在日朝鮮人教育にかかわる私の原点(4)
『むくげ』71号1980.12.25より

 稲富 進

「教育の自由」を国家権力に侵させない教育労働者の力量とはどのようなものであろうか。前回は、このことにふれながら、私自身が陥っていった中教審路線による体制内教育志向について書いた。今回は、「教育の自由」を守る教育労働者の課題について、私が城陽中学校で出会ったなかまや、そこですすめた教育の営みから学びとったこと、さらにその実践を教職員組合の教研活動へ結びつける大きな役割を果たした市川正昭氏らとの出会いについて書いてみよう。

 

1.反動政策と教育現場の退廃

教師の教育専門家としての力量を問う、という形で父母側から問題が出されてすでに久しい。「教師の労働者性と専門性の統一こそ、これからのわれわれの課題だ。」と日教組の当時の宮之原貞光委員長が全国の教師に呼びかけたのは昭和452月の岐阜での教研集会のときだった。もともと、昭和26年にはじまった教研集会は、「一つには平和教育、真実を貫く民主教育の追求という面と、もう一方では、当時すでに教師間で大きい危倶が抱かれていた子どもたちの学力低下問題があって、子どもの学力の向上のために自らの力量を高めようという両面の問題意識から発足した」(日教組槙枝委員長による)ものであった。私たちは日々の授業をすすめるなかでどうにもついてこられない子どものいることに胸を痛めながらも放置するしかないそういう自らの無力感を抱きながら日々を過している現実は、かつてもあったし、今もそれはそのまま教育現場の多くの教師たちの姿である。放課後、時間を作って補充授業や個別指導に精力を注ぎ込んでも、すでに学力差のつきすぎた子ども、そういう学校生活の中で劣等感や卑屈さなど人間的な歪みを身につけてしまった子どもには小手先のとりくみではどうにもならないとの思いにかられることが多い。こういう子どもたちが自己の存在を主張しようとするとき、「非行」や「怠学」など、いわゆる問題行動という形で私たちの前に現われることは、多くの教師が体験してきたことである。前回、少しふれた城陽中学校での促進学級のとりくみは、こうした「非行」や「荒れ」の荒廃した教育現場の状況から、なんとか脱却しようという教師たちのぎりぎりに追いつめられた討論から出発したという。昭和32年勤評闘争、教師のスト権をめぐって、教職員組合は激しい論争にあけくれた。ストに参加する教師と第二組合に組織されていった教師たちとに分断された教育現場にはとげとげしい雰囲気がただよい始めた。勤評、教育委員の任命制の実施、学力テストの強行など一連の国家権力の反動政策の強行に対抗する教職員組合の民主化闘争の激化は、道徳教育を軸とした中教審路線への導入や教育行政や学校管理職の管理強化に対しての抵抗闘争として実をあげていった反面、組合員内部に大きな亀裂を生みだしていったことも事実であった。権力の右傾化に対抗する教職員組合は、「教師の権利」を真正面にかかげ、すべてにそれを優先させて闘いを組織していったように思われる。こうした民主化闘争で、学校長の締めつけや教育委員会の現場への介入を阻止することのできた分会は、学年主任や教務主任の公選制、日直の廃止など次々とその成果をあげていった。けれど、当初の緊張がなくなると、「教師の権利」主張が職場の退廃を生みだしていったように思われる。「国家の教育」ではなく、「国民の教育」をどう守るか、「生徒の学習権」をどう保障するのかという、教育労働者がたえず基底にすえておかねばならない視点が欠落したまま、「教師の権利」主張が優先されていく。例えば校内人事の民主的公選による学校運営体制が整っても、その後の教育実践において支え合う関係を築く努力は重ねられず、教師個々の恣意による教育がすすめられた。創造的な教育の営みを教師集団がつくり出すというような雰囲気はたてまえとしてはあっても、現実には創りだすことができないまま推移してきたように思われる。極端な場合教師相互がそれぞれの授業や、学級集団づくりやクラブ活動のなかみについて批判をかわすことまでも、管理につながる発想としてタブー視されたきらいさえあった。昭和30年代のこうした教育界の状況は、中教審路線「能力・適性に応ずる教育∫道徳教育による人間性の育成」という国家権力の教育への介入を許す結果となり、教育の荒廃と呼ばれるような状況が深刻になってきた。

 

2.城陽中学校で出会った教師たちとそのつくりだしたもの

当時の城陽中学校の状況も、こうした背景のもとに生みだされたものである。教室内では、授業についていけない子どもたちが、怠学、授業妨害、暴力に明けくれ、生活指導担当の教師はほとんど毎日のように警察通いをするような荒廃した状況があったといわれる。十数年間も、当時の城陽中学に勤務し、ともに促進学級を中心とした教育実践にとりくんだわたしの友人の言葉によれば、こうした生徒たちの“荒れ”た状況に対して教師たちは、その時その時の生活指導対策に追われ、授業のなかみや学級集団づくりのなかみを見なおしてみるような雰囲気はなく、ここでも「教師の権利」がなによりも優先されていたという。昭和35年から昭和43年までの8年間、この学校に尾林宗雄氏が学校長として勤務された。彼が、この学校に残した足跡は、わたしたちが教育を考えていく上で、いろんな意味で意義深いものであった。彼は、荒れに荒れている城陽中の状況を教師たちに優れたリーダーシップを発揮しながら、「教育への眼」を育てていった。その試みが促進学級の実践であった。

昭和37年、文部省学習指導要項(昭和33年に改訂)に基づく選択教科を取り入れた学級編成に踏みきった。選択コース別学級という呼び方をした教育体制である。端的に言えば、第3学年の学級編成で、英語・数学が不得手で、技術・家庭科は得意であるような子どもたちを必修教科も含めて促進学級を編成するという思いきった教育体制を実施したのである。つまり、第3学年は促進学級2学級と他の10学級は自然学級として編成し、教育課程や教育内容においても生徒の学力の実態に対応したとりくみをはじめたのだった。

それは、荒れに荒れた生徒たちにどう対応するのか、まともな授業をどのように成立させるのか、そんな思いの中からの出発であった。尾林氏という学校長の主導する実験的試みからはじまったものであった。

昭和37年に出発したこの試みは当初促進学級4学級を置いてとりくまれたが、もののみごとに学校長や教師たちの思いはうちくだかれたという。というのは、促進学級に集まった子どもたちは、小学校時代から中学校2年に至るまで学業不振に対してほとんど放置されていたし、たとえ個人的な教師の特別な配慮がその間あったとしても、すでにどうにもならないほどの劣等感に陥っていたり、人間性そのものまでも歪められているものが多い。

当時は45人学級であったし、学級経営も、授業も教師個々の力量にまかされていたし、生徒の実態に合わせた教育内容の自主編成などは教師の間に思いもよらず教科書そのままを教えていたわけだから、こうした、学習についていけない子どもたちが、促進学級に入級したからといって、問題が解決するはずはなかった。この促進学級の生徒たちは、教師たちのねがいとはうらはらに、学習への意欲はおろか、学校生活そのものに不適応の姿勢を強め、学級担任のけんめいの体当りにも心を開かず、学級は崩壊していったと当時の担任は述懐していた。

その年度の実践の総括の職員会議では、この促進学級の試みは廃止すべきだという討議に傾いていったのを学校長の示唆もあり、全校的なとりくみという視点から反省を加えて再出発することにしたという。促進学級のとりくみは単に促進学級の授業や、学級づくりという視点からだけでなく、促進学級以外の自然学級に学ぶ生徒たちの学級集団づくりや、授業研究に眼をむけること、ひいては1学年2学年でのとりくみ、そのものが課題であるとの方向性が確認され、それへむけての具体的な実践課題が設定されていった。

昭和40年、このような実践をはじめた城陽中学校の一員としてわたしは赴任した。

崩壊寸前までいった促進学級のとりくみはさまざまな改善が加えられて継続されていた。

促進学級の学級定員を30名余りにおさえ、入級に際しては、父母や本人と徹底した話し合いを持ち、それは年度末の学級編成時だけに限られるのではなく、むしろ促進学級の編成は、学校長自らが先頭にたち機会あるごとに地域に対しての理解を訴え、生徒集会や学級活動の場を通してその意義や、教育のなかみについて生徒たちに話し、疑問に応えていく積極的な体制づくりがすすめられた。

学校長尾林氏の果たした役割りはたいへん大きかった。これまでの教師生活の中での多くの人々との出会いのなかで、いろんな意味で触発された学校長であった。「教職員は教育内容・方法について最大限の努力をしてほしい、そのための教育条件の整備はまさに私の仕事である。まかせてほしい。」彼はこのように機会あるごとに私たち教職員に迫った。事実、当時大阪市の他の学校に例をみない30名学級の実現を彼の力量でこなしたのである。

職員会議における彼の発言は的確で、教師たちを逃げさせない気迫に満ちたものだった。「先生方は、“ひとりひとりの子どもの潜在的な可能性を伸ばすことが教育だ”。このように話しあわれるが、いったいこの城陽中学校では、具体的な教育活動として何をどのように展開されるのか、例えば教科指導ではどうなのか、例えば学級活動ではどうなのか、クラブ活動ではどうなのか。実践課題を明らかにする方向で討論をすすめるべきではないか。」

「促進学級に入級した生徒たちは、わたしを含め教職員の熱意に信頼をよせて入級してきた。この生徒たちは、自らの能力を精いっぱい伸ばそうと期待をもっている。この期待に応えていくのは教師の責務だ。どうすればこの期待に応えられるのか、わたしたちが問われているのだ。」こんなふうな迫り方で、教師たちを圧倒していった。反発を感じて去っていった教師たちもいたように聞いている。

彼はよくこう言った。『意見がかみあわなくて結論がでないときは、「原則にたちかえれ。」今すすめようとしていることは原則に照らしてどうなのか。考えてみよう。教育実践上での討論はたえず、「子どもにとって、どうなのか」という原則ですすめてほしい。』

このような迫り方は、教師個々の内面に、反発と反抗と服従という葛藤を生み出しながらも教師が教師である以上、だれもが本来向きあっていなければならない、「授業」や「学級集団づくり」などの教師のしごとに眼をむけていく教師たちをつくり出すきっかけになったように思われる。尾林氏は教師ひとりひとりと向きあうことを避けなかった。むしろ積極的に教師に働きかけた。学級経営上の悩みや教師間のトラブル、実践上のゆきづまりの問題などなど実に精力的に話し込んだ。校内人事では多くの学校にみられた学閥人事による校内の運営体制をつくり出すことを避け、適材適所による配置を強調し、研究部長、教務部長、学年主任、促進学級の学級担任などの人事を重視し、担当者の固定化を避け、できるだけ多くの教師が、リーダーとフォロアーの体験を積むことに配慮していた。学校長のこうした教育的識見に裏うちされた個性的な教育経営の前には、専門性に裏うちされない教師たちは、理屈ではかなわず、感情的な反発を感じた教師たちも当初かなりいたのだが促進学級のとりくみが定着化していくなかで、子どもたちがつき出してくる新たな課題に向きあっていった。そしてその仕事を通じて、子どもたちの変革をまのあたりに見るなかで、反発や不満や批判も次第に吸収されていった。

城陽中のこの促進学級の実践に当初から、かかわりを持ちながら、理論的な支えに助言を与えつづけて来られた大阪大学人問科学部の扇谷尚教授は、初めのころ「この試みは、義務教育の中で、実質的に差別教育を行なうことになるのではないか危倶していた」と言う。

このようにして、当時、わたしたち城陽中学校の教師たちは、促進学級の子どもたちと真正面から向きあうことになった。促進学級の子どもたちは、次々とわたしたちに問題をつき出した。

まず直面した教師たちの課題は、「授業のなかみと方法」だった。自然学級のなかでのこれまでの学習にほとんど自信と意欲をなくしてしまった生徒たちは、入級当初は、親や教師の励ましのなかで、また将来に期待をつなぐ自らの意欲で、積極的に授業に参加する。教師もその期待に応えるべく、授業にとりくむ。けれど、なかみの伴わない気力や意欲は長つづきするはずがない。基礎学力がほとんどついていない子どもたちに、学習の程度を落したり、少していねいに教えることで学習が成り立つと考えた教師たちの姿勢を根底からゆさぶり始めた。生徒たちの当初の意気込みは教師のけんめいの意欲的な授業のとりくみにもかかわらず、空回りするだけであった。

生徒はいらだち、以前にも増して劣等感を抱くものさえでてくるのだった。「先生、おれらはアホや。どうしようもないんや。」「わたし、一生けんめいがんばってるつもりやけど、どうもなれへん。こんなんやったらAコース(促進学級以外の自然学級をこう呼んでいた。)にもどりたい。」

生徒のつき出してくるこうした問題に教師たちは、自らの課題が次第に見えてきたのだった。

●促進学級の教科指導のための共同研究

●主体的・意欲的な学習をすすめる授業づくり

●促進学級を支えていくための学級集団づくり

などが教科部会や学年会議、研修会のとりくみとして発展していった。

わたしたち城陽中学校で出会った教師たちは、これらの課題のひとつひとつにとりくむなかで、「教師としての専門性」や「労働者としてのありよう」を学びあったように思う。

わたしは、赴任して1年たった昭和41年と昭和42年にこの促進学級の学級担任を受け持った。

学習のおくれは単に学習のおくれにとどまらず、人間性の歪みにまですすんでいることに気づき、そういう歪みをただし、人間性の回復(学習への意欲・自信、人間としての自立など)をめざす学級集団づくりをどうすすめるか、日々が生徒との格闘であった。

促進学級の成否は、子どもがどれだけ生き生きと学校生活を送っているのか。学力がどれだけ伸びたのか。自分の能力にどれだけ自信を持つことができたのか。促進学級のとりくみが、他の学級のすべての生徒に理解され相互に啓発し合う関係ができているかに明白にあらわれる。差別教育につながるかどうかはこうした視点で生徒と向きあう実践がすすめられるかどうかにかかっていた。

「先生、A組の子がぼくらの組のことをアホ学級や言うてます。」

「それがどうしたんや。」

「腹が立つやんか先生! ぼくら、一生けんめいがんばってるつもりや、そやのにばかにしよる。」

時折り血相変えて生徒たちが職員室になだれこんでくる。そのたびにたんねんに学年会議で討議し、学級活動や学年集会にもどして生徒全員に考えさせる。促進学級の生徒たちに自分たちの学級のとりくみを訴えさせ、差別発言の不当さを訴えさせていく。促進学級の意義やその活動を単にことばで理解させるのではなく、日常の生徒たちの具体的な活動授業の実際のようす、作品、学校行事などの発表を通して理解を深めさせていった。

このようなとりくみは全学級が共通した目標やねらいを共有していくための教師側の討議や協業が当然迫まられてくるのだった。どんなにすぐれたベテランの教師がいたとしても「ひとりだけのベテラン」だけではどうにもならないのである。教師個々の持っている個性や能力をみんな出しあって共に高まることが必要とされた。

わたしたちはよく話した。当時学年主任だったAは、学年学級経営という発想と実践を提起した。「促進学級2学級」「養護学級1学級」を学年12学級の中心にすえて支えていく学年学級経営を主張した。生徒集団の中にこの教育体制の理念をとらえさせ、自立した生徒集団を育てようという発想である。学級づくりの中で班活動を組織し、リーダーの資質を育てようとする試みや、新聞、・文集づくり、作曲コンクール、合唱コンクールなどの文化活動など自らの活動を発表させ、連帯感を育てていく実践などが次々と企画され討議され実行されていった。わたしは、これまでの経験を生かして、授業研究や学級活動などの研究活動に打ちこむことができたし、それを受け入れていく土壌もできていった。研究授業担当者を決める。みんなで授業案をつくる。(教科の場合は教科部会、学級活動の場合は全学級担任で) 授業を公開する(手あきの者は全員参観する)討論する。こういう自主的なとりくみの輪もひろがった。職員会議は、活発な討議の場となる。促進学級に入級しなかったが、自然学級にとり残された子どもの問題、自然学級の教科指導や学級づくりの問題など、学級活動とクラブ活動の調整などさまざまな問題が討議された。学校長主導のとりくみに、疑問を感じでいたSは、実践のなかみには評価をしながらも、教育労動者としての組合への結集や教育条件整備についての視点や、また、女性教師からみた城陽教育体制の批判など折にふれて発言し、自立した教師集団づくりへの芽を創り出していった。


 次にかかげたのは学年討議資料である。わたしたちが何をどんな視点で話し合っていたかを知る参考としてかかげてみよう。(ひとりひとりを生かす人間開発の教育1970.2城陽中研究集録より)

学年討議資料

S.44.7.2

生徒の主体的な学習態度を育てる教師の問題

1.これまでの実践であきらかにされた、教師のとりくみの方向

生活指導

・あたたかくしかも規律のある学級

・信頼関係にたった指導

・基本的な生活習慣を身につける。

・家庭との密接な連絡

・子どもを孤立させない指導

・教師対子ども個人の関係だけでなく、子どもどうしのよい集団をつくる。

・子どもたちのことばに耳を傾ける。

・子どもたちの思考を深め、ものの見方、感じ方を交流し高めあおう。作文や学級日誌をとりあげみんなに考えさせる。

・生徒、個々の心の細かな動きをよくつかんだ生徒指導

・何でもいえる学級集団づくり

差別に対する要求を正しく出させる

・長欠生、怠学生徒の問題を集団で考えさせる

学習指導

・教材研究を深める。

・共同研究の実をとらえる。

・学習の主体を生徒に

・興味と感動ある授業と能率・他の研究

・基礎学力を身につけさせる

・しゃべる教師からひき出す教師へ

・学習のおくれている子どもを高める方法

これまでの教育実践の中で本校としては以上のような点をふまえて、すすんできた。今後ともこれらの方向の正しさをお互いの共通理解としながらさらに実践を深める。学習を真に子どもたちのものにするためには、教師の問題を避けて通るわけにはすまされない。これまでにも問題にしたことだが、さらに突っ込んだ討議と実践が必要である。

2.討議する問題

@教師の意識の問題

○ひとりひとりをみつめる教育というが、教科指導の中で、学級経営の中で何をどんな方法ですすめるかについて、真に共通理解にいたってるか

・例えば、教科担当者の指導観(教材観・指導法など)

学級経営の指導観(班活動・生徒指導の基本的なかまえ、生徒の声のくみあげなど)

A教師の相互の問題

○ひとりひとり個性・経験・特性・技術の差異のある教師集団、という認識にたってどうすれば、職員のモラールと専門性を高めていくことができるか

・お互いのもつべき基本的態度はなにか、具体的な実践をどうすすめるか。

B労働条件の問題

 ○平均24時間+2時間と学級事務・校務の中で教育活動をすすめている現状の問題点はなにか

 ○しごとの中で何を優先すべきか、合理的処理の余地はないか。

難波中学校時代に私の内にたくわえられた組合ぎらい、人間不信は、城陽中学校での教育実践を過して出会った教師たちによって、自らの内に新鮮で、創造の意欲をかきたてられるエネルギーにかえられたように思う。

3.自立して歩みだした教師集団

昭和43年、学校長の尾林氏は城陽中学を去った。城陽中学の教師たちが、真の意味での教師集団として自立したのはこの時以後である。もちろん、彼の在任中でも、このころには、多くの教師たちは、城陽中学の教育実践を自らの課題として主体的にとりくみ、創造的に発展させようとする気運に高まっていた。

学校長が転任したあと、当然のことながら教師たちは一時消沈した、オーバーワークによる病欠者も増えた。これまで続いてきた促進学級を中核とした多様な教育方法を維持していく教員の定員増の要求も認められない情勢に追いつめられた。それまでは、「教育条件の整備」については学校長まかせであった教師たちが初めてぶつかった大きな壁であった。けれど教師たちは立ちあがる力量をたくわえていた。その背景には、自らが創り出してきた教育に対する自信と、生徒たちに対する責務を教師集団として負っているという自覚が育っていたからである。

それまで積みあげてきた教科部会、学年会議、授業研究の記録を持って大教組、大阪市教組を訪ねて問題提起と協力を求めていった。

大阪市教委へ出かけたり、公開授業をし教委の指導主事たちの出席を要請したりして、条件整備について要求を続けた。

こういう城陽中の実践を背景にした教育条件整備について要請を受けた大教組や大阪市教組の執行委員たちは当初、「差別教育ではないか」として理解を示そうとはしなかった。わたしたち城陽の教師集団は、果敢に論争を挑んだ。「差別教育かどうかは、学校でとりくまれている授業や学級づくりや教師集団の体制を実際に見た上で判断すべきだ。学校を公開するから執行委員会で見学に来てほしい。そのあと討論したい。」と申し入れた。

当時、大阪市教組の執行委員だった市川正昭氏(現南大阪市教組書記長)、大教組教文部長だった五島庸一氏ら、教組執行委員たちが、日教組教研「能力、発達分科会」へ提起しようとした城陽中のレポートの評価をめぐって、教組としての態度決定を迫られて来校し、終日、見学したのだった。このあと1970年度、大教組正会員として、わたしが日教組教研で報告して大きな波紋を投じたのだった。評価は分かれ、結論は次年度に持ちこされたけれど、城陽中の教師集団を代表してわたしが教組の土俵に踏みこんでいったのは、教師としての生き方にひとつの変革をみるできごとであったと言えよう。

子どもたちの学習権を保障していくためには教師集団として、自らの実践を掲げて教組に団結して行政に要求していくこと、闘っていくことが重要なことなのだということを肌で感じとることができた体験だった。

教育内容をとらえていく眼も教師集団の高まりと共にたしかなものになっていった。当時、部落解放同盟から、民主教育を問うという形で告発をうけた、部落差別の問題についても、城陽中のそれまでの教育実践を問いなおす総括討論をくり返すなかで受けとめていく体制ができていた。そういう学校体制に支えられて、「むくげ67号」の中で書いたわたしの実践が生まれたものである。

 

4.教師が、ほんとうの教師になること

1971731日、「大阪市立中学校校長会差別文書追及、教育労働者集会」(これが今日の「考える会」の結成準備会であった。)が、大教組教文部長五島庸一、大阪市教組市川正昭氏らが中心になって開かれた。当時、大阪市の教育界をゆり動かした校長会差別文書を露骨な朝鮮人差別文書としてとらえたのは:城陽中の教師であった。教組や同研に提起したのもそうであった。校長会の追及はこうして始まった。ところが、追及していく過程で、明らかになったのはこの差別文書のなかみづくりには、各教育現場の教師たちが手を貸していることが明確になっていった。

「考える会」の発足には「教育労働者としての自覚と責任を明確にしよう」という決意がこめられていた。

市川正昭氏が、発足準備会の意を体してわたしに「考える会会長、運営委員会代表に就いてほしい。」という要請をもって説得に現われた。彼は、城陽中教師集団の教育実践を、その後の、私立高校入試差別の告発、今回の校長会差別文書の告発と社会の不条理を不条理として的確にとらえることのできる教師集団が育ったことを教職員組合は高く評価していること。今、教職員組合運動がとりくまなければならない課題は、子どもを中心とした教育実践をすすめてきた教師たちの結集を図ることだ。「教師の専門性と労働者性の統一」という緊急の課題に、あなたの力量を貸してほしい。こんな主旨だった。わたしは悩み抜いた。まさに青天のへきれきとはこんなことだったろうから。

城陽中のなかまの説得も続けられ逃げられないところにきていた。けれど、自分がこれまで抱き続けていた「やりたいこと」から、いやおうなしに遠くなることへの不安がずっとつきまとっていた。

市川氏や城陽中のまわりの教師たちの説得は筋が通っているし、私自身にも理解はできた。結局、わたしは、城陽中学校の実践のなかで育ったA子の告発のことば(むくげ67)にこだわることにした。それがわたしの「考える会」運動を通しての教育労働者としての歩みの選択だった。

教師が真の教師になるための過程はさまざまであろう。ただひとつ言えることは、「目の前の子ども」を見るたしかな眼、そのたしかな眼をもつための、教師集団づくりが、わたしたち教育労働者の課題であることはたしかである。次回は「考える会10年と今、考えていること」とでも言うような内容で連載を終わりたいと思う。

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