高 麗 青 磁 と 高 麗 鐘
日本文化の成立 長い年月をかけた大陸文化の吸収が一通り済み、国としてのまとまりもできた平安時代の日本では、外国との交流に対して、しだいに消極的な空気が支配するようになった。新羅との国交は奈良時代にすでに途絶え、新たな渡来人たちも、上陸さえ認められず追い返されるようになり、八六四年には遣唐使も廃止された。こういう空気の中で、渡来人の子孫たちも、その出自をしだいに忘れがちになった。しかし、ここでしっかり認識しなければならないことは、古代朝鮮の文化を加えて、はじめて統一した日本文化が成立したということである。九三六年には朝鮮半島は高麗(こうらい)によって統一され、渡来系の人々が本来心の拠り所としていた百済や新羅、高句麗といった国々はすべて失われた。日本社会で高い地位を持ち、生きていく道が保証されていた渡来人の末裔たちは、進んで日本社会のなかで生きようとしたものと思われる。
海外交流と大阪の衰退 古代の大阪は、都への玄関口として、また外交の桧舞台として渡来人を集め、大いに繁栄した。それだけに朝鮮半島をはじめとする海外との交流が衰えると、それにつれてさびれていった。さらに、武士の世の中となって権力の地方分散化が進むと、その地位はますます低下した。大阪が再浮上するには、日本各地を結ぶ商業活動が活発になる室町時代を待たなければならなかった。しかし正式の国交が途絶えたとはいっても、民間の交流まで途絶えたわけではない。平安時代の民間説話を集めた『今昔物語集』に新羅の国に渡って虎に襲われた人の話が出てくるように、朝鮮半島に近い九州の人々をはじめ、民間の人々は貿易などの交流を絶やさなかったようである。また、高句麗のあとをついだ渤海(ぼっかい)との国交は、十世紀はじめまで続いた。 中世の日本と朝鮮 つづく鎌倉時代は、日本と朝鮮との関係が最も希薄な時代だったといえる。しかし、中国との日宋貿易などは、後になればなるほど、朝鮮半島を媒介として行われるようになった。そのころ朝鮮半島では、高麗王朝のもとで、仏教を機軸とする高い文化が築かれ、その都開城(ケソン)の繁栄ぶりは、中国の使節をも驚かせたほどであるが、未曾有の大帝国を築いたモンゴルをはじめ、たえず異民族の侵略に悩まされていた。当時の日本は内乱の続発する時代だったが、海で囲まれている上、高麗の人々の抵抗があったおかげで、外敵の進入をあまり受けずにすますことができたのである。 室町時代に入ると、倭寇とよばれる日本の海賊に苦しんだ高麗は、今川氏、大内氏といった西国の大名に取り締まりを求め、高麗との交易がさかんになった。日本側は、モンゴル退散の祈りを込めて彫られた「大蔵経」や高麗の陶磁器、梵鐘などをしきりに欲しがった。しかし、高麗王朝はすぐに衰退期に入っており、まもなく朝鮮王朝(李氏朝鮮)がこれにとってかわった。
東洋陶磁美術館と鶴満寺 中世の日本では、大陸に近い博多が国際都市として大いに繁栄した。一九七六年、韓国木浦(モッポ)市に近い新安(シナン)の沖で、中国の寧波(ニンポー)から博多に向かう途中沈没した十四世紀の日本商船が引き上げられ、中からおびただしい中国産の陶磁器が出てきて話題をさらった。のちの豊臣秀吉の朝鮮侵略のときまで、日本は陶磁器の多くを輸入に頼っていたのである。そして、輸入陶磁器は、一三九二年に朝鮮王朝が成立したころから、朝鮮産のものが、急激にふえてゆくのである。中之島にある大阪市立東洋陶磁美術館には、世界的にも高く評価されている高麗青磁や李朝白磁が数多く展示されている。 北区長柄(ながら)の雲松山鶴満寺は、寺伝によれば、一〇三〇年に高麗でつくられたという重要文化財の高麗鐘で名高い。本国でも二百たらずしかない新羅・高麗時代の鐘が日本には四十ほども伝わっている。朝鮮半島の鐘は、古都慶州(キョンジュ)にあって韓国の国宝となっている新羅時代のエミレ(お母さん)の鐘に代表されるように、著しく装飾性に富んでいる。鐘の上下に飾りの帯がついていること、竜頭が一つで、旗挿し(はたさし)という装飾筒がついていること、撞座(つきざ)が多いこと、飛天などの浮き彫りがほどこされていることなどが朝鮮鐘の特徴であり、鶴満寺の鐘もよくこの特徴を備えている。 四百五十年ほども続いた高麗時代は、朝鮮民族の歴史の中で、日本との交流が比較的少ない時代であったということができる。東洋陶磁美術館の高麗青磁や鶴満寺の梵鐘は、むしろ前代の遺産として伝えられたといってよい。高麗との交流がより盛んであったなら、当時の日本文化に、いっそうの彩りを加えていたことであろう。 (追記) | ||||||