在日朝鮮人教育にかかわる私の原点(3)
(『むくげ』70号1980.10.18より)

稲富 進

教育は創造的な営みである。それにつけても、「教育の自由」はその創造的な営みを保障していく上で欠くことのできないものである。行政権力や学校管理職から自らの主体性を発揮しながら、教育労働者として創造的な教育実践にとりくんでいくことができるよう子どもや教師の権利や教育条件の改善をめざして活動する教職員組合もまた重要であることはいうまでもない。最近とみに国家権力の教育への介入は露骨になり、教育内容の反動化、教職員管理の強化がすすめられてきたが、それに対抗する教育労働者のたたかいは、たたかう内容とエネルギーをじゅう分に組織できてこなかったように思われる。その原因のひとつに、教育労働者の創造的な営みの結集の弱さがあり、「教育の自由」を守る教育労働者の責務に対する認識の欠如があるように思われる。

「教育の自由」を声高にいいながら、そのことばがなかみとして課している「民主的な教師集団が責任を持ってすすめる教育」をあいまいにしてきたのではなかったか。戦後民主教育にかかわってきたひとりとして、総括しながら今後にかかわっていかなければならない重要な問題であると思う。

今回は、このような問題を軸として、わたし自身の歩んできた道をふりかえってみたい。

 

1.組合ぎらいを増幅させていたもの

1955(昭和30)から1960年代にかけては教育委員会法の改正、勤務評定の実施、学力テストの実施、道徳の時間の特設、教育課程の改訂、生活経験学習から系統学習への転換などにみられるように教育行政、教育内容方法などあらゆる分野でわが国の教育が転回した時期であった。占領下という特殊な事情のもとで発足した戦後教育が講和条約の締結を経て独立日本にふさわしい教育をという中央政府の意図でもってすすめられた教育改革の時期であった。日本教職員組合はこの中央政府の教育改革の意図を新憲法下の戦後教育の理念と制度を空洞化し、反動化していくものとして、組織をあげてのたたかいを展開した時期であった。その頃にわたしは難波中学校に赴任した。当時のわたしは、教職員組合の「教育の反動化へのたたかい」という、たたかいの位置づけなどほとんど理解していなかった。戦時から、敗戦後にかけての苦渋にみちた生活の体験と、学校教育の中で得た日本の近代史の断片的な知識が重なりあって、「労働運動が自分たちにとって大切なもの」との意識を漠然と抱いていたのはたしかだった。闘争のための動員、集会参加、分会会議にも積極的にかかわっていた。けれど一方でたえずそれらの活動に真からなじんでいかない自分があったことも事実であった。当時私と同じ分会にいた組合活動家とその活動家たちを支持している分会員たちの職場における日常活動とわたしとの間に、「教師としてのありよう」「教育についての認識」「生徒へのかかわり方」などの違いが生じ次第にかけはなれていくのだった。職員会議の議案を討議していく過程で、そうした“ズレ”“相容れない考え方”はますますひろがっていったように思う。たとえばこうである。

教科指導をめぐって相互の研修を深めることが重要だこういう職員会議での共通の認識にもとづいて、教務から具体的な研修計画が提案される。例えば、研究授業の実施だとか、他校での研究発表への参加だとか、教科カリキュラムの共同研究だとかである。

分責だとか、いわゆる活動家と呼ばれていた人たちが、「学校長に確認しておきたい」としてきり出す意見はたいてい次のようなことだった。「教育は本来、創造的なものであり、自由が保障されなければならない。教員の授業についての研究は、その原則にたってすすめられなければならない。だから、わたしたちの職場でのとりくみも、そうした教員ひとりひとりの自主性が尊重されるべきだ。だから、定期的に研究授業をくみこんだり、だれが担当するかなどを決めていくのはおかしい。本人の自主的な申し出がある場合に実施すればよい。この計画には反対する。」「教科のカリキュラムについては、教員個々の授業計画にもとづいて自主的に立案すべきものであって、だれもその権利をおかすことはできない。だから、教科で進度の調整はこれまでやっているのだし、それ以外に教科でやることはない。」

「研究会、研究授業については自主・公開・自由の原則に基づいて行なわれなければならない。学校として派遣する体制をつくることには反対だ。」

こういう主旨の反対が提起され、それに賛同する意見が大勢を占めていく。そのような流れがわたしの中で次第に違和感を増幅させていった。その当時、わたしが違和感をいだいた考えの中心は次のようなことだった。教員個々の主体的なとりくみと自主性が尊重されなければならない。それはそのとおりだ。けれど、授業をどうすすめるのか、どんな内容(教材)をどんな方法で授業に組みたてていくのか。学級集団からはみ出している生徒をどのように集団に」ひきもどしていくのか。学習についていけない子どもに対しどんな手だてを考えていけばよいのか。当時新任教師だったわたしにとって尽きることのない悩みだった。まわりの先輩たちにたずねたり、研究会に出かけたり、実践記録を手にしたり、ただひたすらに生徒にぶつかる毎日だった。「だれでも一度はくぐる体験だよ。そのうちに答えは出てくる。あせりなさんな。」こんな先輩たちの対応に、仕方なく、ただ思いつくままに生徒たちにアタックする日々だった。他の教師には、わたしのような悩みはないのか。

「教育の自由∫教師の自主的なとりくみの尊重」という聞こえのいいことばをかくれみのにして、結局のところ、ひとりひとりの教師が無原則に、かってきままに教育をすすめているだけではないのか。そういう疑問がふくらみはじめたのは、教員になってそれほど日がたたない早い時期だった。とりわけわたしにとって我慢のならなかったことは、口を開けば「自主的・創造的なとりくみが重要だ」と言いながら、何人かの教師たちの、学級指導や、クラブ活動、生徒会活動などの新しいとりくみが、学年会や職員会議に提案されるや、たちまち、「勤務時間」や「労働条件」とのからみのなかでぶっつぶされてい,くことであった。教育活動のねらいや、その活動が生徒たちに与えるであろう教育効果などが論議されるよりは、「勤務時間内に終了できるかどうか」とか、「教師の本務なのかどうか」とか、「家庭教育の内容にふみこんでいるのではないか」とか、「勤務時間外の活動に対しての代替時間をどうとるのか」などといった論議が優先されていく。そしてそれが決まっていわゆる組合活動家と呼ばれた教員から口火が切られ、他が追ずいしていくという流れの中で、「創造的な教育の営み」は何ひとつとして実践されない.まま、いたずらに年月が通りすぎていくのだった。

生徒会顧問をしていた当時、こういうことがあった。

学級の中で、やゝもすれば教室の片隅に追いやられているような子ども、決して教師に心を開いて来ない子ども、いつも気がかりな子どもが何人かいた。気のあう何人かの教師たちと学校の帰りや、飲み屋で、(当時、飲めもしない酒だったが)だべることが多かったが、よく、こういう生徒の話をした。そういう中で、夏休みにキャンプをやろうということになった。きちんとした企画で、正式に提案しようという、なかまもいたが、わたしは反対した。休み中のことだから、ごく少数の有志だけでやってみようと強引に押しきってしまった。私の心には「手順をふんで議題にしてみたところで、まともな論議にはならない。しんどいことはやめとこうと葬り去られることは目に見えている。」そんな不信感ができていた。生徒会役員を中心としたリーダー訓練という名目で、管理職や教頭、生活指導部長に暗黙の了解をとり、企画をすすめた。参加させたい子どもの親とは、われわれのねらいをじゅう分に話しこんで参加させるよう説得した。キャンプの計画から、準備(用具・食料など)、現地での活動などすべて参加する教師・生徒が対等な立場で、対等の責任をもって臨むという約束から出発するという、かなり思いきった企画だったように思う。学年のわくをはずし、三年から一年までの生徒を混成して班編成をおこない、それぞれの役割りを担わせた。学校生活とは異なる小集団、初めて顔を合わす人間関係、野外での共同生活という特異な環境の中で教師と生徒、生徒と生徒が向きあうのは、普段とは全く異なる新鮮さがあった。教師が4名生徒が40名ばかり参加した。参加者全体で討論して約束したルールに拘束される以外は、グループがどんな計画で、行動し、時間を使おうが全く自由であった。このキャンプは予期以上に生徒たちを満足させたし、教師が普段の生活の中でつかみとることのできない、生徒の素顔が見えたように思う。三泊四日の、キャンプだったが、夜を徹して語りあった星空のもとで、真実をのぞかせた子どももいた。この行事は生徒や親たちにたいへんな反響をよび、次の年には、全校的に実施してほしいという要望が学校長に持ちこまれることになった。結局職員会議のなかで、猛烈な非難がわたしたちに浴びせられた。生徒指導にかかわる行事を一部の教師が勝手にすすめるとは何事だというわけである。表面上はあれこれと理くつめいたことを言っているけれど、心の底には行事をふやせば、しんどくなる。休みがくわれる。こういうことに過ぎなかった。行事に了解を与えていた学校長の責任を追及するかたちで非難が相ついだ。この時、わたしは、口々に非難を浴びせる、いわゆる組合活動家なるものに対する違和感は絶頂に達していて、不信のまなざしでその人たちに対していたように思う。新任教師として赴任したわたしの教師としての情熱は、このような体験で、組合ぎらいという、いびつな感情を自分の内に呼びこむことになった。それからは、学校内の教師たちに求めるのではなく、授業研究などの民間教育団体や、大阪市教委が主催する研修会などに活動の場を求めていくことになった。

 

2.もたげだした権威主義と上昇志向

すでに書いたように↓955(昭和30) わたしが教員になったころというのは占領政策から独立して、中央政府が、教育改革を強行しようとした時期だった。1958(昭和33)中央教育課程審議会の答申に基づいて、「道徳」の時間が特設され、さらに1963(昭和38)には、道徳の指導目標を明確にし、指導資料の整備を行なうことが強調された。この時期の教育課程改革については、国家による教育統制の復活、とりわけ「道徳教育の充実」については戦前の修身教育の復活という猛然たる批判が日教組を中心として展開された。学校内での教育活動が前述のように、あきたらなかったこともあり、サークルでの授業研究(社会科)に精を出していたわたしに、「道徳教育」についての全体計画の作成に参画してほしいとの大阪市教委からの委嘱があった。組合をあげて「特設道徳」反対のたたかいが湧きあがっていた時期だった。国家権力の意図する教育の中央統制に手を貸したことになるのだが、当時はそんな意識もなく、なぜそこまで反対するのかというような疑問を感じていた。むしろ、反対ばかり唱えて理くつをこねるが、子どものためには何ひとつもしない組合活動家の言うことなんか聞きたくもない。そういう不信に満ちた気持ちで、この時期の教育課程改訂(道徳教育の充実を柱とした改訂)反対闘争にも冷やかな態度をとっていた。それから約10年間、「道徳教育の研究」「社会科の授業研究」に精魂を傾けた。今、ふり返えってみても、当時のわたしと現在のわたしが、どう結びついていくのか、整理して、いい表わすことに困難を感じるのである。

強いて理くつをつけるなら「目の前の子どもに誠実にこだわってきた」からだとでも言えようか。冷てつに見つめるなら、「思想を持たない教師だった」と総括する以外に説明しようがない。この時期の「教師としての生き方」はわたしにとって最もふれたくない部分であるがどうしてもふれないわけにはいかなかった。ごまかしになるからである。やがて、社会科の授業や道徳教育の分野では、注目を浴び、「出張授業」だとか「指導授業」などといった、奇妙な講師として、各地の現場から迎えられることもしぱしばであった。

大阪府や大阪市の道徳教育計画、指導資料集作成のほとんどに、参画しその中心となっていった。今、考えれば、教育内容についての明確な視点もない、単なる教育技術に眼をうばわれた教師にすぎなかったわけである。けれど、今だからそう言えるのであって、当時はそのことを誇りにしていたし、自負していたように思う。次第に権威主義や上昇志向がたくわえられていったとしても不思議ではなかった。けれど一貫して変わらなかった、ひとつのこと、それは、生徒に対する思いである。とりわけ、とり残されている生徒、貧困にあえぐ子、弱い子どもに対する思いである。生徒や親たちのおかれている社会的背景だとか被差別の構造だとかに目をむけず、その生徒に何の力も与えることはできなかったにせよ、いつも自分の全身をぶつけて、たち上がらせたいと迫っていた。

わたしが、教育労働者としての姿勢を持つことができるようになったのは、京大での内地留学での研修を終えて転勤して行った城陽中学での教師たちとの出会いであり、彼らと共に歩んだ教育実践での共同作業を通じてであった。

 

3.「主体的、創造的な実践」に加わる。

19654月、内地留学での臨床心理を中心とした1年間の研修を終えたあと、城陽中学校に転勤した。教師生活10年をすでに経ていた。生徒の「非行・荒れ」で手のほどこしようがないと知られていた城陽中学校も、ようやくおさまりかけたころにわたしは赴任した。学校長の尾林氏自らがリーダーシップをとりながらとりくまれた促進学級(当時この学級をBコースと呼んでいた。)の実践がすでに3年目を迎えていた。この促進学級の実践というのは、一学級の学級定員を35名におさえて、低学力の生徒たちの教育を保障していこうというとりくみであった。赴任した当時、第3学年12学級のうち促進学級が2学級がおかれていた。促進学級への入級は、学級の性格、学習内容、学習方法、履習科目の違いなど、学校側が行なう保護者や生徒への説明や、話し合いの中での希望によるものであった。けれど、学校の目的意識的な実践である以上、かなりつっこんだ話しあいによる入級指導がおこなわれた。

赴任して2年目、わたしはいきなりこの促進学級を担任として受け持つことになった。促進学級での実践を通して、難波中学時代の自分から、脱皮して一歩踏みだしたように思われる。それは、「生徒に向き合う」姿勢だとか、まわりの教師なかまに対する信頼だとか、生徒集団づくりの重要さの自覚だとかそういうことであったように思う。

促進学級の担任として、まずわたしが迫られた問題は、低学力に放置されたまま何年間もの学校生活を送ってきた、生徒たちの屈折した心情を理解していくことであった。

教師側の積極的な指導に自己の能力の伸長に、期待をもって入級してきた生徒も、入級後、実際に授業が始まり、日々の学校生活が始まることになると、たいへんきびしい環境におかれていることを自覚していく。教師がどんなに、優しいことばや、励ましや、真剣な授業にとりくんでみても、そう簡単に学力が伸びていくわけではない。「低学力をみんなの前に明らかにする」厳しさが現実になる。劣等感や被差別感からの解放は、そんなになまやさしいことではなかった。

わたしが、生徒に向きあって、ぎりぎりのところに追いこまれていったのは当然であった。屈折したひとりひとりの生徒の心情を理解しながら、自らの能力に自信を持たせていくこと、ひとりの力では、解決しようのない他の学級の生徒との問題を解決していくために、学級集団の力を育てていくことなど、教師のしなければならない問題が次々と見えてくるのであった。

それは、ひとり学級担任だけではどうにもならない実践課題であった。

学力のおくれをとりもどしたい。数学のわからないところを、わかりやすく教えてほしい。入級当初の子どもたちのねがいや、学習意欲に応えていくためには、教師のこれまでの授業は役立たなかった。どのような教材を用意し、どんな方法で授業をすすめていくのか、学習意欲を高めていく評価をどうすればよいか。促進学級の教材の編成やカリキュラムを教科部会で共同作業としてとりくんだり、研究授業を公開するなかで、授業づくりの研究をすすめたり、各教科のとりくみを交流したり、真剣に教科指導にとりくんだ。

促進学級の成否は、子どもがどれだけ生き生きと学校生活を送っているのか。学力がどれだけ伸びたのか。自分の能力にどれだけ自信を持つことができたのか。促進学級のとりくみが、他の学級のすべての生徒に理解され、相互に高めあう関係ができているか。明白にあらわれるのだった。差別教育につながるかどうかは、こうした視点で、生徒と向きあう実践がすすめられるかどうかにかかっていた。

「先生、A組の子が、ぼくらの組のことをアホ学級やと言うてます。」

「それが、どうしたんや。」

「腹が立ちます。ぼくら、この学級でいっしょうけんめいがんばってるのに、ばかにしよる。先生、A組に言うてやってください。」

時折り、血相を変えて生徒たちが職員室になだれこんで来る。そのたびに、たんねんに学級活動や学年生徒集会にもどして、全員に考えさせる。促進学級の生徒たちに自分たちのとりくみを訴えさせる。差別発言の不当さを訴えていく場を与えていく。促進学級の意義やその活動を、単にことばで理解させるのではなく、日常的な生徒たちの具体的な活動学習活動の実際のようす、作品、学校行事などの発表一を通して理解を深めさせることが大切になる。

こうした実践は、全学級担任が向うべき共通の目標や活動のねらいなどを共有していくための教師側の討議や活動が必要となる。また実践の交流の場が必要となる。難波中学時代には考えられなかった教育活動を体験しながら、「教師・の創造的な実践」とは、こういうことなのだと実感することができたように思う。

 

4.「人間を信ずること」を知る。

「自主的・創造的な教育実践は」は「民主的な教師集団の形成」と深いかかわりを持つ。先に述べた城陽中学校での体験は、そのまま、民主的な教師集団づくりの体験でもあった。そうはいっても、民主的な教師集団がつくられていくには、それなりの年月と条件と、そこで出会った教師ひとりひとりの努力と忍耐があったように思う。わたしの、城陽中学校での体験もそうであった。教師集団がつくられていく過程には、それぞれの学校なりの条件があろうが、当時の城陽中学校の場合、学校長尾林氏の強力なリーダーシップがあった。管理職といえば、教育行政権力の一端として、やゝもすれば組合からの攻撃の的となりがちであるが、この学校長は卓越した教育観とそれにもとづく強力なリーダーシップを発揮できた人だった。こういう学校長のもとで始まったとりくみの中で、そのとり組みを通して教師たちが自主的な歩みをはじめた。わたしは、この教師集団のなかで、「人間を信ずること」「なかまを信頼すること」あたりまえのことだが、わたしに最も欠けていたたいせつなことを学ぶことができた。こういう人たちとのこと、また組合ぎらいだったわたしを再び組合につないでいく、きっかけをつくった市川正昭氏らとの出会いについて書いてみたい。

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