あなたのキムチがよくわかる

夜中に門が開いてるぞ。
動くな!
「何よ?」「ひっ、包丁!」
「とりあえず、かめの中に入れておこうか?」「キムジャンしている家に入ったみたいだ」
各コマともポイントすれば
訳が出る。世紀出版社
『金星煥全集』第4巻。

 1984年のロスアンジェルス五輪が終わったとき、選手村の食事の責任者の談話が新聞に載っていた。韓国選手団が来るというので、大会前に部下がドラム缶に入ったキムチを大量に買い込んだ。オリンピックの期間は2週間しかない。「こんなに食べきれるか、無駄使いするな!」と、責任者は部下を叱った。ところが、韓国選手団がやって来ると、なんとたったの3日で食べ尽くしてしまった。責任者は自分の不明をわび、自ら買いつけに走り回ることになったという。

 戦後の一時期、米ソの合意で朝鮮半島が国連の信託統治下に置かれようとしたことがある。せっかく独立したのにとんでもないことだと、反対運動が各地で起こった。ある集会で、著名な経済学者白南雲(ペク・ナムン)はつぎのような言葉で演説をしめくくった。「ステーキが栄養があろうと、ボルシチがうまそうに見えようと、そんなものはいらないじゃないか。われわれにはキムチがあるではないか。」

 このように、朝鮮半島の食卓にキムチは欠かせない。本来は冬場の野菜不足を解消するために考案されたもので、大きなかめに漬け込み、土中に埋めて春まで少しずつ取り出して食べた。それだけの分量のキムチをつくるのがたいへんな作業であることはいうまでもない。キムチの漬け込み(キムジャン)は十一月ごろに行われる。町は白菜を満載した車で溢れ返り、近所同士で今日はこの家、明日はあの家という具合にキムジャンの手伝いに集まる。韓国で息の長い人気を誇る金星煥(キム・ソンファン)氏の四コマ漫画「コバウおじさん」に、キムジャンをしている家に包丁をもって押し入った強盗が、振り向いた人がみんな包丁を持っていたので腰をぬかすというものがあった。1971年の漫画だから、今とはまるで世相が違うが、当時はけっこうリアリティがあったようだ。

 日本ではキムチは長く朝鮮漬とよばれ、特殊な食品のように見られていた。しかし、食べなれるとおいしく、栄養価も高いことが知られると一挙に普及した。それまでは日本の漬物のように水洗いしてから食べるというような妙な食べ方もされていた。キムチは発酵食品である。うまみも栄養分も汁の中に多いので、これでは何のために食べるのか分からない。「浅漬にふりかけるだけで朝鮮漬がすぐできる」桃屋の「キムチの素」というのも売られていた。漫画の三木のり平がアリランの調べに乗せて「あなたのキムチがよくわかる」と歌うCMもあったが、これでは朝鮮半島の人の気持ちは分からない。桃屋のキムチがキムチでないことは、赤玉ポートワイン(本場のポルトガルからの抗議でスイートワインと改名)がワインでないのと同じだが、ともに本格的な普及の先駆けの役割を演じたことは認めてもよい。

 1970年代の後半に、初めて韓国に行ったとき、私はよく街中の食堂を食べ歩いた。料理を注文すると頼みもしないのに、大きな器に盛ったキムチが出てくる。食べ残すのはきらいなので鼻の頭に汗をかいて全部食べると、そのとたんにまた頼みもしないのに、でんとお代わりを卓上に置かれ、眼の先が真っ暗になったことがある。韓国にはキムチで金をかせぐものではないという通念があるようで、そのサービス精神はお新香二切れの日本の比ではない。もっとも、最近の韓国ではこれよりは渋くなってきているようだ。

韓国民俗村で筆者撮影 キムチは伝統的には家ごとに漬けるものであったが、最近の韓国ではキムチが漬けられない若妻が増えているという。キムチを熟成させるためには、凍てついた庭にキムチのかめを埋めることが必要だが、都市生活ではそんな土地などない。キムチ専用の冷蔵庫なども工夫され売り出されているようだが、都市化が進む中で、キムチも作るものから買うものになることは避けられないのではないかと思う。ちょうど、日本の味噌が「手前味噌」という言葉があったように作るものだったのがすっかり買うものになったのと同じことである。しかし、キムジャンのためのボーナスは慣習として定着し、今でも続いている。

 キムチをはじめ、朝鮮料理が日本で普及したといっても、とうがらしの一人あたり消費量はまだ韓国の数百分の一程度というから驚く。しかし、とうがらしの原産地は朝鮮半島ではない。トマト、とうもろこし、かぼちゃ、じゃがいも、さつまいも、チョコレート、タバコなどと同様、アメリカ大陸の先住民が開発した作物である。それが世界をめぐり、朝鮮半島に伝わったのは、意外なことに直接には日本からということで、一時は「倭芥子(日本からし)」と呼ばれて毒草あつかいされていた時期さえあるという。したがって、その伝来以前に確立された李朝の宮廷料理には、とうがらしをまるで使わない料理も多い。日本でもヒットした韓国ドラマ「チャングムの誓い」のころの料理にはとうがらしは全く使われていなかった。また、白菜は日本に古くからあった野菜のように思われているが、日本に初めて紹介されたのは1875(明治8)年とされ、広く普及したのは日清戦争(1894-1895)以後で、主戦場となった朝鮮半島の白菜が主となっていた。なお、「白菜」は「「しろな」とは読まず、「ハクサイ」と音読みすることに注意されたい。英語ではChinese cabbageと呼ばれ、キャベツとともにアブラナ科の植物である。

 なお、キムチというのは、朝鮮語では一般的に「漬物」という意味の言葉であり、日本のたくあんも梅干もキムチの一種となる。パリで日本人がタクシーの運転手にシャンソンが聞ける所に連れていってくれと頼むと、ビートルズの曲のがんがんかかる所に連れて行かれたという話がある。「シャンソン」というフランス語は単に歌という意味だそうだが、こういうことは言葉の世界ではよくあることである 

      



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