失われた友好の歴史

1920年代のものと思われる植民地朝鮮の市場。男の子が伝統的な総角(「チョンガー」の語源)をやめ丸坊主になっている。たまたま近所の古書店で買った古い絵葉書より。クリックすると拡大する。
植民地となった朝鮮 一衣帯水の隣国である日本と朝鮮との関係は、倭寇や秀吉の侵略のような汚点を含みつつも、おおむね良好なものだったと言える。ところが、このような関係は、日本に明治新政府ができたことで、にわかに暗転することになった。新政府はその成立当初から朝鮮に対する領土的野心をあらわにし、ついに一九一〇(明治四三)年の韓国併合によって、以後三十六年間、朝鮮を植民地支配のもとにおいたのである。併合当時、人口の大半を占めていた農民から土地を奪った「土地調査事業」、日本人の食べる米を確保するために朝鮮人の食べる米を奪った「産米増殖計画」、祖先伝来の名前を奪い日本式の姓名を強制した「創氏改名」、そしてついにはしばしば命までも奪った戦時中の「強制連行」などの悪夢の連続した植民地時代は、朝鮮民族にとって、受難と屈辱の時代であった。

大阪の発展の陰に 江戸時代に天下の台所と呼ばれた大阪は、明治以後、繊維産業を基盤に近代的な産業都市へと発展していった。しかし、この発展の陰にも朝鮮の犠牲があったことを忘れることはできない。大阪の繊維産業は、江戸時代以来の伝統を持ち、河内平野には一面の綿畑がひろがり、今日の大阪市東部にまで及んでいた。しかし、繊維産業の近代化につれて、綿畑は急速に姿を消していった。繊維の短い在来種は、近代的な工場での生産に適していなかったからである。代わりにインドなどから大量の綿花が輸入されるようになったが、膨大な輸入代金の支払いは、繊維産業の発展にとって、大きな制約となっていた。その窮地を救ったのが、植民地化以降、積極的に栽培が推進された朝鮮の綿花である。このように、朝鮮は、原材料の供給地として大きな役割を果たしていた。さらに朝鮮は製品の市場としても大きな役割を演じた。朝鮮の綿花で日本の繊維産業がうるおう一方で、朝鮮の繊維産業は、日本の綿織物によって、大きな打撃を受けることになった。

植民地時代、吉本興業も朝鮮に進出し、朝鮮吉本興業を作っていた。背景は、当時の入場券。

海を渡る人々 原材料の供給地として、また製品の市場として、朝鮮を大いに活用するためには、海運の発展が不可欠であった。その要請に応え、朝鮮航路をつぎつぎに開いたのが大阪商船(現商船三井)であった。大阪商船は朝鮮航路によって発展の基礎を固め、日本郵船とともに、その後の日本の海運業界を支配することになる。海運の発展は人間の移動をも容易にする。多くの日本人が海を渡る一方で、植民地支配に追いつめられた朝鮮人が生計の道を求めて日本に渡ってきた。中でも大阪には、一九二三(大正一二)年に済州島(チェジュド)との間に直行航路が開かれたことなどにより、特に多くの朝鮮人が移り住んできた。国家の力を背景に朝鮮人に君臨した在朝日本人とは対照的に、在日朝鮮人は、きびしい差別にさらされ、日本人の約半分という差別賃金が生んだ貧しさが、これに追いうちをかけた。

米騒動を描いた
20世紀デザイン切手。

重視された朝鮮統治 明治以後、軍事強国となった日本で、一般民衆の生活の改善は遅々として進まなかった。そのことを物語るのが、一九一八(大正七)年の夏、富山県からあっという間に全国に広まった米騒動である。大阪でも民衆による米穀店への襲撃は激烈を極め、ついには軍隊が出動し、府知事は戒厳令の要請をも考えたほどであった。この米騒動の二年後に朝鮮で産米増殖計画が始められたように、日本の意のままにできる植民地は、国内統治の安全弁として重視され、最大の植民地であった朝鮮を統治する朝鮮総督の地位はきわめて高く評価されていた。歴代の総督の中から、寺内正毅(まさたけ)、斎藤実(まこと)、小磯国昭という三人の首相が生まれており、最後の総督となった阿部信行は、先に首相の座を経験していた。朝鮮で総督に次ぐ地位を占めていた政務総監をはじめ、朝鮮統治に大きな役割を演じた者の中に、その前後に大阪府、市の要職をつとめた者が多かったことも、大阪と朝鮮との関わりを考える上で、忘れてはならないことである。

大阪事件」の評価 植民地化により朝鮮の近代化は、ひどくゆがんだものとなった。朝鮮人自身の手による近代化の努力がなかったわけではない。専制的な朝鮮政府の内部からその打倒を計画した金玉均(キム・オッキュン)のような人もいたし、一時は完全な自治を政府に認めさせた全琫準(チョン・ボンジュン)らの甲午農民戦争もあった。このような近代化の努力を圧殺した上に、日本の植民地支配は成立したのである。

金玉均 大井憲太郎

 一八八五(明治一八)年、薩長藩閥政権の打倒をめざしていた自由民権運動の急進派である大井憲太郎らが、金玉均らを支援して朝鮮政府を打倒しようと、朝鮮に渡る計画を立てたことがあった。その狙いは、当然予想される中国(清)の介入に対する日本国民の反発を利用して薩長政権を打倒することにあった。しかし、計画は事前に漏れ、首謀者は大阪で捕らえられ中之島監獄に収監された。世に言う大阪事件である。これが志をともにする者どうしの国際連帯なのか、自国の改革に他国を利用しただけで結局は侵略の露払いを演ずるものに過ぎなかったのか、研究者の評価は今なお二極に分かれている。問題のかぎは、大井らが日朝の政治状況をどれだけ正確にとらえ、金玉均らとどれだけ意思の疎通ができていたかにある。百年以上も前のこの事件は、近代における日朝関係のあり方がどうあるべきだったかという問いを、今なお発し続けている。

 背景は、旧朝鮮総督府の建物(1978年撮影)。戦後も長く韓国政府の中央庁や国立博物館として用いられたが、激論が交わされたのち、1995年から96年にかけて解体された。前にあるのは朝鮮王朝(李朝)時代の王宮(景福宮)の門(光化門)であるが、わざわざその真後ろに無粋で威圧感のある建物を建てた神経はいかがなものであろうか? 今では、光化門をくぐればすぐに広々とした王宮が見渡せる。
     

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