外国語が話せる悲しみ
信太 一郎

 

上海の古い街並み。近代化の進んだ今では
だいぶ消えていると思う。筆者撮影。
 1979年の夏に、中国に行ったことがある。中国が外国人観光客を積極的に誘致し始めたころのことで、風の吹くまま気の向くままとはいかず、教師ばかりの団体旅行であった。団体旅行だから当然通訳がつく。若い通訳が多いのだが、みんな驚くほど日本語がうまい。なまりもあまり感じられないし、語彙も豊富である。日本人を案内することを二、三年も日常の仕事としてこなしていたら、上手にもなるのかも知れないと思ったものである。私たちの団体の全行程を案内するのは二人であった。一人は日本語がぺらぺらの若い通訳だが、もう一人は日本語がほとんど話せない中年の人である。責任者はもちろん中年の人で、われわれの団長と通訳を介して日程を決めていた。きわめて人当たりの柔らかい感じの人であったが、筋金入りの共産党員だという噂もあった。 若い通訳は熱心に日本語を勉強する人であった。「水が飲みたい」と「水を飲みたい」はどう違うのかという質問を受けて往生したこともあった。観光地につくと、向こうには向こうで待ち構えている通訳がいる。全行程を同行したりせずに、その土地を専門に案内する人である。一度だけある町で現地の通訳が突然かわったことがある。病気との説明だったが、あまり日本語がうまくなくてかえられたのではないかという憶測がわれわれの団体の中では交わされた。厳しい話だと思う。

 行程の最後のころに無錫という町を訪れた。そこでわれわれについた現地の通訳の話し方にはっとした。かすかに朝鮮語のなまりがある。もう初老の人だが、面影がよく知る在日一世に似ている。日本語は何でも話せる。日本人を笑わせるつぼや間合いを心得ている点では、それまでの若い通訳とは格が違う感じがした。ところが、中国語で話しているのを聞くと何か変なのである。中国語が話せない私などが言う筋合いではないのだが、日本語より中国語がはるかに下手くそなのはすぐ分かる。

筆者撮影
無錫のホテルの窓から見た太湖。日本で見たことのない美しさだと思い、なぜかと考えてみたら、商業広告の類が見えないからだと思い当った。しかし、この点も今では変っていることだろう。
 無錫郊外には太湖という琵琶湖に数倍する大きな湖がある。湖面を遊覧船にのり、湖中島で休憩した。そのとき、老通訳は、団体全員の前で文化大革命のときの思い出話をした。太湖の湖面には江蘇省と浙江省の省境がある。文化大革命のときには、江蘇省と浙江省の漁業委員会がひどい対立関係にあった年があったそうである。革命前は両方から魚を追い込んで双方大漁ということがよくあったそうだが、その年には相互の連絡がとだえ、ばらばらに出漁していたという。すると、江蘇省の船に追われた魚は浙江省に逃げ、浙江省の船に追われた魚は江蘇省に逃げるという調子で、両省ともに記録的な不漁になってしまったという。「魚というものは、僕は江蘇省の魚だから江蘇省だけ泳いでいようとは思わないものなんですね」と、いま初めて分かったような顔でいう老通訳の言葉に一同爆笑になった。

 無錫を去る直前に私は思い切って聞いてみた。「なぜそんなに日本語がお上手なんですか?」 ぶしつけな質問だったように思う。老通訳は一瞬暗い顔になった。「昔、満州で日本の学校に通いましたからね」というのが答であった。「朝鮮族でいらっしゃいますか」と聞こうかと思ったが遠慮した。上海では民芸工場も見学した。そこでも日本語がぺらぺらの老人が働いていた。私ではないのだが、なぜそんなに日本語が上手なのかという質問に、好々爺然とした笑顔を浮かべたまま、「昔、日本の方のお宅で長年御奉公させていただきました」と答えた。こんな日本語は終戦の翌年生まれの私でもすらすらとは出てこない。

 結局、老通訳が朝鮮族だったかどうかは今も分からない。ただ、旧満州で日本語教育を受けた年配の朝鮮族が、中国が日本からの観光客を誘致するようになってから、きわめて重宝されていたことは確かである。中国には約二百万人の朝鮮族が暮らし、多くは朝鮮との国境付近に住んでいる。日本の植民地支配下で中国に逃れた人が多いが、そこもまた、日本の支配下に入ることになったのである。

 それにしても、老通訳はなぜ魚の話をしたのだろうか? もし、朝鮮族ならば、むかし日本人としての教育を受け、今は中国人として暮らしている、自分はどこの魚なのかということが言いたかったのかも知れない。日本人にとっては外国語が話せることは喜び以外の何物でもない。しかし、外国語(厳密には非母語)が話せることが悲しみである人も世界にはあちこちにいるのである。
     

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