全朝教の旗を掲げて

稲富 進

                         (1983〜87全朝教会長
                    1987〜95同事務局長
(1)1983年4月24日
 
 「在日朝鮮人教育は、日本人児童・生徒に対し、朝鮮民族をはじめアジアの諸民族との友好・連帯を深め、平和を築いていこうとする資質を育てる日本人教育そのものである。わたしたちは日本と朝鮮との歴史的関係を踏まえた、正しい朝鮮認識を育てるための教育文化活動を創造し実践する。」――― 1983年4月24日、わたしたちはこのような活動方針のもとに、「全国在日朝鮮人教育研究協議会(全朝教)」の旗をかかげた。

 在日朝鮮人に対する<同化と排外>の政策がひきおこす、日本社会の民族差別を克服する教育運動と実践を創造し、真の民主教育を確立することをめざす全朝教は、全国13都府県から約500余名のなかまを迎えて組織の結成をみた。1979年以降3回の全国集会で積み重ねられてきた成果のうえにたって、全国各地の実践を一つに寄り合わせての出立であった。4月24日を発足の日としたのは、わたしたちの運動をたえず自覚的にとらえていくためであった。

 1948年当時、GHQの占領政策と日本政府が結びついた形で在日朝鮮人の民族教育にたいして大弾圧が加えられた。植民地政策下、民族の言語や、民族文化を奪われてきた在日朝鮮人が戦後これを取り戻すべくすすめていた民族教育運動に、GHQと日本政府は民族学校閉鎖令を突きつけて強権で弾圧したのだった。兵庫、大阪など各地で在日朝鮮人の大抵抗闘争が繰り広げられた。当時の日本人の多くはこの民族運動の正当さを理解できず、排外意識でこれを座視したのである。結成の日をこの日に定めたのは、わたしたちのこのような意識を問い直す記念の日としていつまでも共有しておかねばならないと考えたからだった。
 

(2)この旗を降ろすまい――「考える会」から「全朝教」へ
 

 「教育労働者としての自覚と責任を明らかにしよう」と、決意高らかに、1971年9月24日に、「公立学校に在籍する朝鮮人児童・生徒の教育を考える会」(後に、「日本の学校に在籍する朝鮮人児童・生徒の教育を考える会」、さらに、全朝教発足後に「全朝教大阪」に改称)の旗は上がった。「大阪市立中学校長会差別文書追及 教育労働者集会」の名ですすめられた集会は、「考える会」の結成準備でもあった。(巻末資料T)
 当時、部落解放運動に触発され、そこに学んだ教師たちは自らすすめてきた民主教育の質の問い直しを迫られていた。差別越境問題に目を向けない教育が民主教育か?部落差別の温存に手を貸している教育が民主教育か?このような自らの教育の問い直しの運動は大阪市立中学校長会の差別文書を指摘できる眼を培っていた。

 また、当時大阪の教職員組合運動の中心的な担い手であった市川氏や、五島氏(当時の大教組教文部長)、岩井氏(元市教組、大阪教組委員長)など教職員組合関係者にとっては「越境問題」――そこにみる部落差別の集中的な矛盾から目をそらせてきた教組運動の質を問い直す自らの課題に直面していたのだった。そして、何よりも求められていたのは教育現場に平和教育や部落解放教育、受験教育体制のなかで切り捨てられる子どもたちの問題に真剣に取り組んでいく教師たちの結集を図るという仕事であった。そこにはまさに
「教師の専門性と労働者性の統一」という、教職員組合として急がなければならない課題があった。
 大阪の教育をとりまく背景と経緯の中から「考える会」の旗はあがった。
 
 
(3)模索――歩きながら、実践しながら……
 
「朝鮮人教育を考えていく場合、入管体制に見られる権力の共和国敵視政策、排外・同化政策を視野に入れた運動が重要だ」
「階級的視点にたって朝鮮民主主義人民共和国の、朝鮮の自主的平和統一の運動に連帯した運動を積極的に推しすすめるべきだ」
「民族教育擁護の立場にたって自主学校との連帯を強化すべきだ」
「日韓条約に見る政府・独占の意図を粉砕しなければならない」
等、学生運動や、政治運動にみられた主張や、
「部落解放の視点から在日朝鮮人差別に対して闘うことが重要だ」
「教育労働者としての生産点である教育の現場の課題を追求しなければならない」

 実にさまざまな意見や主張が噴きだしてくる。
 「入管体制」とか、「法的地位協定」、「在留資格」などなど、現在のわたしならごくあたりまえのこことしてとらえられるけれど、当時のわたしにとっては何が討議の中心になっているかが理解できない内容が運営委員会で飛び交うのが発足時の状態であった。取り組みの方向を決めるのに意見の一致をみることが大変困難な雰囲気と情況が続いた。代表を投げ出したい思いに何度となく、さいなまれながらそれに耐えた。運営の原則を作りだすことにひたすら努めた。 城陽中学校時代シンジャの告発にこだわったわたし自身のありようを大切にしていくこと、そういう姿勢で運営委員会を取りまとめていくことを心に決めた。具体的に言うと次のようなことだった。

 投げかけられた問題がどのような内容のものであっても自分たちの教育現場の子どもたちの教育課題としてどのように発展させていくのか、実践課題として話し合って行くこと。抽象的な政治論議に終わることのないようにすることであった。また、少数意見であってもみんなで徹底して話し合うこと、決して切り捨てないこと、また、運動の思想は歩きながら、実践しながら創っていく。試行錯誤を恐れず主体的な力量をつけて行く。話し合いが紛糾したりすることもしばしばだったけれど、お互いが見いだしてきた運動の原則はこのようなものであった。
 
 

(4)子どもの現実を直視することから
 

 大阪市立長橋小民族学級の実践と運動は、草創期の「考える会」を中心とした大阪の在日朝鮮人教育運動にとって重要な意義をもっている。

  当時、教組運動の中核を担っていた市川正昭氏は「『考える会』10年への一感想」という一文のなかで次のように述べている。
 「長橋小のとりくみはこれまでの日朝友好・親善の運動や、いわゆる民族教育の擁護といったものとは異質の大きな飛躍でした。それは何よりも当時の大阪の教育界をゆさぶっていた部落解放の教育に直接根ざしつつ取り組まれたものです。つまり、被差別部落の子どもたち一人ひとりの生活を直視するとともに、子どもたちを差別に対して集団として立ち上がらせること、と同時に被差別部落出身以外の子どもたちとの間に熱い連帯をつくり出そうとしたときそこに在日朝鮮人の子どもたちが座っていたという事実から出発します。朝鮮人の子どもが大量に公立学校に在籍しているとはどういうことか。それも、「通名(日本名)」で暮らしていることをどう考えるかが出発でした。」
 日教組教研「人権と民族」分科会が各教育現場に提起していた「朝鮮人の子どもは自主学校の門まで連れて行く」「民族学校の権利を擁護する」と言う運動は、日朝友好・親善の取り組みとして1950年代から主張され教研活動で検証され、原則的に正しいものと確認され、引き継がれていた。しかし、それが日本の学校で学ばざるを得ない在日朝鮮人の子どもたちの現実を、なぜだろうかと疑問に感じる心を弱めていったことも事実であった。

 日本の学校に学ばざるを得ない在日朝鮮人の子どもたちに目を向けた実践はすでに1950年代に提起されていた。1948年に始まった民族学校弾圧の後、大阪では多くの朝鮮人の子どもたちが日本の学校に学ぶことを余儀なくされ、こうした背景と経緯のなかで朝鮮人の子どもだけが学ぶ公立の学校として大阪市立西今里中学校が誕生したのが1950年のことであった。
 西今里中学校での日本人と朝鮮人の教師の間の子どもの教育をめぐるぶつかりあいは、民族差別が朝鮮人生徒の生活を圧迫し、その人間性をも破壊していくすさまじい現実に目を開かせ、他校の日本人教師にもその教育の在り方を真剣に考えるべきだとの提起を行うなど、新しい活動を産み出した。在日朝鮮人生徒教育問題協議会(朝問教)の結成と活動もその一つだった。
 1961年に西今里中学校が朝鮮総連の自主学校として移管された後、「朝問教」の活動は運動を拡大していくエネルギーを失っていった。長い空白の時期をおいて、長橋小の実践が日本の学校に学ぶ在日朝鮮人の子どもに焦点をあてた取りくみに歩み出したという意味で、重要な意義をもっている。長橋小の民族学級開講をめぐる大阪市教委との行政闘争、その後の民族学級の実践が大阪の在日朝鮮人教育運動・実践に画期的な影響と活性化をもたらしたことはいうまでもない。
 
 
 
(5)運動が教育してくれる
 

 運動のリーダーとして交渉の先頭に立つことは、わたしにとって初めての体験であった。交渉慣れによる政治的かけ引きや、妥協点を探る事務折衝などという器用さもなく、大阪市はもとより、大阪府内各地から支援に駆けつけた大衆のエネルギーを大事にしながら、交渉内容の筋を曲げることを堅く拒んだ。今ふりかえると、当時の純粋な気持ちと、一本気な性格があれほどまでの行政との紛糾場面をつくりだしたのかも知れない。妥協点を探ろうと個別の折衝にいろんな人が訪れた。かたくなにそれを拒んだ。立場上やむを得なかったけれど、それまでの人間関係を壊してしまったという苦い体験もあった。生涯修復できないのではないかと思う程の亀裂まで生んでしまった、そういう苦い思いも残っている。けれども、交渉までの準備過程でつくられていく、目的意識を同じくする仲間たちとの共感と連帯感は、他で味わうことのできない体験だった。「運動が教育する」ことを実感したのもこのときであった。目的意識とそれへ向けての共同作業、実践をともにもち続けるとき、なかまに対する信頼と絆が堅いものとなった。「考える会」の基盤はこうしてつくられた。
 
 
 
(6)全朝教へ打って出たわたしの想い
 

 長橋小民族学級をめぐる大阪市教委にたいする行政交渉は熾烈を極めた。同時に参加する大阪府内一円の教育現場の自らの在日朝鮮人教育の実践を問うものであった。「考える会」が主催するシンポジゥムの参加者は初めのうちは毎回20〜30名程度だったが、自らの現場の実態、在日朝鮮人の子どもをとりまく日本人教師や子どもの実態をさらけ出したところから、また、目の前の朝鮮人子どもと自分とのかかわりを見つめる実践交流はしだいにシンポジゥムを活性化し、内容も豊かになった。
 再生市外教は、「考える会」運動に当初からかかわっていた人々が事務局を担っていた事もあって、車の両輪の役割をそれぞれが果たすことになった。「考える会」は民族差別の追及、在日朝鮮人教育の条件整備を求める行政交渉を担い、また、運動の思想を共有するためのシンポジゥムを開催した。「市外教」は大阪市の委託事業をすすめる団体として教育現場における実践の拡大・深化を目ざして実践交流に努め、実践を支援する教材開発に特に力を入れた。そこで編集・発刊された「サラム」(シリーズ)は大阪府(市)内はもとより全国各地の実践を励まし、在日朝鮮人教育運動・実践の拡大につながった。

 「考える会」運動の活性化をもたらしたのは長橋小の民族学級の運動・実践であったが今一つ、特記しておきたいのは「深江小学校長差別発言事件」(註)である。
 深江小学校長の民族差別発言を追及した運動はそれまでの「考える会」に集まるわたしたちの運動にとっても、一つの転機をもたらした。部落解放教育に根差しつつ進められたそれまでの運動は、主として長橋小、矢田南中などの「同和教育推進校」に拠点をもちながら実践が進められた。実践をすすめるための予算等教育条件についても、地域の解放教育共闘の対行政交渉で獲得していたし、結果的には同和教育予算に負うところが大きかった。この事件を契機に在日朝鮮人教育が日本の学校教育にきちんと位置づくことの重要性が各教育現場に認識され始めた。この民族差別発言の舞台が東成区という在日朝鮮人多住地域であり、部落問題とは異なる独自の課題を突きつける結果となった。発言の内容に表れた民族排外と、差別の思想はまさに克服されなければならない戦前の植民地時代と同質のものであり、それが顕在化したのであった。大阪市教委もこのことの重大さを認識しはじめ、校長会の在日朝鮮人教育への姿勢も変わり始めた。在日朝鮮人教育は、部落解放教育と深く関連をもちながらも、その延長上の取りくみにとどまらない、戦後の民主主義教育の確立のための課題であることを確認していったという点で一つの転機であった。大阪市外教の活性化、各学校での学習会の広がり、在日朝鮮人教育指針の策定など運動の量的広がり、質的深まりをみせはじめた。
 
*「大阪市立深江小学校長差別発言事件」
 1974年10月、「大阪市外教」と「大阪市東成区小学校長会」の学習会の席上、市外教の日本の学校での在日朝鮮人教育の重要性についての問題提起に対して、次のような趣旨の発言を繰り返して譲らなかった。
・日本帝国主義の朝鮮侵略というが、日韓併合は1910年のむしろ20〜30年前にすべきであった。どうせ日本が(朝鮮侵略)しなければ、ロシアか清国に侵略されていた。日本は世界の植民地政策に遅れをとったくらいだ。
・日本の学校に多くの在日朝鮮人の子どもが学習しているのは、日本の教育に同意しているからだ。朝鮮人児童への教育的配慮は必要ない。かわいそうだとは思うが、それは民族の運命であってやむをえない。
・日本人の教育もじゅうぶんできていないのに、外国人のことまで考える必要はない。
 その発言一つ一つにその差別性を指摘して追及したが、彼は、歴史認識の違いであって差別発言ではないと自説を繰り返した。「考える会」は、大阪市教委に対して朝鮮民族侮蔑発言を追及する申入書を提出、大阪市外教・大阪市同教とともに責任追及の行動に立ち上がった。はじめは、「ちょっと言い過ぎたが、みんなが考えていることを言ったまでに過ぎない」などと強弁していたが、ついに過ちを認め、当の校長はもとより、各校長が自己批判した。
 
 
 
(7)「今こそ、元気を出しあえる組織づくり
  が必要だ」
 
 1973年〜1975年の「考える会」の運動は長橋小の民族学級の実践に学びながらそれぞれの学校で実践の根をおろそうと「本名を呼び名のる運動」を軸としながらシンポジゥム、民族差別追及を通して活動を高揚させた時期だった。
 朝日テレビ民族差別事件の追及(「二つの名前で生きる子ら」(16ミリフィルム)はこの経過のなかで制作)、大手前女子短期大学入試差別、中川幼稚園入園差別(1974年)に対する追及、などなど次々起きる民族差別の追及を通して在日朝鮮人教育の問題を広く社会にまた、教育の現場に提起していった。このような運動の高揚期の後、「考える会」の運営委員たちは教育現場に這いつくばって懸命に実践の根を張る苦闘の時期を歩むのだった。

 1976年〜1978年にかけては、わたしにとって「考える会」を運営していくうえで最も苦しい時期だった。
 カンパニアや、シンポジゥムでの学習会を自らの教育現場での実践に移すことが、「考える会」に集まる運営委員や、活動家の使命であった。自然のなりゆきとして運営委員会の組織としてのセンター機能は著しく低下したのだった。決定すべき重要事項の会議が成立せず機能はマヒしていた。集まるメンバーが3〜4名というような運営委員会が続いてリーダーとしてのわたしの不安といらだちはピークに達していた。限られた現場の取り組みだけが見えていて、実践の広がりを肌で感じることができない不安といらだちだった。運営委員会がセンター機能を十分果たせず停滞していたころ、教育現場では一歩一歩地道な実践が重ねられていたのだった。

 こうした背景のなかで「全国組織結成」というわたしの問題提起は簡単には受け入れられるわけがなかった。
 センター機能も満足に果たせない運営委員会、シンポジゥムの企画運営、民族差別糾弾への参加、教育行政交渉などなど、そして何よりも日常の学校での教育実践、二役も三役もこなさなくてはならない日々が続いていた。その上経済的に何の保障もない手弁当の活動にわたしたちは少なからず疲れていた。そういう状況のなかで全国組織の結成など他の運営委員にとっては思いもよらぬことであった。わたしはそういう状態を知りながらあえてその必要性を強く主張した。当時わたしの脳裏には次のようなことがかけめぐっていた。
 
・「あなたがたがこの運動の旗を降ろすときは日本の国に再び軍国主義の嵐が吹き荒れることになるでしょう」と述べて、運動の出発、長橋小民族学級をめぐる運動から固い絆で結ばれた敬愛していたチョ・ギヒョンさん(当時、朝鮮奨学会関西支部長、故人)や、くる日もくる日も今日は教育委員会、明日は校長会、次の日は研修会・シンポジゥムと、かけずりまわったリ・ウンジク(当時、朝鮮奨学会理事)さんたちの民族教育にかける熱い想い。
 
・運営委員、とりわけ、「考える会」の財政運営にかかわった歴代の会計、自主教材の編集・販売で運営費の資金をつないだ人、財政面でゆきづまっていたとき資金をカンパしてくれた人、機関紙「むくげ」発送の手伝いに駆けつけてくれた各地の人々、まさに手弁当の運動づくりに参加したこの運動を支えているている多くの人々の想い
 
 教科書検定にみる教育内容の国家統制への動き、それに照準を当てた学習指導要領の改定、教職員管理の強化、「日の丸」「君が代」の教育現場への押しつけなど、確実に戦前の教育への回帰を思わせる情況をみるにつけ、“今ここで全国組織を”との思いにかられていた。たとえ砂漠に水滴を落とすような運動であっても民衆が民主的な、互いの力を合わす 時機と努力を惜しんでは悔いを残すと考えたからであった。
 どんなにしんどくても、困難な壁にあえぐようなことがあっても、なかまの励ましと支えがあればこそ今日まで運動を引き継いこられたのだ。現場に這いつくばって子ども格闘し、親と語り、回りの教師たちに働きかけて、ようやく入り口が見えはじめた在日朝鮮人教育なのだ。お互いが疲労のピークにあるとき、全国各地で同じ思いにかられているなかまのことを思うとき、「今こそ、元気をだしあえる組織作りが必要だ。どんなにしんどいことがあってもその過程がやがて運動のエネルギーになる。無鉄砲といわれようがそれしかない。決して旗は降ろすまい。」そう心に誓ったのだった。それ以後4年間、ただひたすら東奔西走にあけくれた。
 
 
 
(8)違いから学びあう
 
 1983年4月24日、4年間の準備期間の後、「全朝教」は結成された。旗揚げの当初は、予想されたこととはいえ、在日朝鮮人問題、在日朝鮮人教育問題へのアプローチの違いが鮮明になり、激論が交わされた。例えば民族差別糾弾を取りくみの核としてきた東京、神奈川の実践と、大阪を中心にすすめられてきた学校教育現場の「本名を呼び名のる」教育実践など、取り組みの違いがかなり鮮明にでていた。

 <・・・・・大阪の「本名を呼び名のる」実践報告は決まったレールを走っているようだ。在日朝鮮人は今、岐路に立ち、敷かれたレールを走る訳には行かない。兵庫、高槻6中など大阪の教師が子ども・親と必死で向きあうなかでの実践はゆきづまっている。これに活路を見いだす一つは地域活動との結びつきであり、いま一つは(東京都歯科医師会との闘いのように)差別と闘う在日朝鮮人との共闘である。>

 <集会で、「在日朝鮮人生徒の教育を考える会」(東京「考える会」)を中心に報告された、東京都医師会付属衛生士学院の在日韓国人P・Kさんに対する入学差別事件糾弾闘争の経験から兵庫、大阪などの実践への批判的評価が生まれるのはいかにも唐突であり見当違いだ。・・・・・・(中略)・・・・・大阪の「本名を呼び名のる」運動は、当初から困難の連続であり、現在もそれは変わらない。机を並べる友人の立場をわかろうとし、励ますことのできる日本人、差別にくじけず朝鮮と向き合って生きようとする朝鮮人、その共同の学級集団づくりは、現代の人間疎外の教育の本質に迫るものといえる。学級の子どもに迫り、親と出会うこと、そこで子どもの真っすぐな成長を願って話し合うこと。それは教育労働者の本来の仕事である。学校や、教室における取りくみは目に見えず、地道な粘り強い闘いである。教育労働者のまごうことなき生産点であるからこそ、わたしたちが己のすべてをかけて挑まなければならない闘いの場になるのである。自らの生産点にあくまで依拠して在日朝鮮人教育を展開すべきであり、その方向を見失ってはならない。このことは学校教育現場が主で学校外が従であると言っているのではない。教育労働者の立っている場に依拠しつつ、わたしたちの活動を点検しなければならないという視点を明確にしたいものである。……」(第一回在日朝鮮人教育全国集会「総括報告」から>

 さまざまな違いと、実践の深浅を内包しながら「全朝教」は出立した。 
 
 
 
(9)おわりに
 
 「考える会」30周年に当たってこの稿をしたためながら改めて多くの人との出会い、支えによって運動が引き継がれていくくことを強く思う。すでに故人となられたチョ・キヒョンさん、わたしたちに確かな歴史認識の重要性を教えていただいた梶村秀樹さん、がんの病魔と闘いながら「自立と共存の教育」の著作に命を燃やし、それを手にすることなく逝った岸野淳子さん、多くの人の想いと連帯が「考える会」や、「全朝教」の今日を生みだした。   

 稿を締めくくるにあたって岸野さんの著書の結びの言葉をかみしめたい。

<この6年間わたしをかりたててきたのは何だったのだろうか。あらめて考えてみた。それは、最初に予感したとおり、現在の差別と選別の論理に貫かれた日本の教育と真っ向から対峙する教育集団の質がそこにあること、別の言い方をすれば最近は教室の日常となって奥深い荒廃の象徴とも言うべきいじめの構造(小さな異質への疎外)の対極にあるのがこの在日朝鮮人教育であると確信できたからである。それはせまい意味での学校教育を超えた生き方の問題である。もちろん日本人にとっても、朝鮮人にとっても。後半は病気治療中のしんどい6年間ではあったがこの教育運動にかかわったためにわたしは日本の教育にまだ絶望していない。>

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