朝鮮は中国の
「属国」だったのか?

福岡県の志賀島(しかのしま)で発掘された有名な金印。「漢委奴国王」と書かれ、北九州にあった小国が冊封を受けたことを示す。
 朝鮮が中国の「属国」だったという誤解をしている人がいる。朝鮮が中国(明、清)との間に冊封(さくほう)という関係を結んでいたことがその遠因ではあるが、それ以上に、日本の朝鮮植民地支配時代(韓国でも北朝鮮でも「日帝時代」とよぶ)に、これを近代の植民地のような意味に「曲解」した名残りといえよう。「属国」という言葉は、朝鮮はもともと「属国」だったのだから、日本が支配してもかまわないではないかという政治的意図をもって用いられたのである

 ところが、冊封は、従属のしるしというより、むしろ独立国である証なのである。中国の周辺諸国の君主は進んで冊封関係を結ぼうとした。中国皇帝からの冊書によって国王に封じられることにより、自分の王位を権威づけ、確固たるものにすることができるからである。皇帝に対しては君臣の礼をとらねばならず、皇帝への書簡に「表す」と書くのに対し、皇帝からの書簡には「~王に諭す」と書かれていた。しかし、こういったことは、あくまで形式上のことに過ぎない。国王は別に皇帝の力で王位についたのではなく、自分の力で得た王位を追認してもらうにすぎない。外交については中国に気を使わなければならない(今の日本も同じ)にしても、内政についていちいち指示や干渉を受けるわけでもない。また、「朝貢」という名で方物(みつぎ物)を贈らなければならないが、中国皇帝からのお返しである回賜(頒賜)のほうが量が多かった。清が三年に一度の朝貢を求めたのに対して、朝鮮側が一年に三度の朝貢を願い出たのも、そのためである。結局、冊封関係とは、一種の不平等条約の締結であり、その不平等さは、実利や実害をともなわない形式的なものにすぎなかった。その効用は、双方にとって平和が保たれること、朝貢国側にとっては国内的に権威を高められること、中国側にとっては自尊心を満たし、世界の王者であることを示せることであった。中国側にとっても、朝貢国が独立した存在でなければ意味がないことなのであり、これを近代的な意味での植民地と考えることはできない。

唐の皇子の墓の壁画に描かれた外国使節。古代朝鮮の服装は、鳥の羽飾りが特徴的。ビザンツ帝国の使節は、明らかにキリスト教の聖職者。浜島書店『ニュービジュアル版新詳世界史図説』より。
 中国と国境を接する諸国は、古くから冊封という形で内政と外交を安定させてきた。まさに一石二鳥である。しかし、海で大陸から隔てられた日本には、必要なときだけ関係を持つという気ままが許されていた。室町幕府の三代将軍足利義満が「日本国王使」を送ったのは、貿易による利益を求めてのことである。国書には「日本国王臣源表ス」と記されていたが、義満には自ら王になりたいという野心があり、その意味でも中国皇帝を必要としていたのだとも考えられる。

 「天皇」という呼称も、東アジアの伝統からいえば私称ということになるのだが、そのことによってとがめだてされることもなかった。中国にとってはどうでもいい海の向こうの国だからである。聖徳太子が「日出づるところの天子」が「日没するところの天子」にといって国書を送り、隋の煬帝を激怒させたという話が史実かどうかは分からないが、仮にこのような国書を送れば、中国皇帝が激怒することは十二分に考えられることである。また、「陛下」という呼びかけも、本来は中国皇帝に限られるものであった。秀吉の朝鮮侵略を描いた韓国のドラマを衛星放送で見たことがあるが、朝鮮国王は臣下たちから「殿下」と呼ばれていた。

 江戸時代の日本にとって、唯一の国交のある国は朝鮮であった。秀吉の侵略の記憶のなまなましい朝鮮側は日本の使節を東莱(今の釜山)より奥に入れなかったが、朝鮮通信使は、豪華な行列を仕立てて江戸までやってきた。対馬藩を通じた貿易もさかんで、長崎での貿易をしのぐ年も多かった。なお、長崎での貿易も大半は中国との貿易であり、オランダ貿易の比重はふつう思われているよりもずっと低い。朝鮮との国交は、「交隣」として行われた。幕府が中国に朝貢していたわけではないが、同格の国どうしのつきあいとして行われていたのであり、幕府もその形式を守ることに気をつかっていた。

  状況は明治維新によって根底から変わった。新政権が朝鮮に送った外交文書が完全に無視され、征韓論はこの「非礼」を許すなということを大義名分としていた。しかし、「非礼」だったのは、日本のほうである。文書は、江戸時代の慣例に従って、日本との外交にあたる東莱府使に届けられたが、内容は、「幕府は滅び維新政府ができた。よって両国の修好と通商を再開したい。そのむね中央政府に伝えよ」という命令口調のものであった。それよりも朝鮮側を激怒させたのは、新政権の性格を説明した部分の「皇祚連綿、皇上登極、奉勅親裁万機」という表現であった。「皇」や「勅」は、中国皇帝にしか使わない字であり、これでは中国に代わって日本に朝貢せよというのと同じではないかと思ったのである。その後、日本が朝鮮を植民地化していく過程については、ここでは述べない。

 李氏朝鮮の開祖李成桂(イ・ソンゲ)は、明の冊封を受けるにあたって、国の名を「和寧(ファリョン」とするか「朝鮮(チョソン)」とするかというお伺いを立てた。明は古くから中国にも知られている「朝鮮」を選んだ。「和寧」は李成桂の出身地であるが、これは当て馬であり、「朝鮮」という国号は、李成桂としても予定通りであった。そしてこの国号は1392年から、500年あまりにもわたって使われることになった。国号が「大韓帝国」と変わったのは1897年のことである。ここで、「帝国」という呼称に注目しなければならない。これは、一応中国と対等であることを宣言したものと考えられるが、実はこの時点で朝鮮はすでに日本の事実上の植民地となっていた。「帝国」という国号の採用には、朝鮮を中国から引き離そうとした日本の意思が働いていたと見る人も多い。朝鮮統治にあたった伊藤博文は、まだ幼い韓国皇太子を日本に連れかえり、日本の教育を受けさせた。そして、1910年、「大韓帝国」は「日韓併合」によって名実ともに日本の植民地となり、半島は再び「朝鮮」と呼ばれるようになった。その後の経過については、また稿を改めて述べたいと思う。日本ではあまり知られていないことだが、韓国の新聞は最近までずっと日本の天皇を「日王」と呼んでいた。その理由はここまで読んで頂いた方にはすぐに了解していただけると思う。

左は伊藤博文を描いた日本の千円札。画像は日本銀行のサイトより。
右は伊藤を殺害し、南北朝鮮で義士として称えられる安重根(アン・ジュングン)

 日本における朝鮮の歴史についての記述は、最近まで植民地統治時代の考え方を引きずっていた。朝鮮の歴史は、常に外国に支配される情けないものだったかのようなイメージが作られていたのである。しかし、虚心に考えてみれば、大陸からわずかに突き出た小さな半島が今日も独立しているのには、むしろ驚くべきであろう。現在、漢民族の人口は膨大だが、その中には漢民族に同化されたさまざまな異民族の末裔が含まれているのである。隋の煬帝の大軍を撃退した高句麗の将軍乙支文徳(ウルチ・ムンドク)、契丹軍を破った高麗の姜邯賛(カン・ガムチャン)、そして秀吉の水軍を壊滅させた李舜臣(イ・スンシン)らの救国の英雄の名前は今日の南北朝鮮では常識である。このうち李舜臣の名前だけは日本の学校で教えられるようになったが、それとて比較的最近のことであり、他の二人はまったく知られていないと言ってよい。

浜島書店『新詳日本史図説』より 私が受験勉強をしていたころの教科書や参考書の年表には、日清、日露戦争はゴチックで記され、「日韓併合」(今日ではふつう、日本と韓国が対等に併合したような印象を与えることを目的とした呼び名なので、"韓国併合”と記されるのが普通)は普通の文字で記されていた。さらに、1919年5月4日に中国で起きた「五四運動」がゴチックで記されているのに対し、同じ年の3月1日に朝鮮で起きた「三一独立運動」は単に「万歳事件」と記され、普通の文字で書かれていた。一部には今もこのような記し方をした参考書を見かけるが、実におかしなことである。日清、日露戦争が要するに朝鮮の争奪戦であったことはすでに当時から広く認識されていた。フランス人ビゴー(1860-1927)による風刺画(左の図版)もそのことを示している。下駄をはいた日本の武士が中国人と争って釣り上げようとしている魚には”Corée(朝鮮)"と書かれており、向こうでロシアが様子をうかがっている。「五四運動」は、中国の独立運動家自身が言っているとおり、「三一運動」の影響を受けて起こったのであって、その逆ではない。五月が三月より先に来ることはありえないのだから、これは当然のことである。

     



inserted by FC2 system