関東大震災と阪神淡路大震災
1923年の日本人による朝鮮人虐殺は
なぜ起こったか


  日本は地震国です。古来大きな地震は各地でくり返され、大きな被害を与えてきました。これからも、避けることはできないかも知れません。東海沖地震や関東での大地震の可能性が問題となり、地震予知のために研究が続けられ、首都機能の移転も考えられています。しかし、地震は単なる自然災害ではなく、そこで社会の問題がするどく現れてくるのです。

(1)関東大震災

  1923年(大正11年)9月1日正午前、神奈川県沖相模湾海底でのプレートの動きを原因とする大地震が発生しました。

  家屋11万戸が倒壊全壊し、東京ではその後各所で大火災が発生して21万戸が焼失、特に、本所の被服廠跡地に避難していて焼死全滅した3万2千人をふくめ死者行方不明10万5千人を出す大災害となりました。(右の切手は、中層階で折れた浅草名所の「十二階」

  9月1日が防災記念日とされるのはそのためです。

「東京関東地方大震災惨害実況」
(兵庫県篠山市で発見された映像。篠山市教育委員会)

萱原白洞「東都大震災過眼録(1924)
 後ろ手に縛られて連行される白衣のチョゴリを着た人々が描かれている。
この絵巻は、阪神淡路大震災で大きな被害を受けた神戸市内の家屋から発見された。

(2)何が起こったか

  帝都東京が壊滅し大混乱におちいった9月1日の夜から、東京周辺では奇妙なうわさがささやかれはじめます。

  「朝鮮人が暴動を起こして攻めてくる」「朝鮮人が放火し、井戸に毒を投げ込んでいる」。

  翌日、「戒厳令」が布かれ、陸海軍が出動して京浜一帯を制圧、不安にかられた人々は歓呼の声をあげてこれを迎えます。その中で、各所で「朝鮮人狩り」が始まり、警察・軍隊によるもののほか、民間の自警団によって合計約6000人の朝鮮人が捕らえられ、殺されました。ほかに、中国人留学生や、日本人の労働運動家河合義虎・平沢計七が殺され、また、無政府主義者として知られていた大杉栄と伊藤野枝、その六歳の甥の三人が憲兵隊に連行され殺害された出来事は、「甘粕事件」として有名です。

(3)なぜ起こったか

  大混乱の集団パニック状態の中で人々がとほうもない流言飛語を信じてしまったということもありうることです。しかし、なぜそのようなことが起こったかを考えるためには、当時の大日本帝国全体の根本を理解することが欠かせないのです。それは大日本帝国が、五千年の歴史を持つ朝鮮というもう一つ別の国をまるまる滅ぼして、天皇の名の下に植民地支配することによって成り立っていたということです。

  日本側の考えはどうあれ(「韓国併合」条約は韓国皇帝の申し出を日本の天皇が受けるという形をとっていました)、朝鮮側ではもとの皇帝以下誰一人として「武力に屈した」という以外の考えは持っていません。1910年の併合直後から設置が進められていた中国領間島(かんど。中朝国境の北側)の独立軍根拠地には、1919年3・1独立運動と上海での大韓民国臨時政府樹立にともなって、国内から続々と青年たちが結集し、独立軍は、ロシア革命によって生まれたコミンテルン(第3インターナショナル)とも連絡をとりながら
1920年秋には国内進攻を目指すまでになり、春以来、朝鮮北部国境地帯では衝突が始まります。レキシントンの戦いはもう始まっていたのです。

  当時ロシア革命に干渉して「シベリア出兵」中の日本は、まず、沿海州の朝鮮独立運動根拠地を破壊し、次いで、1920年10月、朝鮮駐屯軍、シベリア派遣軍、関東軍が合同して中国領に攻め込みます。これが、日本で「間島出兵」と呼ばれるもので、朝鮮独立軍は青山里の戦いで日本軍と激突し、日本側にも大きな損害を与えました。日本側の司令官は「敵兵力は5000人にのぼり、機関銃を持っている」と報告しています。

  このように、当時の大日本帝国は朝鮮との戦いを必死に続けており、他方、その実状は民衆には全く知らされず、逆に、「大正デモクラシー」の下でのマスコミ(新聞)が書き立てた、日本人に危害を及ぼす「不逞鮮人」のイメージが広められていきます。

(4)結論

  1923年9月3日午前8時15分、内務省警保局長は海軍船橋送信所から全国に無線で「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし…」と打電しました。国民の不満をそらせるために意図的に被害・混乱を朝鮮人のせいにしようとした、というよりは、むしろ、大日本帝国の権力者が危機に際して当時一番手強い敵だった朝鮮人のことを最初に問題にしたのは必然だったのかも知れません。もちろん、朝鮮人の命を救ったり保護した日本人がいたことも事実です。しかし、人々はそんな「うわさ」「デマ」を笑い飛ばすこともできたでしょうに、実際には全体としてはそれを受け入れたのでした。国民が「排外主義」思想−−自分たちだけが優秀だとして、よそ者を敵視、排除しようとする考え方−−に染まっていくのは、この時が出発点になります。

  戦争に際しての捕虜の扱い方、「敵」に対する見方も、第1次世界大戦の時までとは全く変化し、「ロスケ」「チャンコロ」から「鬼畜英米」に至る見方を受け入れていくことになるのです。

  1994年、アメリカ合衆国と朝鮮民主主義人民共和国の関係が一触即発となった時、日本の警察は朝鮮人学校や朝鮮人団体の強制調査に入り、また、東京や大阪では民族学校生徒のチマ・チョゴリの制服に対して暴行やいやがらせが起こりました。かつての「排外主義」思想は、私たちの中に、まだ残っているかも知れません。
 

(5)阪神淡路大震災

 1995年1月17日未明、阪神地方六甲山地南側の断層のずれから起こった地震は、阪急電車や阪神高速道路の高架を横倒しにし、数多くの建物を壊滅させました。また、昼までに神戸市内では多くの火災が発生し、大きな被害をもたらしました。圧死・焼死あわせて死者は6400人にのぼります。

大震災の時の神戸 (写真データ)  神戸大学附属図書館




(6)今度は何が起こったか

  地震の直後から、人々はパニックにおちいることなく、隣近所で助け合ってがれきの下に残された人々を掘り出し、飲み水を確保し、乏しい食糧を分け合ってその夜を迎えました。そこはさながら戦場のようでした。

(自衛隊の部隊出動は遅れました。伊丹市の駐屯地からら最初武器を携行して神戸の王子公園に入った部隊は、やがてスコップなどの道具に持ちかえて任務を果たしました。)

  翌日から、残されたスーパーや生協に人々は黙々と並んで必要なものを分け合って購入します。政府の対応が遅れ、県や市も十分に機能しない状況の中で、人々はみずからの手で助け合い、その様子を見て、全国からボランティアが駆けつけたのです。小中学校や公園の避難所に設けられたトイレの整備清掃が大切な仕事の一つでした。

  この年は、日本の「ボランティア元年」と呼ばれることになりました。

(7)避難所となった東神戸朝鮮初中級学校

  最初、朝鮮学校は指定された避難所ではなかったため、救援物資は届けられませんでした。しかし、東神戸初中級学校には約150人が避難しており、そのうち約100人は近所の日本人でした。建物は倒壊の危険があり、人々は学校のマイクロバスや校庭のテントで夜を過ごしました。朝鮮人団体の救援も、やがて届くようになった県や市からの物資も、人々は日本人・朝鮮人が協力しあい、分け合い、助け合って、互いの生命を守ったのです。70年前とは違う新しい可能性がそこに生まれたのです。

(8)未来に向かって

  神戸は港町ですから、元来外国人も多く住む国際的な土地柄です。しかし、これまでは、必ずしもそのことがプラスの点として十分認識されてきたとは言えません。被害を受けた朝鮮人も、マスコミ報道は昔のままの「通名」であったため、死傷者の確認や救援活動にも支障が出ました。ドイツ人学校や朝鮮人学校など外国人学校は、校舎が全壊しても「各種学校」扱いのため、元来何の補助金も受けられませんでした。(今回の復興に際しては、多くの人の努力で特別に半額国庫補助が認められ、東神戸初中級学校も1998年に再建を 果たしました。)

  日本語のよくわからない外国人たちは、震災の最初、全く情報が失われ、どれほど心細い思いをしたことでしょう。
現在神戸市は、外国人学校の存在こそ地域の財産 、プラスの点であることをしっかりと位置づけ、7カ国語によるFMラジオ局 も開設され、地域の中からの日本人と朝鮮人の連帯も広く根をおろしはじめています。  

1995年1月27日朝日新聞記事「朝鮮学校で共に寝泊まり」

(問い)地震などの災害の時にどこに避難すればよいのか調べてみましょう。
その際、外国人の場合はどうか、障害のある人の場合はどうか、なども考えてみましょう。

  



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