全朝教大阪95年度第1回シンポジウム討論
 

(リャン・クジャ)

 わたしは3年前から住吉高校で朝鮮語科の講師をしていますリャン・クジャです。住吉高校では、合格者登校の日に、約400名の合格者とその保護者に対して説明会を行っているのですが、初めは学校のシステムを説明します。その中で、わたしたちが履修カードと呼んでいるものに名前を書く欄があるのですが、その履修カードに書いた名前が学校で使われる名前になります。その際に、朝文研で活動している朝鮮人生徒が、新入生に「本名で学校に通ってほしい」ということをアピールする場を設けています。過去2年間は、生徒と日本人の顧問の先生が話していたのですが、今年初めて生徒2名と、わたしが話しました。1年目は、その話を聞いて本名にしようと思った子は、かなり少なかったのですけれども、今年は3年目を迎えて、先輩の話を聞いて、本名にしようと思っている子が実際に決定したという事実があります。

 今年初めてわたしが話したのですが、みなさんよく話を聞いてくださいました。個人的に強調したいなあと思ったのは、100名近い在日朝鮮人生徒がいる住吉高校で、やはり朝鮮人の先生がいるという安心感を与えたい、親にもそうですけれども。小中の民族学級を経てきても、高校で本名でなくて通名にしてしまう子とか、かなりたくさんいますので、 その辺で、まずは安心して住吉高校に通ってきてほしいということを提起したいなあと思いました。

 それと、長い目で見て、卒業するまでに本名にした人もいるよということを伝えたいな あと思って話しました。今年は、その中で、普通科の迷っていた生徒が本名にして、今も朝文研で活動しています。

逆に、その話を聞いて、朝鮮語を受講するときには、必ず本名を書かなけれぱいけない ことになっているという話だと勘違いして、普通科の自分は朝鮮語を受講しないのだからと(朝鮮語授業は国際教養科だけなので)、履修カードに通名を書いてしまった生徒もいました。逆効果と言いますか、悲しい現実なのですけれども……。

それでも、生徒や親たちに、考えるきっかけになっていると思います。今年は3名話したので10分とってもらいました。状況としては、朝鮮人生徒だけを対象にして企画されたものではないので、かなりしんどい部分もあるのですが、合格者登校のときに、きちんと話をすることの成果は大きいと思います。

 それと、本名で通っている子自身がこうやってしゃべることによって、大きな自信になったりしているみたいですし、今後も続けていければと恩います。いろんな、他の学校でも実現してほしいと思います。

(田村) どうもありがとうございました。指名しまして失礼しました。

 討論の時間が約1時間足らずですが、印藤さんの提起を聞いていまして、結論を出しにくい話になるなあと感じているのですが、せっかくこうした問題提起を受けたわけですから、それぞれの現場と照らし合わせながら、ご意見を出してほしいと思います。まず最初に小中の現場での議論から始めたいと思います。花峯の方から紹介のありました資料等についての意見とか、質問でも結構ですから出してもらえませんでしょうか。統計に表れた数字の裏には、実際にこういうことがあるのだといった報告でもいいですが……。

(宮木) 司会者と目が合ってしまいましたので発言します。平野小の宮木です。

 現場の正直な状況を話したいと思います。 昨年、市外教の本名記載アンケートが出まして、わたしは東南プロックなのですが、市内の他地域と比べて数字が低いということでした。わたしの学校でも、公簿については本名 記載に充分に取り組めてなかったという実情があります。

 今年の4月の職員会議で、全帳簿について本名記載をしようと論議をしました。たとえ ば、東大阪市から転入してきた朝鮮人の子どもには、本名のゴム印も送られてくる。本名 記載をキッカケに、児童印も含めて全部本名印にしてしまおうということに踏み切りまし た。でも、なかなかですね。いままで、本名記載はしているのですが、順番は通名記載の 順番で、名前の番号を打っている状況だったのです。ともかくがんばって、出席簿など子 どもの目にふれるところも含めて本名記載にしました。今年からの実施ということになっ たわけですから、2年生以上の子どもたちなどの場合は、かなり混乱が起こりました。というのは、歯牙検診の場合でも、民族学級に結集している子どもたちの本名は、他の子どもたちにもよく分かっていますが、未結集の子どもたちの本名は知られていません。今まで、通名で「きむら」と言っている子が、本名では「パク」で、名前を呼ばれるのがかなり後になる。「これはどういうこっちゃ。」「あの子は何でや。」ということになってしまう。職員会議でも、その問題が質問として出てきました。共通理解に時間はかかりましたが、なんとか意思一致して本名記載にしました。

 平野小の在籍は朝鮮籍、韓国籍合わせて42名です。日本籍の子どもが何人かいますから、何人かという表現はあいまいで申し訳ないのですが、そのダブルの子どもたちも含めれば50名を越えています。その中で本名の子どもは3名です。少ないです。2世の親から生まれた3世の子どもが中心なんですが、カヤとかカナなど、日本語読みをしても母国語読みをしても同じ音になる子どもについては、わりあいスムースに本名に移行している。親も意識してそう名付けている感じもあります。

 民族学級では本名を名のるという子どもたちが31名いるのですが、友だちとか親の関係もあって、ほとんどの子どもが学級では通名です。 「通名が本名なのです。」と、親の会でそう言い切る親もあったりします。本名についての説得が、親に対して非常にしにくい状況になっています。こうした状況ですが、日本人の子どもを変えていく、教職員集団の意識変革も含めたところで取り組みを進めていきたい。その中で親が反対していても、家ではともかく、教室では、学校生活の場面では本名でという子どもも出てきています。

 先程提起のありました本籍欄削除の問題ですが、朝鮮人生徒の就職をめぐる厳しい状況 で意見は言いにくいのですが、同和教育で言われてきた本籍欄削除の問題と、在日朝鮮人 教育、民族実践で追求してきた問題とは、質が異なると考えています。と言うのは、“本名を呼び名のる”'実践は、少なくとも、社会や企業で本名で生きられる主体を作っていこうということから始まった実践なのです。その実践を最終段階で断ってしまうというのはどうかということです。

 今回の動きを見ていまして、同化主義は植民地支配の歴史の中で生まれ、戦中戦後を通 じた民族差別の結果として同化ということがあったのですが、今回の傾向というのは、運動体も入った中での、いわゆる新しい同化主義的な色彩も感じます。"新同化主義"と言いますか、そのような危険性も持った内容ではないかと考えています。

 ちょっと話をもどしますが、平野小と平野北中との小中連携は、たとえば、民族学級・朝文研で学ぶ子どもたちが、いっしょに朝鮮の遊びを通じて交流したり、料理会の中でふれ合ったりしています。そうしたものから、本名実践を小中合わせて追求していきたい。親にも支えられて取り組んでいきたい。

(田村)

 ありがとうございました。本籍欄削除のことについての提起もありましたが、後で時間をとりますので、そこで論議を噛み合わせていただければと思います。中学校の現場からの意見を求めたいと思いますが・・。特に、高校進学のことと関わってどうでしょうか。

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 願書に書くときは、基本的には、本人が高校に入っても本名を使っていこうという子は本名で、通名のつもりの子は「本名(通名)」の願書・調査書になっています。基本はそうなのですが、どの担任もきちんと本人に確かめているかというと、そうじゃあなくて、たいてい中学校の生活でずっと通名できた子はそのまま通名で書くという担任が多いのではないでしょうか。きちっと「どうする?」と聞いている担任が全部ではなくって、たぶんかえって少ないと思います。

 小学校のときから、あるいはそれ以前から家族で、家の方針として、一家で本名で来ているという子は、高校もそれでいくんですけど、中学校の朝文研の活動の中で本名になった子は、やはり、すごく不安なもんだから、どうしても通名で受験というケースも少なくありません。そういう子達は・周りの友達を知って、友達がどういうふうに自分をみているか知って、やっとこさ本名になった、クラスとか学年とか、クラブの取り組みのある中で本名を名乗ってきた子であるので、他の地域ヘー人で行ったときに、周りの人がどうなんか分からないときに引っ込んでしまう。特に、高校受験というすごい、生まれて初めて試されるときですから、ほんとにそのときには神経質になるんですよ。名前だけじゃなくて、学力の面でもそうだし・名札にしても、前日に忘れ物が無いかという確認、また願書を取りに行くときも、どれだけ緊張していくかということもあるし、だから、それ以上に私らとしては「本名でがんばり!」といった精神的な負担というのはかけられないんですね。彼らは、もうカケているからね。自分が 合格できるかどうか、自分の力でいけるのかどうか。

 そこで本人が、それでいくという、それであれぱいいんだけど、「がんばってこうした ら」と勧められるかというと、どうか。本人にはすごく負担にならないかなと思ってしま う。だから合格して、高校に入って、「どうする?」と言われれば、「やっぱり本名でいこうか」と思う子もいるのでしょうが……。 受験の段階ではどうでしょうか。

(田村)

 受験の段階と、合格したあとの高校での生き方を考える段階とでは、かなり落差がある。別の課題として考えなければならない、こういうことでしょうか。

 他に小中の現場からの意見が無いようでしたら、テーマはフリーにしたいと思いますが 宮木さんの方から、小中で本名実践を進め、本名で生きる、その子が生涯朝鮮人として生 きていくことの出発点の意味を持つ本名実践を進めてきた。それが就職をめぐる書類を書いていく段階で、それらを無くしていくといった意味を持っ「本籍欄削除」「氏名欄への通名記載」を、どう捉えたらいいのかということで、意見を述べられましたが、そのへんの問題について、議論を深めたいと思いますがいかがでしょうか。

(乾)

 すみません。さっきのことに付け加えて。

 中学校の教職員だったら、たぶん知っておられることなのですが。それは、多住地域ではちがうのですが、少数在籍校からの受験の場合のことです。公立高校を受ける場合には中学校で通名を使っていても、朝鮮人生徒の願書には「本名(通名)」を記入するんですよね。その願書を出すときに生野などの多在籍校の子どもたちは、朝鮮人であることにあっけらかんとしていますから、いっしょにバアッと出しに行くんです。願書を出すときに、同じ学校の子がかたまって行くということは、受験番号がつながるということで、受験のときにいっしょにできるんですね。友人たちが並んで座って受験できるということですごく落ち着くんですね。前にも後ろにも友人がいるわけですから。ところが願書を出すときのことです。みんな並んで見ているわけです。それに本名がついているんです。それを見せてもいける子と、そういうのは他人に見せたくないという子もいます。少数在籍校の朝鮮人生徒で、本名を知られたくないがために、別の日にポツンと願書提出に行くんです。わざと離れてね。そうするとその子は受験番号が離れてしまいますから、ポツンと席に座って受験することになるんです。たぶん そういう現実が、生野・東成以外のところで                 は、普通にあるのではないかと思う。そういう状況も知っておいていただけたらと思って 発言しました。

(宮木)

 具体的な話をします。前の学校で6年生の子がいて、職員会議では卒業証書を全部本名 で書ききっていこう、そのために親に説明しようということを確認しました。その子は親 から韓国籍ということを聞いていない。家で朝鮮にふれていない。だから「こんなことを 子どもに言ったら、もうどうなるかわからない」そう言って、親はビビッている。ところ が、子どもは冷静だったです。未結集の、朝鮮をくらまして生きているように見えても、 6年間のサラム実践の成果が子どもに入っている。親が逆に、そういう子の冷静な態度か ら、自分自身が問われたということもありました。原則的な"本名を呼び名のる"実践とか、授業の中での"朝鮮にふれる取り組み" が、どこかで生きてきています。

(パク・ホンギュ)

 今、乾さんの話を聞いて驚いています。ぼく自身・悪いことをしてきたのかなと思った りしています。中学校では!年から3年まで持ち上がるかたちで、3年単位の担任のローテーションが組まれることが多いのですが、3年生を受け持つときに、公立高校を受ける子どもについては「本名(通名)」にする。これも二転三転したのですが、教員になって何年かはそうしていましたが、途中から本名しか書かないようにしました。第5学区ですので住吉高校も入っているところです。

 教員になって、赴任校は2校目ですが、1校目の在籍率が30%、今は18%です。だから朝鮮人の子どもは朝鮮人であることをそんなに隠しませんし、と言って本名かというとそうでもない。通名でありながら、小学校から地域で在日朝鮮人ということは、ほぼ分かっている。9割方ですけど、互いにそうだろうと知っている。

 高校の願書の件ですけど、本名で書きました。もちろん、生徒にそのことを言います。「これは公文書なのだから本名しか書かないよ。」と。だけど、私立の高校を受けるときは通名を書きます。いろいろ背景はあるのですがね。「高校へ行って、高校の窓口の先生にいろいろ言われるかもしれないけど、そのときちゃんと答えるんやで。『こうやって本名書いてあるけど、これは中3の担任が書いた。自分としては通名で行きたい』そう、自分で決めていることを言いなさい。」というようにしてきましたので、そのことがよかったのか、悪かったのか。同僚の、わたしの横におる教員たちは、いろいろ議論していますけど、本名(通名)ですね。そう書いています。ぼくは議論の中で、自分としてはこうだと言います。

 もう一つ、出しに行って、受験番号を飛ばして、というのが少数校ではあるという話で すが、ぼくは知らなかった。東大阪の中学校でどのような状況になっているのか、具体的 に調査でもして分からないかと思います。と言いますのは、あまりにも、それは、子ども にとって悲惨な現実ではないかと思うからです。自分がわざと離れて受験しなければなら ない。自分の書類に本名が書いてある。その本名というのは自分が朝鮮人であるという証である。その証を友人に知られたくなくて、それがプレッシャーになる。受験時のデリケートな生徒の心理というのは、何回か担任しまして、自分でも分かっているつもりですがこれは、根本の大事な部分だなと思います。

 最後に近畿統一応募用紙のことなんですが不勉強ではありますが、意見を言います。 印藤さんが「人格の一部としての名前」と言われました。ぼくもそのことについては全くの同感です。本籍欄を削除をすることによって差別がなくなるわけでもないし、削除云々は無関係ということでした。なくなることが、たいしたことではないんだ。要は差別の口実を与えないために削除する、そういう議論ですね。そういう軽いもんなんだったら、残したらいいじゃないか。ぼくが、何故、あえて反対の意見を言うかというと、ぼく自身の体験でも、残念ながら高校のときは通名だったわけです。一般的に言って、通名を書くという行為が、就職の段階で、朝鮮人の子どもに与える人格的影響というものを考えた場合、積極的なウソではないのですが、やはり自分の気持ちを偽っている。あたりまえのことだけど、自分が就職という社会への出発点のところで、本名でなくて、通名でごまかすというか、そうすることで受験していくという、そのことによる人格的影響は、かなりの部分があると思うのです。それがその子の成長に与える影響は、深刻なものがあるのではないか。自分の体験を振り返りながら、そう思います。

(石井)

浪商高校の石井です。

今、私学の方には、通名を書いた書類が出されるということなんですが、それはそうされるにふさわしいような私学の現実があるのかもしれないのですが、やはり、私学に対する偏見に基づいているような気がします。

われわれ、82年から私学同研の中にも在朝研という現場の教員の集まりを作って、なんとかして"本名を呼び名のる"実践を広げていこうと取り組んできているのです。多くの学校では、朝鮮人の子どもの在籍がわからない。それで、願書や調査書の中のカッコつきであろうが、ともかく本名を捜し出して、子どもたちと"本名を呼び名のる"関係を作ろうと努力している教職員が、何人か点在しているのですね。その教職員たちの思いということから言えば、本名を書いてほしい。カッコつきでもいいですから、朝鮮人ということが分かるようなかたちで送ってくれると、われわれとしてはありがたいと思うのです。

私学同研の中でも実態調査をしているのですが、本名と、カッコつき本名といって日本語読みの本名、通名というように分けて調査していますが、やはり本名は10%にもならないのです。82年から、その数字が動かないのです。調査の中で必ず出てくるのは、「日本人と同じようにしているのに何が悪いんや」というような、迷惑そうな反応がものすごくあって、何とかそこを克服しようということで、毎年毎年その数字を発表しながら現場に返していっています。

そのアンケートの中の間題点というのは、カッコつき本名(日本語読み本名)の多さ、それが変わっていかない。高校の現場で、教職員が関わるんだけど変わらない。また、各学校からの報告で、韓国籍か朝鮮籍かが分からない。そういう現場の状況で、朝鮮人の子どもたちが分断されていっているのに、いっこも教職員の方が呼応していない。そういう問題点が続いている。

ただ先程言いましたように、少数の教職員がアンケートをもとに、中学校とのつながりを求めて、なんとかして"本名を呼び名のる関係"を作ろうとしていますので、ぜひ、中学校の教員の方の認識を改めていただきたいなと思います。

わたしは今、3年生を持っているのですが建国中学校から来た子どもが、浪商高校で初めて、3年間本名で生活し続けています。その子が入学するに当たって、ぼくらは建国中学校の教員に、いろいろ話をしてもらいました。実際にその子を抱えて、「生年月日をどないするんや」と、元号の問題について話し合ったり、入学式、卒業式、体育祭の日の丸ぼくらは仲間うちでは"血の丸"と言ってるのですが、それについても論議することを、今し始めているんです。2年生にも、鶴見橋中学校から本名の子どもが来て、その子の入学についても、鶴見橋中学校の教員から中学校での取り組みのようすを語ってもらいました。今年1年生でも、ウチの付属中学校から上がってきた子どもなんですが、この子はカッコつき本名(日本語読み)なんですが、1人在籍していて、全学年揃っているわけで、今、"本名を呼び名のる"関係を広げつつあるわけです

ウチの学校では3年生で、選択の時間に朝鮮語をやっていますので、今年5人の子どもが、ウチのクラスの本名でいっている子どもを含めて、週3時間の勉強を始めているのです。また、その本名の子どものオモニに案内してもらって、猪飼野のフィールドワークをしようということで、今度の77日に、ウチの教職員10名ほどが参加して勉強会を計画しています。

ウチだけでなくて、私学の各学校で、一歩ずつの取り組みを進めていますので、そういった点からも、小中高の連携をめざして、よろしくお願いします。

(田村)

私学からの貴重な意見をありがとうございました。今日のようなこうした場をもったからこそ、つき合わせと言いますか、互いの思い込みの部分を正していくことができるということだと思います。

(高松)

わたしは4年ちょっと前に、公立高校を退職していますので、話が古いのですけれどもさっき乾さんから、少数在籍校の朝鮮人生徒の場合、別の日に願書を持っていくという話を聞きましたが、わたしが高校で入試の受付をやっていた経験では、そういう在日朝鮮人生徒に限らず、いろんな家庭の子どもが受験してくるわけですから、その点の配慮はそれなりに技術的にやっていたわけです。どういうふうにやっていたかというと、会議室で机を置いて受付をするのですが、受験生は必ず部屋の外に並ばせるようにしていました。願書を出す一人だけが、受付の机の前へ来るようにしていたのです。

以前、住民票は、ほとんど青焼きで、登録済証明書だけが白い紙のときがありました。青い紙を持っていれば日本人、そういう印象を持たれるようなことがありました。そこで必ず、全部外へ出して、一人ずつ入れるようにしておりました。いろんな事情の子どもが受験に来ます。こっちで控えをとる必要のある場合もあります。他府県の子どもとか、いろんな事情で書類が不備であるとか。ですから、中学校の教職員が受付の場所をご覧になって、ぜひ高校の教職員とも話し合われて、もし、不注意にやっているような学校があれば申し入れられればどうでしょう。

わたしがおった学校が、それで万全であったかと言われると、それは分かりませんが、それなりに配慮をしていたと思います。だから、生徒間でそういうプライバシーが漏洩するようなことはなかったように思います。技術的に解決できる問題は、そのようにすればどうでしょう。

(田村)

討論のテーマをしぼらせていただきます。印藤さんのレジメの近畿統一応募用紙に関わるところで、その提起にある「調査書に本名を書くことに伴う問題点」、それをめぐっての意見。本籍欄がなくなった場合に、それまで本名指導をしてきた現場の教職員が、具体の就職を前にして、そこに本名を書いていけるのか、いけないのか。通名にするのか、しないのか。そのへんのところをどう考えるのか。そういう問題が明確になってくると思うのです。今のところは、本籍欄があるので、そこへ国籍を書く。だから、名前も本名ということで常態化している。ところが、それがなくなるわけですね。その問題をどう考えたらよいのか。

それから民闘連の見解が出されています。積極的に本籍欄をなくすことの評価が、たとえば「このことを契機にして、就職差別が起こる。つまり、通名記載をする生徒が多くなることによって、ひょっとして就職差別事件が起こるかもしれない。そのことが、今後、新たな就職差別糾弾闘争を展開し、切り拓いていく契機になり得るんではないか。」という趣旨の、ある意味では、本籍欄をなくすことの積極的評価として出されていて、そのことについてどう考えたらよいのか。参加者の意見があれば、お聞きしたいと思いますがどうでしょうか。

(内山)

花峯さんから報告がありましたが、本名の間題をハードの面で捉えようということでした。つまり、制度、システムのかたちでね。本名をきちっと位置づけ、それを通して、外国人は外国人であって当然なんだと。そういう民主的意識、人間としての尊厳ということ。本人の意思いかんに関わらず、制度的に、システム的に、まず確立することが当然なんだそれが教育をあずかっている者の、当然の責任ではないのか。その制度を担っている側の教委も含めたそういうシステムをきちっと整備していく任務があるということだと思うのですね。

だからこそ、指導要録に始まって、出席簿から健康診断票などなど、全部そうなっている。近畿統一応募用紙では、最後の段階でシステムを崩そうということになりかねない。っまり、本籍欄をなくすということで、小学校からずっとシステム的に外国人は外国人として位置づけをしてきたのに、最後の段階であいまいにしてしまう。それは本名の間題とセットになっている。だから、本名をあいまいにしていくということで、それでいいのかという問題が一つです。

二つ目に、民族学校(この場合、1条校として認められていない朝鮮学校では近畿統一応募用紙を使用していないので、建国学園・金剛学園を指している)の出身生徒はどうなるのか。彼らは本名でしか学校生活を送ってきていないし、当然、本名記載である。こうして、日本人学校と民族学校との間に分断を持ち込むことにもなりかねない。

三つ目に、先程の印藤さんの報告にありましたように、民闘連が、「あてはめ方式」や「抱き合わせ方式」(「日本人とのセットなら受け入れましょう」という企業の採り方)を批判されているのは、当然でしょう。けれども、本籍欄をなくして日本人か朝鮮人か分からなくしてしまう。もちろん、本名記載でなく通名記載になる。そういうようなかたちになって、差別が満ち満ちているであろう企業社会で、それに迎合するかたちで、別の意味での「あてはめ」を行っていくということになりはしないだろうか。もしもそういう新たな「あてはめ方式」ということなら、先程ご意見があったように"新同化主義"と言われてもし方がないことになるのではないか。

あるいは、本籍欄をなくすことや本名の間題はたいしたことではなくて、企業に入ってから闘えばいい、差別が起きたときに闘えばいいというような問題なのだろうか。

そういうようないろいろな疑問点が、今日の話を聞いていて出てまいりました。

私どもの天理大学での差別事件のきっかけは、「お前、なんで日本の名前にせえへんのか」と、在日朝鮮人の学生に言ったということから、問題が始まりました。学生の本名をどうするのか、現在でも大きな問題になっています。大学の場合は留学生が多いですから、国籍が別であれば、当然名前だって別である学生たちの基本的な考え方はそうなっています。ところが、在日朝鮮人の場合はそうならない。全て本名ということになっていないのです。個々の学生の具体的な事情、親とのことなどがあったりしますからね。ただ、大学の方向としては、本名の方向に進めていこうとしています。

企業へ送り出す場合と、進学の場合とでは一調査書への氏名記入の方法がちがうといっことでした。それについても、教育の観点から言って、はたしていいのだろうか。その進路の面における二つの取り扱い方の原則といったものを、いったいどう考えたらいいのだろうか。そうした問題も出てくると思います。

(田村)

時間の関係でまとめを行うことがきませんが、本日のシンポはこれで終わりたいと思います。みなさんご苦労さまでした。


       
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