創氏改名の意味するもの

創氏改名への弁護論

「創氏改名を強制したという記述については、これは法令上強制ではなく、任意の届け出によるという建前であり、六ヵ月間に届け出があったのが約8割に上ったことから、かなり無理があったことは確かだとしても、2割がこれに応じなかったことは、やはり法令上の強制でなかったことを示している」(1982年の日本の歴史教科書の検定時の文部省見解)。植民地支配を正当化しようとする立場からは、今もこれとまったく同じ論法が用いられている。後段については、戦後戦犯として処刑された洪思翊中将を創氏改名に応じなかった例として挙げることが多い。

創氏改名の経過

創氏改名は、1939(昭和14)年から準備され、翌40年の2月11日からの6ヶ月間にわたって行われた。最終的に約8割が届け出たことは確かであるが、実は、前半の3ヶ月間に届け出た者は、わずか7.6%に過ぎず、残りの3ヶ月に「かなり」どころではない無理が行われたことが想像できる。なお、1940年は、当時の日本で言う「紀元2600年」であり、2月11日は「紀元節」であった。朝鮮総督府の日本語御用紙『京城日報』は、当日、つぎのように報じている。「いよいよ十一日、けふ紀元の佳節は二千三百万半島同胞にとっては、皇国二千六百年の興隆を寿ぎ奉る佳き日であると同時に、待望してやまなかった“創氏の日”だ。既に手具脛ひいてけふを待ちかねてゐた人は、それぞれ熟慮勘考の末、心ぎめした新らしき氏を天下晴れて名乗り出るのだ」。しかし、行政機関が休日返上で手ぐすねひいて届出を待っていたにもかかわらず、初日の届出は朝鮮全体でわずか48件であった。創氏の届出は戸主にのみ権利があり、当時の朝鮮の総戸数は約400万戸だったので、資格のある人の8万人に1人弱しか初日に届け出なかったことになる。一日中待っても一人も来ないという惨憺たる結果に終わった役所もたくさんあったことであろう。このことは、創氏改名が朝鮮人にきわめて不人気であったことを示している。というより、民族への帰属意識とプライドがどの民族にもあることを考えれば、朝鮮人がそんな届を喜んで出すと考えること自体がどうかしているのである。

なぜ「創氏」なのか?

「創」という字は、「初めてつくる」ことを意味する。事実、朝鮮には「姓」はあったが、「氏(うじ)」というものはなかった。日本でも、「氏」は、それまであった姓や苗字をもとにしながらも、明治維新のときに、戸籍と一体となって「創」られた新しい制度だといってよい。「うぢ」の語源は「生み血」であろうが、法令上の「氏」とは、家につけられた標識であり、戸主および家族はすべて同じ氏を名乗ることになっている。同じ氏であるということは、同じ戸籍に記載されるということと同じことであり、現実的には徴兵や徴税の便宜のために創られたものだといってよい。

 これに対して、朝鮮の「姓」とは、個人の父方の血統を示す標識である。血統は、後天的に変えられるものでないから、朝鮮の姓は、女性が嫁いだ場合を含めて、一生変わらない。日本では養子になると苗字が変わるが、朝鮮では、異なる姓の者を養子にとる習慣はない。また、よく知られているように、同姓(正確には同姓同本)の男女は結婚できない。「姓不変」「同姓不婚」「異姓不養」は、朝鮮の姓の3大原則である。

 朝鮮では、同じ「家」の中にいくつもの「姓」がある。まず、「同姓不婚」なのだから、夫婦の姓が違う。夫の母が同居している場合、その姓は夫婦のどちらとも違うのが普通である。夫が金、妻が李、夫の母が朴という具合である。朝鮮人の戸籍は、すでに創氏改名以前に日本の戸籍と同様に編集されていたが、一人の戸主の戸籍の中にもさまざまな姓があって、朝鮮の伝統を残していた。「創氏改名」の重点は、「改名」よりも「創氏」にあり、朝鮮人の戸籍を日本人の戸籍とまったく同一の形式にそろえることにこそ主眼があったのである。

「創氏」は100%行われた!

1940年の8月が過ぎても、洪中将は、確かに「洪」のままであった。しかし、「趙」という姓であったその妻は、公的には「洪」と呼ばれることになった。これは、朝鮮の伝統に反することだが、これを拒否することはできなかった。「創氏」は、19391110日に出された「朝鮮民事令中改正ノ件」と題する「制令第19号」いう法律によって強制されたものだからである。創氏の狙いは、朝鮮的な家族制度を解体し、日本のそれに同化させることだったのである。

「創氏」には「設定創氏」「法定創氏」の2種類があった。「設定創氏」とは、役所に出向き、「氏設定届」を住居地の長に出して氏の名を設定することであり、その際には日本風の氏を選択するのが当然と考えられていた。「法定創氏」とは、役所への届け出をしなかった者の氏を役所が決めることであり、この場合は、もとの姓がそのまま、氏とされた。洪中将の場合、届出をしなかったので、洪という姓がそのまま自動的に氏とされたのである。創氏改名の前から、朝鮮人も日本と同様の戸籍に登録されるようになっていたが、同じ戸籍の中でも姓はばらばらであった。それが、この法定創氏によって、洪中将の妻の例で言えば、初めて戸籍に「趙」ではなく「洪」という名で登録されることになったのである。創氏はけっして任意ではなく、すべての朝鮮人に一律に強制されたのであり、創氏は100%行われたのである。なお、日本の戸籍は、漢字による登録さえすればよく、読み方は問わない。このため、林、柳、南、桂などの姓の人は、そのまま訓読みすれば創氏したのと同じだから、創氏の届をする必要はないとされていた。

「姓はなくならない」というトリック

朝鮮人の「姓」に対する愛着をよく知っていた総督府は、創氏改名にあたって、「姓」がなくなるわけではない、ということを熱心に宣伝していた。確かに、創氏改名後の戸籍には「姓及本貫」という欄があり、「金海金」とか「密陽朴」とか書かれていた。しかし、それは文字通り、片隅においやられており、目立つところには、日本風の氏しか書かれていないのである。つまり、朝鮮人が強いアイデンティティを感じている姓及本貫はほんの添え物とされ、日本の支配の下で、公的な場では氏のみ使うことが求められるようになるのだから、伝統的な「姓名」は「氏名」の後ろに隠れることにならざるをえなかった。「姓及本貫」は私的な家族内での伝承という意味しか持たなくなるのである。

どのようにして「氏」を選んだか?

それでは、朝鮮人は、どのようにして自分の新しい「氏」を決めたのであろうか? 抵抗の方法の一つとして、たとえば金さんと李さんが姓を交換するという方法も考えられよう。しかし、総督府はそれぐらいは予期していたようで、「朝鮮人ノ氏名ニ関スル件」という名で出された制令第20号に、「自己ノ姓以外ノ姓ハ氏トシテ之ヲ用フルコトヲ得ズ」という一文を挿入している。「姓」というのは朝鮮伝来の姓ということなのだから、「氏」の名前を選ぶときには、それ以外の名乗り、すなわち日本風の名乗りをせざるをえないようになっていたのである。

 日本風の名乗りを迫られて、「犬糞喰衛(いぬくそ・くらえ)」というような、やけっぱちな名前を届けて抵抗したという話がよく伝えられるが、実話としては確認できない。ただ、当時の朝鮮人の気持ちの真実を示す話であるとは言える。しかし、姓の一字を生かしたり、本貫の地名を姓にしたりといった形で、何とか氏にも先祖とのつながりを残すようにする努力は払われた。また、古来朝鮮には姓と本貫の双方をともにする宗族一門が形成する宗親会とか花樹会といった組織があるが、その一門がそろって同じ日本風の氏にするというようなことも見られた。創氏の目的の一半はこのような宗族意識の解体にあった(そこまでする必要があった理由については、「朝鮮の姓はなぜ種類が少ないか?」を参照されたい)のだから、総督府は内心にがにがしく思っていただろうが、創氏の数字実績を上げるために、黙認せざるを得なかった。御用紙の『京城日報』などは、むしろ、このような動きを「壮挙」として右の写真のように、大々的に報じていた。

植民地朝鮮の支配体制と南次郎の野望

帝国日本にとって、朝鮮は最も大事な植民地であった。同じ総督府でも台湾総督府が拓務省など中央の統制下にあったのに対し、朝鮮総督は、天皇に直隷し、天皇の代理人として統治した。総督の出す命令としての「制令」や「朝鮮総督府令」は、そのまま法律として扱われた。「内地」の法律がそのまま適用される(これを「依用」といった)ことも多かったが、矛盾する場合には、制令や総督府令の方が優先された。8代7人の朝鮮総督の中から、初代の寺内正毅総督以来、斎藤実、小磯国昭といった具合に首相となった者が3人もいる。最後の総督阿部信行は逆に首相を先に経験していた。朝鮮は、統治の絶好の試験場だったのである。

 1936年、陸軍大将南次郎が朝鮮総督に着任した。陸軍大臣の経験もあり、総督になるまでは関東軍の司令官だった。着任にあたって、南は二つの目標を掲げた。一つは朝鮮に天皇の行幸を仰ぐこと、そしてもう一つは、朝鮮人に対する徴兵制の実施であった。しかし、朝鮮軍の司令官をも務めたことのある南は、朝鮮人の民族意識の強さをよく知っていた。着任後、ベルリン五輪のマラソン競技で、日本選手として出場し、優勝した孫基禎の表彰台上の写真から、東亜日報が日の丸を削除したことは、南に改めて目標の実現の困難さを思い知らせた。しかし、翌37年に起こった蘆溝橋事件により、日本の中国侵略があともどりのできないところにまできたことにより、南は、当初の目標を達成することを、ますます強く希求するようになった。

創氏改名の最終目標

 南次郎は1942年までの足掛け7年間、朝鮮総督として君臨した。この期間に南がしたことは、創氏改名だけではない。朝鮮教育令を「改正」して朝鮮語を選択科目とし、のちに学校教育から削除したこと。「内地」への徴用を始めたこと。志願兵制度を経て朝鮮人に徴兵制を敷いたこと。一面(一村)に一つずつを目標に神社を増やしたこと。右腕の学務局長塩原時三郎(左の写真)の発案になる「皇国臣民の誓詞」を「皇国臣民体操」とともに学校に強制的に導入したこと。東亜日報・朝鮮日報を廃刊させたことなどが、南の当初の目標に向けてつぎつぎと行われた。ときはあたかも戦争の真っ最中であり、創氏改名の狙いは、朝鮮人を身も心も皇国臣民にして、根こそぎ戦争に動員することにあったそのことは、南自身が述べていることである。退任間際の1942年5月に朝鮮人への徴兵制が閣議決定(実施は44年)されたとき、南は次のように述べている。「今回徴兵制度の形において、内鮮一体の政策は絶頂に達した。顧れば過去のあらゆる努力はここに達するまでの努力であったのである」。

 なお、「皇国臣民の誓詞」には成人用と学童用の2種類があるが、その本質がより鮮明な学童用を紹介しておく、右の写真の南総督の背後に掲げられているのがそれである。

 一、私共ハ、大日本帝国ノ臣民デアリマス。

 二、私共ハ、心ヲ合ハセテ天皇陛下ニ忠義ヲ尽クシマス。

 三、私共ハ、忍苦鍛錬シテ、立派ナ強イ国民ニナリマス。

「皇国臣民」とか「皇民」という言葉は、植民地朝鮮において、まず用いられ、のちに逆輸入の形で「内地」にも広まり、締め付けが行われた。植民地を持つ国の国民は自らも自由にはなれないというが、これは、その典型例といってよい。

「改名」は、確かに任意

 朝鮮人に一律に強制された「創氏」と異なり、「改名」は確かに任意であった。朝鮮人には姓のみあって氏がなかったから「創氏」だったのであるが、「名」はあったので、たとえば昌鎬(チャンホ)を昌高(まさたか)と変えるのは、「改名」と呼ぶほかはない。ところが、この改名は、届け出るだけで認められる「創氏」と異なり、裁判所による許可制であり、手数料まで取られることになっていた。「創氏」のための書類が「設定届」であるのに対し、「改名」の場合は、「名変更許可申請」となっている。

「朝鮮人ノ氏名ニ関スル件」として出された制令第20号には、つぎのように書かれている。「氏名ハ之ヲ変更スルコトヲ得ズ但シ正当ノ事由アル場合ニ於テ朝鮮総督ノ定ムル所ニ依リ許可ヲ受ケタルトキハ此ノ限リニ在ラズ」と記されていた。「氏名」と書かれているのだから、これは、すでに「創氏」をしている人に適用される。当時総督府が下部機関に出した通牒では、「正当の事由」とは、日本風に新設した氏にあわせて日本風の下の名前をつける場合にほぼ限られていた。そんなことは条文にはまったく書かれていないのだが、事実上そうなるところに、支配の狡知がいかんなく発揮されている。「創氏」の届をせず、「金」や「李」を氏とした人(法定創氏)がその後、氏を日本風に変える場合は「改氏」といった。すでに「創氏」の段階で8割もの人が日本風に創氏したのだが、その際届出をせず法定創氏となって「不適当」な氏(金とか李とか)となった人にも、「改名」同様、裁判所の許可を得て「改氏」する道が開かれた。これにより日本風の氏はさらに5%ほど上積みされた。任意であった「改名」は創氏改名の期間が終わったとき、9.6%に過ぎなかった。

差別の対象としての登録

創氏により生まれた氏の中には、朝鮮姓の一字を残したり、朝鮮の地名を用いたりした、それまでの日本の氏には無かったものも多かった。しかし、「創氏」は要するに踏絵なのだから、こういった氏も「創氏」の実績をあげるためには黙認された、というより、歓迎された。踏絵なのだから、すでに日本の統治機構のそれも上層にいる洪中将など、とくに創氏届を迫られることもなかったのだろう。李王家を日本風の氏にさせなかったのも、韓国併合が対等な立場で行われたという建前があったからである。

崔川や姜本という氏は、むしろ総督府にとっては好都合であった。引き続き朝鮮人だということが分かるからである。戸籍に「姓及本貫」という欄を残したのも、朝鮮人の民族意識に配慮したともとれるが、実際は引き続き、差別の対象として登録しておくためだったとも考えられる。「創氏」と違って「改名」は任意だったため、改名した人は1割程度にとどまった。「改名」を許可制にしたのも、個人名で見分けやすくしたいという気があったからと思われる。

 「内地」や中国にいた朝鮮人には、創氏改名の圧力はさほどかからなかった。朝鮮以外のところでは、朝鮮人であることが目立つことが、むしろ日本の支配にとって都合がよかったからである。同じ時期に台湾でも創氏が行われたが、こちらは許可制であり、創氏を申し出ても、日本語が達者であったり、家に神棚を祭っているなどの条件が満たされなければ許可されなかった。中国と戦争中の日本にとっては、同じ漢民族がむやみに日本人と区別がつかない名前を名乗るのは、不都合だったのであろう。

 日本の支配者には、朝鮮人を「同胞」として扱わなければならないという建前と、危険な存在として排除したいという本音とがあり、それが、名前に対する矛盾した態度となって表れている。創氏改名に対して、中央は必ずしも賛成しておらず、南次郎らが独走したと考えることもできる。朝鮮の場合、独走がしやすい統治システムだったことは、さきに書いた。

 日本の占領地が拡大され、そこでも日本の支配が行われるようになると、建前の部分が拡大し、それまでの内地、外地(朝鮮を含む)の区別をなくそうという動きが中央に生まれた。創氏改名も建前論から行われたものなのだから、この内外地行政一元化もその延長線上にあるはずだが、それに正面きって反対したのが南次郎前朝鮮総督だった。このことは、日本の支配者が建前派と本音派に分かれていたというのではなく、一人一人の内部に建前と本音が同居していたことを物語っている。ただ、「身も心も大和民族になるなら日本人にしてやってもいいが、さもなければ排除する」という発想は、戦後の入管行政にいたるまで一貫している。内外地行政一元化については、京都大学人文科学研究所の水野直樹氏のHPの中の"戦時期の植民地支配と「内外地行政一元化」"を参照されたい。

 「なぜ日本に無かった氏を認めたのか?」「なぜ改名の方は強制しなかったのか?」「なぜ20%にせよ日本風の氏を名乗らなかった人がいたのか?」などの創氏改名についての疑問に対しては、植民地当局も80%もあれば満足できたからだと答えたい。当局としては、「創氏」を恩恵と考え、その恩恵を望む朝鮮人が多いはずだと思い込んでいた節がある。ところが蓋を開けてみるとその思惑は大きく外れた。そのため、総督府は面子をつぶされ、統治機構を総動員して、面子の回復に必死になったのである。最初のみじめな思いがなければ、80%よりずっと低い数字でも満足していたかも知れない。届け出期間の後半のわずか3ヶ月間という短期間にあれほどの成果を挙げたのは、総督府自身も思いがけないことだったかも知れない。では、なぜそんな急転回が起こったのかについては、創氏改名の時代がどのような時代だったかを考慮に加えなくてはならない。当時の支配機構のあり方を知らなくては、この疑問はとけない。総督府としては、「俺たちはここまでやっているんだぞ」ということを、数字として中央に示したいという意図もあったのかも知れない。

当時はすでに戦時体制下

 創氏改名の半年間において、前半には1割にも達しなかった創氏届が最終的には8割近くにまで上ったのは、なぜだろうか? まず学校教育の果たした役割が考えられる。創氏をしない家の子供は学校に入れない(朝鮮に義務教育は施行されていなかった)とか、子供が学校で教師ににらまれるといったことが現実にあった。日本への渡航許可を出さないとか、生業のための許認可を出さないということもあった。しかし、最大の理由として、当時朝鮮も日本もすでに戦時体制下にあったことを忘れてはならない。米英との開戦は1941年の12月のことだが、中国との戦争はすでに本格化していた。日本にとって、あの戦争は、どこよりもまず中国との戦争であったことを忘れてはならない。

 戦時中、日本には「隣組」というものがあった。その相互監視体制のもとで、不自由な思いをした日本人は少なくないはずである。38年の国家総動員法の成立を受け、朝鮮でも国民精神総動員朝鮮聯盟(略称「精動」)が成立し、日本の隣組にあたる「愛国班」(約十戸が標準)が朝鮮の坊坊曲曲(津々浦々)に設けられるようになった。精動」の機関紙『総動員』に紹介された忠清南道のある「模範的な」愛国班の日常はつぎのようなものだという。

 戸数十戸家族員数四十名の中、幼児を除き三十一名は毎朝団体的に宮城遥拝を励行し、皇国臣民の誓詞を高らかに朗誦してから、その日の仕事をはじめる。さらにこの班の申合事項としては、夫は勤労貯蓄、妻は節米貯蓄をすること。毎月の愛国日(毎月一日は興亜奉公日=愛国日と制定された)行事の後はさらに墓参も行うこと、さらに男子は奇数日、女子は偶数日に交互に夜学会に行くこと……。

 つまり、植民地朝鮮では、国家への忠誠を「内地」以上にはっきりと示すことが要求されていたのである。このような愛国班が40年春には、朝鮮全土で約40万つくられ、班員は400万人に及んだ。班員とは世帯主のことなので、ほぼ全部の朝鮮人が「精動」に組織されたことになる。創氏届を出せという圧力は、多くこの愛国班を通じて行われた。にらまれたら何をされるか分からないという恐怖感が、雪崩を打って創氏届へと人々を走らせたといってよい。

朝鮮の農村の貧しさ

 植民地下の朝鮮では、人口の80%が農民で、その大半はひどく貧しかった。ほかならぬ『朝鮮総督府統計年報』の1939年版によれば、自作農はわずか17.9%に過ぎず、23.8%が自小作農、52.4%が小作農、2.3%が火田民、3.7%が雇用者であった。日本の植民地統治下で、小作農の比率はしだいに高まり総督府もそれをとめることはできなかった。日本も戦後の農地改革のときまで、自小作農まで含めると小作農の比率は70%ぐらいだったが、問題なのは、その生活の中身である。朝鮮総督府の『調査月報』に載った京畿道の小作農の実例では、1938年にとれた16石の米のうち、11石が小作料に消え、残りの3石を販売して現金化すると、残りのわずか2石が自家消費分となった。これではとても家族五人の需要に足りないので、日常は米を食べず、精麦していない大麦、小麦、粟、大豆などを食べていた。春窮期には30円もの借金をしたが、年利は3割5分という高率だったので、毎年負債が蓄積されてゆくことになる。

 こうしておびただしい数の農民が離村し、流浪することになる。創氏改名の行われた1940年の朝鮮では、、行路死亡者(いわゆる行き倒れ)が3534人もいた。日本も食糧難の時代だったから同じ年に666人が死んでいるが、当時の日本の人口が朝鮮の約3倍だったことを考えると、率から言えば朝鮮は日本の実に約15倍ということになる。餓死者は氷山の一角だろうが、このことは、当時の朝鮮人の多くが日本人以上に食べることもおぼつかない状況に置かれていたことを物語る。樋口雄一氏の「戦時下朝鮮の農民生活史」(社会評論社)によれば、一人あたりの穀物消費量は日本の約半分ということである。強制的な徴用・徴兵を含めれば、この短期間に朝鮮から400~500万人ほどが中国や日本などに流出した。当時の人口の2割ほどにもなる。

 ただでさえ苦しい朝鮮の農民の生活をさらに逼迫させたのは、戦争が深化するにつれ、いっそう取り立てが厳しくなった日本への「供出」であった。自分の生活を守るため、供出を拒否した農民についての報告が各地の警察署から総督府に送られ、今も残っているが、「黄海道逐安郡大城面佐桃面」の「金村相範」氏についての一例を紹介する。

「右者小麦二石六斗の供出命令を受けたるに拘らず供出督励員に対し、『自分は現在種子用として二、三斗あるのみにして供出すべきもの一斗もなし』と申立てしも調査の結果物置小屋の奥の壁を二重とし、その間に大瓶二個に小麦二石位を入れて隠匿しその前面に雑木を立てて発覚を免れんと企ておりし故、所轄逐安警察署に於いて検挙取り調中」。「根こそぎ」という感じがする。なお、「金村」は「金」の創氏名であろう。こういう公的文書では必ず「氏」が用いられていた。「姓」を廃止するわけではないといっても、「姓」で呼ばれる機会を奪っていったという意味では、やはり創氏は強制だったのである。

李光洙の釈明

 創氏改名の初日の届出は、朝鮮全体でわずか48件に過ぎなかったが、その中の一人に、今も「朝鮮近代文学の父」と言われる李光洙(イ・グヮンス)がいた。「香山」と創氏し、「光郎」と改名したことについての「創氏と私」と題するエッセイの中に、つぎのようなことが書かれている。

 「内鮮一体を国家が朝鮮人に許した。故に、内鮮一体運動を行わなければならないのは、朝鮮人自身である。朝鮮人が内地人と差別がなくなる以外に、何を望むことがあろうか。したがって差別を除去するためにあらゆる努力をすることの他に、何の重大でかつ緊急なことがあるだろうか。姓名三字をなおすのも、その努力の中の一つならば、なんの未練もない。喜ぶべきことではないか。私はこのような信念で、香山という氏を創設したのである。これから徐々にわが朝鮮人の氏名が国語で呼ばれる機会が多くなって行くだろう。そのような時に李光洙よりも香山光郎の方がはるかに便利だ。又満州や東京大阪等に住んでいる同胞が、日本式の名をもつことは、実生活の上で、多くの便宜をもつだろう。」

李光洙の創氏改名を、総督府の御用紙『京城日報』は、さっそく翌日大々的に報じた。日本名キャンペーンを行う上で、絶好の材料として利用されたのである。なにしろ、李光洙には、日本の早稲田大学留学中に在日の学生たちによる「二・八独立宣言」を起草したり、三・一独立運動後に上海で設立された「大韓民国臨時政府」に加わりその機関紙『独立新聞』を主宰するといった前歴があっただけに、利用価値は高かった。李光洙の文章には、屈折した民族意識が表わされている。独立の展望を失った今、求めるものは差別の撤廃しかなかったのであろう。しかし、日本の支配者には、朝鮮人の民族性を破壊したいという気持ちとともに、日本人を特権的な地位におき、朝鮮人などを差別の対象として残しておきたいという矛盾した考えがあったのだから、李光洙のこの願いは、裏切られざるをえないものであった。戦後李光洙は、韓国で民族の裏切り者として裁判を受け、無罪にはなったが、朝鮮戦争中に行方不明となった。一説には北の軍隊に連れ去られたのだろうとも言われている。最近韓国では「春園李光洙」(文章を書く人は号を名乗る習慣で、春園は李光洙の号)という映画が作られているが、功罪の両面が描かれている。

李光洙はなぜ変身したか?

 それにしても、李光洙ほどの人物がなぜこれほどまでに変身したのだろうか? そのことを考えるには、当時の状況を知り当時の人の気持ちになって考えなければならない。朝鮮の植民地支配は、今にしてみれば長続きするはずのないものであった。しかし、それは、今だからこそそう言えるのであって、当時の朝鮮人にとっては、永遠に続くもののように思われていたのかも知れない。日本人にしても1945年の8月15日を迎えるまで、軍国日本が倒れるなどと思っていた人は少なかったのではないだろうか? 人間はどんなにいやなものであっても、与えられた条件のもとで生きなければならないときがある。その条件が変えられないものだと思ったときには、そのもとでできるだけ有利に生きようとするのは、仕方のないことなのかも知れない。創氏改名は、その後半において、前半とは打って変わって急速にひろまった。当時の支配体制が総力を結集したためであろう。植民地支配を正当化しようとする論者の中には、創氏届を人に強要した中に、社会的に力を持つ朝鮮人が多かったことをもって、「日本人だけが悪いのではない」と言う者がいる。そのような朝鮮人とて、植民地支配がなかったら、そんなことはしなかったぐらいのことすら考えようともしない。問題は個々の人間の問題ではなく支配体制そのものにある。

 南九州市知覧に資料館として復元展示されている富屋食堂。光山大尉がアリランを歌った部屋もある。

あの神風特攻隊の中にも朝鮮人はいた。飛行機の操縦技術は自発的な意志がなければ身につかない。しかし、自発的な意志といっても、極端に狭い条件のもとでの選択を「強制された」ものでないということはできない。「強制」という言葉が適当かどうかは別として、そのような不自由な選択に隣の国の人々を追い込んだことが免責されていいとは、私は思わない。特攻隊の出撃基地となった鹿児島県知覧で特攻隊員がよく出入りした富屋食堂を経営していた鳥浜トメという女性がいた。出撃前夜、特攻隊員から慕われていたトメさんに出撃前夜にぜひ聞いてほしいといって、「アリラン」を歌った光山大尉の姓は「卓」であった。

朝鮮の姓名を考える

 先に記した「創氏と私」というエッセイの中で、李光洙は次のようなことも書いている。

 「われわれの在来の姓名は、支那を崇拝した先祖の遺物である。永郎、述郎、官昌郎、初郎、所回(巌)、伊宗、居漆夫、黒歯このようなものが、古代のわれわれ先祖の名前であった。徐羅伐、達久火、斉次巴衣、ホルゴ、オンネこういったものが、昔の地名であった。そのような地名と人名を支那式に統一したのは、わずか六、七百年前のことだ。すでにわれわれは日本帝国の臣民である。支那人と混同される姓名を持つよりも、日本人と混同される氏名を持つ方が、より自然なことだと信ずる。」

 結論はともかくとして、李光洙がここで書いていることには間違いはない。今の朝鮮人の姓名は、中国式である。しかし、それは李光洙自身が書いているとおり、広く定着してからだけでも、すでに長い年月を経ており、中国のそれとは異なる独自の分布をしている。金姓は中国ではさほど多くなく、朴姓にいたっては皆無に等しい。そして、その姓名は、朝鮮人の先祖が長い年月の中で自発的に選び取ったものであり、わずか30年の日本の支配の末に半年で押し付けられた日本名とは歴史の厚みが違う。

西欧の人名の多くがギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語に由来し、さまざまな由来を持つ民族がイスラム圏ではアラビア語風の名を名乗っているなど、外来の固有名詞を持つ文化は、世界にはごくありふれている。李光洙とて、どこまで本気であのようなことを書いていたのか分からない。

「在日」にとっての創氏改名

  創氏改名は、南北を問わず、本国に住む人にとっては、もはや歴史の一コマに過ぎない。しかし、今も85%以上もの人が日本風の通名(創氏名)を名乗る「在日」にとっては、決して過去のこととはなってはいない。戸籍をもとにもどす法的措置がとられた本国とは異なり、日本での外国人登録は、戦後も通名を併記して行われた。奇しくも、85%という数字は、本国での最終的な創氏率と同じである。「在日」は、今も日本に住み、その中で生計を立てている。その中で、本名を名乗る難しさは、戦時下にあって植民地統治の過酷さが頂点に達していたときに創氏を拒む難しさに匹敵するものなのかも知れない。創氏改名の意味するものは明確である。日本国家が朝鮮人を外国人としても、日本人としても処遇しないということ以外にその意味を見出すことは難しい。

 戦後も引き続き厳しい差別の中で、「在日」の側が自ら通名を選択してきた面もある。しかし、当初は、朝鮮人側にもそれが「通名」だという意識がはっきりとあったし、日本人側から見ても朝鮮人は言葉などですぐに分かった。しかし、今や世代は代わり、物心ついたころから通名になじんでいる世代が「在日」人口の大半を占めるようになり、本人が言い出さない限り、朝鮮人(韓国人)であることは分かりにくい。かつて植民地支配にあたった日本人の中には、あと20年支配していたら」という者がいるが、彼らの望む状況がいま日本でだけ実現しているのだともいえる。

 在日の多くが通名を名乗っている理由を知るには、その現在の生活の実態を知らなければならない。同様に、創氏改名が強制だったかどうかを考えるには、当時の植民地統治機構とその下での朝鮮人の生活実態を知らなければならない。そのことを抜きに強制だった自由意志だったと争っても平行線をたどるばかりだし、両者の考え方の根は実は一緒だとさえいえるのである。植民地支配を告発する側は、「創氏改名」を含め、「強制連行」「従軍慰安婦」などのトピックでショックを与えるという方法に頼り、植民地支配の現実を緻密に知る努力が十分でなかった。ショック療法はいま限界にきており、そのすきを植民地支配を正当化する側につかれているように思う。

 在日一世の中には、創氏改名の思い出を聞かれて、「しかたないと思った」、あるいは「何とも思わなかった」と答える人もある。しかし、彼らが引き続き日本名を名のる状況にあることをぬきに、この発言についてあれこれ解釈をしてはならない。まして、かつての植民地支配の正当化につなげるとしたら論外である。いま韓国や北朝鮮に住む人に「日本名を名乗れ」と言ったらとんでもない話であろう。自分たちが生きるために選択してきたことが、実は追い込まれた異常な条件のもとでの狭い選択だったという実感を持っているからである。そのくやしさが、日本への反発として今日も続いていることを忘れてはならない。
 今日、日本社会の「在日」を見る目は、戦後まもなくのころに比べれば、ずいぶん改善されてきている。そのような新たな状況のもとで、いままで通り通名でいいのかということを自らに問う「在日」が増えてきている。
李光洙は言った、「内鮮一体を国家が朝鮮人に許した。故に、内鮮一体運動を行わなければならないのは、朝鮮人自身である」と。ここには、不愉快な状況の下で、何らかの形で主体性を示したいという屈折した思いが示されている。今の日本の状況の下で、「在日」には、李光洙のような屈折なしにその主体性を示す道があるものと信じたい。

 なお、本稿は、以下の3著をもとにして書いた。本文中に引用した図版は、切手と富屋食堂の写真(筆者撮影)以外、このうち①からとったものであるが、発行元の明石書店からウェブでの使用についての了承をいただいてある。

①宮田節子、金英達、梁泰昊共著『創氏改名』(明石書店)

②金英達『創氏改名の研究』(未来社、朝鮮近代史研究双書15)

③樋口雄一『戦時下朝鮮の農民生活誌1939~1945』(社会評論社)

★以下は、創氏改名の実施にあたり、朝鮮総督府法務局が出した『氏制度の解説』の巻頭に寄せられた南次郎総督の「司法上に於ける内鮮一体の具現」と題する談話である

歴史的考証に依れば、朝鮮は太古の所謂「根の国」と覚しく、大和民族と朝鮮民族とは同祖同根であって、一串不離の血縁的聯繋を有して居る。而して両民族は地理的環境を異にせる為自ら風俗文物を異にしたけれども、併合以来一視同仁の御仁政に因り内鮮融和統合して本来の一体の姿に還元せんとして居るのである。殊に今次事変を契機として半島民衆が帝国の堅持する確乎不動の大陸政策の中に、共同の理想、共同の使命、共同の運命を感得し、皇国臣民としての国民意識に燃えて真に内鮮一体たらんとする思想動向と生活態度とを鞏化進展して来た次第である。斯くて皇国臣民たる信念と矜持とを抱懐せる半島人の一部に、法律上内地人式の氏を称へ度き希望を抱ける者の生ずるに至ったことは予て余の承知せる所であるが、同祖同根の内鮮両民族が渾然一体たらんとする秋に際り、個人の称呼を同一形式に據らんとする要望の抬頭せることは質と相表裏して形の上に於ても、内鮮一体の具現が高調に達したものと謂はねばならぬ。

此の度朝鮮民事令が改正せられ其の内容は親族法の諸種の点に亙っているが、其の内半島人の真摯且熱烈な要望に対へて半島人が法律上内地人式の「氏」を称へ得る道を拓いた点は改正の重要な眼目であって、内鮮一体の線に沿うた親族法上に於ける画期的改正であると謂うことが出来る。

一体内部精神の充実緊張が十分であるならば、形外観の如何は敢て之を問ふべきでないとも考へられるが、解脱、涅槃の幽玄、縹渺の境地も、其の第一歩は五慾七情を禁圧した肉体の苦行から始まるので、古来心を整ふる第一の捷径は、先づ形を整ふるに在るとも謂はれ、心構の上に及ぼす形の影響は洵に重大なものであると信ずる。

 本令の改正は申す迄もなく半島民衆に内地人式の「氏」の設定を強制する性質のものではなくして、内地人式の「氏」を定め得る途を拓いたのであるが、半島人が内地人式の「氏」を称ふることは何も事新しい問題ではない。即ち往時内地に渡航した多数の半島人が内地人式の「氏」を称へて以来既に二千年を閲して居ることは、「桓武天皇紀」、嵯峨天皇の御代勅命を奉じて撰ばれた「新撰姓氏録」の記載に徹し昭昭として明瞭なる所であって、今日判然其の多数の氏を指摘し得る次第である。而も内地人式の氏を称へた之等無数の半島人は大和民族に薫化融合し、今日寸毫も半島人たる裔を留めて居ない程度に皇国臣民化して居る状態である。故に内鮮一体の理想から謂へば、全半島民衆が近き将来に於て往時の渡航半島人の如く、形容共に皇国臣民化する日の到来することが望ましい次第である。

惟ふに司法の領域に於ける内鮮一体の具現に付ては(一)氏名の共通(二)内鮮通婚(三)内鮮縁組の三項目を挙げ得るが、「名」に付ては昭和十二年以来半島人も内地人も同様の「名」を称し得ることになって居り、内鮮通婚が逐年激増し半島人が内地人の養子となる数も年年逓増することは顕著なる事実であって此の度の朝鮮民事令の改正に因り、前述した如く半島人も内地人式の「氏」を名乗ることが出来又異姓の者も養子たり得ることになったので、内地人も半島人の養子となることが出来るようになったから、前述した三項目が全部実現を見茲に司法上に於ける内鮮一体具現の途は正に完全に拓かれた訳である。我半島民衆の福祉の為洵に欣快に存ずる次第である。

     



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