなわれていた。今では考えられないようなことが堂々と事前協議という名のもとにおこなわれ、それが、保護者や本人への進学指導の重要な資料として使われた。

A子の追及はまさにそのような差別的な体質を告発するものであり、そのひとつひとつが事実としてごくあたりまえのこととしてまかり通っていた。朝鮮人生徒はこのような差別にいきどおりをもちながらも、なかばあきらめに似た気持ちで自らの進学については、公立高校か、学力的に無理な場合は、定員に余裕のある公立定時制高校か、就識を希望してくるのが一般的な姿だった。この差別事象に気づかない教師はだれもいない。けれどこの差別事象に対する問題提起や差別撤廃の行動は、当時どこからも提起されたことがなかった。

A子の告発は、わたしを追いつめた。1960年学代の後半、大阪の教育界は部落解放運動の告発によって、自らのすすめてきた民主教育を根底から問いなおす必要に迫られていた。

「先生たちは、口をひらけば民主教育といわれるけれど、差別越境問題にほおかぶりをしているような教育がはたして民主教育と言えますか。大阪市内の有名進学校には府下周辺の地域から越境した生徒があふれている。それにひきかえ、地域の学校はどうですか。被差別部落のある地域の学校は進学率は平均よりはるかに低く、学校の設備もたいへん悪い。そういう状況の中で真に民主的な教育が保障されるだろうか。部落差別をこのような形で温存している先生たちのいう民主教育は間題である。」このような主旨から始まった問いかけは、教育労働者の自らの労働の質をみなおし、目の前の子どものおかれている状況や、その社会的・歴史的背景を視野に入れた教育労働にとりくむ大きな教育運動と実践をつくりだしてくるきっかけとなった。

城陽中学校においても、それまでの「ひとりひとりの生徒の潜在的な能力を最大限に伸ばすことをめざした教育実践」(後述)をこの時点で総括をすることになった。

「部落問題をどのような形で生徒たちに教えてきたのか。」

「本校の地域の子どもたちの越境間題にどのように教師集団としてかかわってきたのか。」

このような視点から城陽中のとりくみを総括していく作業の中から、わたしたちの学年団のとりくみの方向性がうちだされたのだった。部落差別やその他の差別問題についてこれまで欠落していた事実は、明白だった。教師集団としての学習がそれから始まった。

書物や映画や、観劇を通しての学習が続いた。部落差別の実態が観念的には理解できても、それはあくまで観念としてであって、部落解放の立場にたって教育の課題としてとりくむには、どうすればよいか、わたしたちはとまどいを感じた。

〈生徒とともに考えながら歩もう〉。こんな結論のもとに、教科学習の中での部落差別の学習、学級集団づくりの内容的な核として、「差別問題」を位置づけて全学級でとりくんだのだった。

重苦しい学年集会は、A子の告発の事実を認めること、そしてみんなが卒業を迎える日まで、わたしたち教師集団の間題として、とりくむことを生徒たちに約束することで、とりつくろう以外になかった。

〈差別事象に対してどう行動できるのかそのことが重要なことだ〉。こう生徒たちに教えてきたわたしたちは、まさに具体的な差別間題にどうとりくむのかが今つきつけられている。学年の教師団の討論が何時間も何日も続いた。

「私立高校が、朝鮮人生徒を差別していることは許されないにしても、今、われわれだけが問題提起をおこなっても、どうにもならないのではないか。」

「これまで生徒と差別問題の学習を続けてきた結果としてこのような問題が告発されている。これにどう応えていくかが、教師として大事なことだ。各方面に問題提起の行動をおこすべきだ。」

「行動を起さなくてはと思うけれど、不安もある。城陽中分会だけのとりくみに終わって私立高校側におかしな感情だけを残したのでは、本校生徒の進学に影響がでるのではないか。」「一年ぐらいじっくり時間をかけて、教職員組合全体としての行動におしあげるべきだ。」

「そんな悠長なことではだめだ。現にA子はその問題で訴えているではないか。何らかの行動を起すべきだ。」

こんな討論が続いた。学年団の討論はやがて職員会議、分会会議へと移され、城陽中教師集団の問題となった。

私立高校入試差別撤廃に関する行動提起はこのようにして大阪市教組からやがて大阪教職員組合の行動へとひろがりをみせた。

私立高校連盟と大教組との話し合いが数回にわたって重ねられた。私学連盟側は、入試に関しては「それぞれの学校の独自の問題であって立ち入れない」、また「外国籍の者を日本人と区別して考えてもやむを得ない」などと朝鮮人差別だとするわたしたち大教組の追及を認めようとしなかった。しかし、中学校側の事前協議の際の具体的な高校側の対応の事実がひとつひとつ明らかにされるに及んで、朝鮮人差別であることを認めざるを得なくなった。

1969年度の入試から、朝鮮人の受験について門戸を開放する」という回答をひきだしてこの運動は一定の前進をみて終結した。

A子の告発は、教師集団を動かし、やがて運動への起爆剤となった。その結果として私立高校が朝鮮人の進学への門戸を開放するという一定の成果をも生みだした。しかし、わたしにとっての問題は何ら解決されないままである。A子の告発を受けるまで、その瞬間まで、私立高校の入試差別の実態を知りながら、差別事象として生徒に提起できなかったし、むしろ何の疑問も持っていなかったという事実をどう考えればよいのか。その折り折りに、教育界に提起されるさまざまな課題に対して精いっぱい教師として対応し、がんばってきたという思いが自分にはあった。人なみ以上にがんばってきたという自負があった。部落解放同盟の差別越境糾弾に端を発した民主教育への問いかけについても、けんめいに学習し、社会科の教師としてがんばってきた。集団づくりのとりくみにも、学年教師集団とともに精いっぱいのとりくみをしてきたとの思いがあった。

A子の追及のなかみは、わたしのそうした思いや自負を足もとからくずすものであった。

 

わたしが朝鮮人教育とかかわる直接のきっかけとなったのは、この城陽中学校での実践の過程でのできごとであった。けれど、それはほんのきっかけでしかないように思われる。ことばで明瞭に説明はできないけれど、それはやっぱり、きっかけにすぎないように思うのである。

教師になって20余年、それ以前に20余年の生きてきた道の中での、さまざまなできごと、その折り折りの人間との出会い、仕事、その中での自己の変革が深くからみあっているように思われる。

 

3.朝鮮人との出会い生いたちの中で

「どうしてこの近所の者は、われわれを変な眼で見るんだ。ばかにして…、朝鮮人やないのに……。はたを通るとうしろでひそひそとかげ口を言う……。」

「島の人が集まってるから、つい島口(郷里の方言という意味)がでるからな。内地の人には、わからないから変に思うんだ。標準語使わんとあかんな。」

「進、おまえは、しっかり勉強して、こんな内地の人に負けんようにがんばらなあかんで。人間は、貧乏でもな、勉強してえろうなったら、ばかにされんようになるんやから……。」

こんな会話が父や母の間で時折りかわされていた。もう40年近くも前のころである。わたしの郷里は、鹿児島県徳之島沖縄に近い奄美諸島の離島である。離島の生活条件のきびしさはどこも同じである。が、とりわけ、わたしの郷里の歴史をふり返るとき、そこに住んできた人びとの苦渋に満ちた生き方にふれな.いわけにはいかない。全島がほとんど山がちで、海岸線にわずかに開ける平野。せまいやせた土地をすみずみまで耕作する。さとうきびが唯一の換金作物である。わたしの小さいころはまだ米作技術もすすんでおらず、年に一期作だった。収穫期が台風シーズンにぶつかる。大型の台風が年にひとつか二つはかならず上陸する。それと収穫期がぶつかると、その一年は米なしの生活が続く。さつまいもと、蘇てつのでんぷんが島の人たちの常食だった。真夏の平均気温が30数度という酷暑の中での、農作業はきびしく、直射日光にさらされ人々の肌は、異様に黒くなる。島で生活できるのはその家の長男とその家族である。いきおい二男、三男は生活の基盤を,内地に求めた。多くは先達がきりひらいた大阪の地に親せき、縁者をたよって故郷を離れる。

大正区の小林町には沖縄出身の人たちが築いた生活の基盤があるが、わたしたち徳之島の出身者は大阪市城東区の今福、府下泉大津、忠岡のあたりにその基盤を築いていた。仕事が定まるまでの一定期間は親せき、縁者の家にやっかいになりながら生活するのが普通だった。

当時、沖縄・奄美大島の人びとは、「沖縄人・奄美人お断り」「内地人に限る」という露骨な就職差別の前に、安定した職業を得ることがたいへん困難であった。女性のほとんどが泉州の紡績工、男性は船員や、プラスチックなどの成型加工業から出発するのだった。生活環境のよくないところに、集って生活した、しかも島の方言を使うわたしたちを周囲の人たちは、朝鮮人とみたのであろう。

当時、父や母たちの会話に出てくる「朝鮮人」ということばのひびきがわたしの小さいころの:頭にこびりついてはなれなかった。自らが「奄美人」といわれて差別されながら「朝鮮人とちがうのに、朝鮮人やいうてばかにされる」と、朝鮮人を差別する。こういう中でわたしは育った。父母の子どもにかける期待は大きかった。その期待は自らが苦しみに耐えたその中から生みだした全身の汗と油のすべてを注ぎこんでかける期待であった。

「故郷に錦をかざる」ことが島から出てきた人たちのねがいであり、生きる目標であったとも言える。わたしの父母もまたそうしたひとりであった。社会の最底辺の生活から脱出して人並みの生活を築くことはたいへんなことだった。子どもの教育に全力をあげたのも当然のことだった。わたしのこうした生いたちは、現在の教師としての生き方と深くかかわっている。

戦後の混乱期も、生活苦に追われてろくに勉強もできなかったけれど、どうにか大学までたどりつき、教師になったのが昭和30年だった。最初に赴任したのは難波中学だった。教師生活の最初の8年間であっただけに、注いだエネルギーも相当なものであった。けれど、現在の教師としての生き方と本質的に異なる生き方が、当時は意識できなかったがそこにあったように思われる。次回は、当時の生活にふれながら、書いてみたいと思う。

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