大阪に残る古代朝鮮

百済郡の残照 東住吉区には、西日本最大の貨物駅である百済駅がある。同区内には、市立南百済小学校、百済本通商店街、百済大橋などもあって、古代朝鮮の国名である百済の名を今に残している。今の東住吉区から平野区、生野区、東成区の南部にかけて摂津国百済郡が置かれたのは、西暦六六〇年の百済滅亡から間もないころのことだったと思われる。多くの亡命者が日本に渡ってきたのは、百済がもともと朝鮮半島で最も日本と親密な国だったためである。亡命者の中には王族も含まれ、渡日後まもなく有力な役職に任じられたものも多い。

タカとカササギ 百済郡のあったあたりは歌枕とされたほど景色のよい一面の平野であり、環状線の森ノ宮のあたりは、文字通りのうっそうとした森であった。今日の大阪からは考えにくいことであるが、古代の難波は野鳥の楽園だったようである。そのような難波で、ある日みなれぬ鳥がつかまり大王(おおきみ、のちの天皇)に献上された。『日本書紀』にのっている説話である。大王は、百済王族の子孫である酒君(さけのきみ)という人物を呼んで、その名をたずねた。酒君は、これは百済では倶知(ぐち)と呼ぶ鳥で、よく人になれ、他の鳥を捕まえてくれると答えた。大王が鳥を酒君にあずけ飼いならさせた上で狩りに連れてゆくと、たちまちのうちに数十羽のキジをとらえたという。鷹狩り伝来のエピソードである。このとき酒君が集めた鷹匠たちがつくった村が今日の東住吉区鷹合(たかあい)町となったという。その名は「鷹飼い」がなまったもので町内には酒君塚(背景写真、筆者撮影)がある。また、森ノ宮には鵲(かささぎ)社という神社があるが、その名は新羅から連れ帰ったカササギ(右の韓国切手の鳥)を森に放ったことに由来している。緑がかった黒と純白との配色が美しいカササギは日本では北九州地方にのみすむが、天然記念物に指定されているほど珍しい鳥である。しかし、朝鮮半島では、今日もソウルの町中でもしきりに見かけるほどありふれた鳥である。

筆者撮影。周囲を歩いて
一周するのに30分以上かかった。

スサノオの末裔 神社といえば、純日本的なものと思われがちだが、その中には朝鮮ゆかりの神々をまつるものが意外と多い。その一例として、ここでは八坂神社をあげておきたい。八坂神社の総本社はいうまでもなく祇園祭で有名な京都の八坂神社であるが、この神社は渡来人の有力氏族である高麗(こま、狛)氏が建てたものであり、その祭神はスサノオノミコトとなっている。『日本書紀』によれば、高天原(たかまがはら)を追われたスサノオノミコトは、まず新羅の曽尸茂梨(そしもり)という所に行き、そこから出雲の国に来たという。曽尸茂梨という地名の意味は、朝鮮語でソ(牛)シ(の)モリ(頭)と解され、スサノオノミコトの別名牛頭(ごず)天王とも符合する。大阪市内には八坂神社という神社が八社もあり、ほかに、素戔嗚(すさのお)社、牛頭天王社という神社もあって、いずれもスサノオノミコトをまつっており、古代の大阪と朝鮮半島とのつながりの深さを物語っている。

聖徳太子と大阪 日本の古代を代表する人物といえば、誰しも聖徳太子の名をあげるであろう。政治をとりしきり、とりわけ外交の分野で業績をあげた。太子が飛鳥の都を離れて斑鳩(いかるが)に本拠地を構えたのも、斑鳩の地が古代日本の玄関口であった難波に近いためであった。太子の創建とされる大阪の四天王寺は、その伽藍配置が百済式である。当時の日本は権力争いの絶えない血なまぐさい時代だった。その中で、太子は外交を重視して新羅・百済・高句麗の人びとと密接はつながりを持った。とりわけ高句麗の高僧慧慈(ヘジャ、えじ)の影響は多大であった。しかし太子の死後、その一族(上宮王家)は皆殺しの悲運に見舞われる。

商店街の入口を入ってすぐ振り返って撮った写真。
中央後ろはバス停の表示。筆者撮影。

行基安住の地 百済系の依羅(よさみ)氏の氏神である阿麻美許曽(あまみこそ)神社(東住吉区矢田)の境内に、「行基(ぎょうき)菩薩安住之地」と書かれた石碑が立っている。奈良時代の高僧として、その師の道昭とともに、民衆への伝道に力を入れた行基は、同時にすぐれた土木技術を持ち、民衆の生活に役立つ池などの灌漑設備や橋の造営にも力を入れ、都での工事に駆り出されたり都に貢ぎ物を運ぶ貧しい人々を泊め、食事を提供する布施屋という施設を各地につくった。行基は今の堺に生まれた人であり、その活動の舞台も今の大阪府が中心となっていた。朝廷もその人望を無視できなくなって大僧正に任じたが、行基菩薩という称号は、民間から自然に生まれたものである。行基をはじめ道昭、義淵、良弁(ろうべん)といったこの時代の有名な僧はすべてといっていいほど、渡来人の子孫であった。平野区瓜破(うりわり)にある敬正寺(きょうしょうじ)は、行基の師、道昭が創建した寺である。

田村麻呂の一族 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の名は、平安時代の初期に東北地方を平定した征夷大将軍として、広く知られている。しかし、その彼が渡来人の子孫であることはあまり知られていない。坂上一族は、平野区の西北部一帯を本拠地としていた。田村麻呂の息子、広野麻呂の墓も平野市町(ひらのいちまち)にある田村公園にある。その近くにある杭全(くまた)神社(左の写真、筆者撮影)は広野麻呂の息子当通(まさみち)が一族の先祖をまつるために建てた神社であり、長宝寺は田村麻呂の娘春子(しゅんし)が建てた尼寺である。春子は桓武天皇の側室として二人の子を生んだ。桓武天皇自身の母、高野新笠(たかののにいがさ)も百済の武寧王(ムリョンワン)の血を引いている。このことは、古代における渡来人の地位の高さをよく物語っている。

     



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