世界最古の金属活字

 印刷の歴史は、今日一般には1450年のドイツのグーテンベルクによる金属活字を用いた聖書の印刷に始まると言われている。しかし、印刷自体については、グーテンベルク以前に自分の国で行われていたという主張がヨーロッパのさまざまな国にある。そのことは、こちらのページで詳しく紹介されているが、大量印刷の元祖としてのグーテンベルクの功績は否定できない。ヨーロッパには、ぶどうやオリーブを搾るためのプレス機が古くからあったが、それを転用して大量印刷を可能にする印刷機をつくるというアイデアはグーテンベルクの創意によるものと言ってよい。

 印刷術の発明は、火薬や羅針盤とともに、ルネサンスの三大発明と呼びならわされている。しかし、歴史的には「発明」と呼ぶより、「改良」と呼ぶほうがふさわしい。火薬も羅針盤も印刷術も、ヨーロッパよりずっと早く東アジアで始まったものであり、イスラム商人らの活動によってヨーロッパに伝えられたものだからである。火薬に不可欠な硝石は、紀元前の秦の始皇帝のころから中国ではすでに知られ、3世紀ごろには炭素や硫黄を加えた黒色火薬が作られ、爆竹や花火が使用されていた。北宋(960~1126)の時代にはすでに兵器にも用いられた。元寇のとき、モンゴル軍が「てつはう」という兵器を使って日本軍を驚かせたことは有名である。方位磁石についても、北宋の時代には、水に磁針をとりつけた木片を浮かべて方位を知ることが行われ、航海にも応用されていた。東アジアでは印刷の起源も古い。長く世界最古の印刷物とされてきたのは、日本の法隆寺に保存されてきた。「百万塔陀羅尼経」であり、恵美押勝の乱による戦死者を供養するために西暦770年に作られたと伝えられている。ところが1966年、韓国慶州の仏国寺の釈迦塔の中から「無垢浄光大陀羅尼経」が発見された。釈迦塔の創建が751年のことなので、法隆寺の印刷物より古いということになる。火薬も羅針盤も印刷術も、ヨーロッパで始まったのは、ようやく14世紀になってからのことであった。そして、印刷には不可欠な紙も、遠く東アジアから伝えられたものであることも、忘れてはならない。

 中国での火薬の発明は、不老不死の薬を求めて繰り返された試行錯誤の中での偶然の産物だったようである。羅針盤によって方位を求めることも、風水の必要から始まったというところが、いかにも中国らしい。東アジアでの印刷も、文面を美しく整えることに主眼があったようだ。これに対して、さまざまな国が覇権を争うヨーロッパでは、火薬は強力な武器を作るため、羅針盤は航海に役立てるため、印刷は文書を大量に配るために役立つものと考えられた。中でも、のちのヨーロッパの世界制覇を可能にしたのは火薬の改良だったといってよい。ヨーロッパの黒色火薬の性能は中国のものを遥かにしのぐものとなり、17世紀には大規模な工事の発破にも用いられるようになった。羅針盤についても、方位盤の上にピボット(垂直軸)を立てそれに針をつけるという改良が、すでに14世紀の初頭に行われていた。これだと水がこぼれる心配がないので、航海への応用が飛躍的に容易になり、いわゆる大航海時代が到来した。印刷についても、大量印刷を可能とするため、一枚の版木に文章全体を掘り込む整版印刷から活字を用いた活版印刷への改良が行われた。

 ところが、活字が最初に作られたのも、東アジアでのことであった。宋代の慶歴年間(1041~1048)に畢昇という人物によって陶活字が作られたのが最初とされ、木の活字も作られるようになった。そして、金属活字が初めて作られたのは、高麗時代の朝鮮半島でのことであった。記録では、12世紀にできた『詳定礼文』という書物の一部を金属活字で作ったということが、現存する跋文に記されているのが最古である。これによれば、世界最古の金属活字の鋳造は、モンゴル軍の侵入で高麗王朝が江鼻島に遷都した1232年ごろのこととなり、グーテンベルクより200年以上も前のこととなる。しかしこのことは、肝心の『詳定礼文』の原本が失われているため、まだ裏付けられてはいない。しかし、その後の1377年に金属活字で印刷された仏教書直指心体要節の原本(下巻のみ)が、1972年にフランス国立図書館で見つかり、グーテンベルクより少なくとも73年前に高麗で金属活字による印刷が行われたことが裏付けられるにいたった。

八万大蔵経の版木は、今も慶尚北道の海印寺に保存されている。室町幕府は、版木を求める使節を何度も朝鮮に送っている。

 高麗は、それ以前から高い印刷技術を持っていた。そのことを端的に物語るのが、有名な八万大蔵経である。大蔵経とは仏教の経典の全集のことであり、仏教圏ではあちこちで編纂が行われたが、高麗で編纂された大蔵経は、表裏にそれぞれ644字(14×23行)の漢字が刻まれた約86600枚もの版木に刻まれていたため、八万大蔵経と呼ばれている。これだけの版木が、1236年から16年間をかけて作られた。強大なモンゴルの脅威にさらされていた高麗は、仏の力でモンゴルの退散を図ったのである。版木はたぶの木を数年間海水につけ、塩水で蒸して樹脂を取り除いたのち、数年間陰干しにして湿気を除くという丁寧な作業を経てつくられた。もちろん印刷は版木だけではできない。高麗は紙や墨の技術にも優れ、大量の紙や墨が宋に輸出されていたことが記録に残っている。金属活字の場合は、高度の鋳造技術も必要である。

 中国では、活字印刷は全面的には発展せず、むしろ整版印刷が好まれた。これも、主眼が大量印刷ではなく、字を美しく整えることにあったためであり、文字を美しく彫り込む技術を持った職人が多かったことが、その傾向に拍車をかけた。しかし、朝鮮では活字による印刷は、つぎの李朝時代にも盛んに行われ、金属活字も盛んに作られた。15世紀に創製された訓民正音(ハングル)の普及にも、活字が大きな役割を演じた。そして、豊臣秀吉による侵略によって、日本にも大量の朝鮮の活字が日本にもたらされることになる。江戸時代初期の盛んな出版は、朝鮮の活字を用いて行われた。しかし、やがてこのころまでに飛躍的な進歩を遂げていたヨーロッパの活版印刷が東アジアをも席捲することになる。朝鮮の活字を用いて印刷された書物は、今日の日本では「古活字本」と呼ばれている。一方、膨大な量の活字を日本に持ち去られた朝鮮の印刷技術は、独自の発展を続ける力を失っていった。

 近代に世界中にひろまった活版印刷技術は、確かにグーテンベルクに始まると言ってもよいであろう。しかし、ヨーロッパにおける印刷の開始自体が、遠く東アジアから伝わったものであること、のちの時代には直接につながらないにせよ、活字の発明も東アジアが最初であったことは、忘れてはならないことである。グーテンベルクにさきがけて印刷が自国で行われていたという主張がヨーロッパ各国にあることは、近代ナショナリズムの表れなのであるが、もし日本人が近代印刷に直接つながらないことをもって朝鮮半島での金属活字の発明の意義を軽視するとしたら、ヨーロッパの近代ナショナリズムの卑小な物真似ということにしかならないであろう。日本を含む文明圏での発明を貶めることは、自らをも貶めることになることを忘れてはならない。一方、今日の朝鮮半島では、金属活字の発明をもっぱら自民族の英知の成果として誇ろうとする傾向があるが、それを高麗だけの出来事としてとらえるのではなく、東アジアの文明圏で起こった技術革新の中で高麗が最先端をいったものとしてとらええなおす必要がある。ヨーロッパ中心の歴史像を改めるには、互いの脚を引っ張る視野の狭いナショナリズムは克服されなければならない。

日本の国立国会図書館のサイトに、朝鮮銅活字で
印刷された「纂図互註周礼」の写真がある。

      


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