全朝教大阪(考える会)2001年度第1回シンポジウム
         2001.6.29
 少数地域での民族教育、民族学級とは(前)

                                                                                              皇甫康子
(後編は次号に掲載予定。なお、当日のレジュメは本誌165号に
掲載されています。また、後編の「在日」の家族写真、相談の
窓口の関連情報を付け加えました。編集委員会)

はじめに
 
 ファンボ・カンヂャ(皇甫康子)と言います。はじめての方もいらっしゃいますし、アメリカから電話いただいて数年ぶりでお会いする方も、また、昨日会った人もいます。いろんな人が来て下さってありがとうございます。
 この四月から、これまで五年間勤務した桜が丘小学校と同じ校区の川西中学校で、同和教育推進のための指導員として勤務しています。校区には皮革工場がたくさんあります。皮革工場には在日朝鮮人の人たちもたくさん働きに来ていましたし、池田には大阪空港がありますのでちょうどその周辺ということで、たくさんの在日朝鮮人の人たちが川西にも在住しています。
 私は生まれは大阪で、育ったのは尼崎の塚口というところです。池田にはたまたま結婚して住むことになったんですけれど、ずっと池田の保護者会を中心に活動してきました。今日お話しさせてもらうので思い出していたのですが、上の子が保育園に入る頃から準備をして、その子がもう二十二になりますので、なんともう十七年ほども池田を中心にやってきたことになります。今までを振り返ってみて、色々なことを考えさせられました。
 

(1)私が「在日朝鮮人」と名のる理由
 
民族運動との出会い
 
 今、私は「在日朝鮮人」と名のっています。私がこの名称にたどり着くまでが、すでに私の在日朝鮮人としての歴史であったと思います。理由が四点ほど挙げてあります。長きにわたって自分が朝鮮人であるということは自覚していましたが、日本人社会の中で大きくなるに従って、「日本人になりたい」と思うようになりました。朝鮮人であるということ、朝鮮人という言葉は嫌いでしたね。がんばってもただ国籍が違う、朝鮮人だということで排除される、それが日本社会なんだということを思い知らされました。
 大学で、色々な民族運動に出会って、今日も後輩の人が来ていますが、その中でやはりもう一度ちゃんと朝鮮人としての自分に向き合おうということで、民族活動を始めました。学生のサークルが基本でしたけれども、それから、70年代80年代に、なかなかこの日本社会で未来を創造できない、その閉ざされた中で自分の能力を生かせる場を本国に求めるしかない、ということで、たくさんのすばらしい先輩たちが本国に留学して行くわけです。ところが本国は、冷戦構造の中で北と南が対峙し、アメリカと日本が軍事独裁政権を支援するという厳しい状況でしたので、71年には徐(ソ)兄弟の「学園間諜団(スパイ)事件」が起こりますし、その後には11.22事件だとか、そのほかにも「在日」をターゲットにした政治犯事件が多発します。そういう中で、私はもう本国に留学することも無理になってしまいましたし、反対に、先輩たちを救援する活動をしなくちゃならない。その中でソ・スン(徐勝)さん、立命館大学の教授をやっておられますが、徐兄弟の陳述書を読んで、本当に目からウロコが落ちました。在日朝鮮人にはこんなにすばらしい先輩がいて、日本人なんかに負けないんだ、朝鮮人でこんなにすばらしい人がいっぱいいることを知らなかった自分が情けないという、そういう色々な目覚めがありました。
 

「朝鮮人」という呼び方
 
 その頃、もう日本人になれない事はわかったから、とにかく「韓国人」という言葉をやたらに連発していました。やたら「韓国」、「韓国」に固執して、蔑称の「チョーセンジン」から逃げていたのです。
 本名を名のり始めた十八の時から数えて、今ようやく本名で過ごした年月の方が長くなっています。最初は、やはり本名を名のることが非常に苦痛でした。このわかりにくい名前、一度聞いただけでは誰もちゃんと呼んでくれません。だいたい五回くらいは聞かれますね。聞き直したあげくにまた間違って読まれる。私がこの名前を正しく呼んでもらおうとするだけで、もうそれが民族運動になってしまう、差別撤廃運動になってしまうという、めんどくさい日常を抱えているわけですけれども、やはりあえて「朝鮮人」という名称を名のりました。

 その理由の中には、1960年代70年代フェミニズム、ウーマンリブの運動がすごく活発になった時に、ビッチという言葉をわざと使ったという歴史がありましたね、牝犬(めすいぬ)という、女性をすごくおとしめる言葉なんですけれども。これをあえて使って、「牝犬で何が悪い、牝犬と呼ばれたって私たちは黙らないよ」という女性運動があったのですが、私もそれにあやかって、「チョーセンジン」という蔑称をあえてこちらから使おうということで、使い始めました。周りの日本人の反応は、こちらが「朝鮮人です」と言っているのに、「あちらの方ですか」とか、非常にこれは呼びにくいようですね。日本人の多くは、これは蔑称だと思っているから。本来蔑称ではないですよね、「朝の鮮やかな国」の人間なわけですから、非常にすばらしいきれいななまえなのですが、これが蔑称として扱われていることに異議を唱えたいなと思います。
 それと、私自身が、「朝鮮」という言葉で、ひるまない。これを言われるたびに真っ赤になって下を向いていた自分の子ども時代、学校の教師が何か「朝鮮人」ということを言いにくそうにしゃべる、そういう変な気の遣われ方、そういうことに対して、私は負けないんだ、何を言われてもそんなことで私は傷つかないよということを表明しながら歩いていきたいということで、この名称と民族名を名のっています。
 やっぱり「帰化」した仲間もたくさんいます。しかし、そういう人たちも含めてやはり私たちは在日同胞なんだという気持ちを持ちたいという意味でも、この「朝鮮人」、「在日朝鮮人」という言葉を使っています。
 
 

(2)過去現在。「在日」の子どもたちの学校生活は?
 
子どもを通して地域と関わる
 
 私は実は日本人社会とはあまり関わらないで生きていきたいと思っていました。民族運動をやっていて朝鮮人の友だちがたくさんできますと、就職も朝鮮人の企業などに勤めますと、まあ、いい悪いは別にして、あまり日本人とは関わらずに生きていけます。日本人と関わるのは、外国人登録証の申請に行って役所でいやな目に遭わされる時と、何かの理由で警察に登録証の提示を求められる時と、そういった時もは、役人としか会わない。日常生活であまり日本人と関わらなくともそれなりに生きていけます。最近、よく日本社会を良くしようなどと朝鮮人の側が言いますが、大きなお世話だと思っています。選挙権もないし発言権もないのに、どうして私たちが日本社会をよくしなくてはいけないのか。これは疑問で、日本人と一緒の運動なんて全く考えていませんでした。
 しかし、子どもがたまたまできまして、結婚もたまたましたんですけれども、やっぱり子どもを産みますと、地域社会と色々な点で相まみえることになります。そういう中で、いやな思いもたくさんしましたが、今となっては失ったものより得たものの方が大きかったと思っています。
 

子どもの「安全・自信・自由」は
 
 最近、自尊感情とかセルフエスティームという言葉がはやっていまして、人権感覚を磨くにはどんな状況が子どもたちにとって望ましいのかが語られます。「安全」であるのか、「自信」を持てるのか、「自由」なのか。「安全・自信・自由」この三つの言葉が大事なキーワードとして語られています。しかし、「在日」の子どもをめぐる状況というのは、果たして安全なのか。
 強制退去という法律もあります。日本国外に出るときには、行き先が自分の母国であっても、再入国許可というのを取って、それも六千円の手数料を払って、平日の昼間仕事を休んで、大阪市内の入管まで行っていちいち申請しないといけない。一日でもこれが切れると、日本の自分の家へは帰ってこれない。

 この間、五月に、ここにおられる先生たちとアメリカに行ったのですが、その時私は再入国許可の期限が八月だったんですね。そうしたら、「八月までに帰ってきますか」とか、親切な係員さんが聞いてくれて、「帰ってこれなかったらどうなるの」と質問したら、「もう日本には帰ってこれません」と言われた。「そうしたら、サービス窓口作ってよ。関空に入管の出張所作って、そういう人たちのための救済措置として、期限の切れた再入国許可を出してくれるようなサービスはないの?」と言うと、「そこまでの意識にはまだなっていないので、作られていません」。「どうやったらできるの?」と聞いたら、「世論です」と言われました。ですから、みなさんも声を上げてほしいと思います。私は、これを新聞に投書してやろうかと思っています。失礼極まりない。税金も払って、私なんか日本で生まれているわけですよね、祖父の時代からするともう七十年近くも世代を経て日本社会で生きてきているわけです。その私に向かって、再入国許可が一日切れたから、もう帰ってくる権利はあなたにはありません、と言う。では、どうすればいいのと聞くと、もう一度ビザを取って、観光から入って、滞在を延ばして、法務大臣に申し立てをして、というニューカマーの人と同じ入国の手続きをしなくてはいけない。外国人登録証、私も毎日持っていますが、なにしろ私、特別永住資格を持っていますよ。特別永住者ですよ、何がスペシャル(特別)なんだと思いますね。強制退去付き、そして常時携帯に違反したり、申請の期限に遅れたりしたら何十万円の罰金付きの永住資格ですよ。そんなものを持たされて喜んでいる場合ではないということを思い知らされてきました。未だに安心してこの日本ではなかなか生きていけません。ましてや差別がある。

 そして、自信を持って、などと言いますが、全国各地に民族学級などありませんよね。民族講師、というか、むしろ教員、教師をですね、もっとどんどん採用していってほしいですよね。民族講師ももちろん大事だけれども、学校に正規の職員、「在日」の教員がどんどん入っていく、増えていくということを私は望んでいるし、後輩たちにもがんばってほしいと思います。もちろん、がんばって後輩たちが入っていっていますけれども、まだまだ少ない。そんな教育現場で、本名を名のっても何のケアもされず、授業の中でも何も教えてくれず、ましてや、変な教科書が採択されるようなこの日本社会です。恐ろしい。植民地支配はいいこともやったというふうなことを「在日」の子どもの前でやられたら、どうなりますか。私などは何も教えられませんでしたけど、それでも十二分に劣等感を持ちましたよ。日本が偉いんだな、朝鮮人てどうしてこんなにみじめなの、植民地支配されるくらい、それくらい弱い国やったん。裸でトロッコ押すような、私の先祖は奴隷やったのかと。非常に情けない思いをしましたよ。それを見たときに、きちんと発想の転換が必要だ。「名前まで、言葉まで奪われた、そこまで朝鮮民族は闘ったんだよ」という、そんな教え方を誰もしてくれなかった。今の「在日」の子どもたちは、ある程度環境整備ができているかもしれませんが、未だに自信を持って生きているのかということですね。

 また、自由なのか、職業選択の自由があるのか、なりたいものになる、自己実現するための自由があるのか。私はうちの子に言われましたね、進路のことでいろいろ話している時に。「やっぱりまだ差別もあるし、この日本で何かになりたいと思うときに、なれない事ってあるよね」と言うんですね。高校の進路指導で教師が必ず「日本社会は閉鎖的で、かなり優秀でないと大変ですよ」というような、「だからもっと勉強せえ」「もっとがんばれ」と励ましてくれるんですけれども、こういう言葉を聞いて、うちの子どもは、「こんなに一生懸命がんばってきたのに、本名名のって、結局なんやねん」という思いがしたんでしょう、「やっぱりまだ、なりたいものになれないんやね」と聞かれてしまいました。 それには、「いや、しかし、今はなれないかもしれないけど、あなたがなりたいものがあれば、まず、なりたいって声をあげれば」って答えました。「過去、そうやって何十年も、看護婦になれなかったけど看護婦になりたいって言う人がていて看護婦になれた、弁護士になりたいという人がいて、たった一人で喧嘩を売って弁護士になれた、そういう私たちは、何のブレーンもなくて一人で闘う歴史があるんだから、あなたも一人で闘えばいい」。「でもそれって、ぼくはなれなくて、何年か後になれるわけでしょ。ぼくは、中学校でもそうだし、小学校でもそうだし、池田ではいっぱいいろんな先生に世話になってきたけど、ぼくの時にはいつもなかなか事が進まなくて、もうちょっと待ってください、と言っているうちにぼくは卒業して、五歳下の妹にばかりその恩恵が行く、ぼくはどこで恩恵をもらえるんやろう」と言うから、「いや、既に本名名のって、バックアップしてもらって生きていけるということ自体が、先輩たち、池田の先輩たちが作ってくれた恩恵なんだよ」という風な話をしました。

 子ども自身から、「そうしたら、お母さんはなりたいものになっているの」と聞かれました。ショックでしたよね。その時、実は日本の会社の事務をやっていたのですが、結構給料もよくて、それなりに楽しく働いていたのです。しかし、ほんとうに自分はこういうことがやりたかったのか、実は教育現場に携わる仕事がしたかったのに、これでいいのかということを思い立ちまして、資料にもありますように、もう採用試験にはほど遠い年齢になっていたのですけれども、もう一度、途中であきらめた教員免許を通信教育で取り直して、まず中学校免許をとりました。教育実習も豊中の第四中学校夜間学級でお世話になって、私の生きる道はここだと、夜間の生徒さんと非常に楽しく授業ができて、とにかく教育現場の末端にでもしがみついて生きていこうと思いました。それ以降いろいろなご縁があって今までずっと教育現場にいさせてもらっているわけです。ほんとうに子どもの問いかけで、自分の人生をもう一度考え直さなければいけないなと思いました。
 

子どもが本名宣言したとき
 
 私の場合は、むしろ自分の子どもの方が民族運動はキャリアが長くって、生まれたときから本名名のっているわけです。私が、小学校、中学校の時にそんなこと感じたかなあと思うようなことを、子どもの方が先に感じていて、いろいろな取り組みをしていただきました。
 未だに子どもといろいろな話をするんですけど、名のった時にですね、とにかく本名をきちんと呼んでくれない、名前で遊ばれる、ふざけられる、これは毎日のことですから大変でした。でもなんとかがんばってクリアできました。
 それでも、何か利害関係が関わってきたときに、たとえば、うちの子と成績で争うとか、バレーボールやサッカー、ドッチボールをしていてうちの子に負けそうになるとか、そういう利害関係が生じたときに、それまでは仲良くやっていても、なんかの拍子に「朝鮮人のくせに」という言葉がやっぱり出てくるんですね。差別はなくなりましたなんて、軽々しく言わないでほしいです。まだまだ差別は残っているんです。
 チマチョゴリが切られる事件と同じように、テポドンがどんと撃たれるとどうなるか。付属池田小学校は、私の家のすぐ近くなんですが、ああいう悲惨な事件の時に一番に考えたのは、犯人は朝鮮人だろうかということでした。もしそうだったら、私がこの池田市に生きていて、住んでいて、どういう扱いを受けるんだろう、どういう目で見られるんだろうと戦々恐々でした。神戸のあの小学校の惨殺死体も事件の時も、被差別部落のお母さんも一緒です、ひょっとしたら部落の子が犯人やろか、朝鮮人が犯人やろか、と心配しました。テポドン一個飛ばしただけで、うちの子は、「韓国帰れ」だとか「北朝鮮きしょい」、そういうことをやっぱり絶対言われるわけです。
 

<瓢箪から駒>の交流会
 
 やはりうちの子についての一番の苦悩としては、中学校で日本国憲法などを習います。これを暗記するわけですよね。その時に、担任の社会科の先生が、非常にきづつないとおっしゃる。日本国憲法の中には、「我が国、国民」という言葉がいっぱい出てくる、国民だけが何かを得られるみたいな書き方になっています。同様に、ここはやはり日本人の子のための学校なんだ、公立学校なんだということがあります。
 いろんな事が起こって、毎年、校長先生や市教委に要望しに行きました。ある時は「日の丸」「君が代」の問題、ある時は民族教育をもっと推進していってほしいという要望を、親たちはずっとしています。その時に言われたことは、だいたい校長先生はこういうことをおっしゃいますね、「気に入らなければ民族学校に行ってください、ここは日本人の学校です」と。それじゃ、民族学校をつぶしたのは誰なのか、日本の文部省じゃないかと、そういう歴史も知らずに、安易に、「引っ越しなさって、民族学校行きはったら。朝鮮学校スクールバス来てますし池田にも」「そんなに日本の学校気に入らなかったら、文句言うんやったら」というふうに、お願いに行っただけでそういう切り返しをされるというような状況が、まだまだあります。
 大阪市内は知りませんよ、多数いて、もっともっときめ細かくやられているのかもしれませんが、やっぱり少数地域では、どこまで行っても少数派。私が一生懸命あれしてください、これしてくださいと言うと、日本人の大勢いる中で、すごく怖がって、自分が朝鮮人だということも出したくないし、日本人と同じでいいです、何もしてくれなくていいですという親御さんは多いです。これはもうしょうがないですね。仲間もいないし、たった一人で子どもを守るんですから。しかし、学校はそういった意見はよく聞きはるんです。「何もしないでほしい」と言う意見は。私が、たまには運動会でも、民族色のあるのをやってほしいとか、学芸会、これも最大限利用できたんですが、「三年とうげ」とかやってもらい「本名を名のらせたいので取り組んでほしい」と言うと、必ず出てくるのが、「あなたの意見でしょそれは。大多数の朝鮮人の親は皆やってほしくないとおっしゃっているんですよ」と言うから、「やってほしくないと言う親、連れてきて下さい。この学校の親みんな集まって会って話しましょう、どうしていやがっているのか、話を聞かせて下さい。」それがきっかけになって、学校の中で民族交流会という形で、親の交流会、先生といっしょに話す会が、今だにもう十何年続いています。今は中国やフィリピンやいろいろな国にルーツを持つ親御さんが集まって和気あいあい、たまには厳しく、いろんな意見交換をする場が設けられて、ひとつ、まあ瓢箪から駒で、そういうこともできました。
 

(3)少数地域での民族教育
 
池田市の保護者会
 
 少数地域の民族教育の話になっているんですけれど、池田で保護者会が立ち上がった経過をお話ししたいと思います。
 私は池田に八〇年代半ばくらいから住み始めたんですけれども、実は既に本名宣言をしている先輩のお子さんがいました。彼は小学校三年生の時に本名宣言をして、そのままずっとがんばってきたわけです。この先輩のお母さんからいろんなアドバイスえお受けました。たとえば、池田市は就学通知が出ませんでした。それは民族的配慮なんだそうです、民族学校に行くかもしれない子どもに対して十把一絡げに日本人の学校に来いという通知を出すのは失礼なので、出さないということでした。就学通知がこない場合に私たちがどうするのかというと、申請しなければいけないんですね。公立小学校に入らせて下さい、入る意志があります、という書類を書きます。外国人登録証を持ってきて本名確認をしたいので役所に持ってきて申請に来て下さいという通知が来ます。それは役所があいている時間ですよね、仕事休んで行かなくては行けない。ましてや、外登証もってこいというのは非常に気分が悪いです。「公立学校は恩恵なのか?権利と違うのか」というので、この先輩のお母さんが、子どもさんが幼稚園から小学校に上がるときに非常にいやな思いをした。この時には「あなたの所だけやってあげます」という風な形で終わってしまっているので、「皇甫さん、池田市の子どもたちみんなが公立学校に行ける権利があるんだということを認めさせるような取り組みをしてね」ということを言われました。

 最初、教職員組合の人にもお願いして、電話で教育委員会に問い合わせしたときには、けんもほろろでした。「言うている意味がわからん」ということでした。その後、組合の先生方に紹介してもらって話をしたのですが、そうすると結局また、「あなたところだけ特別にやってあげます」と「保育所の先生が来てくれて申請書を出してくれたら、親がこなくてもいいです」というふうなことを言われたのです。これでは駄目だと思って、朝日新聞の声の欄に投書したんです。「地域住民として認められないのはどういうことなのか、非常に寂しい思いを子どもはしている」と、あまり過激に書かずに、一母親の心情みたいな母性あふれる文章を出したら、採用されました。そして、それが新聞に載ったとたんに教育委員会から電話がかかってきて、面談したい、お話をお伺いしたいと、きちっとした対応をしてくれました。市教委が言うのは、名前の確認がなかなかできないので、それに必要だから外国人登録証を持ってきてほしかったんだ、ということでした。
 しかし、実際には、名前の確認をしているにもかかわらず、また「本名で行きます」と言っているのにも関わらず、中学校の入学式で、ある子どもは、本名の子どもなんですけれど、通称名で入っていたんですね、入学者名簿に。「名前がない」と大騒ぎになって、それも女の子の名簿の中に、その時はまだ男女混合じゃありませんでしたので、紛れてしまっていたんです。その子はもう真っ青になってしまって、入学式に。その当日ですよ。その子の場合、親のお仕事の都合もあって通称名を残していたら、結局通称名の方が優先されてしまった。そんなん、何の確認にもなっていないですね。それで、そういう教育委員会の理屈は事実無根ではないかということで話し合いの結果、結局、郵送で可、昼間わざわざ行かなくてよい、外国人登録証の提示はしなくてよい、となりました。
 電算化が進んでいますが、私の名前は何と、ある時、電算化勝手にして、ふりかなわからないものだから、滅茶苦茶なふりかなで名前を書いてあったんですよ。たまたま牛乳を無料でもらえるという制度があって、それをもらいに行った時に、外国人登録の係で世帯主の名前がどうなっているかということで調べてもらったんです。私の印鑑しかなくて、朝鮮は夫婦別姓ですから、私も保護者だという証明がいると言われたので、あわてて問い合わせしたんです。すると、私のファンボ(皇甫)の「皇」ひと文字だけが苗字になっていて、あとが名前で、読み仮名もぐちゃぐちゃ、もうびっくりしました。お粗末ですよ。人には「確認する」やら偉そうに厳しいこと言っていて、自分たちはいい加減ですね。名前の確認もない。そういったことがありました。

 そういうことで、少しは改良されていっているんですけれども、今だに就学通知というのは申請しないともらえていません。先進的と言われる豊中市の場合でも同じだと思うのですが、中学校に行くときも、いちいち、「行かせて下さい」という意思表示をしないといけない。私は、これ、やっぱり本当に恩恵なんだなあと思いました。来させてやっている、という。昔私自身は、尼崎の小学校時代、宣誓書という、学校に迷惑はかけませんという書類を出していた覚えがあるんですけれども、そのたびに親は、気をつけろと言いました。学校で問題を起こさないようにと。教師に気に入られる子になれと。日本の学校の先生はいじめると怖い。そういうようなことをいっぱい教えられました。親の体験からでしょう。実際にはそんな怖い先生はいなかったけれど、そういう縛りがまだまだかかっています。
 

教育指針と府外教、市外教
 
 90年に池田市の外国人教育指針というのが出されましたが、この指針をもらいにいったんです。ところが、なかなか見せてくれなかった。何でかなと思ったら、その内容があまりにもお粗末だったからなんです。民族教育というのを、何を間違えたのか今の自由主義史観につながるような、日本人の民族意識を育てるために外国人の子どもたちの民族意識を高める必要があるみたいな書き方になっていました。
 子どもたちに本名を名のらせたいと、親が集まって、ここに来られている池田の先生方を中心に一緒に仲間になって、みんながんばろうと盛り上げているのに、指針一つ池田市はまともなものがないということで、落ち込んでいましたら、92年に府外教が結成されました。この結成式、私も行きました。もう既に豊中市なんかは独自の取り組みをやっておられて、市外教もつくられていましたし、ハギハッキョを市からの援助でやっておられました。すぐ隣なんですよ、豊中市は。そのすぐ横の池田で、なかなか何でできないのか、まして、昔、民族講師がいた池田なんです。どういうことなん、昔は多数いて、今は少数だからといって、こんなに火が消えてしまっていいものだろうか、ということで、親たち、それに先生たちが一緒になってがんばり始めました。

 
はじめての「つどい」
 
 最初、府外教が結成されて、その一年後の93年に池田でも市外教が立ち上がるわけですけれども、それまでの間どういうことがなされていたかというと、89年、昭和天皇が死んだ年です。1月8日にはじめての「つどい」がありました。もう、感動的でしたね、あの集いは、今だに覚えています。「自粛、自粛」の雰囲気の中で、普通の共同利用施設、公民館を借りたのですが、チャンゴを子どもたちに体験させたいという熱いみんなの思いで実現しました。先生たち何もわからないのに、何時間もかけて生野をさまよい歩いて、トック何キロも買って、みんなで苦労苦労の、ほんとにもう、寄り添うという言葉がぴったり、靴底を減らしてがんばっていただいたと思うんです。この「集い」が実現できたということは、先生たちの熱い思いと努力があったからだと思います。
 ただ、少数地域ですので、子どもたちが非常に少ない。みんな来てるんですけれどもね、それでも、5人いるか、8人いるか、の世界なんです。親たちもみんな来てるんですけど、何十人も集まった中で、朝鮮人はその中で、十人くらい、十数人でしたかね、もうちょっといたのかなあ。そこで、子どもたちを何重にも取り巻く熱い視線の教師たち。もう、すごいですね。少数地域の手厚い取り組みを感じつつも、ああ、これって、プレッシャーきついよなあ、と。子どもたちの一挙一動に、先生たちが金縛りになりながら、見ているという、そういう硬い状況でスタートしました。

 この「集い」を、「在日韓国朝鮮人親子と教職員の集い」という名称で、いろいろな学校を渡り歩いてですね、そこから広げようとしました。校長先生たちに、「在日」の子どもがこんなにいるんですよ、こんなにがんばっているんですよ、知って下さい、という気持ちでした。その学校を「在日の集い」で使わせてもらうことだけで、一つの運動だったわけです。そうして市外教が立ち上がって、こういう苦節何年の取り組みの後、現在は、97年9月から、毎月一回の取り組みに発展しています。年一回会っているだけではなかなかお友達になれないんですね。少数在籍で、学校にほんとうはもっといるんですけれども、なかなかわからないので、一人二人明らかになるかならないかの状況で、中学校が5校、小学校が11校です。そういう中での取り組みですので、とにかく池田市全体の中で集まる機会をもっと作りたい。できたら、月に一回、なにかあれば、でないと差別事件が起こってもそれを確認できない。自分の思いすごしかもしれないけど先生からこんな発言をうけて非常にいやな思いをしたんだけれど、これって差別なのかよくわからない。

(追記)カナダ、バンクーバーでの「在日」の家族写真展は大成功で、2002年3月より光州ビエンナーレにも出品することになりました。(皇甫)
 

(案内)女のよろずヨロカヂ相談電話 (教育相談などでご利用下さいとのことです)
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            「在日」・被差別部落出身の女性がスタッフです。
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