朝鮮語の敬語と挨拶言葉

「チョル」というこのお辞
儀の仕方は、目上に対し
て行う丁寧なものである

 日本語は、敬語が細かく発達した言語である。その点でよく似た表現をする言語といえば、やはりまず朝鮮語を挙げなければいけない。ただ、この点で朝鮮語を日本語と比べると、つぎの三つの特徴がある。①謙譲語が少ない。②日本語が相対敬語であるのに対し、絶対敬語である。③男女の言葉の差が小さい、の3点である。

 ①の点については、朝鮮語にも「私」にあたる自称として一般的な「ナ」と目上の人の前で使う「チョ」があるなど、謙譲語がないわけではないが、食べるを「いただく」、「行く」を「まいる」というような、動詞にまで及ぶ細かい謙譲表現は少ない。②の絶対敬語とは、目上の人には常に敬語を用い、対等以下の人には常に用いないという敬語の用法のことである。そのため、他人の前で自分の母親のことをいうときにも、「お母様がそうおっしゃっていらっしゃいました」と言わなければならない反面、目上の人の子供に対しては、やはり子供である以上、「お前、としいくつだ?」というような敬語ぬきの表現をする。これに対して、社外の人に自分の上司のことをいうとき敬語を用いなかったり、上司の子供に「坊ちゃん、お年いくつですか?」などという日本語の敬語は相対敬語ということになる。③の男女差は、朝鮮語にもないことはないが、日本語ほどは違わない。第二次大戦後、当時「進駐軍」と呼ばれたアメリカ占領軍の兵士が自分の車に当たりそうになった日本人を「あぶないわねえ! どこ見て歩いてんのよ!」とどなりつけたという。どんな先生についてこういう日本語を身につけたかは、容易に想像できるが、このおかしさは、朝鮮語話者にもなかなか通じないであろう。

 それでもやはり、朝鮮語が敬語の発達した言語であることは間違いない。しかし、朝鮮語は、「~させていただきます」のように謙譲表現によって敬意を示そうとするより、相手への尊敬表現によって敬意を示そうとする。「社長」、「先生」など、それ自体尊敬の意味のある言葉にさらに「~さま」に当たる「ニム」をつけるのもその例だろうが、何より、あいさつことばがいい例になると思う。「あいさつ」のことを朝鮮語では「インサ」というが、これは「人事」と書く漢語である。あいさつは人として行うことの基本ということだろうか?

李朝時代の申潤福による酒幕図。酒幕とは旅館を兼ねた居酒屋。

 朝鮮語の挨拶言葉は、敬意が高くなるほど、漢語の比率が高まる。その中で、最もよく使われるのが「安寧(アンニョン)」という漢語である。この言葉は日本でも戦前「安寧秩序」というように堅苦しい威圧的な言葉として用いられたことはあるが、一般にはさほどなじみがない。しかし、朝鮮語では「ご無事」という程度の極めて日常的な表現である。朝鮮語にも日本語の「サ変動詞」に当たるものがある。日本語では、漢語に「~する」とつけるとサ変動詞になるが、朝鮮語でこの「~する」に当たるのは、「~ハダ」という表現である。「カムサ」「チュッカ(←チュクハ)」はそれぞれ「感謝」「祝賀」を音読みしたものだが、「ハダ」の丁寧な形としての「ハムニダ」をつけて「カムサハムニダ」「チュッカハムニダ」というと、それぞれ「ありがとうございます」「おめでとうございます」という意味になる。

 朝鮮語の「~ハダ」には日本語の「~する」のほかに、日本語の形容動詞につく「~だ」の意味もある。「コンガン」は「健康」の音読みだが、これに「~ハダ」をつけて「コンガンハダ」というと、「健康だ」という意味になる。つまり、「健康だ」という表現も、朝鮮語では「健康する」というのである。一般に朝鮮語では動詞と形容詞の違いがきわめて少ない。朝鮮語で「ミアン」というのは、「未安」の音読みである。日本語なら「いまだやすからず」と読むところだが、朝鮮漢文では「ミアン」と棒読みして、形容動詞的な感じになる。したがって、これに「~ハムニダ」をつけて「ミアンハムニダ」というと、「未安です」ということになり、「まだ落ち着いた気持ちになれません」、つまり「すみません」という謝罪の表現となる。「受苦」は「スーゴ」と読み、「スーゴハムニダ」というと「ごくろうさま」という意味になる。

 朝鮮語で「こんにちは」に当たる表現が「アンニョンハシムニカ」だということは、日本でも割りあい知られるようになってきた。「アンニョンハダ」で「無事だ」という意味になる。「アンニョンハムニダ」だと「無事です」といった感じになるが、相手に「無事ですか」と聞くときは、最後を疑問を示す「カ」に代えて「アンニョンハムニカ」という。しかし、現実には「アンニョンハムニカ」という言い方はせず、相手に関する動作や状態のときには、さらに「シ」という表現を挟まなければならないため、「アンニョンハシムニカ(ご無事ですか=こんにちは)」となる。日本語で「行きますか」と言わずに「行かれますか」というのと同じことである。なお、断定を示す語尾が「ダ」、疑問を示すのが「カ」だというのは日本語によく似ているが、これは偶然の一致にすぎない。

同じく申潤福の剣舞図。

 「アンニョンハセヨ」という言い方もある。尻上がりに言うと「ご無事でいらっしゃいますか?」という意味となるから、「アンニョンハシムニカ」と同じ意味で、「こんにちは」という挨拶言葉となる。尻下がりに「アンニョンハセヨ」というと、「ご無事でいらっしゃい」という丁寧な命令となるが、これは、「お元気で(=さようなら)」という別れ際にいう挨拶言葉となる。どちらも、「アンニョン」が「ご無事」である以上、朝でも晩でも使える。この点で英語のGood morning.やGood evening.とは違う。また、その意味からして家族の間では使わない。それは、日本の家族内で「おはよう」「おやすみ」は言えても「こんにちは」とは言わないのとよく似ている。朝鮮語でも目上の人には「スーゴハムニダ」は使いにくく、使うとすれば「スーゴハシゲッスムニダ(ご苦労でいらっしゃることでしょう)」というような表現をする。

 「ご無事に」という副詞的な言い方に当たるのは、「アンニョンヒ」という表現である。「アンニョンヒ・チュムシプシオ」といえば「ご無事にお休みなさい」という意味である。いま、「お休みなさい」といったが、朝鮮語にも敬意を専門に示す動詞がある。「チャダ」といえば単に「寝る」ということだが、「チュムシダ」といえば「お休みになる」という意味となる。「さようなら」には、「アンニョンヒ・カシプシオ」と「アンニョンヒ・ケシプシオ」の2種類がある。前者は「ご無事に行きなさい」、後者は「ご無事にいなさい」の意味で、残る人がいうか、去る人がいうかの違いである。旅は道づれで同じ道を歩いていた旅人同士が三叉路で別れるときには、ともに「カシプシオ」、つまり「行きなさい」という。「クヮーセ・アンニョンハショッスムニカ」というと、「過歳(年越し)ご無事でしたか」という過去形の表現となるが、これは「明けましておめでとうございます」という新年の挨拶である。

 「いただきます」「ごちそうさま」にあたる表現は、「モッケッスムニダ」「チャル・モゴッスムニダ」であり、それぞれ「食べます」「よく食べました」という直截な表現である。日本語の「ご馳走」とは、本来は客をもてなすために材料をそろえるなどのために奔走することだから、お風呂に入れてもらったときにも使える。相手の苦労を思っていう挨拶なのだろうが、朝鮮語ではこのような表現は考えられない。相手が辛い思いをしただろうなどと思いやるのは、相手の誠意を疑うことにもなり、かえって失礼となるからである。日本語で、「ごくろうさま」という表現が目上の人に使いにくいことを考えれば、そのへんの感覚がうかがえるのではないかと思う。だいたい、朝鮮の対人関係では、相手の好意には素直に甘えることが基本となり、過ぎた遠慮はかえって失礼とされる。

 漢語をもとにした、敬意の高い表現をおもに紹介してきたために、どの挨拶言葉もやや長めとなったが、親しい者同士の挨拶はもっと短い。たとえば、別れを告げるときには、「アンニョンヒ・カシプシオ」「アンニョンヒ・ケシプシオ」とは言わず、簡単に「チャルガソ」「チャリッソ」という。しかし、残る者と去る者の言う表現はやはり異なっている。対等以下の者に使うていねいな表現というのもあり、朝鮮語の敬語体系はかなり複雑である。兄嫁に使う言葉より弟の妻に使う言葉の方が丁寧だという一見逆と思われる話を、在日一世から聞いたことがある。兄嫁には甘えてもいいが、弟の嫁はいたわらなければならないからだ、というのがその説明であった。何となく分かる気もするが、実際に家族生活をしないと、その感覚は自然につかめないように思う。

      


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