「つくる会」の
歴史教科書を読む

「歪曲」とは何か?

 「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書(扶桑社刊)を、市販本(採択前の出版に文部科学省も苦言を呈した)で読んだ。教科書ではなく「教化」書だという印象を受けた。事実の取捨選択があまりにも恣意的である。そもそも歴史記述にあたっては、進行中の現在のことも含めて人類の活動のすべてが対象となるものなのだから、膨大な事実を取捨選択することは不可欠である。取捨選択の基準は、より大きい事実を選ぶということ以外になく、例外的な事実の大半は省かざるをえない。しかし、「つくる会」の教科書は、日本による韓国併合について、つぎのように述べている(市販本p.240)。「韓国の国内には、一部に併合を受け入れる声もあったが、民族の独立を失うことへのはげしい抵抗が起こり、その後も、独立回復の運動が根強く行われた。」

 「一部」というのは便利な言葉である。1%でも99%でも一部は一部である。韓国国内にごく一部の併合推進派がいたことも事実には違いないが、それをわざわざ取り上げるところに、この教科書の意図がある。実は、韓国併合の部分は、検定によって全文修正をした部分であり、原文にはつぎのように書かれていた。「韓国の国内には、当然、併合に対する賛否両論があり、反対派の一部からはげしい抵抗もおこった。」 これを素直に読めば、賛否が拮抗し、はげしい抵抗をしたのはごく一部ということになるだろう。「当然」という言葉も、意味不明である。一応「賛否」の両方にかかるのか、「賛」だけにかかるのかも判然としない。検定した側にしても、この原文を読めば、「一部」という語にどんな意図がこめられているか、すぐ分かるはずである。それなのに、なぜ通したのだろう、と思ってしまう。こういうことを「歪曲」というのであり、99対1で5回コールドで終わった野球の試合結果を「どちらも点を取った」と書くようなものである。

二つの「南京事件」の違い

 歪曲は南京事件についても著しい。この教科書で「南京事件」という言葉が初めて出てくるのは、p.265のかなりのスペースをとったコラムの中だが、ここで述べられているのは、世界的に知られている南京事件のことではなく、1927年に起きた北伐途上の国民党軍が南京の外国公館などを襲撃した事件のことであり、「1937年の同名の事件と区別して第一次南京事件とよぶこともある」という注釈がついている。「第一次南京事件」とよぶのは誰なのだろうか? 二つの事件を同列に並べ、第一次があったから第二次があったとでも言いたげである。しかも、このコラムの中では、日本がいかに中国に対して寛容であったかが強調されている。では、他の七社の教科書がそろって単に「南京事件」として記述している「第二次南京事件」については、どのように書かれているのだろうか? p.270に、「日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月、南京を占領した」という文のあとの括弧の中に、「このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者が出た。南京事件」と記されているにすぎない。しかも、この括弧内の記述は検定によってしぶしぶ加えたものである。二つの「南京事件」の記述がひどく均衡を欠くものであることは明らかであろう。

1979年8月、南京を訪問したとき、
孫文を祭る中山陵で撮影。

 実は、「つくる会」の教科書が「第二次」南京事件について詳しく記述しているのは、こことは別の、戦後の極東国際軍事裁判のところ(p.295)でである。「この東京裁判では、日本軍が1937(昭和12)年、日中戦争で南京を占領したとき、多数の中国人民衆を殺害したと認定した(南京事件)。なお、この事件の実態については資料の上でも疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」 またも、「賛否両論」である。南京大虐殺を否定する議論が、日本以外では皆無に等しいことぐらいは記述すべきであろう。そして、その直後に「戦争への罪悪感」という段落を設け、「GHQは、新聞、雑誌、ラジオ、映画を通じて、日本の戦争がいかに不当なものであったかを宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判とならんで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後日本人の歴史の見方に影響を与えた。」 と述べて、軍事裁判の項を閉じている。この2ヶ所とも検定を経てだいぶ書き直されているのだが、原文はもっと露骨に、すべてはアメリカの宣伝のためだというような記述になっている。戦争責任を真摯にとらえている人をあまりにも愚弄した言い方ではないだろうか? 「つくる会」の事実選択の基準になっているのは、彼らだけにしか通用しない思い込みに過ぎない。教科書というものは、事実を主とすべきもので、解釈は最小限にとどめるものだという常識も心得ていないようだ。

 「つくる会」の人たちは、自分の立場を離れて考えることが苦手らしい。自分の立場を離れて考えることは、決して自分を捨てることではなく、自分を豊かにすることと思う。たとえば、p.216には、こんな記述があった。「後背地をもたない島国の日本は、自国の防衛が困難となる。この意味で、朝鮮半島は日本に絶えず突きつけられている凶器となりかねない位置にあった。」 さすがにこれは検定に引っかかり、「後背地をもたない日本は、自国の防衛が困難になると考えられていた。」と書き直させられたが、「凶器」などという言葉を使う神経は品位に欠ける。このような幼児的自己中心性は、「南京事件」を二次に分けた前述の記述にも見られる。確かに起きた場所はともに中国の南京である。しかし、起こしたのは、かたや中国人であり、かたや外国人である日本人である。別に外国人が中国にいてもかまわないのだが、当時、中国にいた外国人は、本人たちが意識していたかどうかは別として、国策に乗り、軍に保護され、特権を持って中国にいたのである。この違いに目をつぶることは、歴史を記述する上で許されない。

中国で聞いた話から

 20年以上も前のことだが、中国を旅行中、上海で宮崎県から来た80代の老人の身の上話を聞く機会があった。貧しい家を離れ、上海で事業を起こし成功した。当時の上海では、生活に行きづまって日本人に子供を売りにくる中国人がたくさんいたが、その人はいつもことわっていた。しかし、ある日、とても利発そうな男の子が気に入り、買い取った。老人は、その子のことを「テイ」さんと呼んでいた。日本が敗れ、老人は上海で築いた財産をすべて失い、再び裸一貫で郷里に引き上げた。そのとき、「テイ」さんは、老人の会社の番頭格となっていた。戦後、「テイ」さんは老人に「引き続き一緒に会社を経営してほしい」と頼んだという。しかし、中国の政治情勢は流動的で日本人が残れる保障もなく、老人は日本に帰る決意をした。再び裸一貫になったのだから、帰国後は生活に追われた。生活がようやく軌道に乗り自分の子供たちも完全に独立して、老人がふと「テイ」さんに会いたいと思ったときは、文化大革命のさなかで、八方手を尽くしたにもかかわらず連絡がとれなかった。今度こそ「テイ」さんに会いに来たのだと老人は言っていた。「会えましたか?」と私がきくと、「会えました」と老人は答えた。しかし、その表情はどこか淋しげだった。「テイ」さんは、地区の共産党の幹部になっていたという。決して老人を邪険に扱うようなことはなかったと思うが、それだけにかえって老人は、自分と「テイ」さんとの間の無限の距離を、過去にさかのぼって感じたのだろう。どんな条件のもとであれ、個人と個人の間では心の通い合う部分もある。しかし、片方が国家を背景に優位に立つという関係のもとでは、心の溝を埋めることはできない。そして、不平等な関係のもとでは、そのことに片方は当初から敏感だが、もう片方が溝の深さに気づくのは難しい。私はこの老人をいい人だと思ったが、それは、溝の深さに気づくことのできる人だと思ったからである。

朝鮮と中国の違い

韓国併合の翌年である1920(大正9)年、「京城(現ソウル)」のウツボヤ書籍店から出された本の表紙。併合以前から日本人の移住が進んでいたことを示す。

 36年(実質的にはそれ以前から)もの間、日本の植民地支配を受け、屈辱を味わった朝鮮の場合、事情は中国とはまた異なる。ところが、この教科書は、この植民地支配についてほとんど触れていない。かろうじて、最初の韓国併合の項(p.240)につぎのような記述がある。「韓国併合のあと、日本は植民地にした朝鮮で鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査事業を開始した。しかし、この土地調査事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また、日本語教育など同化政策が進められたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた。」 しかし、問題の多いこの記述さえ、実は、検定後に全面的に書き直されたものである。1919年の三・一独立運動については、4行ほどの記述があるが、これも検定前には1行ちょっとしかなかった。今年の検定本ではないが、いま中学で使われている教育出版の教科書を対照してみたところ、三・一独立運動については、2ページにわたる特集記事が組まれ、さらに、デモの先頭に立って16歳で獄死した少女柳寛順のことが、これとは別のところで顔写真つきで紹介されている。「つくる会」の教科書の問題点は、何が書かれているかということだけではなく、何が書かれていないかというところにもある。しかも、事実を十分に提供しない一方で、中国や朝鮮が近代化に立ち遅れたのは文官優位の政治体制だったからだという、よほど論議を尽くさなければ教科書には載せられないような解釈がこまごまと述べられている。だから植民地化されても当然なのだとでも言いたいらしい。それにしても、「つくる会」の解釈が仮に正しいとしても、植民地支配を正当化する理由には少しもならない。強盗事件の被害者が家の鍵をかけ忘れたからといって、強盗の罪が軽くなるわけではないのと同じことである。

 「鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い」という部分は、いったい何を言いたいのだろうか? この教科書の執筆陣が他に書いている文章では、植民地支配が恩恵として描かれていることが多い。開発が誰の利益のために行われたのかという問題を別としても、こういう記述は、こういった開発が日本人の手で行われたこと自体、植民地化の結果だという認識を欠いている。自分たち自身の力で近代化をなしとげる機会を永遠に奪った植民地支配だからこそ、朝鮮半島の人々は今もそれを苦々しい体験として語り継いでいるのである。「つくる会」の人たちには、民族的自尊心がどの民族にもあるという常識もないらしい。植民地朝鮮で子供時代を過ごした安岡章太郎は、日本の弘前に移ったとき、物売りに対する言葉遣いを母親に注意されたことを書いている。母親は、「ここは朝鮮じゃないのだから、そんな乱暴な言葉遣いではだめだ」と注意したのである。当時の日本人には珍しく、朝鮮人の心に思いを寄せた中島敦には、巡査の居る風景という短編がある。植民地支配についての記述のほとんどない教科書では、今の朝鮮半島の人々の心を理解する知識、感性は到底養えない。

 「つくる会」の教科書の特集記事には、政治エリートの紹介が目立って多い。陸奥宗光や小村寿太郎の外交の業績について2ページをフルに使って述べる一方で、植民地統治下の朝鮮の人々の暮らしや気持ちが分かる記事はまったくない。今回の教科書問題について、韓国側は、未来志向の観点から、このような教科書で学んだ日本の子供たちと友好を実現することは難しいと主張しているが、私もそう思う。朝鮮半島の人々が日本の植民地支配は正しかったと認めること、中国の人々が南京大虐殺はなかったと認めること、そんなことは未来永劫ありえないことである。

日本人をどこに連れて行くのか?

 この教科書には、これからの日本人をどこに連れて行こうとしているのか、と考えると背筋が寒くなるような記述も多い。徴兵制度についての記述(p.196)には、「平民からは一家の若い労働力を提供する負担が苦痛であるとして不安を生んだ。」とあるが、親心というものはそんな程度のものなのだろうか? この教科書は、ふつうは反戦詩として知られている与謝野晶子の「あゝをとうとよ君を泣く 君死にたまふことなかれ 君死にたまふことなかれ」という節で始まる(と書いて、そのあとの引用はなし)歌について、つぎのように述べている(p.235)。「晶子にとってそうした(愛国心に欠けるとの)非難は心外であった。というのも、晶子は戦争そのものに反対したというより、弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから、その身を案じていた。」 本当にこの詩を最後まで読んだのだろうか? だいたい、こんな無くもがなの珍解釈をだらだらとつけるより、全文を掲載して生徒に考えさせるのが教科書の常道であろう。)を最後まで読んだのだろうか? どうやら、第二連を誤解(曲解?)しているようだが、この程度の読解力でよく教科書を書く気になったものである。こういった記述を読むと、この教科書の執筆陣には人情のイロハもわかっていないのではないかと疑いたくなる。特攻隊員の「身は桜花のごとく散らんも悠久に護国の鬼と化さん」などの文のある遺書も紹介されている(p.279)が、自由に書けない中で本心が吐露されているのかを考えさせるような記述はない。同じページには、「沖縄では、鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦って、一般住民9万4000人が生命を失い、10万人に近い兵士が戦死した。」とある。勇敢かどうかなどということは、この際どうでもいい。その前に、戦死者の数に慄然とし、十代の少年少女まで多数犠牲となったことに胸を痛めるのが普通の人情というものであろう。

木口小平の話

 
「徴兵制度」の項にはつぎのような続きがある。

 のちの話になるが、日清戦争(1894~95)の平壌占領いちばんのりとされる原田重吉一等卒は平民出身者で、国民的英雄になった。戦死したラッパ手の木口小平も平民の出身で、死んでもラッパを手から離さなかったとして、その当時、有名になった。江戸時代まで武勲とは縁のなかった平民に新しい時代が訪れた。(市販本p.196)

 
木口小平の話は、年配の人なら「ラッパを口から」と覚えているはずだが、「新しい(実はとてつもなく古い)教科書」がこれを「手から」とかえたのはなぜなのだろうか? なお、軍国美談にはさまざまな裏話があることが多く、この話についても、戦死したのは木口とは別の兵士だという説もある。

 「口から」を「手から」と直したのは、直したというより、単にうろ覚えだったに過ぎないだろう。この教科書の執筆陣は、「調べる」という基礎的なことをきちんとしていない。この点だけでも、この教科書は、教科書として失格だと言える。


日本人としての誇りとは?

 「つくる会」の教科書は、「歴史を学んで」というあとがきで終わっている。その中にこんな一文がある。「外国の文明に追いつけ、追い越せとがんばっているときには、目標がはっきりしていて、不安がない。外国の歩みに理想を求め、日本も自国の歩みに自信を持つことができた。」 どういう意味なのだろう? 日本が欧米列強の仲間入りをしようとして、侵略をし、植民地支配をしていた時代のことを言っているのだろうか? 列強に加わったことで、日本は侵略や植民地支配を正当化する欧米の論理のとりことなった。欧米の論理の枠内で、日本が列強の中で飛びぬけて貧しい国であることを考えるとき、自信を保つためにはたえず近隣諸国に対して尊大に構えることが必須のこととなった。みすぼらしい身なりで中国を歩いていた日本の民間人が、軍人に「一等国民が三等国民のような身なりをするな」とどやされたというような話はよく聞く。他民族をさげすむことでしか守れない自信は、自信と呼ぶに値しない。自信とか、誇りとかいうものは、自分の属する国家が軍事大国であったり、経済大国であったりすることによって左右されるものであってはならない。どんな国のどんな文化を負った人間であっても、自信や誇りは必要なのである。それは、自分を育てた文化環境を素直に受け入れるという形で実現されなければならない。歴史記述は、一見優劣とも見えるものも含め、諸文化の間にある差異がどのように生じたのかを解明するところにこそ意味がある。特定の文化の優位のみを追求する歴史記述は、歴史の名に値しない。

 「歴史を学んで」の末尾には、こんな一文もある。「何よりも大切なことは、自分をもつことである。自分をしっかりもたないと、外国の文化や歴史を学ぶこともじつはできない。」 私はこの文をつぎのように解釈(改釈?)した上で賛成したい。「自分をもつ」とは自国の文化を公平な目で見ることである。公平な目をもつためには国家から自立していなければならない。そうであってこそ、外国の文化も公平な目で見ることもできるというのが、私の「改釈」である。なお、世界にまったくの単一民族国家などないことを考えるなら、自国、他国という表現も「自文化」「他文化」と言い換えたい。いま、日本の学校には、外国籍の子供や民族的出自の異なる子供もたくさん学んでいるのだが、「つくる会」の人たちの視野には入らない。そういう子供たちが、自分たちの教科書を読んでどう感じるかということに思いをめぐらすゆとりもない。他文化圏の人から、日本人がみな一律に見られると悲しい。しかし、そのことで相手に反発するより前に、なぜそう見られるのかについて自省をしてみることを欠かしてはならない。

近隣外交を国の基本に

 今回の教科書問題をめぐって、自治体間の交流を凍結させたり、日本文化の開放を延期したりという韓国の対応は、私は間違っていると思う。このことについては、韓国内でも批判があるが、なぜ日本人は一律に見られやすいのだろう? まず、今回の教科書問題は、文部科学省が「つくる会」の教科書を検定で合格させたことに端を発している。教科書検定制度がなかったなら、ことを民間の問題としてすますこともできただろうが、国家がこの教科書にお墨付きを与えたのだから、国家が責任を問われるのは当然のことである。

 検定制度がある限り、この教科書はどうみても合格の対象とはならない。検定によってしぶしぶ書き直したり添削したところが多いために、思わせぶりな中途半端な記述が多く、全体としてひどく分かりにくい。かといって、これまで述べてきたことで明らかなように、検定前の原文をそのまま通すわけにはもちろんいかない。つまり、この教科書は修正を重ねてどうにかなる代物ではないのである。その意味で、韓国や中国が出している修正要求も、私はあまりいい方法とは思わない。韓国や中国からの修正要求は、それぞれの国に関わることに限られているが、「教化書」といいたくなるほど解釈の多いこの教科書は、日本人の立場からも問題が多い。たとえば、日本人が真の自信や誇りをもつ前提として、国家からの自立があるが、この教科書は、日本人を国家から自立させようとはしていない。私がとくに驚いたのは、2ページにわたって、夏目漱石と森鴎外についての特集記事(p.254~255)を、自分たちの主張を裏付けるものとして、作品にまで及んで「改釈」した上で、組んでいることである。国語教師としての私に言わせれば、こんなのは越権行為である。文学鑑賞まで、教科書でこと細かく規制されるのではたまったものではない。この教科書では神話が随所に見られるが、歴史の教科書としては非常識に多すぎる。神話を史実でないことを踏まえ、文学として古典で教えるのなら、「古事記」が好きな私としては、何も異議を唱える気はない。

 近隣外交がいつまでもぎくしゃくを繰り返す責任は、やはり日本政府にあると私は思う。過去に閣僚による侵略を肯定し、植民地支配を肯定する「失言」(韓国は「妄言」とよぶ)が繰り返されてきた中で、近隣諸国の信頼を得るのは、容易なことではない。教科書検定にしても、「つくる会」の教科書を生み出す方向への歩みが見られることも、近隣諸国の不信を買っている。小泉首相の靖国参拝の問題にしても、ちょうど教科書採択の結果が分かる時期のことでもあり、反発を招くことは避けられない。しかし、国家の行為によって、なぜ日本人全体が責任を問われなければならないのか? それは、日本が議会制民主主義を標榜する国だからである。何だかんだ言っても、あのような政治家を政権の座につけているではないかと言われると反論は難しい。今回の参議院選挙での自民党の大勝にしても、そのような文脈で見られることは避けられない。自民党に投票した人の多くは、小泉氏が首相になったばかりであり、不況からの脱出をめざして、ともかくも「改革」の手腕を見てみようということだったかも知れない。しかし、近隣諸国の主たる関心は、そんなところにはないのである。

 問題の根源は、日本の政治体制が、近隣外交を国の基本と考えず、小手先の対応で、その場その場をしのごうとしてきたことにある。いま、東アジア諸国の経済は互いに密接な連関を保っている。それを前提とした上でどの国も経済の発展を図っているのだから、日本が不況からの脱出を図るにしても、近隣外交の問題は無関係ではない。近隣外交の問題は国家の根幹に関わる問題として、論議がなされなければならない。しかし、今の日本の政界は、この問題とは無関係に編成されている。政界再編が行われるのなら、この点を無視することはできない。国家の根幹に関わる問題とは無関係に政界が編成され、どの政党の中にもさまざまな考えがあるという状況では、近隣外交の進展は望めないのではないだろうか。

戦後世代の戦争責任……結びに代えて

 私は終戦の翌年に生まれた。学生時代には同世代の北山修作詞の「戦争を知らない子供たち」という歌が流行った。しかし、「戦争を知らない」ことは、自慢にはならない。戦争当時、影も形もなかった私たちに、戦前世代と同じ意味での戦争責任があるとは思わないが、少なくとも侵略や植民地支配の時代についてしっかりと学習し、その上で、近隣諸国との良好な関係を築いていく責任は負わなければならない。それが戦後世代なりの戦争責任を果たす道だと考える。そのためには、自分たちが所属したこともない時代の国家の行為を弁護することが、自分たちの誇りを守ることとは、無縁のことであることを知らなければならない。そして、侵略や植民地支配は罪悪であり、二度と繰り返してはいけないことだということぐらいは、最低限明言していかなければならない。近隣諸国の人が日本の文化それ自体を否定するようなことを言ったときには、大いに喧嘩をすべきだろうが、喧嘩も心置きなくできる関係を築くためには、過去を美化するようなことは絶対にしてはならない。政治的、軍事的に分断されていた東アジアが、経済的、文化的なつながりを深めている今、近隣諸国との平等互恵の関係を築く基盤はすでにできているのであり、あとは、この日本しだいなのだということを胆に命じてゆきたい。「つくる会」の教科書の採択状況は今のところ惨憺たるものであるが、公表を意識的に避けているところもありそうなので、油断は禁物である。(2001年)

     



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