2014年度全朝教大阪(考える会)第2回シンポジウム
2014.10.8 上六たかつガーデン
在日朝鮮人教育を正しくとらえるための歴史認識~真実にせまる!!~ 
―「朝鮮と呼ぶ、本名を呼ぶ」教育の意味とは
印藤和寛(運営委員・発題内容に事後加筆したものです)

1 はじめに
 朝日新聞が従軍慰安婦問題報道の一部を誤報と認め謝罪したことについて、安倍晋三首相は9月14日のNHK番組で「世界に向かってしっかりと取り消すことが求められている。朝日新聞自体が、もっと努力していただく必要がある」「日本兵が人さらいのように慰安婦にしたとの記事が世界中で事実と思われ、非難する碑ができている」と述べ、海外にも周知に努めるよう求めました(時事通信 9月14日)。これは、従軍慰安婦は「強制ではなかった」「自発的な売春婦だった」という国際宣伝を、朝日にやれという脅し、実質的な河野談話(軍の関与を認めた)の見直しを意味します。

 8月5・6日の朝日新聞従軍慰安婦報道特集は、一番重要な点だけにしぼると、1943年済州島での女性強制連行をめぐる吉田清治(故人)発言を事実と確認できなかったとして「虚偽」としたものです。1982年9月2日の朝日新聞記事「朝鮮の女性私も連行 元動員指揮者が証言」(当日配布)を取消したことがポイントです。そこから始まった社会的な朝日バッシングは、従来の「良識ある」人々もその一翼に加わり、まるで2002年の「北朝鮮」バッシング、相手が「謝罪」したらその一点を逆手にとってさらにとことん徹底的に攻撃するおぞましい様相に至っています。

 ここでは、一つは、とにかく朝鮮に関わることで、日本人の多くがどうしてこんなにも「鬼の首でも取るように」一方的に、ダブルスタンダードで残酷に攻撃、迫害できるのか、リベラリストとして信頼を寄せる人たちまでがこの点については右翼と一致し、昨今の「ヘイトスピーチ」について若い社会学者などが「2000年代になっての現象」とトンチンカンな議論ができ、従軍慰安婦問題を論じるリベラルな人ですら「日本も悪いが韓国も悪い」のようなあいまいな議論に落ち着いてしまうのはなぜなのか、そして教育現場での課題は何なのかを解明したいと思います。「ヘイトスピーチ」だけではない、日本国、大阪府市が現に行っている朝鮮学校の子どもへの差別迫害が問題です。かつて差別「事件」だけではなく、日々日常の学校で、朝鮮を朝鮮と呼べず生徒の本名を呼べない状況の改善に力を注いだ先輩たちと同様、学校現場の課題を正面から引き受ける姿勢を受け継ぎたいと思います。

 もう一つは、今回の出発点になった1980年代の吉田清治発言について、立派な学者たちが「事実を確認できない」(従って、とりあえず歴史研究の史料からははずす)と言うのはいいとしても、それを「虚偽だ」としてしまうことの異常さ、そのことの意味を明らかにしたいと思います。そして「従軍慰安婦は、業者が私的に軍に連れ添って商売していた、当時としては合法的な売春婦」という右翼の見解がどれほど出鱈目なものかを明確にします。また、そうしたことの前提として、2000年代に入ってエスカレートした、従来の日本国家の公式の歴史認識とは異なる側面についても言及します。

 いずれにせよ、つい二、三十年前の私たち自身の過去ONLY YESTERDAYさえ捏造して塗り替えかねない昨今の言論状況に、教員として児童生徒に教える真実を確保したいと思います。
(以下 2 現在の安倍政権、日本会議、在特会、2CH―右翼の歴史認識、3 日教組と朝日新聞―戦後右翼の一貫した攻撃対象、4 朝鮮に関わる歴史観、5 朝鮮という国の過小評価は正しいか、については、次号に掲載予定で、今号では6・7・8を先に掲載します。写真は東京での在特会のデモ。60年前に自分が答案に書いたことのある「中共」などという言葉がよみがえっていて、感無量(?)ですね。)

6 従軍慰安婦問題の現在
 従軍慰安婦問題の経過です。
 1991年金学順(キム・ハクスン)さん(故人)が従軍慰安婦の生存者として初めて名のり出ました。
 1996年クマラスワミ報告(国連人権委員会「女性への暴力特別報告」報告書)で、日本戦時の従軍慰安婦制度を「性奴隷」と位置付け日本政府に賠償と謝罪を勧告しました。

 同年「朝鮮などの若い女性たちを慰安婦として戦場に連行」(大阪書籍)などと記述した中学校教科書が検定に合格、翌年から使用され始めます。右翼の「新しい歴史教科書をつくる会」はこれや1995年村山首相談話に対抗する形で、1996年に始まったものです

 2001年NHK番組改変問題が起こりました。1月30日放送ETV特集「戦争をどう裁くか」第2夜「問われる戦時性暴力」が、女性国際戦犯法廷(主催VAWW-NETジャパン、松井やよりが中心で、アジア女性資料センターを務め2002年死去)を報道する際、当時の自民党内右翼安倍晋三、中川昭一らの「政治圧力」により内容が改変されました。

 同年教科書検定では、中学校社会科(歴史)『新しい歴史教科書』(扶桑社)が初めて検定に合格(ただし当時まだ採択率は低い、2001年推計0.097%)しましたが、他方それを批判して、「検定申請本から「従軍慰安婦」「三光作戦」「731部隊」などへの言及が激減し、日本の朝鮮植民地支配や中国侵略を正当化している」として「加害の記述を後退させた歴史教科書を憂慮」し是正を要求する要望書(大江健三郎等17名)が出されました。

 現在、1992年1月8日以来ずっとソウルの日本大使館前で続けられている水曜集会は1100回を超え、従軍慰安婦問題での国家謝罪を求める日本での草の根の運動も続いていますが、それに対抗する「日本の戦争は悪くなかった」自由主義史観の「新しい歴史公民教科書」を作る会、「北朝鮮に制裁、やっつけろ」の「救う会」、「在日韓国人皆殺せ」の「在特会」等の活動は、筆者の見るところ、歴史的には1930年代の国体明徴運動に似ています。すなわち、1930年代のそれは明治維新の王政復古と皇国成立以後のさまざまな立憲的政治努力をご破算にして、再び「皇国」を顕現させたものでしたが、敗戦時の「国体護持」一点を維持して、再び「敗れはしたけれども悪くはなかった」その「国体」を顕現させようというのが2010年代の状況です。朝鮮植民地支配も中国侵略も、東南アジア侵略も、(対米英蘭戦争は?)悪くはなかった!あるいはせいぜい「道義的に」責任を認め謝っておくくらいか。(誰に対して「悪い」「悪くない」かの問題は、次号で。)

 こうした中で、朝日新聞の謝罪屈服を機に、池上彰が「コラム掲載拒否」を逆手にとって(朝日新聞は9月6日載拒否についてのお詫びを掲載)その屈服内容を社会的に再確認させ、「慰安婦問題が吉田清治の虚言と朝日記者の捏造によって始まった」とする見解を定着させるのに一役かっています。そうした典型的な例を、経済学者の池田信夫で見てみましょう。この人はアべノミクスには批判的で、ピケッティの日本紹介でも知られています。あくまで、軽薄な日本人の見本です。

「こども版 慰安婦問題って何?  http://agora-web.jp/archives/1608369.html

 この問題は何度も説明したんですが、まだ基本的なことを知らない人が多いので、こども版の夏休み特別編として、よい子でもわかるように解説しておきましょう。

 次の5つは朝日新聞も認めた歴史的事実です。

1 慰安婦はいたが「従軍慰安婦」はいなかった:慰安婦というのは戦地にいた売春婦です。売春は当時は合法で、これが慰安婦と呼ばれたこともありましたが、「従軍慰安婦」という軍属(軍の仕事をする民間人)はいなかった。従軍看護婦と同じような意味で軍の指揮下に置かれた売春婦はいなかったのです。

2 慰安婦は軍が管理した:戦地では軍が慰安所の取り締まりや衛生管理をしていましたが、これは内地で警察や保健所が吉原を管理したのと同じです。これを朝日新聞が「軍の関与」としてスクープしたのはよかったのですが、そのとき強制連行とごちゃごちゃにしたことが混乱の始まりでした。

3 女子挺身隊は無関係:女子挺身隊というのは軍需工場に勤労動員する制度で、朝鮮半島にはなかったので、慰安婦とはまったく関係ありません。

4 強制連行はなかった:強制連行というのは暴力で引っ張っていくというイメージですが、そういう話をした吉田清治という人の話はウソです。もとは徴用という意味で使われたのですが、朝鮮人の女性を徴用する制度はなかったので、それもありえません。

5 民間の人身売買はあった:では「強制」はあったのでしょうか。戦前でも人身売買は違法でしたが、貧しい家庭では借金のかたに娘を売ることがありました。この場合、働いて借金を全部返すまで「足抜き」させてもらえないので、強制といってもいいでしょうが、これは民間の契約なので国は関係ありません。

 要するに戦地でも吉原と同じ公娼(国の管理する売春婦)がいただけで、今ごろ大騒ぎするような話ではありません。最初マスコミは吉田清治のいう「慰安婦狩り」の証拠をさがしに行って見つからなかったのですが、韓国まで出張して何もなかったというのはかっこ悪いので、「強制連行はなかったが強制はあった」などとごまかしているうちに、韓国政府が怒り始めたのです。その意味では、これはマスコミ(特に朝日新聞)の創作した問題といってもいい。慰安婦そのものは大した問題ではないのですが、これが日韓関係をめちゃくちゃにした影響は非常に大きい。他のマスコミも1993年ごろまでは「強制連行」という言葉を使っていたのですが、おかしいとわかってからは使わなくなりました。」

 この、昨今は右翼のみならず世間の軽薄な人々の意識になりつつある、「朝日新聞も認めた歴史的事実」なるものの真相を確かめてみましょう。

1 軍の指揮下に置かれた慰安婦=売春婦はいなかった!たまたま「戦地にいた売春婦」ですって?! 戦地に誰が運ぶのでしょうか?業者が連れ歩く?「戦地」そのものが軍機密なのに。戦地から兵士が故郷に送る郵便も、発信地が秘されたのは誰でも知っています。

2 慰安婦は軍が管理したのは、吉原を警察や保健所が管理したのと同じ!管理という語の意図的誤用でしょう。戦地で誰が人間の身柄を支配するというのでしょうか。吉原や飛田では業者(現在の料亭組合)が支配管理し、今で言うやくざ、暴力団が背後にあったのも常識。まさか現代の顧問弁護士が言うように「個人営業、自由恋愛」!?また、大阪大空襲で当時大阪最大の新町遊郭の芸妓たちが閉じこめられたまま全滅した悲劇を知らないのでしょうか。国が管理した公娼?あほか。

3 女子挺身隊は朝鮮にはなかった
 朝鮮の学校で生徒を女子挺身隊に送った教師の回想を見よ(本誌むくげ128号(1992.2.3)池田正枝(故人)「特別寄稿 ソウルに旅して――女子挺身隊に送った李さんを訪ねて」)。「戦争―心の傷の記憶」(1998年8月14日NHK放送)で、ナヌムの家の姜徳景さん(カン・ドッキョン、故人)は、女子勤労挺身隊員として16歳で富山の軍需工場「不二越」へ送られ、脱走して憲兵に捕えられ強姦され、松代大本営(長野県の本土決戦用地下要塞)で慰安婦にされた。「女子挺身隊は朝鮮にはなかった」というのはwikipediaのでたらめ記事。それをそのまま写すとは、高校生のレポートでもないだろうに!

4 強制連行=朝鮮での女性の徴用はなかった
 日本の支配を合法的とすれば国民徴用令等が合法的に適用されたとも言えるが、朝鮮人の視点からは、すべて「強制連行」。尹敬洙さんは当時の朝鮮で「人間のゴンチュル(供出)」と言われていたことを証言している。動員か、徴用か、そんな区別が朝鮮人にわかったのか。説明されたのか。朝鮮総督府の命令とは朝鮮人にとってはそもそも全部一方的な強制。

5 民間の人身売買はあったが、民間の契約なので国は関係ない
 現在の日本も欧米から「人身売買」の存在を指摘されているが、国は関係ない!?
 2013年に移住連鳥井一平さんが外国人技能研修生の人権救済活動により米国務省によって「人身売買と闘うヒーロー」として表彰されました。「JKお散歩」は人身売買(米国務省年次報告書)。お金をもらったら「奴隷」ではないって?!

 要するに、池田の認識は、朝鮮植民地支配を、善意と栄光の、朝鮮人のためによいことをしてやった正しいものとみなす日本帝国の歴史意識をそのまま引き継いで、戦争というもの、軍事というもの、吉原を始めとする売春組織の実情、当時の朝鮮社会の実情、現在の日本社会の客観的実情にすべて目をふさぎ、文字の上だけのうわべの虚論を述べているのです。

 このうち、1944年「女子挺身勤労令」が「朝鮮では公式には発動されなかった」という話は、韓国版「新しい歴史教科書」とも言える李栄薫の『大韓民国の物語』にも記され、wikipediaの記述「強制力を伴うこの勅令の対象になったのは日本人であり、朝鮮人は対象とならなかった」や李栄薫を根拠にして、朴裕河『帝国の慰安婦』もそう書いています。しかしこれは誤りで、同令は「内地」と同日付で朝鮮でも施行されました。やはり、文献史料操作の上の見解も誤ることがあり、むしろ当時の体験者、本会の大先輩である池田正枝さんの体験談が正しく、また彼女が尋ねて行った「女子挺身隊」体験者も韓国に現存するわけです(2015年2月24日韓国聯合ニュースは「日本政府が元朝鮮女子勤労挺身隊の韓国人女性3人に厚生年金脱退手当として1人当たり199円を支払っていたことが分かった」と報じました)。

 朴裕河の『帝国の慰安婦』がもとの韓国語版でWikipediaを根拠にしたというこの点は、果たしてこれがどのような程度の著作かについて疑いを持つ端緒になりました。しかも日頃尊敬する高橋源一郎などが「これから書かれる、すべての「慰安婦」に関することばにとって、共感するにせよ反発するにせよ、不動の恒星のように、揺れることのない基軸となるだろう」などと絶賛する(朝日新聞論壇時評2014年11月27日)に及んでは、日本の言論状況に呆然とするしかありません。このような朝鮮人も、それを持ち回る日本人も、昔からいることは事実です。しかし私たちは、日本人独自の教育の課題をとことん突き詰めなければなりません(この項、鄭栄桓氏の見解を参考にしています。韓国語版と日本語版の異同など詳細な検討は今後の課題です)。

 振り返れば1965年日韓基本条約後の1970年代、パク(朴正煕)軍事政権の韓国に日本から観光客が押し寄せ始めました。それも男性ばかり、いわゆる「キーセン観光」でした。当時、戦争中の戦地での従軍慰安婦「朝鮮ピー」は出征した戦争体験者には常識でしたが、その過去を問題視する人もなかったのです。朝鮮に対する圧倒的な蔑視、女性に対する社会的抑圧がその背景にありました。「赤線青線の灯が消えて」(1958年売春防止法完全施行)以来も「戦後強くなったのは女と靴下」「女子大生亡国論」と揶揄される日本社会の同じ状況が継続していました。朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(1965年)、みすず書房現代史資料『関東大震災と朝鮮人』(1963年)がそうした状況に一撃を加えたのです。筆者も思い出してみれば例外ではありません。

 当時、遠藤幸子さん(故人)は会誌むくげ73号(1981年4月「慰安婦」)で既に次のように述べています。「男たちを買春に旅立たせ 少女たちを売春に走らせる ツケをそのままにして」「女である わたしたちは ききのがしたり みのがしたりするわけにいきません ツケを返さないばかりか またあらたなるツケをつくるなと 今こそ 声を大にして 叫びたいのです」「慰安婦を忘れるな ツケを返せ 女を殺すな 女を物にするな と」。そこでは千田夏光の先駆的な業績『従軍慰安婦』(三一新書1978年)を資料としたことも明記されています。先の池田さんも、戦争中の皇国臣民化教育の実践的反省として、阪神教育闘争では遠藤さんらと共に発砲する警官隊に立ち向かう先頭に立ち、朝鮮人児童生徒の民族的アイデンティティの確保と自立を願う全朝教大阪(考える会)創設に参加されたのです。

7 吉田清治証言の検討
 吉田清治証言の検討に入る前に、直接関係ないように見えるいくつかの関連する事実を確認しておきます。

 一つは、2014年6月27日、沖縄を訪問した天皇、皇后が那覇の対馬丸記念館で生存者や遺族と懇談したことです。新聞などでも大きく報道されました。戦争末期、1944年8月22日沖縄から1788人を乗せて九州に向かった学童疎開船「対馬丸」(6754トン)が、鹿児島県沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、779人の学童を含む1476人が犠牲になった事件。天皇は、近くの護衛の軍艦は助けなかったのか、と訊ねたそうです。これは、中高の歴史学習の定番でしょう。

  もう一つは、沖縄での集団自決をめぐる問題です。岩波書店と家永三郎著書、大江健三郎著書をめぐって争われた渡嘉敷島や座間味島での「集団自決」訴訟で、軍の関与を認めた判決が2011年に確定(最高裁)しました。2006年度教科書検定の際、高校日本史教科書の「集団自決」(強制集団死)について軍が強制したという記述が削除されたことに対し、「沖縄戦の実相をゆがめるもの」という反発が沖縄県内で広がり、2007年9月に10万人の県民大会が開かれるなど、沖縄戦体験の正しい継承を求める世論が高まったことは周知のことです。

  「集団自決」を高校の歴史や現代社会で扱う場合、筆者は6月23日の沖縄慰霊の日にあわせて沖縄戦の概要、対馬丸、特攻作戦や戦艦大和のことなどを必ず授業で話すことにしていましたが、特にその際中心にすえたのは、読谷村(よみたんそん)チビチリガマで1945年4月2日に起こった集団自決です。

  沖縄戦の4月1日アメリカ軍最初の上陸地読谷村では、4月2日に同村波平の地下鍾乳洞(ガマ)に避難した住民139人のうち83(または84)名が集団自決しました。しかし、その事実は戦後長く地元では語ることもタブーとされ、他では知られないままになっていました。絵本作家の下嶋哲朗さんが読谷に入って絵本の原画展を開き、生き残った人々から話を聞いて、それがこの事件が知られるきっかけになりました(「聞き書きと絵本」本誌むくげ84号掲載、1983年4月22日)。1987年4月2日そのガマ入口(地表から下に降りたところ)に地元住民の「平和の像」が建てられましたが、同11月8日破壊され、現場には「国旗燃ヤス村ニ平和ワ早スギル天誅ヲ下ス」との犯行文が残されていました。同年10月6日沖縄国体ソフトボール会場で日の丸焼き捨て事件があり、これに対する右翼の報復行為でした。数年後の3月、筆者は一人でさとうきび畑の中をガマにたどり着き、ひっそりした何もない所に降り立ったことがあります。当時勤務していた住吉高校で卒業生を送り出した担任会旅行の自由行動の時でした。大阪の住吉におられた像の作者金城実さんとの地域の交流もあったのです。(「平和の像」再建は1995年3月、現在もチビチリガマ内部に入ることは遺族の意思により禁止されています。)

 なぜ村の人々はこの事実を秘密にしたか。それは、率先して死のうと言った者も、死んだ者も、すべて同じ集落内の隣人や近親者であり、この「集団自決」の記憶を呼びさます事自体に強い抵抗があったからであることはすぐ理解できます。なぜ村の人々の中に「死のう」と言う人がいて、全体としてそれを制止できなかったのか。それは、帝国臣民の教育の「成果」ですが、しかしそれだけではありえず、決定的なのは敵兵に捕まったら男のみならず婦女子はどのような目に遭うかを想像して、自死する方がましだと考えたからでしょう。勝った日本軍ならどうするか、陸軍の主戦場であった中国で日本軍がどうふるまっていたか、それが想像の基準になっていたことは言うまでもありません。この教育内容は、先の「集団自決は日本軍の強制」という見解とはやや違います。筆者は「軍の強制」であった渡嘉敷などの例と共に、住民が自ら「集団自決」した例の中からも日本の戦争の真実を明らかにする教材を見つけたいものだと思います。「日本よい国えらい国」(当時の修身、道徳教科書)の一方で「チョンコ、チャンコロ」から「暴戻(ぼうれい)支那」「鬼畜英米」に至る排外主義、他者を人間扱いせず、それが一転して負けて追いつめられた時はどうなるか、このことを子どもたちが考えるきっかけになるように。集団自決に至らなかった壕には米国帰りの「アメリカ人も人間だ」ということを知っている人がいたのです。

 前置きが長くなりました。さて、問題の吉田清治による「慰安婦狩り」証言です。

  そもそもなぜ吉田証言が焦点になるのでしょうか。そしてまた、サンケイ新聞が言うように(「朝日新聞が5、6両日にわたって朝刊に掲載した同紙の慰安婦報道の検証記事…中途半端で言い訳じみた内容ではあったが、韓国・済州島で女性を強制連行したと証言した吉田清治氏に関する記事を取り消したことには一定の意味がある」「慰安婦問題で「吉田証言」に踊った人たち 記事取り消しの意味」2014.8.9 )、吉田証言を否定することが右翼から、安倍首相から、これほど高く評価されるのはなぜでしょうか。

 既に朝日新聞のみならず赤旗までもが吉田証言を「虚偽」と断定しました。しかしほんとうでしょうか。その「虚偽」とする根拠は何でしょうか。どこを捜しても、その根拠はありません。

  「慰安婦問題を知る人の間では吉田証言がいかにズサンかは知れ渡っていました。ETV2001も吉田証言をまったく扱っていません。すでに吉田証言を重視する専門家はいませんでした」と元NHKプロデューサー永田浩三は述べていて、吉見義明らの学者が史料としてそのまま使えないと判断しているのは事実です。しかしここではあえて、時流に逆らって、孤立無援の吉田証言を再検討してみることにします。(吉田証言の評価については、二月に来阪された渡辺美奈さん(WAM女たちの戦争と平和資料館事務局長)のお話を聴く機会があり、この視点が孤立したものではないことを知りました。)

 問題を明確にするために、二つに分けます。一つは、吉田清治が受けた命令について。もう一つは、その命令にもとづいて実施した済州島での行為について。

 まず、前者の命令書について。

 下関労報動員部長の吉田は、この1943年5月に西部軍からの動員命令で済州島に行ったことになりますが、その下関労報動員部に下った命令書の内容は吉田によると次のようなものです。
「一、皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊二〇〇人。年齢一八才以上三〇歳未満。既婚者も可。但し妊婦を除く。一、身体強健なる者。医師の身体検査、特に性病の検診を行うこと。一、期間一年。志願により更新することを得。一、給料、毎月金三〇円也。仕度金として前渡金二〇円也。勤務地、中支方面。動員地区、朝鮮全羅南道済州島。派遣日時、昭和一八年五月三一日正午。集合場所、西部軍第七四部隊内。」(『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』1983年、および『朝鮮人慰安婦と日本人―元下関労報動員部長の手記』1977年。)

 これが虚偽、吉田の作成した捏造文書であるとすれば、どうでしょうか。

 労務報国会の設立、各県の組織化は、産業報国運動の一環として日傭労務者の勤労新体制確立を企図したもので、1942年9月30日に全国地方長官宛厚生・内務両次官連名の通牒により発足しました。この西部軍命令書(西部軍は1935~1945の間帝国陸軍の軍の一つとして国内の中国・四国・九州地方を管轄した)については、早くから上杉聰さんらがこれの現物を本人に確かめようとしてできなかったことも伝えられ、また朝日の謝罪記事では外村大さんが労務報国会への命令系統について、管轄する厚生・内務省ならともかく軍から直接命令を受けるような関係ではなかったのではないかという見解も引用されていました。しかし、上杉さんも外村さんも、だからと言ってこれが吉田の捏造だと主張したわけではありません。確かに周辺情報からすると、そのまま信頼はできないという評価が当然といえます。しかし、この下関支部に下った命令書内容自体の中に矛盾や偽造の跡を指摘した人はいません。専門家でない吉田が捏造したのであれば、どこかに破綻、歴史的齟齬があってよいのではないでしょうか。「給料」が記載されていることといい、あくまでも「動員、志願」であることといい、破綻はありません。捏造とするには、あまりにも内容は当を得ているのです。すなわち、命令書は、現物が失われたとはいえ、虚偽、捏造であるとすれば矛盾が生じる、ということです。

 逆に、「日本陸軍の慰安所は、当初は中国に派遣された派遣軍が主導して設置されていき、それを軍中央が管理統制していった。さらに太平洋戦争が始まると陸軍中央自らが慰安所の設置に乗り出していった。「従軍慰安婦」政策は、陸軍省・大本営を含めた陸軍の組織ぐるみによるものであった。この点は海軍も同様である。軍の「従軍慰安婦」政策には、朝鮮総督府・台湾総督府、内務省( 知事・警察含む) と外務省( 総領事含む) も関わっていた。内務省は地方行政・警察・土木・社会衛生などを所管していた内政の中枢に位置する官庁である」(林博史 http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper27.htm)という位置づけの中に、この命令書はすっぽりおさまるのです。

 もう一つ、済州島での吉田の「動員」について。

 吉田を「職業的詐話師」と呼ぶ現代史家秦郁彦がすでに1992年3月に済州島で現地調査を行い、虚偽性を指摘してきたのはよく知られています。吉田の証言内容について「済州新聞」にそれを否定する記事が載り、現地の人に尋ねて「そんな出来事は聞いたこともない」という答えだったというものです。しかし、少しでも常識を働かすことができたなら、済州島の人々にとって恥辱的なそうした「話」への感情を少し忖度するだけで、ちょっと行って実際のことがすぐ出てくると思う方が歴史学者としてなっていないことがわかるでしょう。沖縄でも、韓国でも、体験者が自ら話すことだけで40年を費やしたのです。秦はむしろ、ほんとうに歴史学者なのであれば、済州島に本拠を構えて住民とも交流し、済州島における徴用と徴兵の全貌を明らかにするような研究をすべきでした。その上でこそ、吉田証言がどのような意味を持っているのか、果たして捏造なのかが明らかになったことでしょう。

 しかも、吉田証言と現代との間には、沖縄戦と同様の、あるいはそれ以上の亀裂が複数あることもよく知られた事実です。この点に関連して、朝日の謝罪記事では、吉田が1943年6月という時期に、当時済州島が「軍政」であったと記録していることについて永井和さんの見解を引用、済州島が日本軍の動員によって要塞状態に置かれた時期は1944年以後のことであって1943年に「軍政」というのはおかしいとしています。軍事史専門家の見解は確かに正確なものですが、だからといって朝日のように「虚偽」としてしまうことができるのか。永井さんは、疑いがあってそのまま信用できないという正論を述べられているだけです。この点についてさらに考えてみましょう。

 1937年以来海軍飛行場があって、中国への渡洋爆撃基地として有名ですが、1945年沖縄戦にあわせて日本軍兵力は急速に増強され、島民を強制徴用して全島に各種要塞陣地を構築しました。当時の島の人口23万、日米決戦時島民の米軍協調をおそれた日本軍は島民を朝鮮本土に移動疎開させる方針をとり、1945年5月7日「晃和丸」(済州木浦間連絡船)が日本軍の疎開令によって、定員350に750余が乗船してはじめて済州を出航、米軍機の爆撃で撃沈されました。この悲劇は、船が周知の民間船でもあり、済州島でもよく知られていました。次いで6月25日、第一回疎開軍用船「豊栄丸」が済州を出航します。しかし7月3日深夜木浦沖で触雷沈没して約500名が行方不明となり、その後の疎開は中止になります。実は、この豊栄丸遭難事件が済州島史から長く消え、誰も知ることなく年月が経過していたのです。船が軍用船であり、軍の命令による航路であったため、元来が秘密で、敗戦時に記録がすべて焼却抹殺されたためです(山辺慎吾『済州島、豊栄丸遭難事件』彩流社1999年が初めてこの事実を明らかにしました)。済州島の人々には、その記憶が残らなかった。

 有名な泉靖一『済州島』(東京大学出版会1966年).は1935~37年の現地調査を基に書かれた文化人類学の名著ですが、その中に次のような記述があります(P281以下)。

 「1944年に、13万におよぶ日本軍がこの島に駐留することになった。…日本統治時代には、済州島ははじめ全羅南道莞島郡の一部であったが、一九一五年に郡から分離して、済州島が行政上の単位となった。そして済州警察署長が島司をかねたのである。つまり、ここでは警察権と行政権が一体化した。つまり、もっとも非民主的な行政組織がしかれてきたのである。…一九四八年四・三事件で、済州島は荒廃に帰した。…総人口の四分の一が殺され、山・陽村のほとんどが焼かれて一時は全部が海岸におりていたのである。…もとの住民の大部分が殺され、ごくわずかが海村で生き残っているところでは、…まったく住民がいれ変わってしまっている。」

 朝鮮全土で1919年以降武断政治が文化政治に転換したのに対して、済州島では憲兵警察がそのまま継続したことが知られています(この点は別途確認作業中です)。また、泉は済州島でも陸地同様に徴用徴兵が行われたことを記録しています。

 したがって、済州島は1943年当時済州警察署長の施政下にあり、警察署長が陸軍憲兵に属していれば、これは「軍政」と何ら変わらないことになります。吉田が「軍政」と呼んだのは決して荒唐無稽、あるいは捏造の結果の歴史上の誤り、などではない、逆に普通は歴史的事実としても周知されていない真実が暴露されている可能性があるのです。「軍政」の下での動員の実態がどうなるかは、関東大震災の際の軍支配下の東京や横浜での軍、憲兵隊のふるまい、中国での日本軍占領地を思い浮かべれば想像がつきます。しかもその実態は記録から抹殺され、住民の記憶からもその後の数々の移動、混乱の中で失われています。500名が行方不明となったことさえ忘れられていたのですから。こうしたことは、いかに植民地支配下の朝鮮で人間一人一人がないがしろにされていたかを示すものでもあります。沖縄は日本ですから、天皇も直々に関心を寄せます。済州島は関係ありません。当時は日本の立場からは日本に違いなかったのですが。施政記録自体をすべて焼却抹殺したこと自体、そこでの日本(軍)の施政を裏から物語っているとも言えますね。(大阪市生野区には多数の済州島出身者が居住し、一世の年配者が「うちの村でもそんなことは聞いたこともない」と言われることはよくあります。「軍」の行為を復原することは容易ではありません。)

 こうして吉田証言の一つの「証言」としての重要性は残ります。それは従軍慰安婦生存者の「証言」と同じ性格のものです。それをそのまま持ち回るのではなく、40年を経てやっとついにそう証言されたことの言葉の重みを受け止めて、それを材料として歴史的真実の解明に向かわなくてはなりません。もちろん吉田証言を使わなくても「慰安婦」「強制連行」の事実は動かない。このことについては、多くの良識ある学者の方々が論じているので、ここでは取りあげません。

8 おわりに
 なぜ吉田清治証言が徹底的に攻撃されるのかについて、最後に付け加えます。

 2001年にETV2001シリーズ「戦争をどう裁くか」の総括プロデューサーを務めた元NHKの永田浩三は述べています。「90年代、NHKは慰安婦問題の番組を何本も放送しました。…上の命令で放送直前に番組が劇的に変わった。…放送前日、伊東律子番組制作局長は、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が編さんした「歴史教科書への疑問」という本のページを開き、「言って来ているのはこの人たちよ」と告げました。そこには、「若手議員の会」の前事務局長だった安倍氏らの名前が列挙されていました。伊東さんは「政治家が言って来ているのだから、分かってね」と恥じらいを持って伝えました。」
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/153502/1

 しかし、そこでも欠落していることがあります。
 問題の焦点は「女性国際戦犯法廷」の内容報道でした。それは2000年12月7日から12日に東京で行われた民衆法廷、模擬裁判で、元慰安婦女性を原告とし、昭和天皇を始めとする旧日本軍指導者を被告として旧日本軍の慰安婦制度を裁いたものです。2001年にはオランダで「最終判決」が発表されました。「天皇裕仁及び日本国を、強姦及び性奴隷制度について、人道に対する罪で有罪」というものです。この「天皇裕仁」を国際法の観点から「人道に対する罪で有罪」とすることこそ、安倍らの激烈な反応を引き起こしたものです。当時からマスコミはこの「法廷」の報道をほとんど行わず無視しました。

 この点で、吉田清治の証言が、「西部軍の命令」によって済州島に赴いたことから、それが軍の直接命令、即大元帥、天皇の命令であることを意味し、右翼にとっては絶対に抹殺しなければならない事柄であることと照応しています。この点が、朝日新聞が吉田証言を「虚偽」だとして消去し(この点で朝日が完全に屈服したことがわかる)、右翼がこれを持ち回るポイントになっているわけです。また、だからこそ朴裕河『帝国の慰安婦』を読んで多くの日本人は大喜びする。朴は言います。「罪を犯してしまった加害者の羞恥と悔悟を理解しようとしたことはない。…そのような傲慢と糾弾は相手をかえって萎縮させる。…たとえば「天皇が私の前にひざまずいて謝罪するまで私は許せない」と話す慰安婦の言葉は、…屈辱的な屈服体験のトラウマによる、もう一つの強者主義でしかない」(邦訳P299-300)。この「加害者の羞恥と悔悟を理解せよ」「韓国人元慰安婦が天皇の責任を追及するのは傲慢だ」という、もっぱら加害者、日本人に対してやさしい言葉がうれしくてたまらない。こうまで韓国人に言わせる日朝関係の過去を思い浮かべて、恥ずかしいばかりです。

 こうして問題は、わが国の「国体」の問題に帰ってきます。ただ、子どもたちに歴史を教えるに当たって、そのことのゆえに真実を、他者の存在を、無視することのないようにしたいものです。天皇制の功罪の問題については別に考えなければなりません。かつて全朝教研究集会でも、日の丸君が代と朝鮮人生徒の関係として話題になったことがありますが、筆者自身はこの問題について朝鮮人を引き合いに出すことはしたくありません。これは日本人固有の課題、日本人の責任です。ソニー・ピクチャーズ・エンタテイメントもフランスの新聞シャルリー・エブドもサンケイ新聞も、その自らの立場を自覚して、「自分がされて嫌なことは人にするな」「汝の隣人を愛せよ」の道徳の基本を再確認してほしいものです。子どもは教師が口先で言うことなど信用しません。口先ではなく、学校で、クラスの中で、目に見える形で実現しなければなりません。「民族学級」の存在、「本名を呼び名のる」教育実践が学校と教職員の道徳性を事実によって示しているのです。他者を他者として認めよ、「テロ」ではなく、暴力ではなく、戦争ではなく、人と人との相互尊重、信頼と協力によってこの世界はよりよくしていけるのだよ、と。

続編へつづく

     


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